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パンパンガールというのを最近知りました。
当時どんな思いで働き、どんな人が働いていたのか?
周囲の人はどういう目で見ていたのか?
パンパンガールのその後は?
あと、素朴に気になるのは混血がほとんど生まれてないことです^^;
なぜ混血が少ないんですか?
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

彼女たちを街でみかけていたのは私が小学校に入学したばかりの頃のことでした。



 街とは名ばかり。当時住んでいた都市も空襲で文字通りの焼野原となってしまい。街の一方から反対側まで一望できてしまうような有様でした。焼け跡にはとりあえず雨風を凌ぐことが出来るだけのバラックと呼ばれた急作りの掘立小屋が並んでいました。こんな粗末な住まいでさえも、ちょっと油断をすると、何か、たとえば靴の片方といったものでさえ、あっという間に盗まれてしまう、そんな時代でした。

 交通機関といえば、一部があきらかに焼け焦げたような市街電車がけだるそうに走っていたのを思い出します。鉄道は比較的早く復旧していましたが、車両は焼失によってあきらかに不足していたようで、国鉄(JRの前身)では、客車は屋根までの超満員、貨車にお客を乗せるなどはごく普通の風景でした。

 電車のほかといえば、車体の後部に背負わせた大きな筒型の釜の中に木炭を詰め込んで不完全燃焼をさせ、発生した一酸化炭素をエンジンに導いて、そのエネルギーでなんとかヨタヨタと走っていたトラックや乗用車、非力ゆえに坂にかかると乗客は総出で後押しをしたものでした。

 街には米軍の放出品などを商う闇市が並び、学校では焼失を免れた校舎だとか、校庭の二宮金次郎の像のあたりに座って、教科書替わりの、わら半紙にガリ版で刷って配られたものを読みながら勉強したものでした。まともな食べ物はほとんど手には入らず、配給という制度によって、たまにジャガイモだとかトウキビなどが回ってくれば御の字。そんな時代にもかかわらず、キャバレーだとかクラブといった遊興施設はいち早くあちこちにオープンして行きました。

 これらの施設は完全に駐留軍の兵士相手。駐留軍は当時「進駐軍」と呼ばれ、街のあちこちに金網で囲まれ芝生が敷き詰められた広大なキャンプがあったものでした。一般兵士はカマボコ状の半円筒型のハウス、妻帯者の将校は華やかな戸建て、そして将校クラブだとかPX、それらは疲弊し尽くした我々の世界とはまた別の未知の世界でした。流線形が目にまぶしい新型のアメ車、そして兵員輸送用の大型の十輪トラックだとか中型のウェポンキャリアー。それらはガソリンの芳香を残して街を爆走ししていました。

 そんな頃、街に溢れていたのが、カーキ色の制服に身を包んだスマートな駐留軍の兵士たち、親を失い薄汚れた戦災孤児たち、当時のフォーマルウエアであった国民服と呼ばれた軍服に似た一張羅の衣服を身に着けた紳士、着物の裾を帯に挟んでステテコ丸出しにカンカン帽といった中年男、もんぺ姿の婦人たち、やっともんぺを脱ぎ去った和装姿の若い女性たち。そして…、あたりに似合わぬまでにケバケバしい姿で目立ったのがパンパンと呼ばれた街娼たち。

 すべてがモノ不足の窮乏のさ中にあって、すべてがモノトーン染みていたあの当時にあって、彼女たちは競うように派手なドレスを身にまとい、ハイヒールやサンダルといった、それまではご禁制だった西洋文明さながらの履物を履き、さらに真っ赤なルージュと派手に目立つアクセサリーで、ひときわ目に着いたものでした。

 彼女たちが街に溢れていたのは、もちろん街行く兵士たちをキャッチして身体を売るため。つまり、早い話が、彼女たちのド派手な姿は自分が只今営業中の売春婦だと大きな看板を掲げているようなもの。当然と言うか、一般の日本人からはパンパンと呼ばれあからさまに蔑まれていました。彼女たちも、そうした冷たい視線は当然知っていたようで、日本人たちにはどこか一線を引いていたように感じました。

 実は私たち親子が戦後の仮住まいとして一時期住んでいた長屋にもそうした女性が居ました。その方、町内の配給の際などに顔を合わすことから、私の母などにはわりにフランクに自分の気持ちや悩みなどを打ち明けていたそうです。

 戦争が終わった。女学校の集団疎開から帰ってみると、家は焼かれ両親は亡き人、当時は産業という産業がすべて壊滅状態にあったことから、女性にとってはまともな仕事などは無いに等しかったのです。不本意ながら、食べて生き延びるためにはほかになにひとつ手立てがなかったのです。知人に誘われてやむなく手を染めたのがパンパン。その時の彼女はまだ男を知らない生娘だったそうです。

 しかし一度その経験をしてしまうと、あとはズルズルと毎日幾らでもないお金を得るために。しかし、兵士たちを相手に営業?をしていれば、お金のほかにも、最新のモードのドレスも、下着や靴、口紅や化粧品も、そしてアクセサリーから食べ物までなんでも、兵士たちは自分たちが属するキャンプのPXから買って与えてくれたと言います。

 だが、彼女たち、仕事柄自暴自棄だったかというとそうでもなかったようで、それなりにプライドも持っていたということです。彼女は母にこうも言ったそうです。私たちがこんな仕事をしなかったら日本中の女性たちはあいつ等進駐軍にみんな犯されてしまっただろうさ…と。そしてそのことが、せめてもの彼女たちの儚いプライドであったことでしょう。

 パンパンとて生身の女性たちですから、身を売れば妊娠もします。当時は優性保護法もまだ施行されておらず、街にはアングラな堕胎医者という者がまた跋扈していたといいます。不適切な中絶手術によって大出血をおこし、そのまま死んでしまったパンパンも少なくなかったといいます。

 それでもなお、いわゆるハーフの子供たちが増えたことは事実です。こうした祝福もされず生まれてしまった不幸なハーフの子を預かる施設エリザベス・サンダースホームの創始者沢田美紀さんなどは推定20万人は居るだろうと語っていますが、その実態は今も判然としていません。一部は米国などの家庭に養子として引き取られたということですが、これもまた戦禍のひとつと言っていいでしょう。

 それでは、パンパンと呼ばれた彼女たちのその後は…。その後は…ようとして分かっていない、これが実際のところです。ですが、やがて駐留軍の兵士たちは順次帰国し、さらに朝鮮戦争の勃発によって駐留場所が変わってしまいました。しかし、この日本も年を経るにつれて産業も復活し、目に見えて豊かになり始めました。昭和29年には、もはや戦後ではない…と言われるまでに国力は回復を果たしました。仕事は増え、求人も増えました。

 性病や結核、栄養失調、それらは多くの彼女たちの身体を蝕んだはずです。しかしあの時代では抗生物質などといった良薬はおろか、どんな医薬品であれ払底してしまっていた頃、医療施設も不備で適切な治療も行き渡らなかった。身体を壊してしまい、不幸な人生を短くして終えてしまった彼女たちもおそらく少なくなかったことでしょう。ですが、多くは汚れた世界から立ち直り、なにかしら生業を見つけたことでしょう。そしてきっと、幸せな家庭も持ち得たことでしょう。そうであったと信じたい思いがします。

 ですが、一部には「横浜のメリーさん」のような方も居たようです。高齢になってからも白塗りの厚化粧にフリルのドレスに身をまとい横浜の街をさまよって、名物女として広く知られるようになった彼女、彼女もまた、悲しい戦争の犠牲者だったのかもしれません。

 パンパンについてはおよそこんなところですが、このほかに同時期オンリーと呼ばれる女性たちも居ました。その名の通り、特定の男性、あるいは特定の階級の軍人だけを相手にする女性という意味でオンリーと呼ばれたようですが、彼女たちはパンパンとは一線を隔す、やや上のクラスに属していると言うプライドをあきらかに持っていたようでした。

 また、キャンプの中の将校クラブだとか街のナイトクラブ、ジャズクラブ、ダンスホール、そうした場所で舞台に上がるような女性たち、その中にもその実、密かにオンリーとして特定のダンナを持っていた者も居たはずです。オンリーは、その内のかなりの人数がそのままその男性と結婚を果たし、幸せな家庭を築いたとも聞いていますが、中にはイザコザから悲惨な事件を起こしたケースもありました。今日のハーフのタレントさんたちもこうした家庭の子女であることが多いということです。…聴きなれない言葉につきましては検索でご確認をお願いします…。
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この回答へのお礼

貴重なお話ありがとうございます。初耳だったのがお恥ずかしいし、日本人として悔しいです。

お礼日時:2013/06/13 20:05

”当時どんな思いで働き、どんな人が働いていたのか?”


    ↑
現代の娼婦さんたちは、遊ぶ金欲しさ、てのが
多いようですが、当時は生きる為、家族を養う
為に必死だったのだと思います。

”周囲の人はどういう目で見ていたのか?”
     ↑
それは何時の時代も変わりません。
白い目で見られ、後ろ指をさされました。
「人は見返る、我が身は細る」

”パンパンガールのその後は?”
    ↑
それは人様々でした。
病気を移され死んだひと、米国に行ったまま
のひと、飲み屋を営業した人・・・。
ただ、一言。
幸せな娼婦はいない。

赤い靴、という童謡を知りませんか?
「赤い靴、履いてた、女の子。
 異人さんに連れられて行っちゃった」

”素朴に気になるのは混血がほとんど生まれてないことです^^;
なぜ混血が少ないんですか?”
    ↑
沢山生まれて、沢山の悲劇が起きました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。赤い靴聞いてみます。
たくさん生まれて、たくさんの悲劇の部分は詳しくはどのような内容ですか?
周囲に混血があまりいないのですが。

お礼日時:2013/06/13 19:57

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E3%81%AE% …
このサイトは“星の流れに~”というn流行歌の紹介です。
ここにある言葉を検索(キー)ワードにして検索して御覧なさい。
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どんなもこんなも 生きていくには仕方ないっしょ 周囲からはやはり良い目では見られなかったみたいですね まぁ僻みもいっぱいでしょうが 混血はいっぱい生まれましたよ いじめの対象ですよね 母親にも見捨てられた混血児の施設とかいっぱいあったみたいですよ



http://ja.wikipedia.org/wiki/GI%E3%83%99%E3%83%9 …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA% …

過去ログにも
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4903073.html
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