【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

版籍奉還とは土地と人民を朝廷に返すことで、藩主の土地が徳川のものから政府のものになったと理解しています。ただ、その後の廃藩置県との関連性がいまいち結びつきません。土地が朝廷のものになったことによって藩主たちはどのような気持ちになったのでしょうか?いろいろなサイトをみたのですがいまいち理解ができず困っています。わかりやすく教えてください。

A 回答 (3件)

版籍奉還の前に、既に徳川側から「大政奉還」を朝廷に進言して実施されております。


即ち、政権を徳川から朝廷に移した(政権交代)ということです。しかし、実際には「数百年もの間、政権を担っていなかった朝
廷はいわばお飾りで、実権は従来どおり徳川が握れる」、との徳川側の目論みがあってのことです。
そして、従来の藩主達による会議で政治を行うと考えていたのです。つまり、藩主達が今の国会議員のようなものです。
ですから、版籍奉還までは「徳川の体制」は実質的に従来とはあまり変わりはなかったのです。
ところが、新政府側が廃藩置県を断行し、徳川は完全に新政府側に実権を奪われたのです。
藩士達も失業してしまい新政府は藩士に一時金や年金などで処遇しましたが、その後も廃刀令などにより旧武士の”特権”をなくす動きがでてきて遂に九州の方で反政府運動が起き、その最たるものが西南戦争でした。
徳川側は版籍奉還までは何とか徳川家の存続を図っていたのですが、その後の廃藩置県は新政府側の意向に沿ったもので、徳川側にとっては当初の目論みが外れてしまったということです。
廃藩置県以降の旧藩主達は時代の流れに諦めて、ただ黙って見ているだけだったと思います。
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版籍奉還



藩主 → 知藩事(横滑り)
独立の大名家から、政府の役人に変更

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%97%A9% …

実体的には大きな変化はない

廃藩置県

知藩事 → 知事(中央政府からの任命)

幕末の段階で各藩は経済破綻しており、赤字会社の責任者として責任回避できたとも言える
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E8%97%A9% …

「藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出る所も出ていた(池田慶徳、徳川慶勝、細川護久、南部藩など)。」以上引用
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まず幕藩体制から理解する必要があります。

幕藩体制とは領主が領民・領地の経営権を一手に握り、幕府は領主同士の争いが起こらないように調整するといった極めて地方分権的な政治システムでありました。幕府は一応、諸藩を監視はしていたが、それは内乱・内戦・お家騒動を防ぐための監視であって、地方行政には全く関与せず口出しすることもなかった。大名の統治権は、朝廷から領民・領地を預かっているという名目によって正当化されていた訳です。

そこで版籍奉還です。いままで預かっていた領民・領地を朝廷にお返ししますということです。自動的に大名は行政権を失い、徴税権を失います。もはや年貢を取り立てることはできません。朝廷の代理で明治政府が全国的に行政を担うことになりました。版籍奉還の第一の目的は地方分権から中央集権体制への転換でした。

ではそれまでの大名はどうなったかというと明治政府から現在の都道府県知事に相当する知藩事という役職に任命され、激変緩和措置が取られました。大名では無くなったが、いきなり只の人になった訳でもないんです。

大名にすれば万々歳です。幕末時点ではどの藩も経営に行き詰まって借金で首が回らなくなっていた実質破綻状態だったからです。偽札を印刷するほど窮乏していた藩もあるぐらいです。藩主は家臣に借金し、商人からも借金しているような状態。江戸時代を通して進行した商工業化、貨幣経済の進展で、もはや年貢だけが収入というのは完全に時代遅れになっていました。頭の良い農民はもはやコメ作りなどせず、金になる商品作物の栽培に夢中で、その売上の一部で他所から米を買って年貢として収めるといったことがまかり通っていた。農業技術の進歩で収穫量が増えて米の価格は下がる一方でありました。100国で召抱えるといっても米の値段が下がれば、毎年給料が下がるようなものだからたまったものではない。豪商・豪農が成長する一方で武士だけが一人デフレ状態です。刀を下げて威張っていても、武士は食わねど高楊枝。

そういう大名の借金を明治政府が引き受けてくれるというのだから、夢のような話です。版籍奉還の企画が伝わる伝わらない時点からバスに乗り遅れるなと我も我もと賛同者が集まって衆議一致で話がトントン拍子に進んだ。誰一人として抵抗勢力など存在しなかった。

実際のところは版籍奉還を待たずに抜け駆けして一人版籍奉還をした大名もいます。元はといえば徳川慶喜が大政奉還をしたのです。徳川慶喜にならって自分も小政奉還をしようと考える大名が後に続いても何も不思議はない。

いろんなサイトなんか見ても無意味です。自分が当時の大名の立場になって考えてみれば良い。それが歴史を理解するコツです。時代の人になりきる。もはや将軍もいない。となれば自分の立場も風前の灯です。

廃藩置県の意義は地方行政の効率化です。それまでの藩は旧弊を引きずっていて極めて細分化されていたので、幕末には大名の数は300人近くも居ました。藩の規模が小さすぎて地方行政が非効率になっていたのも藩の経営が赤字になった要因です。廃藩置県は、幕府直轄領・大名領・公家領・旗本領・寺社領と細分化され入り組んでいた境界を整理・統廃合して段階的に適正規模の県に置き換えていったということです。

既得権益を握る大名などを土地から切り離すことで明治政府が中央集権的に地方行政の整理・統廃合を推進することが可能になったのです。

といったあたりでご理解いただけるでしょうか。
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