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歴史のカテゴリーで質問したところ、回答が得られなかった為、こちらで再質問したいと思います。
質問内容は、戦時中のお菓子についてです。政府による配給制度等が絡んでくる為、ギリギリでカテ違いではないと思うのですが。

昭和十三年、ゴム統制によるチューインガム製造禁止
昭和十四年 砂糖の公定価格制実施
昭和十五年 菓子の公定価格制実施
昭和十六年 ドロップス、キャラメル、ビスケットが子供用菓子として切符制
昭和十七年 東京で菓子配給切符制実施
昭和十八年 菓子製造に企業整備令発令。
       菓子製造はほぼ中止状態に追い込まれる。
       配給制は乳幼児に限定。
上記は戦時中の統制の流れですが、これによると、昭和18年以降は、ガム、ビスケット、ドロップ、キャラメルなどのお菓子はないということになります。火垂るの墓という映画を観た事があるのですが、その話の中でも、ドロップを食べたい子供がおはじきをドロップだと思って口に入れているシーンがありましたが、実際のところはどうだったのでしょうか?闇物資という形で流通したりすることはなかったのでしょうか?
あと、少し違う話のなのですが。
昭和18年(もしくは19年)以降、都市部で深刻な食糧難が発生したことは分かるのですが、闇物資で切り抜けた人達もいることを知りました。闇物資というからには、やはり高い値段で食料品が売買されていたことまでは想像がつくのですが、通常のルートの何倍くらいで取引されていたのでしょうか?また、タバコなども入手できたそうですが、食料以外にはどのようなものが手に入れられたのでしょうか?
宜しくお願いします。

A 回答 (6件)

サッカリンは記憶が薄いですが我が家では昭和24年頃までは台所にありました



この頃発ガン性があるなどと言われ出して母親がケースのまま捨てていたのを見ていました

薄いガラスの円筒状ケースにタブレット状態に入っていました
甘いものが手に入りにくい時代でしたから貴重品扱いでした
そんなに頻繁には使用していなかったと思います
いつ頃から使い始めたかは解りません

雑炊食堂は全く知りません
たいした回答でない上、遅い回答で申し訳無いですね!

尚サッカリンはgoo,infosiek,google等の検索である程度出てきますよ{ 歴史 食品添加物 サッカリン}で検索してみてください

参考URL:http://www.mutenka.or.jp/tenkabuturekishi.htm
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この回答へのお礼

>たいした回答でない上、遅い回答で申し訳無いですね!

いえいえ、そんなことはありません。大変参考になります。
早速、サッカリンについて調べてみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/04/17 15:34

3番です。

4番の方とは生活環境がまったく異なりますね。
お菓子は毎日親が買ってきます。駄菓子は一切禁止されていたことは同じです(例として20-50銭のサイダーは飲んでも怒られない(親が買ってくる)が.5銭のラムネは禁止(同僚の話では地元の縁日で販売されるラムネは酢酸鉛水溶液だったそうです)。修学旅行の旅先で配られた場合を除くと.大学生になるまで食べられませんでした。せんべいが禁止でウエハースはいくら食べても起こられない。当時雷おこしは栃木県宇都宮駐屯地の残飯を都内に郵送して製造等衛星条件が悪い)。
ただ.今住んでいる地区の同年代の人は.昭和30年代まで見たことはないでしょう。1回だけさとうきびが配給で回ってきたと聞いています。都会から来ていた疎開者の分をうまくくすねて全部地元の人が食べたとか話していました。
開戦当初.キャラメルとかガムとか1つ1-5銭で結構小遣いで買えるものであり.食べない日が珍しいくらいです。
戦争の始まったころはまだ私も元気で食べ物には苦労しませんでした(5銭持ってお菓子やに毎日通っていた)。苦労したのは.戦争の途中で疎開してからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
やはり、地域事情などによってかなりことなるようですね。
大変参考になりました。

お礼日時:2004/04/17 15:33

>>昭和18年以降は、ガム、ビスケット、ドロップ、キャラメルなどのお菓子はないということになります



戦中戦後の日本には子供向けの菓子類は遠い珍しい存在でした
元々この時代、一般家庭の子供は家庭で造られた物を食し、メーカーで製造されたものを口にするのは稀でした
子供たちのお八つには主として、母親が自身で家庭にある材料で、団子、煎餅、果物、芋類などを調理加工して与えていました
その他では野山に出来る季節の果実を子供達自身で採集する習慣もありました
又、消化器系の感染症が夏期に毎年のように発生し非衛生な環境の駄菓子屋などへ子供たちが行くことを多くの家庭では子供に禁じていました
金銭や食品は大切なものとして扱われ子供たちが小遣いを手にするのは正月のお年玉と神社の祭礼のときぐらいで商店で菓子などを買う習慣も無い時代でした
従ってキャラメル、ドロップ等が市場から消えても子供の日常にはさほど変化はありませんでした
子供達がこれらの菓子類を口に出来るのは学校の遠足と運動会、町や村の祭礼の日等に限られ非常に待ち遠しく楽しみな行事でした、遠来の来客などがあると土産にキャラメルやビスケットなどを持参し子供を喜ばせることは有りました
全体に貧しくて慎ましい生活態度を送っていました
裕福な家庭の子等でも周囲の子供たちのレベルに合わせる節操も心得ていたと思いますが時折こういった家庭に遊びに行くと三つ豆やホットケーキなどを供されて感動したものですが、これらも自家製でその家の主婦の手造りによるものでした
闇市で扱っていた商品は大きく分けて生活必需品と嗜好品に区別されると思います
前者は米、砂糖、農産物、魚貝の干物それに古着など後者は酒類、タバコ、ご質問のキャラメル、ドロップ、チョコレート、チューインガム、それに高級衣類等などだったと思います
価格は余り高いと買う人がいませんからそこそこだったと思います
必需品は各家庭で工夫をしていました一例として子供の衣服は母親が自身で縫製していました
簡単服などの名前で婦人雑誌には大人の衣類を解体して子供服に作り変える方法や型紙などが連載されていました
当時の主婦は着物或いは洋服どちらかは製作できる技術を持っていました
食品は近隣の農家などへ直接買出しに行っておりました
これは男の仕事でしたが金銭で買うと農家の現金収入が増加し税務署に指摘されることもあり物々交換でした
自宅にある晴れ着や貴金属を米や野菜と交換して貰う事が行われました
食糧難で深刻だったのは乳児のミルクだったと思います
近隣の母乳の良く出る人に頼んだりしていましたがそれが見つからないときは高額でも闇市で手に入れることも止む無いことでした
その費用は手持ちの貴金属や着物を売却して工面し、それが又闇市で売られるという循環でした

質問の意に添っているでしょうか?
具体的な追加質問あれば又回答します
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
初めて聞く話ばかりでとても参考になります。

>具体的な追加質問あれば又回答します

お言葉に甘えさせていただく事にします。
少し質問からそれてしまうのですが。
実は、他のところでも質問したのですが、戦時中にサッカリンを砂糖の代用品として量り売りしていたという話を耳にしました。代用品でも貴重であったという回答をいただいたのですが、各家庭ではどのくらいの頻度で使用されていたのでしょうか?
あと、これも少々質問の本筋から離れた質問なのですが、戦前の雑炊食堂についてです。全国に何件ほどあったのでしょうか?また、食べに来た人が列をなして並んだそうですが、待ち時間が3~5時間もかかったというのは本当なのでしょうか?
お手数でしょうが宜しくお願いします。

お礼日時:2004/04/11 14:11

当時結核で缶詰になっていたので.市中の状態はわかりませんが.


私の家では.固定店舗からの販売は「値切らない」という方針をつらぬいていました。その結果.大体の商品は入手できました。ただ.海老等の高級品は戦争前でも取り扱っていませんでした。闇市の地下街でライカを買ってきた人を知っています。暴力団というかやくざというかのような人々のたむろする場所だったので.私たち一家は近寄らなかったところでもあります。
戦争中見舞いにきた友達(鉱山技術者の子供)は.ちゃんと.ダイナマイトを購入して.友達の家に遊びに行くのに無粋なものは持ちこめないとして.しっかと.上野の駅に預けてきました。
言い値で買っていましたので.値切った人の10-20倍で購入することもあります。
苦労したのは.戦争終了直前に農村に疎開したときからです。近所の役場の仕事で賃金未払いが発生する.地主が代金を支払わない.借金の返済をしない...等です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

>近所の役場の仕事で賃金未払いが発生する.地主が代金を支払わない.借金の返済をしない...等です。

初耳です。
役場でも賃金未払いなんてあったんですか。
やっぱり、色々とあったんですね。

お礼日時:2004/04/11 13:56

こんにちは、たしか以前もべつの質問でお答えさせていただいた記憶があります。



戦中、戦後の風俗に関して言うとですが、作家藤本義一さんがいろいろと書いておられます。火垂るの墓も、同世代の作家野坂明如さんが原作になっていますよね。

>食料以外にはどのようなものが手に入れられたのでしょうか?

戦後の闇市はなんでもあった、と聞きます。藤本氏が書いた文には、「ヤミでは覚醒剤も売っていた、ヒロポンといって…」と書いてあるのを見たことがあります。(びっくりしました)

ところでですが、1の方のおっしゃるとおり、70才くらいの方で当時を覚えており、また今になってネットに書き込むという余裕のある方はあまりおられないと思います。

もし急いでいるというわけでないのでしたら、なんとか実際に生きていた人に話をきくのがよいと思います。
本などに書いてあることと、個個人の経験が違うということは、それだけ日本全体にむらがあり、今のようには均一化もしていないし、すごい差があったということですよね。
今のようにマスコミが発達していませんし、認識も昔のことですから主観が入りまくりますよね。どのような立場の人か、でも変わります。
(軍の関係者であればすぐにいろいろ手にはいる、とか。。。全然証拠はないんですが)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
何人かの方から戦争体験を聞く機会がありましたが、確かに、居住地域や職業によってかなりの差があったようです。
よく言われる、一部の人達はかなり早い時点で日本の敗戦を確信していた、という話も真実だそうです(実際に戦時中に中央省庁に近い所にいたという方から話を聞いた事があります。残念ながら他界されてしまいましたが)。

お礼日時:2004/04/11 13:52

おなじような質問を見受けますが


その当時に実際に生活した方でないと判らないと
おもいますし、70歳以上の方がパソコンで
このような掲示板をみて答えるひとは極少ない
とおもうので、何度質問をなさっても期待する
答えは出難いとおもいます。
 文献等で調べたことを深く研究しているようですが
実際に体験した人と会って話しをするほうが良く
判るでしょう。
 私の両親は戦前の教育を受けた歳ですから戦前
戦中、戦後の話はよくききましたが、本などで
表立ってでている話と、個人が体験したことは
違っている話がよくありました。
特に敗戦後のことは、表に出ない話がよくあるようです
 
 パソコン、インターネットは何でも調べられるよう
ですが、やはり現実を見て聞いてみることが大切でしょう
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
私の場合、父方の祖父は亡くなってしまいましたし、母方の祖父は体調を崩していて聞ける状況にありません。父方、母方の両祖母は少々痴呆気味で、やはり聞ける情況にありません。もっと早い時期に聞くべきだったと後悔している所です。

お礼日時:2004/04/11 13:43

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