10秒目をつむったら…

こういうのを整理したことがなくて、

世の中、ギブ&テイクにすると見返りを絶えず、計算している人間関係になります。

人間の心情として、貸し借りは存在するとは思いますが、どうなのでしょうか。

与えられる資格というのがあって、たとえば、恋人や夫婦と、家族、ほかは何かの被害にあったとか困窮しているときに、救済とかうけるというのは人権だと思うのですが、やはりこのような要件があって初めて与えられていいのでしょうか。

与える方としては見返りを求めてないので、自己犠牲もありという関係になると思うのですが、対象として、ソシオパスなどの冷徹な利益を計算する人には援助するのはおかしいと思うのですが、それってどういうことなんでしょうか。相手が共感するだと将来に見返りを計算してますし、相手が喜んでもらえたら自己犠牲もありという考え方でいいのでしょうか。
それも救済とか恋人、夫婦、家族関係に限られるのでしょうか。

脳に報酬がでるからではそれも利益ですし。

与える、与えられるの気持ちを教えてください。

A 回答 (7件)

生き物の世界は基本的に自分だけの力で生き延びなければならない世界で、人間でも自由主義というのは基本的に損得のメカニズムです。

個人主義ですね。自分のことだけ考えていればいい乾いた世界です。ギブアンドテイクですね。

親子、兄弟、親族の間には無償の助け合いというものが発生します。これも生物的なルーツがあるのでしょう。束になって生き残る、そんな本能が関係しているようです。
他人同士でもこの無償のギブギブが発生することがあります。男女の愛ですね。これは一面では性欲から来るギブアンドテイクが基本だというひともいますが、独立した愛情が現われる場合もあります。後天的な親族の生き残り保存本能現象ともいえます。

上記までは分かりやすいですね。

さて、他人一般に対する自己犠牲というものがありえるでしょうか。結局これも祖国愛とかいうことで近親の人間に対する保存本能ということにすれば分かりやすいでしょう。もっと大きなスケールの人類愛、ユダヤ人だって同じ人間だから救ってやろう、という自己犠牲、こんな風に考えればいいのではありませんか。

え?こたえになってない?でもそういった自己犠牲で、そのひとの脳に快楽の報酬が出ればいいんじゃないでしょうか、人工的にせよ、倫理的だし、ありえないことではないのです。
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この回答へのお礼

自己犠牲も快楽の報酬がでてもいい  いいですね。

親族、将来の親族、近親の人と。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 19:50

人間の欲求には5段階あるとアメリカのマズローが提唱しました。


1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)

1は、生きるための最低限の欲求。2は、生き残るための最低限の欲求。3は、人間生活を営む上での最低限の欲求、4は、自尊心を満足させるための欲求です。この段階くらいまでは見返りを求める計算を必然としてしますが、5の自己実現の段階で、自分に対しての欲求になるので、見返りなど関係のない判断が働くようです。

ただ、3,4,5に関しては、正直考え方次第ですので、同じ事象に対しても、どういう判断をするかは自分次第とも言えます。
与える時には、とくに自分がどういう思いであるかは、その人の状態次第です。
与えられるときには、相手が何を思っているかは計り知れませんので、ありがたく受け取っておけばよいと考えておくほうが、世の中的にはうまくいきます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 19:51

質問の意味がいまひとつ理解できませんけど、不足しているものごとが満たされれば満足するという単純なことじゃありませんかね。



与えれば満たされて満足します。与えられれば満たされて満足します。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 19:51

多くを与えられた事の無い者は、受け取り方を知らない。



多くを受け取った事の無い者は、与え方を知らない。
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この回答へのお礼

与えられた経験受け取った経験。

本当に大事だと思います。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 19:52

良く判らない質問ですね。


勝手に判断して、勝手に回答します。

人間関係は、色々な種類に分類されます。
家族、友人、職場、赤の他人と大きく分けます。

家族間の人間関係には計算を入れるべきでは
ありません。
家族は計算ではなく、情で造られるべき人間
関係だからです。
実際は計算も入ってきますが、それは極力
無視すべきです。

職場になると計算が強くなってきますが、
それでも情の部分もあります。
これが友人になれば、情の部分が増えてきます。

赤の他人は、計算の占める割合がもっと強く
なりますが、情の部分も否定できません。


”何かの被害にあったとか困窮しているときに、救済とかうけるというのは
 人権だと思うのですが、やはりこのような要件があって初めて与えられていいのでしょうか。”
      ↑
人権というのは私人が国家に対して要求できる
権利です。
私人間で人権云々という使い方は少しおかしいです。

それで国家が困窮している人を救済するのは計算です。
経済学ではこれを「外部経済効果」と呼びます。

つまり、利益がその人だけにとどまらず、広く
拡散して、社会、国家の利益になる場合に限って
救済することが認められます。

例えば生活保護です。
生活保護は、受給者を利することになりますが、
その効果は、犯罪の減少、所得の再分配などという
効果を及ぼすが故に社会、国家を利することに
なり、そのため税金の使用が許されることに
なります。
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この回答へのお礼

人権は確かに「私人が国家に対してするもの」です。

計算と情ですね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 19:53

pkuobe99様、こんにちは。




「あれ、で、いいんだ」と判断した時、自分も「あれ」でいいんです。よね。


自分が「「あれ」ではダメだ!」と判断する時、自分に何が可能でしょうか?
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この回答へのお礼

「あれ、で、いいんだ」

これは確かに大事ですね。歪んでない判断です。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 19:54

貸し借りが重要になるのは、自分の目的が自分で


ある時(自己中心的利己主義)です。
実際は、人類の社会化(分業化&組織化)は充分
進行しており、あらゆる個人の持続的な繁栄は、
社会全体の安定した運営なしには成り立ちません。

そこにおいて、個人の目的(生きる意志)は全体で
共有され、個人の能力の発揮は、個人の利益の
増大のためではなく、社会全体の最大限の活性化
のためであり得るのです。
そこにおいて、個人の喜びは全体の繁栄において
得られ=全ての人に共有され得るものであり、貸し
借りはその過程のロジカルなプロセスに過ぎません。
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この回答へのお礼

確かに分業社会なので。

貸し借りはロジカルなプロセスというのはわかります。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/24 19:55

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