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  《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか?

  
  1. いない。または いる必要がない。これを論証して ゴータマ・ブッダのさとりが まやかしであったという結論を得たい。

  2. 《ブッダなるさとり》論に終止符を打ちたい。不毛であると。


 
  3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。

  4. 《真実》とは 主観真実ということなので 《変わらざる》という条件づけは マチガイなのであるが それをも想定する。

  5. 真実とは 事実認識とそれについての主観の価値判断を言う。

  6. 《事実認識》は どの主観が見ても同じ内容であるという認識行為の理念型を想定する。

  7. 主観には価値判断のほかに いわゆる心あるいはまた存在全体としての境地が含まれる。

  8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。

  11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が 時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか?

  12. いるかどうかよりも そのように想定される人格(?)の人間は いる必要がない。のではないか?

  13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?

A 回答 (24件中21~24件)

手抜き回答ですがご容赦ください。




ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。

私は生きている。(それは幸福だ)
コレでもすでに真実だと思います。
100年ぐらいたって、他者が私が生きたという事実を知って「とっくにくたばっちまってるでねーの」と言うとしても、私の生きている幸福は真実だろうと思います。
生きる限り生き続け、あとは知らない。
私が死ぬことで、生きていると言う事実が、生きていたと言う事実に変化しても文脈の問題なので気にしない。
おもしろいので、そこに異論があるか応答をお願いします。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ここでのわたしの見方ということですが 

 ○ 真実は 主観の真実です。《わたし》にとっての真実です。

 つまり ほかの人〔の主観〕にとっては 真実であるかどうかは 決まっていない。という意味です。


 このとき

 ○ 真理は それでも誰にとってもマチガイのないまことであるという主観内容を言い それはしかもいつまでもうつろい行かない内容である。

 という意味で用いています。(現実にあるかどうかは分かりません。したがってそのように想定するという意味のもとにあります)。



 げんみつに考えるなら
 ★ 私の生きている幸福は真実だろうと思います。
 ☆ これは 次のように言いかえることになります。

 ・ ~~~~
 私は生きている。(それは幸福だ)
 この《私の生きている幸福》という主観は わが心において真実です。
 死んだら あとは分からない。わが主観をうったえるわけには行かなくなるから。
 ~~~~~~

お礼日時:2013/03/07 21:40

縁起説も空も後から出来たもので、


四諦八正道は欲望の無くなった人間とは何か
という具体例を仏教が提示できていない。
せいぜい、欲望を滅するのではなく、
制する(滅ではなく止)と解釈する。

無我も仏教以前に
ヤージュニャヴァルキヤの、~ではない
という論法がすでにある。

空はおそらくもとは、物体は、ある要素が集まってできたという考え
エンペドクレスのリゾーマタみたいなものです。
似たような考えが古代のインドにもあったのでしょう。

不可知論はサンジャヤという外道がいた。

これといった、ゴータマ・ブッダの教説がわからず、
あまりにも多岐にわたって違っていることから

なんとなく思ったのは
プロタゴラスの「人間は万物の尺度」というものです。
ここにソクラテス・プラトン的に真理を問うと
影を追うことになります。

なんだかな。一言で言うと、時間の無駄でした。
あとは、それでもお坊さんがなんていうのかくらいですかね。
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この回答へのお礼

 ★ あとは、それでもお坊さんがなんていうのかくらいですかね。
 ☆ そうなりましたか。見解が一致しましたね。

 ご回答をありがとうございます。



 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
  11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が 時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか?

  12. いるかどうかよりも そのように想定される人格(?)の人間は いる必要がない。のではないか?
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ したがって 《ブッダ(つまり めざめた)》という宣言だけで 二千数百年持った。

 たしかに人間には《求道心》があるのでしょう。それを誘発しつつ うまい具合いに誘導して行った。
 ただし最終の答えがないから 一生懸命人びとは探し求め問い求めて行く。・・・




 ★ ~~~
 せいぜい、欲望を滅するのではなく、
 制する(滅ではなく止)と解釈する。
 ~~~~~
 ☆ この《制する》も要らないとわたしは考えます。
 《欲望》にしたがう行動においてさえ《共生》の芽は萌えており 《利-相互》といった内容を持ち得ると考えます。

 要らぬお世話だけをおこなった。なぜなら パンニャパラミッタを言わなきゃあ 真面目な努力として賛同を得つづけることもありえたでしょうが 完全なさとりを吹聴したからには インチキでありペテン師だったと成ると思います。
 《完全性》を説いたところに 落とし穴があった。と考えるのです。 どうでしょう。

お礼日時:2013/03/07 20:46

いないでしょ。



人は感情に支配されています。
要は好き嫌いで物事を判断するから。

たとえば、勉強するべきだということが真理であってもできなかったり。
逆に勉強するべきでばいが真理であっても、好きでやったり。

そもそも、真理が存在するかすら、疑問です。
1+1=2ですら、人が決めたことですしね。
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この回答へのお礼

 ぽえにくすいーう゛るさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ぢゃあ
 ☆☆(趣旨説明欄) 13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?
 ☆ の問いに対して あり得ないことを ゴータマ・ブッダは ぶち上げた。となるはずなのですが?

 それが生涯そしてさらに二千うん百年とその《成道》論が或る種の仕方で権威をもって迎えられた。と。


 ☆☆(同上) ~~~~
  《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか?
 
  1. いない。または いる必要がない。これを論証して ゴータマ・ブッダのさとりが まやかしであったという結論を得たい。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ という趣旨ですが どうなんでしょうかねえ。

 はっきり言うことは 何かの理由で―― 一般的に――はばかられるのでしょうか?

お礼日時:2013/03/07 19:31

妄想の末に造語までやらかして、具体的な定義は何一つ無い。


2chの哲学板にでも行けば? もしくは心療内科でのカウンセリングがいいかも。

考えているフリをして、そのフリに酔っているだけですよ
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この回答へのお礼

 すばる_はせがわさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 この酔いはなかなか ここちよいですよ。二日酔いもないようですし。

 そのことがあなたには分かったのですね。

 ただし
 ★ 2chの哲学板にでも行けば? もしくは心療内科でのカウンセリングがいいかも。
 ☆ もうこの台詞は 五年おそい。流行おくれ。だいじょうぶかい? 縄文人に見える。へっへっ。

お礼日時:2013/03/07 13:10

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