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勿論一概には言えないと思います

哲学や科学などの学問には疑う事は何より大切な事かもしれません

疑うことによって真実に近づけるのだと思います

しかし現実を生きる時 人を疑い 運命を疑い 自分を疑っていたら生きていけません

ある事は疑い哲学となり ある事は信じて宗教となり 信念となり。

荀子の性悪説や孟子のの性善説も疑うか信じるかと言うことでしょう?

あまり大きく考えると分からなくなるので この性悪説と性善説を含めて

人間とは疑うべきものか 信じるべきものか?

を中心に全体に疑うことと信じる事 未来を開く為にはどちらがカギとなるか

疑い疑い抜いて真理に近づくべきか 信じて信じ抜いて平和な未来を実現すべきか

意見を聞かせてください よろしくお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

>未来を開く為には



 疑いぬいて予想される未来に対して考えられる対策を施した上でその効果を信じること。
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この回答へのお礼

その通りですねえ 文は短いですが 当は得ています。

未来を開く為にはその様に疑い その様に信じるべきかと思います

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/05 19:25

両方と思います。



しかし、「盲信」はペケ


「性悪」とか「性善」とかは、「合理的な思考(志向)」とは違うものと思います。
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この回答へのお礼

そうですよね 両方なんです。

ただ今の時代に欠けているのはどちらかと言う 未来を開く為にどちらが

と言う問いなんです。しかし両方とも必要と言うのも確かな答えです

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/06/08 09:44

こんばんは。



客観的に見れば、どちらも本質で
個人的に見れば、その人の性格によって選択されると思います。


信じることと疑うこととありのままに見ることの3つの方法があり、
3つは同じ結論に達する、3つは矛盾しないと思います。
3つが矛盾しないのは、それらがいずれも能力にすぎないからですが。

疑う自分と、信じる自分と、観察する自分は別人ですし。
あるいは脳の3つの能力です。
人間はだれでもこの3つを、やってみようと思えば誰でもやる能力はあります。
と言っても根深い個人的好みの壁があるので、能力があってもやることは難しいです。


この世では性善説と性悪説が両方共論理的には正しく両立してます。不可知論もですが。
それぞれの世界観を形成する前提である直感が違うだけですし。
あるいはこのレベルにおいて真理は一つだというのは根拠がありません。
信じることと疑うことの境目に浮かび上がる論理を超えたものは、現実とも矛盾しないようにみえます。


鍵というのなら、信じることも疑うことも、加えて現実観察もみんな鍵だと思います。
総花的かもしれないですが・・

でも脳が生み出したものなら、それらがいずれも特定の世界観を生み出す能力であるなら、
どれもこれも本当であり鍵になるのはある意味自然なことじゃないかと思います。
もしどれか一つを拒絶したら、単に現実逃避です。
後は、どれが性に合うか? ということでないかと思います。


僕も十分はわかってないので、今見える範囲での話ですが。
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この回答へのお礼

何か分かるようで今一歩のようですが

いい線行ってるのかもしれませんね

3つは矛盾しないでしょうね 現実にやってる事ですからね

観察すると言う視点を教えて頂き

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/06/06 21:32

 疑うことと、疑ってみることは違います。

僕は確固たる信念を持ってぶれない人よりも、ある程度はぶれる余地を残している人の方が信用できます。自分が間違っているのではないかと自分を常に疑ってみている人の方を信用します。哲学でおもに疑う対象は自分の信念です。他人ではありません。積極的に自分が持っていそうな偏見・バイアスを見つけ出し、打ち消していく努力こそが、正しく考える方法です。
 「行動はその背後にある動機を強化し、選択はその背後にある世界観を正当化する」ジョージ・ウェインバーグ。あなたが行動や選択をするたびに、動機となる感情や世界観の基になった考え方は強固なものになるのです。誰かを説得していると、説得者がその考え方に陶酔するのです。被説得者は白っーとしているのに。信念とはそういう当てにならないものです。確固たる信念ほど、このジョージ・ウェインバーグの法則に無意識に引っかかって形成されたものだからです。

参考URL:http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/06/6.html
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この回答へのお礼

そうですね 自分の信念を疑うのを忘れていました

人間と言うものは迂闊な者です。

心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、心得たるなり。(蓮如)

と言う言葉を思い出しました。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/06/06 22:27

一般的に言って


世界は分からないことだらけなので多くの先人やその業績を疑いまくり、勉強し、その結果真理を知ることになります。
貴方が信じなければならないものは自分自身とその未来、そして身近な愛するひとたち位のものではないでしょうか。
マスコミや日本政府を含めてその他は皆疑ってかかってちょうどいいとおもいます。こんないいかげんな回答も。
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この回答へのお礼

こんないいかげんな回答も 信じない方がいいと言う事でしょうか?

しかしそうですね 信じられるものは少ないですよね

大切なものはごく僅か と言う句が浮かびます。

ミスチルの「フェイク」じゃないけど

世界中に嘘が張り巡らされてるのかもしれません

嘘を信じて馬鹿を見る事は多いですねえ

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/06/04 22:41

真理に近づくとたぶん人間と物質の違いがわかります。

そして歴史が‘困難に対する人間の善処と善意の前傾のバイアス‘による発展の可能性を証明してくれると思います。つまり信頼することによって前傾のバイアスをかけていくことが前進の原動力だということを。人対人で疑うことに固執するのは石橋をたたいてぶっ壊してしまうことにもつながりかねません。もちろん、用心も必要なのでプラス三割くらいの信頼ということを意識していけばいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

人間と物質の違いは 物質はその質量ある物を指していますが

人間は物ではなく その精神を指して人間と言ってるのだと考えます

プラス三割くらいの信頼ですか 経験からでた言葉のようですね。

参考になりました どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/06/04 18:41

 学問の「疑う」とは、疑問に思うことです。

現実世界での、あなたが言っている「疑う」とは信用できないという意味です。宗教と哲学とは同じ土俵で語ることは難しいでしょう。哲学なら、認識論を学んだらよいかもしれません。宗教なら仏教やキリスト教やイスラム教の教典を読み込んだらどうでしょうか。
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この回答へのお礼

疑問に思うことと 信用出来ない事はそれほど違いますかね?

色々読んでみればヒントが得られると言う事ですね

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/04 18:37

言葉は存在ではない。


存在の集合の上に、その類似性を以って付された記号である。
どこまで精密化しても、存在そのものではない。

人の言う事は、信じてはならない。
信じるべきは、人の存在である。
言葉の表現する内容自体ではなく、
その言葉を発せせしめた、相手の心情、
その環境を思いやる事が、
「人の存在を信じる」事である。
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この回答へのお礼

つまり言葉や概念は存在しない と言う訳でしょうか?

私は言葉も性質として存在していると思っています。

人の存在を信じる事 それを思いやる事ですいね

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/06/04 18:34

信じる信じないと、性善/性悪説は関係ない。

この観点だけだと、対象物の是非は
どうでもいい感じですね。それが盲目的だと言われる部類になります。

まずは認識する事からですが、どちらかと言うと、認識と評価の違いじゃないだろうか。
あと、無意味な改行はスペースの無駄です。

コミュ障なのか厨二病なのかって感じですね。人生経験が足りないからそうなる。
まずは、まともに生きていけばいい。そうすれば、この程度の結論は誰にでも得られる。
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この回答へのお礼

そうですか その誰にでも得られる結論をお聞きしたかったのですが・・・

中学校二年の時に あなたが抱いた疑問は解けましたか?

私は納得しました 一応は

それでも生まれ出悩みがあるので こうして質問しているのです

どうもありがとうです。

お礼日時:2013/06/04 18:31

どちらも必要だと思います。


必要に応じて、必要なものを使う。

その為には、自身で確かめること。

信じるも疑うも根拠がないものは、すべて危うい。
自身で確かめて、必要なものを使う。

背理法だけで生きてはいけないし、帰納法だけでも生きていけません。
それ以外でも、どの方法でも一つだけ選ぶのは危険ですよね。

確かめて、自分の中で証明がなされたものを選ぶ。
間違ったと思ったら、選びなおせば良いだけ。

単純な選び方を選択すると、必ずどこかで失敗します。
だから人は学ぶのではないでしょうか。

確かめられる人になることが大事でしょう。
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この回答へのお礼

私はこないだの土曜に自転車を買ったのですが、値段と性能

色やデザイン タイヤの厚み 段変則の数 等など

疑問を投げかけてみたのですが 店員さんは不利な事は言わなくて

結局色が特に気に入って 他も良いと思ったので買いました

が 後から幾つか不満が・・・単純な選び方だったんですねえ。

確かめられる人になりたいものです。

どうもまことにありがとうございます。

お礼日時:2013/06/04 18:27

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