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      モーゼの十戒

1.主が唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと
3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9.偽証してはいけないこと
10.隣人の家をむさぼってはいけないこと




      「人の道 十ヶ条」

一 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神が唯一絶対の神である
二 天国、地獄を語らぬこと
三 正義に味方し、死を恐れぬこと
四 変化流転は万物の常なることを知ること
五 過去にも未来にも永遠無限なる宇宙を知ること
六 かたちや儀式あるいは権威に捕らわれぬこと
七 己に自惚れぬこと、また己を卑しまぬこと
八 人に分け与えること
九 色情をいだかぬこと
十 食物に拘らぬこと


果たしてどちらがより真っ当であると言えよーか、
どちらがより真理に近いと言えよーか。
 

A 回答 (6件)

いつもお礼を有難うございます。

 長く続いていますね。 ところで、
「六 かたちや儀式あるいは権威に捕らわれぬこと」とありますが、
hitonomichiさんも「かたち」に囚われているのではないですか。

例えば「八 人に分け与えること」。
これは分け隔てのない弱者に対する視座ですよね。
とうの昔に聖書に記されているではありませんか。

hitonomichiさんが「清く正しく美しく」を掲げている事については理解出来ます。
でも「どちらが真っ当であるといえよーか」と比べる事に一体何の意味があるのでしょうか。
私にはわからないのです。
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真理に近ければ何なのでしょう



例えば十戒の1から3については私にとってはどうでもいいことです

4については、「私の上司に言ってやって」と思うし、5以降も真っ当なことだとは思います

10ヶ条の1、2、4、5もやはりどうでもいいことです

3は正義が何か分かりづらいし、(面倒だし他人が自慢げに語る正義ほど吐き気がすることはありませんので、解説は結構です)死を恐れないという気概はその人がその瞬間に感じることであり、他人にとやかく言われることではないと感じてしまいます。
自分の命を惜しまない人は、他人を命がけで救うなどとはおもいつきません。
人が決めた正義のために死を恐れない人が飛行機でビルに突っ込んでいったのをご存じでしょう

6は確かにそうだったらいいな、とは思いますけど、全部なくなると世界はとても味気なくなる気がしませんか

7はその通りだと思います

8は皆がそうできたら素晴らしい世界になると思います

9は男としては厳格に実行できるか否か…種を保存するためにはやっぱ必要なのでは?

10は拘り方によると思うのですが、美食を貪るのは戒めるとしても、やはりそれが健康や幸福感につながるとしたら、ある程度の拘りは人の生活を豊かにすると思います


これが私の考えですが、真理である必要はありません

真理というものがあるとして、それを知ったあとで、私の人生が変わることはありません
なぜなら真理は私が知るか知らざるかによらず、そこにあるものだからです。

つまりは私の人生は常に真理と共にあることは今までもこれからも変わらないということです
ですから真理とは何かという話はわたしにとっては無意味です
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一 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神が唯一絶対の神である


これは間違い。
二 天国、地獄を語らぬこと
これは正しい。
三 正義に味方し、死を恐れぬこと
これは間違い。
四 変化流転は万物の常なることを知ること
これは正しい。
五 過去にも未来にも永遠無限なる宇宙を知ること
これは間違い。
六 かたちや儀式あるいは権威に捕らわれぬこと
これは正しい。
七 己に自惚れぬこと、また己を卑しまぬこと
これは間違い。
八 人に分け与えること
これは正しい。
九 色情をいだかぬこと
これは正しい。
十 食物に拘らぬこと
これは正しい。
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どちらが真っ当?



社会がどちらを指示するか、ワザワザ聞くまでもあるまい。

真理?

十戒は読んで字の如く「戒め」

貴方の言っている内容は権威の傘を着た「戯言」

特に2と5、3と6は互いを否定しあっている。


ちゃんと修行しなさい。
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己に自惚れてこんなところに落書きばかりしていますよね? 相変わらず重篤ですな。

人の道なんざ戯れ言ですな。
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 道徳や倫理規範は 《真理》とは別です。



 真理を人間が知り得ると思っていることが マチガイです。


 そして人間と人間とのあいだの交通にかんする――いちおう模範的な――行為形式というのは 経験思考の対象です。

 つまり 相対的なものです。どちらが妥当であるかという判定をすることがあっても 真理に近いかなどという問い求めは 無意味です。どっちもどっちであり ただの程度問題としてあるに過ぎません。
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