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  《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか?

  
  1. いない。または いる必要がない。これを論証して ゴータマ・ブッダのさとりが まやかしであったという結論を得たい。

  2. 《ブッダなるさとり》論に終止符を打ちたい。不毛であると。


 
  3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。

  4. 《真実》とは 主観真実ということなので 《変わらざる》という条件づけは マチガイなのであるが それをも想定する。

  5. 真実とは 事実認識とそれについての主観の価値判断を言う。

  6. 《事実認識》は どの主観が見ても同じ内容であるという認識行為の理念型を想定する。

  7. 主観には価値判断のほかに いわゆる心あるいはまた存在全体としての境地が含まれる。

  8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。

  11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が 時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか?

  12. いるかどうかよりも そのように想定される人格(?)の人間は いる必要がない。のではないか?

  13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?

A 回答 (24件中11~20件)

 アートマンを真我、ブッダターを仏性としておきましょうか。



A「世界の中に我が在り、我の中に真我が在るはずだ」
B「無いよ、真我なんて。あなたはここにこうして在るし、周りに世界はあるけど」
A「ならば、どうやって苦から逃れるのか?」
B「仏性が在るから、それを使えばいいじゃん」
A「仏性はどうやったら得られるのか?」
B「誰にでも仏性は在るよ、最初から」
A「仏性はどうやれば見つかるのか?」
B「心の中を掃除して、空っぽにしてみればいいじゃん」
A「そうすれば、仏性が得られるのか?」
B「得られないよ、そんなもの有るわけないんだから」
A「仏性に恵まれない者もいるということか?」
B「仏性は誰にでも何にでも在るよ。石ころにだって在るんだからさ」
A「犬にすら有って、我には無いのか?」
B「犬に仏性は無いよ。あなたに仏性は在るよ」
A「我には仏性が無くて、何にでも仏性は有るのではなかったのか?」
B「あなたに仏性は無くて、何にでも仏性は在るよ」
A「我は仏性に恵まれぬ者ということか?」
B「いやいや、あなたは世の中で最高に仏性に恵まれているよ」
A「我が仏性に恵まれているなら、それをどうしたら我が物として使えるのか?」
B「仏性なんて、使えねー役立たずだよ」
A「役に立たなくてもよいから、その仏性を得る方法を教えて欲しい」
B「得られないよ、無いんだから」
 (延々)

 そんな話になりますよ。ある視点で言えば、「自分の部屋を空っぽにしようよ」と言っているのに、「何を運び込めばいいのか?」と問い続けるようなものだから。

 イエスが信仰心を部屋に喩えたことがある。ならず者や悪党が部屋を占拠している。そういう輩は叩きださないといけない。しかし、それでは別の魔物が代りに入ってくるから、善い友人を大勢招いておけ。

 そうした例え話です。悔いただけでは駄目で、悔いたら善い教えを学んでおかなければいけない。

 しかし、それはブッダの言ったこととは全くの別物であることに注意が必要でしょうね。むしろ、どちらかといえば孔子の言ったことに似ているような気もしますよ。孔子が三十歳で立つ気になったとき、その心境は推定29歳にして菩提樹の下で悟りを開いたブッダのようであったのかもしれません。
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この回答へのお礼

 れいずぃどぐ1さん ていねいなご回答をありがとうございます。


 ただしですね。《非思考》とお伝えしたことが まだ消化していただいていない。こう思います。
 ☆☆(No.9補足欄) ~~~~~~~~~~

 ○ 非思考の庭= 信仰なる動態 ~~~~~~~

  人間存在
   :非思考の庭(クレド)
   _________
   :思考の緑野(コギト)
   :感性の原野(センスス・コムニス)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 信仰と呼ばれる《非思考の庭》は けっきょくおとぎ話です。
 与太話とまでは言いません。なぜなら 信教・良心の自由という公理においてみとめられている人間のいとなみです。また じんるいのどの言語にも《神》ないし《信じる》という言葉はあって用いられています。
 哲学は その内容を――むろん経験合理性にもとづき―― 説明するつとめがあります。

 れいずぃどぐ1さんでしたら 次の小論を読んでいただくのがいちばんだと考えました。(理系にもつうじておられるようですから。と言っても わたしは理数系をだいぶん勉強するのをおこたった文系ですので つねに挑戦するといった姿勢でしかないのですが)。


        *


 ○ 神とは何か または 信仰類型論

  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無神

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

 

      *


 これまでにもここで問うています。物理の教授とルネサンスのM.フィチーノの専門家で理数にも通じている男のふたりから 正式の賛成を得ています。そのほかは――むろん同感の方向にある場合もあるのですが――まだまだ くそみそ扱いをされています。

 ゴータマ氏は アン‐アートマン説にもとづき無神論なる信仰を 実質的には表明したのでしょう。

お礼日時:2013/03/10 09:23

こんばんは。




「世界に一つだけの花」
これは、まやかしか?


「それ「一つだけの花」は、間違っている」とすれば、「誰」が言うのか?
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この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 これは はっきりしています。
 ★ ~~~~
 「世界に一つだけの花」
 これは、まやかしか?
 ~~~~~~
 ☆ むろんその人の主観真実です。そして この場合は 何もその真実を ほかの人たちに伝え吹聴さえしてもよいと思われますが ただしそれは 相手に おまえも認めろと言って迫るものではないからです。
 
 おのおのの主観真実であることにおさまる・とどまるものだと見られるからです。
 また だからこそ《ナンバーワン》だとは言わないのでしょう?


 ゴータマ・ブッダまたはその追随者は 自説が――さらによりよいブディズムによって批判され修正される場合を除いて―― 世界一だと主張しているものと思われるからには それは おかしい。こういう物言いです。
 あっ ちょっと違いました。世界一であるというとき それは《完全な智慧》であると言ったからです。

 それは 人間には無理だと言わなければならないと思われるからです。

 ★ 「それ「一つだけの花」は、間違っている」とすれば、「誰」が言うのか?
 ☆ ではなく

  ○ 「それ=「唯一最高の完全な花」という主張は、間違っている」とすれば、「誰」が言うのか?

 くりなるさんも含めて誰もが言うと思います。

お礼日時:2013/03/10 07:03

 ブッダは天邪鬼なことを言います。

後世では、禅問答の禅僧もそうですね。

バラモン僧「あなたは、死後どうなるのか?」
ブッダ「行ったことがないから、分からんよ」

 ブッダに師事する前に99人を殺害した弟子が、喜捨の行で常に民衆に石を投げられ、打たれて帰るのを見て、
「耐えなさい。来世において受けるべき業を、今受けているのだから」。

ブッダ(己が弟子を指さし)「人の来世が見えると言う、そこのバラモン僧よ。この者の来世を見てくれないか」
バラモン僧「……見えぬ。何も見えぬ」
ブッダ「そうだろう、仏弟子は輪廻転生せぬ」

 おそらく、何かを求めるということではないのでしょう。まずは「何を捨てるか」でしょう。そのためには、「何を抱え込んでいるか」を見極める必要があります。余計なものを捨てたら、八正道などをしてればいいんでしょうね。

 アートマンがあるはず、それさえ見究められれば、とこだわると、囚われてしまう。しかも、それは依頼心です。自分でどうしようもないことは、なるがままに任せておけばいいです。そこは他力本願でいい。しかし、自分にできることもしなくなると、それはまずい状態です。

 無いものを当てにしても仕方ない。無いことを得ようと求めるというのはヘンテコです。

 かつ、誰もがブッダのようになる必要もないのでしょう。インドではブッダのような生き方は出家とイコールに等しいですから。誰もが、そうなると皆が飢えて死ぬし、誰もが教える側になると、教わる人もいなくなる。聖者で満員の国なんてヘンテコです。

 ブッダの弟子の言は弟子の言。そちらに興味があれば、弟子だという先入観抜きに、見て見ればいいんでしょうね。私は興味はありません。

P.S.

 イエスの山上の訓戒に「心の貧しき者は幸いである」なんてあります。いろいろ解釈はあるんでしょうけど、たとえば「心に余計なものを持たない」と思ってみても、反省のヒントとしては、なかなか役に立ちます。

 ブッダは「矢が一本刺さると痛い。しかし、それを怒り嘆くと、己で己にもう一本矢を刺すことになる」なんて言ってます。一本目の矢を刺した相手に抗議するのはいいんでしょう。必要以上にネガティブな感情を自分でかきたてたら、余計に苦しいだけでしょうね。

 要らないものは無いに越したことはないようです。それでもあれば、その都度捨てられるといいんでしょうね。
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この回答へのお礼

 今回は 意外とかんたんなご議論をなさった。と思います。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 前回かなりヘンテコな表現で次のようにつづりました。
 ☆☆(No.11お礼欄) ~~~~
  別の言い方では 《非思考の庭》における・しかも その非思考なるアートマンなりブッダターなりを ナゾのままに 受け容れるという(受け容れとしては)経験行為として成り立つ信仰 ここにおいて(またそれは 人間は実存であってその動態として) 《ある》と言えるはずです。

 だと思うんですがねぇ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ここで《ある》と言えるというのは ナゾの何ものかを受容するという人間の側の経験行為を別とすれば その対象としての(じつは 非対象としての) 《アートマンなりブッダターなりの 雲をつかむような自性清浄心》のことです。

 ぶっしょう という言葉を耳にして心で受け容れようとするその動き。このウゴキは 経験行為です。《有るか無いか》を経験合理性で判定する《対象》です。
 ところが ぶっしょうそのものは 非思考です。アートマンは 霊我であって 霊です。つまりワケのわからない何ものかです。自性清浄心だって そうです。むろんブラフマンもそうですし ブッダのその智慧の内容も そうなのでしょう。

 つまりは アートマン≒ブッダター=自性清浄心は じつはすでに神のことです。
 この神は やはり非思考です。有るとも無いとも人間には分からない。分かるか分からないかが分からない。

 ぎゃくに言えば 神は有るとも神は無いとも――想定において――言える。
 言いかえると 我れは 《有る神》と関係してもよく またそれと同等のかたちで《無い神》と関係してもよい。
 言いかえると 有神論と無神論とは どちらも互いに対等な《非思考の庭》なる信仰である。となりませんか?

 《有る神を信じる》と《無い神を信じる⇒神を信じない》と 両者とも無理なく《信仰》です。



 ★ 無いものを当てにしても仕方ない。無いことを得ようと求めるというのはヘンテコです。
 ☆ ブッダターに関してはその《無》というのは 神の次元のそれです。言いかえると 無と言おうと有と言おうと 神の次元では どちらも互いにひとしい。わけです。

 ですから 《当てにする》ことも《得ようと求める》こともこれらは 対象が有るか無いかが明確な場合におこなう経験行為です。
 なので ブッダターに関しては 当てはまらない。こうなると思いますが どうでしょう。






 ★ 来世
 ☆ これは おっしゃったように文学的修辞の問題だと考えます。哲学に向いていないと。



 ★ たとえば「心に余計なものを持たない」と思ってみても、反省のヒントとしては、なかなか役に立ちます。
 ★ 必要以上にネガティブな感情を自分でかきたてたら、余計に苦しいだけでしょうね。
 ★ 要らないものは無いに越したことはないようです。それでもあれば、その都度捨てられるといいんでしょうね。
 ☆ これらは 心理学の問題だと思いますよ。そのままでは 哲学として どうでしょうかねぇ。見落としがあったらごめんなさいですけれど・・・。

お礼日時:2013/03/10 00:48

>このお話のふくむ問題を 指摘して ゴータマ・ブッダのインチキを暴いた。

はずなんですが どうでしょう?

 ブッダにインチキがあるとすれば、「アートマンは無い」になります。それがインチキなら、「アートマン」があるということになるでしょうね。

 アートマンはあるんですか?

 私としては、ブッダが言いもしていないこと(彼の言行は全て弟子の記録です)について、それの真偽や意義を考えることにメリットは見出せません。

この回答への補足

 おぎないます。

 ★ ブッダが言いもしていないこと(彼の言行は全て弟子の記録です)について
 ☆ すなわちこれは 《ゴータマ・ブッダが言った》とも証明できないけれども 《言いもしていない》とも証明できないのではないでしょうか?

 そういうかたちで一定の内容がつたわって来ている。その内容について考え 批評するという問題だと考えます。どうでしょう?

補足日時:2013/03/09 19:18
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 茶の木畠に入ったかたちで やり取りをしていらっしゃる。

 問題は ゴータマ・ブッダという人間がこれこれのことを語ったという話が 伝わっている。その中身について 見解を述べる。これだけのことだと考えます。



 ★ アートマンはあるんですか?
 ☆ すでに触れましたように ゴータマ自身の説ではなくても 後世の大衆ブディストたちは 

   一切衆生悉有仏性

 と語ったわけです。このブッダター(仏性)は あきらかに《自性清浄心》として アートマンにひとしい。と見ます。

 別の言い方では 《非思考の庭》における・しかも その非思考なるアートマンなりブッダターなりを ナゾのままに 受け容れるという(受け容れとしては)経験行為として成り立つ信仰 ここにおいて(またそれは 人間は実存であってその動態として) 《ある》と言えるはずです。

 だと思うんですがねぇ。

お礼日時:2013/03/09 19:12

 お礼と補足、承りました。

#9です。

 文学的修辞として、ブッダはいろいろ言ったかもしれません。さらに、インド古来の表現方法として、内面の事を外の事、つまり誰でも確認できる客観的の事と同じように描写することが多いのは要注意です。

 全て言葉通りに受け取る必要はないんですね。これは、イエスの言動にも見られます。「世界は滅びるだろう。しかし私の言葉は永遠に立つ」などです。単に仮定法過去の言い方が無かっただけかもしれませんが、「たとえこの世がなくなっても、私の言うことだけは大丈夫」みたいなことを言っただけのようです。

 ブッダが確実に言明したのは、当時のバラモンの教えがヘンテコだということだけでしょう。彼の「救済」が「悟り」に基づくかどうかは不明です。とんちの一休さんが言いそうなことも少なくない。あるいは、当たり前のこと。

 しかし、当時はバラモンの思想が堅く信じられていたわけですね。教えは柔軟に守っていればいいんですが、教条主義に陥ったり、ある辞書的解釈が絶対だと思うと、罠にはまります。おそらく、アートマン信仰を拠り所に、それにカルマの幻想を与えて、そのカルマを取り除いてやるという、商業的宗教に陥った面があったのかもしれません。

 何の悪行もなさそうなら、前世の悪行を言い立てる。そして死んだ後、来世は地獄などに生まれ変わると脅す。そんなことを言われたら、ありもしないことで悩み苦しむ人が出てきます。

 別にバラモン僧全員が、悪意ではなかったと思います。しかし、バラモン僧も間違って、そうした信念を持ってしまうこともあったでしょう。意図的に金儲けする悪徳僧も少数はいたでしょうね。いつの世の、どの『業界』にも悪党はいます。

 ともかく、誰もかれもが堅くアートマンのカルマということを信じていた。そこへ、ブッダが「無いよ、そんなもん」とあっさり言ってのけたわけです。

 しかし、無いことが大事ではないようです。それは、単なる思考結果です。思考過程、さらにはそういう思考ができる能力が肝だったと思います。

 他の誰もが在ると信じて疑わず、そういう環境と社会の中で生まれ育ちながら、無いものを無いと看破したことが大事なんでしょう。大なり小なりそうできれば、少しはいいものを見つける可能性が高くなります。それを、「囚われがない」と呼んでも構わないでしょうね。

 ブッダにしたところで、『完全無欠で万古不変の人類最高の智慧を得た』なんて言われたら、もしかすると困ってしまう話なのかもしれません。「そんな都合のいいものは無いって話をしたはずなんだけどなあ」と。
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この回答へのお礼

 れいずぃどぐ1さん あらためましてこんにちは。くわしいご説明をありがとうございます。


 そうですね。
 復唱することをはぶいてもよろしいでしょうか。

 いきなりですが
 ★ ~~~~
 ブッダにしたところで、『完全無欠で万古不変の人類最高の智慧を得た』なんて言われたら、もしかすると困ってしまう話なのかもしれません。「そんな都合のいいものは無いって話をしたはずなんだけどなあ」と。
 ~~~~~~
 ☆ このお話のふくむ問題を 指摘して ゴータマ・ブッダのインチキを暴いた。はずなんですが どうでしょう?


 どうも れいぃどぐ1さんは すでに分かっておられる。

 この問題は この哲学カテにおいてここ数年にわたって何度かの質問をつうじて やり取りして来ました。
 たぶん 今回のように 手前味噌で言えばズバリ ゴータマ氏の説の息の根を止めようとしたのは初めてかも知れません。


 蛇足としてでも 上の引用箇所についてもう少しきちんと触れておくとすれば:

 つまりは ゴータマ・ブッダは 次のような互いに矛盾するふたつの命題を同時に言っている。ということになるという物言いになります。

  (あ) 自説にかんして 『完全無欠で万古不変の人類最高の智慧を得た』と宣言した。
  (い) ブラフマニズムに対して 「そんな(完全無欠・・・の智慧などという)都合のいいものは無いって話をしたはずなんだけどなあ」という内容を語った。

 そして おそらく(い)としての種明かしはしていないはずです。ブラフマニズムにたいするかたちで言っただけであって 自説については 言っていないのではないでしょうか? 

 向こう岸に到ったあとでは 使った筏は要らないと言ったとしても 筏に乗ることやどのように彼岸に渡るかの見取り図のようなものは語ったわけで それは ブディズムをしのぐブディズムが出るまでは 唯一最高の智慧だと言ったはずです。《そんな都合のいいもの》だと語ったはずです。


 後世の話をまじえるなら けっきょく《ブッダター(仏性)》は まさしく《アートマン(霊我)》にひとしい。わけです。三身常住のブッダは ブラフマン神にほぼ変わりありません。

 
 いかに衆生が 輪廻転生説にまで主観の生きる時空間を広げ伸ばしたその上に因果応報説なる飛躍理論を突きつけられて 苦しんでいたとは言え あとで修正しなければならないような――と言うより あとで じつは ただの方便であって きちんとした理論ではなかったのですと事割らねばならないような――成仏論をぶった。この罪は重い。

 それにしても どうしてこの手品に二千数百年のあいだ多くの人が引っかかっているのか? それについておしえて欲しいという質問にもなりそうです。



 回答者の方に収拾策をおしつけたようになってしまいました。
 よろしかったら どうぞ。

お礼日時:2013/03/09 17:13

>《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか?


>1. いない。または いる必要がない。これを論証して ゴータマ・ブッダのさとりがまやかしであったという結論を得たい。

 個人的な試みとしては、いいんじゃないでしょうか。

>2. 《ブッダなるさとり》論に終止符を打ちたい。不毛であると。

 個人的な試みとしては、いいんじゃないでしょうか。

>3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。

 仮定ですね。仮定に文句は言わないのが筋なので、そうだとしましょう。

>4. 《真実》とは 主観真実ということなので 《変わらざる》という条件づけは マチガイなのであるが それをも想定する。

 客観的なものも、最終的には人間の主観により取捨選択と考えれば、それもアリでしょうね。

>5. 真実とは 事実認識とそれについての主観の価値判断を言う。

 ここも仮定ですね。仮定に文句は言わない。また、4との整合性はあるでしょう。

>6. 《事実認識》は どの主観が見ても同じ内容であるという認識行為の理念型を想定する。

 理想としては、そうかもしれません。

>7. 主観には価値判断のほかに いわゆる心あるいはまた存在全体としての境地が含まれる。

 そうでしょうね。価値判断だけしかない人間っていないようです。

>8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。

 その他、「ワカル」と「ワカラナイ」、「シル」と「シラナイ」などもあるでしょうね。「負」というのは何かが曖昧。

>11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか?

 ここは疑問。言明に曖昧性も大きいようです。

>12. いるかどうかよりも そのように想定される人格(?)の人間はいる必要がない。のではないか?

 必要性としては、必ずしもあるとは言えないでしょうね。

>13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?

 とりあえず常住なんてなかった、ということでしょう。それまで「有る」と思われていた常住ですね。仕方がないから、とりあえず常住でないなら、とりあえず無常とした。

 ブッダも最終的で覆せないものを得たとは考えてなかったと思いますよ。いつでも、「自分のの限界を超えた誰かが、もっといいことを思いつくかもしれない」という可能性は残りますから。

 人間の限界を反論の余地なく調べることができれば、あるいは「どんな人間にも、これ以上の考えは持てない」となるかもしれません。ただ、それはどうもなさそうです。人間の知恵の至宝の一つ、数学が数学自身の正しさを調べつくせそうにないとしているのは、その一例かもしれませんね。

 自分で自分自身を調べつくすことはできないんですね。たとえば、そうしようとすると、自分を調べている自分を調べねば、正しいかどうか分かりません。そして、自分を調べている自分を調べている自分を調べることになります。終わりなき調べものです。

 かといって、仮に人間を超越した者が現われて、「人間の限界はこうこうだ」と教えてくれたとしても、それを理解しきろうとすると、やはり自分自身を調べるループの罠にはまります。その上、超越者も調べねばなりません。これも、無理っぽいです。

 それでも、いつまでも限りなく全知全能に近づいて行くことは、人間の壮大な夢の一つですし、全知全能になれないと知りつつ、いつまでも近づいては行くのでしょう。

この回答への補足

 お礼欄につづいて おぎないつつご返答申し上げます。

 ★ ~~~~~
  >13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?

 とりあえず常住なんてなかった、ということでしょう。それまで「有る」と思われていた常住ですね。仕方がないから、とりあえず常住でないなら、とりあえず無常とした。
 ~~~~~~~~
 ☆ この《常住》が問題だったのですが ゴータマ氏は きわめてあいまいです。

 ★ ブッダも最終的で覆せないものを得たとは考えてなかったと思いますよ。いつでも、「自分のの限界を超えた誰かが、もっといいことを思いつくかもしれない」という可能性は残りますから。
 ☆ とは言っても 成道は《完全なさとり》なわけです。

 これについて経典からの引用による例証はしません。
 後世のブディストが いくらでもゴータマ氏を神格化するまでにしてたたえる評価をあたえていることは 論を俟ちませんから。

 しかものちには ブッダの法報応の三身は常住なりということも言います。つまりこの場合の《常住》は けっきょくこの質問で言う《真理》の次元にあり まさにそのことだと捉えられます。

 しかもゴータマ氏の批判したアン‐アートマン(無我・非我)の説は そのアートマンが梵我一如の思想においてブラフマンと一体であり その宇宙の主宰神ブラフマンのことを《何にも拠らずひとり有るもの》としての《常住》なる存在と見てのことだったはずです。
 アートマンの否定(アン-)が 《常住の否定》であった。

 つまりブラフマニズムにおける《真理》――その常住――を否定しておきながら 何て言いましたか あのくたらさんみゃくさんぼだいとか何とか 要するに《完全なさとり》を得たと言ったのではないでしょうか?



     *


 言いかえると 《真理・全知全能・常住・アートマンなる霊などなど》は そういう《非思考》としての想定において持つと言っていれば だいじょうぶなわけです。(哲学もみとめざるを得ません)。

 つまり 信教・良心の自由なる公理のもとに 非思考の庭がわが心に成るという信仰の問題としてなら あり得ると考えられます。

 これについても ゴータマ氏は きわめてあいまいです。


 ちなみに 次の図式で説明しうると考えます。
 
 ○ 非思考の庭= 信仰なる動態 ~~~~~

  人間存在
   :非思考の庭(クレド)
   _________
   :思考の緑野(コギト)
   :感性の原野(センスス・コムニス)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     *

 ★ ~~~~
   >11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか?

 ここは疑問。言明に曖昧性も大きいようです。
 ~~~~~~~
 ☆ 理由は 言っていただけませんか?

 ★ ~~~~
   >8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。

 その他、「ワカル」と「ワカラナイ」、「シル」と「シラナイ」などもあるでしょうね。「負」というのは何かが曖昧。
 ~~~~~~~
 ☆ 主観真実の中身は 豊富です。とみとめます。

 《負の主観真実》とは ウソをつくとき心に動揺が走り顔が赤らみ言葉がしどろもどろになるといったやましさ反応を生じる場合を言います。ヤマシサ反応がない場合が 正の主観真実です。

 マチガイにかんしては 主観がヤマシサ反応に似た《あぁ 残念。まづい。あるいは やばい》といった反応を持ちます。と言うより 基本的にはマチガイを侵したあと人は《我れに還る》。このとき つまり《正の主観真実》を取り戻したと見ることにすれば やはり負の主観真実だとなるはずです。


 ★ ~~~~
   >2. 《ブッダなるさとり》論に終止符を打ちたい。不毛であると。

 個人的な試みとしては、いいんじゃないでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ どの主観もみとめざるを得ないと考えますが いかがでしょう?

補足日時:2013/03/09 12:17
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この回答へのお礼

 れいずぃどぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 取り急ぎしたためます。

 ★ それでも、いつまでも限りなく全知全能に近づいて行くことは、人間の壮大な夢の一つですし、全知全能になれないと知りつつ、いつまでも近づいては行くのでしょう。
 ☆ 《全知全能である》ということが 《真理がすべてにおいてすべてである》ということにひとしいわけです。


 ですから この質問は 《全知全能に近づく》ことは 問わない約束です。(よね?)

 ですから れいずぃどぐさんも ゴータマ・ブッダが 《完全なブッダである》と言ったとするなら それは方便であったとしても 方便に過ぎないとはっきりとことわっていないとすれば インチキになるとみとめておられる。――こう受け取りましたが よろしいですよね?


 普遍的な理論が成るのは すべて
 ★ 個人的な試み
 ☆ からですよね。




 午前中 野暮用があります。こまかいところは 補足欄にてお応えします。


 ★ 常住
 ☆ を経験世界における事象として捉えようとするか。あるいはそうではなく 《思考に非ず》なる場を想定して そこに置くかたちを採るか。後者なら 人間の知性と境地は 受け容れざるを得ないでしょうし それによって《我れと真理との関係》をよく捉えることができましょう。
 この点などを 補足欄にておぎなうつもりです。

お礼日時:2013/03/09 09:01

困ったなあ。



ニルヴァーナは宗教的自殺、
たとえば断食による餓死などによって
達成可能である。

といえなくもないですか?

もちろん、自殺=ニルヴァーナではありませんし、
他人には相手の心などわかりませんが。

まあ、今後の課題かな。
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この回答へのお礼

 つづきますが。

 ☆☆ 《真理がすべてにおいてすべてである》人間
 ☆ とニルワーナとは 関係ないようです。

 無余涅槃が 《死》にかかわるその具象的な意味とは別に《さとり》の意味にも用いられることがあるので これまで取り上げて来ましたが もうそういう問題はなくなりました。

 わたしには 課題でも何でもありません。

 

お礼日時:2013/03/08 13:39

> 《完全なさとり》と《完全なニルワーナ》とは 内容が違っていたとしても いづれも同じく経験行為によって達成しうると言ったのなら 問題は同じなのでは?



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


そうですね。

悟りもニルヴァーナも同じ問題を抱えています。
先ほどの回答は

私が悟りを特別視していない
理由を説明したようなものです。
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この回答へのお礼

 つづいてですが

 ★ 私が悟りを特別視していない
 ☆ ということは どうなんでしょう?

 つまり (1) たとえばですがニルワーナに比べれば 意味がないようなものだといった理由からでしょうか。
 あるいは (2) さとりそのことが 内容が定まらず 実際にも主観ごとに自由に主張されるに過ぎないゆえ。からでしょうか。

 でも (2)は 一応結着を見たのではないでしょうか? (さらにつねに その批判について自己批判をつづけて行くことに変わりはないですが)。

 では (1)は どうか? 

 ★★(回答No.6) ~~~~
 なにしろ涅槃に入れるのに涅槃に入らず苦しみの世界に行って
 衆生のために活躍する大乗仏教の菩薩や仏たちというのは

 ニルヴァーナを否定していますよね。
 というか扱いに困る概念である。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《ニルワーナに入ることが出来る》という見解において 成り立つとは言えそうです。

 ですが そうだとすると すでに前回触れたと思いますが ニルワーナじたいについての疑惑が持ち上がります。

 経験行為として実現できるのか?
 出来ると言うのなら 《真理の実現された状態》という矛盾に落ち入る。
 出来ないのなら 追えども追えども逃げて行く逃げ水にしか過ぎない。

 つまり 同じではないでしょうか?


 反駁を期待します。

お礼日時:2013/03/08 11:38

末法思想というのがもしかしたら


悟りへの懐疑だったのかもしれませんね。

それまでの教えが無効であることを信じた人たち
その中には、ブラジュロンヌさんが話題にする
親鸞も出てくるんでしょうけど。

okwaveで長いこと回答していて思ったのですが、
私の関心はどちらかというと
悟りよりもニルヴァーナのほうなんだと思います。

パーリ語だとニッバーナ

それでこのニルヴァーナというのはどうも
仏教では必ずしも主流ではないみたいです。

なにしろ涅槃に入れるのに涅槃に入らず苦しみの世界に行って
衆生のために活躍する大乗仏教の菩薩や仏たちというのは

ニルヴァーナを否定していますよね。
というか扱いに困る概念である。
ただの安らぎであるならいいのだろうけど。

仏教以前の時代の理想でもあり、仏教以外の宗教や苦行者たちの
目指すものでもあった、ニルヴァーナは
仏教としての独自性にかけるのでしょう。

それにブッダだけに悟りが問題になりますけどね。

私はどうも、悲しみも喜びもないニルヴァーナ
というのが気になります。
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この回答へのお礼

 つづいてです。


 どうなんでしょう。《苦》を――四苦八苦を――持ち出すなら ニルワーナもさとりと同じことではないでしょうか?


 それと いづれにしても――ブッダなる状態とニルワーナなる状態が違っているとしても―― ふたつは 人間の成就しうる身および心の境地であると思われます。

 すなわち《思考に非ず》ではなく 《経験世界を超える》ではなく 経験行為に属する。のだと。

 もしこうだとしたなら 
 ★ 悟りへの懐疑
 ☆ からニルワーナを持ち出して来ても 情況は変わらないのではないでしょうか?

 《完全なさとり》と《完全なニルワーナ》とは 内容が違っていたとしても いづれも同じく経験行為によって達成しうると言ったのなら 問題は同じなのでは?

 経験世界に属さないとすれば 《ブッダター》をめぐる信仰と同じことになります。

 と考えます。

お礼日時:2013/03/08 11:03

仏教の欠点は、苦しみがなくならないことです。

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 一応はそうだと思います。

 再応は たぶんそうではなく 悩みをも活かして行く道を もともと初めから問い求めていたとは思います。

 悩みと言いかえたのは 苦しみは ふつうの身や心の痛みや悩みのほかに《思うようにならない》という意味があるようだからです。

 あるいはぎゃくに《思うようになることとならないこととを見分ける》ことも含まれていて 思うようになる範囲で悩みをもむしろ活かして行く道を模索するのだと考えられるからです。

 それでいいんだと思いますが 問題は改めて言えば その道が完全に成ったと言ってしまったことにあるのではないでしょうか?

 
 
 この世界に生きて行くことがきびしく けわしい山また山をのぼって行くようであるとき このブッダ宣言者は 人びとの思いの中に広大なブッダたちの住むたのしい世界を 蜃気楼閣としてでも 思う存分に描いて見せた。のであるかも知れません。
 
 すべて まぼろしである。と分かっていて 言葉でオアシスを信じさせるまでに描いたのかも知れません。



 問題は ひとつにそれでも のちの《大衆ブディストたち》は そのマボロシが 現実であると言い切ったこと。すなわち タターガタ・ガルバ(如来蔵)またはブッダター(仏性)として 神の霊の宿ることを宣言したこと。一切衆生悉有仏性と。

 もうひとつに 帚木なるミラージュあるい逃げ水なるマボロシを描いて見せただけならそうだと ゴータマは種明かしをしておくべきだった。あるいはもし 《ブッダター》を理論として提起するのなら そのとおりに説いておくべきだった。

 そして けっきょくそれは もし打ち出すとしたなら あくまで神の霊であるのだから 《思考に非ず》なのだとはっきりと さらに理論づけておくべきだった。



 例によってさらにひとこと多くあろうとすれば: やがてこの神の霊が 肉となって世界史に現われるであろうと預言でもするなら 話は分かるというものです。

お礼日時:2013/03/08 09:28

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