幼稚園時代「何組」でしたか?

ヤマトタケルは、景行天皇による東征の命を受け、出陣したとされます。
その頃、東には、「日本」と言う国がありました。
ヤマトタケルは、やまと国の人間なのに、攻められた国の「日本」の字を充てているのか
良く分かりません。
小碓命とも言われますが、それも教えて下さい。

A 回答 (4件)

ithiです。



ヤマトタケルは実在していないと言う説がありますが
どう思われますか?

私としては、たぶん、実在はしていないと思いますが、ただ、、物語的にはとても面白い物語であると思います。
また、倭健の征伐になぞらえて大和朝廷が日本とまだ統一していなかったということを裏話として言っていると思いますので、そちらの方が興味深いと思います。
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「命」や「尊」は、ミコトと読むようです。


と言う訳で、日本武しか残らず、日本王国の使者 武内宿禰を用いて、日本(王国の使者)武(内宿禰)になったと考えられます。
肯定するのなら、オーパーツ(竹内文書)に日本武尊は武内宿禰と書かれている点ですね。

問題は、ヤマト王朝とは、本当に平城京を指すのかは不明であり、最近になって文系歴史学者が捏造したと思われる。

何かを隠すのには、別の場所で大きく派手に宣伝すれば偽装になる節がありますので。
コリアンも使用している手段です。



ちなみに、竹内文書は、宮内庁、旧日本軍により没収され、WW2の空爆により消し炭になっています。
しかし、没収の(没収される事を事前に知っていた者が指示して)難を逃れた文献が今現在存在しています。
竹内巨磨は、逮捕、連行され裁判に掛けられ、無罪で釈放されました。
第124代 裕仁は、ニセ天皇と言う事が証明され、旧日本軍の戦意は消滅、沖縄県民の約20万人は虐殺された歴史を残しました。
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nstrh066さん、こんばんわ。



小碓命というのは彼の諱です。東征の相手は「日本」ではなく、「吾妻」ではないでしょうか?ヤマトというのはこの頃の日本の国全体の何分の一かを勢力下に治めていた勢力で、彼はその王族なのです。ヤマトタケルは熊襲猛が彼に殺される前に彼に献じたあだ名、別名です。ヤマトで一番勇猛な人という意味です。ちなみに日本武尊は「日本書紀」、倭健は「古事記」です。

詳細は下記のURLを参照ください。

ヤマトタケル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E% …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
ヤマトタケルは実在していないと言う説がありますが
どう思われますか?

お礼日時:2013/11/02 01:15

 旧唐書という中国の歴史書に、「倭の使節が『我が国は、太陽が昇ってくる所にあるので日本と言う』と返事をした」という記事があるという話です(私は原書にあたってはいません)。



 以来、中国の史書でも「倭」ではなく、「日本」と書くようになっています。

 熊襲征伐で功績を挙げてすぐ「日本武」という名前をもらったことになっていますが、後に日本と自称するようになってから、日本一武勇に優れた小碓命を「日本武」と呼ぶようになった(その場でそういう名前を与えたとまあウソを書いた)のではないですか。

 つまり、「日本武尊」は後世につけた名前なので、攻められた「日本」とは関係がないと考えるのが1つ。

 これが正しい理解なのではないでしょうか、古事記では「倭建命」となっていますし、日本武尊は「日本書紀」にある名前だったはずですので。

 また、日本は大陸のような大戦を経ずに平和的に統一していったのですが、その手段は、例えば出雲の国譲りに際しては、どこよりも巨大な神殿を作って祀る約束をして、それを破らず実行していますね。そうすることで、出雲の民を慰撫したわけです。

 また最近では、住友銀行が三井銀行と合併するとき、小さな三井側の気持ちを慰撫するために「三井」を上にもってきて三井住友銀行と名乗っています。

 これが「我が国流」なので、形だけ「日本」を攻めて、日本という名前をもらうことで実質的には戦わず吸収したのかなぁというのが2つめ。

 そのどちらかなのではないでしょうか。

 小碓命の言われについては、なにも読んだ記憶がありませんのでまったくわかりません。

 ちらっといま見てみたら、兄が「大碓命」ですね。

 「碓」は「うす」ですから、他国をすりつぶすことを願って付けたのでしょうか。

 日本は言霊の国ですので、願うなら声に出せばいいわけですし、声に出すには名前にしてしまうのが一番でしょうから。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございました。新たな考え方を学ばせていただきました。攻められたから使わないと言う考えに固まっていては、歴史は理解できませんね。
質問した理由に、「愛知県の猿投を調べていました。そこに、日本武尊の双子の兄であった、大碓命の墓が有り、学術調査隊による確認も行われていて、小碓命が架空の人物と言われる事から真偽のほどを調べていたのです。
旧唐書か、新唐書か忘れましたが、我が国は、倭と日本の二つの国があると書かれている部分が有りました。「太陽が昇ってくる所に」と言う件は、「日本」とされていました。丁度、テレビで、旧唐書の解説を中国の歴史家がしていたので、知ったばかりなのではっきり言えませんが、原文からは、倭が太陽の昇ってくる所とは取れませんでした。倭が太陽の昇ってくる所と思っていたので意外でした。
古事記での「倭建命」から、私は、ヤタガラスを連想します。猿投からそう思うのですが、ヤマトタケルは本当に存在したのでしょうか?検証は難しいですが、どう思われますか?
墓とされる場所で有名な場所は、名古屋の白鳥山宝持寺に古墳が有りますが、学術調査はされていません。一部崩落で出土した土器は、須恵器と、良い物が埋葬されていたので身分の高い人物で有る事は確かなのですか、他の人物の線もあるので何ともいえないです。ただ、隣の古墳が「断夫山古墳」と言われ、ヤマトタケルの妻の墓とされます。二つの墓につながりが有る事からすると、ヤマトタケルは存在したかも知れないと思ってしまいます。白鳥山宝持寺の中にある古墳の前には空海のお堂があり、一般の古墳とは雰囲気が違っていました。これは、私の感じたものなので、住職にあって情報を得る必要がありそうです。昨年、質問した時は、ヤマトタケルより興味を引いたことがあり、この事は尋ねていませんでした。
三井住友銀行の名前が三井から始まっている例えですが、私だけの考えなのですが、(不思議な事に、家族に三井が関わっているので、この結びつきは何なのだろうと調べて分かったのですが)三井が先でないといけないのです。これは、ヤマトタケルにも結びつきそうなのです。おっと、脱線しました。
お礼の言葉が、独りよがりに語ってしまいましたが、申し訳ありません。
参考になりました、ありがとうございました。

お礼日時:2013/10/25 22:52

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