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よく自分の子どもや身内のことを愚息とか 愚弟とかいう言い方をしますよね、あれ何 で言うんですか?ものすごく嫌いです。

以前、父が「うちの愚息が… 。」という言 い方で知人に話しているのを聞いて

「愚かな息子とは何だ。俺は一生懸命やっ ているのにその言い方はおかしい。」とそ の場で抗議したことがあります。

このような不必要なへりくだりは何故しな いといけないのですか?悪癖でしかないと 思います。

A 回答 (8件)

参考意見です。


ご質問は、表現の正しさや正解はあるのかということよりも、お互いが気持ちよく意思疎通できる表現とは何かを問うているのでは?と思えましたので、その解釈で参加させていただきます。
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私の母は、ご質問にあるような へりくだり表現を使っていました。
身内のことだけではなく、お土産を渡す時も既出のご回答にあるような、「つまらないものですが…」や、「お口汚しですが…」と言いながら渡していました。
その傍らで私は、いくら社交辞令とはいえ、一所懸命選んだものを そんな風に言うのは寂しいな…といつも感じていました。

そんな風に、私はどちらの表現にも抵抗があり美徳とは思えませんでしたが、その道で先輩の母が言うのだし、これが日本の社会の通例なんだと割り切って、(昔の話ですが)バイト先の先輩にお土産のお菓子を「つまらないものですが…」と言いながら渡そうとしたら、「つまらないものなら、いらないわよ!」と言葉を返されてしまいました。
それでも意を汲んで受け取ってもらえましたが、心にもないことを言った結果がこれでしたので、結構ショックでした。
これだったら、「一番おいしそうだと思ったので、これに決めました。お口に合えば嬉しいです」と本心を言えばよかったな…と。痛い思いをしましたが、謙遜がいつも正解かといえば、そうじゃないときもあるのだと学ぶことが出来たので、良い機会だったと思います。
それ以来、自分で納得出来ない表現は使わないことにしています。


似たような表現に愚妻や豚児というのもありますね。
自分や身内を相手よりも下げることで、相手をたてるというのが日本古来からの美徳とされていますし、年配者にはそう考える方が多いです。若年層にはあまり浸透していないと思いますが、40代、50代より上の世代には、まだまだ根強い習慣・風習だと思います。

私はといえば、ご質問者と同様に抵抗を感じるので、自分がそう呼ばれるのも嫌ですし、身内にその様な表現は一度も使ったことがありません。
他人が使っている場合、謙遜の意味で使っているのは重々承知しておりますが、それでもなお、話題にされている当事者の人格を無視した表現だなあ…と、引っ掛かりや疑問を常に感じています。
日本の社会ではまだまだ多数派であり、継続して支持を得ている表現だとしても、身内をへりくだって言う表現に対し、否定的立場です。

へりくだる表現には、コミュニケーション術というよりも、明治や昭和初期の時代に根強く残っていた封建制度の臭いや違和感を持っています。
へりくだることが美徳であるという考えを通すこと、それが個人の信条であるのは大いに結構ですが、我が子や身内を巻き込まずとも、その人だけがへりくだる(わたくしめ・小生などと自身を表現する)ので十分ではないかと、つい考えてしまうからです。


身内をへりくだること、これは欧米の人たちには理解できない文化だと言いますが、これはもしかすると、海外の人たちが親子心中が理解できないのと同じ基盤によるのではないかと推測しています。
日本人は昔から血縁を大切にしますし、「家」そのものをとても大切にします。
伝統的に、子の罪は親が負い、親の罪は子が背負ってしかるべしという意識が強いです。
だからこそ、日本人は「恥の文化」をもって、社会全体の道徳心を高めていったと言えるでしょう。日本は長らく先進国の中でも特に治安の優れた国家であると評価されていたのも、こういった文化が基盤にあったからだと思います。このこと自体は誇らしく思います。

しかし、その反面、日本では個人個人の感情がないがしろにされてきた面は否めないとも感じています。特に昔は、今よりもずっと家族は運命共同体だという意識が強かったので、子供の自我の所有者は親であるという意識が強く、まるで一心同体のような感覚があったので、親子心中という発想が日本にはあるのだと思えるし、「ともにへりくだる」という意識もまた同時に芽生えて、愚息や愚妻のように、一見、個人の人格を無視したような表現が誕生したのではないかと思えます。

そういった表現が誕生したとき、呼ばれる側はそこまで(人格を無視されているとまで)意識することはあまりなかったかもしれず、誰もが一々気分を害していたということもないのかもしれません。愚息も愚妻も、話者が自分のことを「小生」と言いたいところを、身内に代弁させるかのように続柄に合わせて使い分けていたのだろうとも思います。しかし、社交辞令とはいえ、身内を愚妻や愚息と言い切ってしまう文化というのは、やはり封建国家の名残のように思えてなりません。

悪しき文化と考える人は使わず、使う場合は、どういう気持ちがあって そう表現したのか、表現した側もそのままにしないで、本人(呼ばれた側)に意図をきちっと伝えるのが良いと思います。
それでも、本人が嫌がっている場合は使わないのが一番じゃないでしょうか。主語のない日本特有の習慣なのかと思いますが、幾ら身内とはいえ、そういった感覚まで自分と混同するのは如何なものか。
他人と円滑なコミュニケーションを図るために身内を引き合いに出すのなら、当事者が不快な思いをしないように配慮する。このことも大切なコミュニケーション術だと思います。
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梅田花月の若手漫才のやり取りを地で聞いているようなおもろさがありましたねえ。

ありがとさん。たんとわらわせてもらいましたでww。
もちろんじっさいにそんなことがあったわけではなく、バーチャルな設定で、ここの回答者さんらがどんな反応をするものかを試しておられるのでしょうが。

世の中には貴方のようなすすんだ考えを持った開明的な、無恥なひとたちばかりではありません。顔を見ているだけでは他人の腹はわかりません。
「おれは馬鹿なてて親に人前でとんそくとか言われるほどばかではないわい」と本気で怒るような息子がいたら、それこそ末代までの恥だから、よおくおぼえておけよ、あの息子のようにはなるな!たとえ東大にいってたとしてもな。あはは、あの親父も子供の教育には失敗したもんや。」
とかげで嗤うとともに、あちこちそのおもろい話を吹聴してまわる人間が、おそらく世間には半数は居るでしょうし。

>このような不必要なへりくだりは何故しな いといけないのですか?

上記のように、世間で恥をかかないようにということでしょう。世間は案外こういうことには保守的なのです。実力に関わらず稲穂のように先方よりも頭が低いくらいがちょうど良い加減なのです。だれもが実力に関係なく威張りたいと思っていますから、その気分を折ったらあとでひどい目にあいます。
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明治時代前半の教科書に手紙の文例集のようなもの(「改正小学作文方法 下巻」)があり、現在との違いが興味深かったので書き写していました。

息子が風邪にかかった父親が医師に往診してくれるよう依頼した手紙と、医師からの返事です。

「診察を乞ふの文」
豚児儀昨日より風邪に侵され困却罷在候間乍御足労本日御賁臨御高診被下度願上候 頓首
(とんじぎ さくじつよりかぜにおかされ こんきゃくまかりありそうろうあいだ ごそくろうながら ほんじつごひりんごうしんくだされたくねがいあげそうろう とんしゅ)

「回答文」
御令息儀昨夜より御不快之由にて拙診を命ぜられ委細承諾後刻近傍まで廻診いたし候間必ず御伺申上候 不叙
(ごれいそくぎ さくやよりごふかいのよしにてせっしんをめいぜられ いさいしょうだく ごこくきんぼうまでかいしんいたしそうろうあいだ かならずおうかがいもうしあげそうろう ふじょ)

同じ子どもを、父親は「豚児」、医師は「御令息」と呼び、診療することを医師は「拙診」父親は「御高診」と書いていますが、これが日本の伝統的な表現でした。

現在ではさすがに、このような手紙を書く人はほとんどいないと思います(医師に往診を依頼するなら手紙ではなく電話でしょう)が、いささか古風な表現とはいえ「豚児」や「愚息」などの言葉が完全に死語になってしまったわけではないと考えます。

質問者様のように「不必要なへりくだり」と考える人が多くなれば、「豚児」も「愚息」も自然に姿を消すでしょうが、一方では、自分の会社のことは「弊社」、相手の会社のことは「御社」や「貴社」と呼ぶような発想も日本社会には根強いので、「愚息」や「豚児」という言葉が社会から完全に消滅するまでには時間がかかるのではないかと思います。

このあたりの言葉に対する感覚は人によって異なり、千差万別ですので、どちらか一方が正しく他方が誤りとも言えません。「不必要なへりくだり」だと思われるのであれば、ご自分では使わなければよいと思います。私自身のことを言えば、自分では使いませんが、親が使っても別に気にはなりません。
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No.1お礼> 本当に出来るとおもっていればそのように言えば良いと思います。


No.1お礼> 他人に必要以上にへりくだっても一円の得にもならないし。

「そのように」言う事自体も1円の得にもなりませんね。
もしあなたに甥っ子が居て、その甥っ子よりもあなたの子供の方が成績や年収が高い場合、甥っ子の親(あなたの兄弟なり)が「うちのよく出来る息子が…」と爺さん(自分達の親)に言うのを聞いてどう思います? もちろん甥っ子は一生懸命やっているわけですからそれで良いわけであって、あなたはその表現について特に何も思わないので居られますか?
さらにあなたの息子の方が「ランクが下」だった場合、「うちの子に対する当て付けか?」なんて取ったりしかねないのが人の心。本当に出来る子であれ「出来た子である」と吹聴することはむしろ「損」にもなリ得るのです。
ほら、「お前より学歴や年収が上なのに、自分より下みたいな呼び方をするな」なんて感じるように、人間、自分より下の存在がいると自分がより貴重な存在であるというアイデンティティを得ることが出来、精神的に安定を得やすいものなのですから…。


親から見て十分に出来た子であれ、世間には「それより上」の理想像がごろごろしているのですから、他人に対して「うちの愚息が…」という事はおかしなことではないというのが、日本の風習的考え方です。
林業、農業、漁業といった一次産業においてムラ単位での共同作業を重ねてきた日本の社会においては、他者から孤立することは死につながりかねない、文字通りの死活問題でした。そこから、他者を立てて近隣でのつまらない衝突を未然に避け、共に自然など大きな脅威に立ち向かうという姿勢は、1銭の得にもならないどころか「生きるための知恵」だったのですね。

現代のように先制攻撃による優位を重んじる国々や資本至上主義の企業ともわたりあっていかねばならない時代ではなかなか評価されにくいところではありますが、まぁ一つの文化です。
自分にとって価値がないからと言って無価値であると斬るのは早計というもの。普段からふんどしを穿いていても1円の得にもなりませんが、ふんどしはまだ生産されて愛用されている方もいるものですよ。
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悪癖ではないと判りました。



教育は大事だ、政治だ、国が教育をなんとかしろ、と言ってきた間抜け日本人の縮図です。

いずれにしても必要ないとかの前提が感情論では無意味です。
うちの親は愚息とは言わないな。
お宅は、時代のステレオタイプになりやすい単純な血筋なんじゃないの。
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抗議した結果は?



自分では愚息だと思っていない?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

もちろん、父親に謝らせましたよ。

愚息なんて思ってるわけないでしょ。学歴も年収も私の方が両親よりも上なのだから。

お礼日時:2013/10/24 01:59

本当の馬鹿息子を「愚息」とは言わない。

親が他人様に対して「愚息」と言う時、「本当は賢い子なんだよね」というニュアンスがある。

それなのに、親に抗議したということであれば、まさに「愚息」であることを証明してしまったということ。残念。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


その他人様というような言い方が嫌いなのです。他人を皆敬わなければいけない理由なんてありません。

お礼日時:2013/10/23 22:50

しなくてはいけない訳ではありません。



お土産を相手に渡す時に「つまらないものですが」

と、言っているのと同じです。

日本は昔からへりくだる事を美徳としているところがあります。

「ウチの出来た息子は・・・」と言われると相手もあまり良い気はしませんよね。

相手よりも下手に出ることで相手も話を聞きやすくなる事もあります。

実際に「愚息」と言われても本当に愚かな息子と思われることはほぼ無いと思われます。

文字通りにとらずに、社交辞令だと思って割り切ったほうが良いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

本当に出来るとおもっていればそのように言えば良いと思います。

他人に必要以上にへりくだっても一円の得にもならないし。

お礼日時:2013/10/23 22:51

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