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平安時代、蝦夷征討にかなり苦戦していたように思うのですが、それは何故でしょうか?

領土的にも大和朝廷の方が大きく、兵力も上回っていたと思います。やはり、関東へ出兵するだけで死者が出ることや関東の開発が遅れていた事も関係してくるのでしょうか?

A 回答 (2件)

「蝦夷征討」に従事する「政府軍」とはどのようなものか考えて下さい。


また「蝦夷征討」の目的は何かを考えて下さい。

当時の日本(天皇を頂点とする、朝廷が運営する政府)には「常備軍」と言えるほどのものはなかったようです。島国であるため、異民族の侵略を受けることがなかったからです。
(平安時代の後期に、異民族である「刀伊」が、後の元寇のように対馬・壱岐・北九州を襲った例があるくらいです。この時も、「常備軍」ではなく、現地の武士が撃退しています)

「蝦夷」は、当時の日本が唯一、陸続きに境を接していた「異民族」ですが、「蝦夷」との戦闘のために、関東に常備軍が駐屯していたのかというと、その形跡はありません。

では、蝦夷征討に従事する政府軍というのがどういうものだったかというと、当時の史書に名前が登場する指揮官だけが中央から派遣され、その下の兵は、その辺にいる農民に武器を持たせ、多少の訓練を施した程度のものだったでしょう。

「政府軍」と「蝦夷」の戦力(戦闘力、兵力)が同じようなものであれば、「蝦夷征討」が遅々として進まないのが当たり前です。

また、史書を読む限り、「蝦夷」の側から積極的に「日本」の領域に攻め込んで来ていた形跡はありません。「日本」の側としても、積極的に「蝦夷征討」を進める理由(「蝦夷」を滅ぼしたり、完全な支配下に収める理由)は特になかったと思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
スッキリしました!!

お礼日時:2013/08/14 20:47

蝦夷が相手だと、その土地の支配者一族を倒して


とってかわればそれで征服完了というわけにはいかなかったでしょうね。

相手は部族社会の異民族なんですから
支配層を倒しても住民がこちら側の支配に従うとは限りません。

ですから多賀城など条坊制の都風の都市を建設して
こちらの朝廷は立派だぞと見せつけたり
道路や灌漑施設を作っては田畑の区画整理を行ったり、
こっちの朝廷に従ったほうが良いぞと思わせるために
いろいろと工作をしています。

実際に戦をするよりも、後の宣撫工作のほうがはるかに労力を費やしたようで、
征討も連続的には実行せず、ある程度侵攻しては、立ち止まり
時間をかけて支配を確立する。

支配が確立できたら、また征討を再開するといった按配だったので
随分年数がかかったみたいです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
昔の常識などを考えれば苦戦した理由もわかりますね!

お礼日時:2013/08/14 20:48

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