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日本では、自社さ政権のころから冷戦終結をうけてイデオロギーとかで2つにわかれなくなって、議論をするよりみんなで正解に行こうという空気が多いと思います。

明治維新など成功例があってのことと思います。

日本は保守優勢ですが、スウェーデンなどは左翼優勢だったりします。


政治を中心に記述しましたが。

水掛け論で停滞もよくないのですが、やはり2つにわかれて議論しないと、物事がよく見えないように思えます。

いかがでしょうか?

A 回答 (6件)

今は選択肢が多くて、「2つに分けるとして、何と何で分けるか」というのがまずぶつかる問題です。



自分も小学校や中学校では「メガネかコンタクトレンズか」のような議論を、自分の意見に関わらずグループ分けされてディベートしました。
この例でいうとメガネとコンタクトレンズ以外を締め出しているわけで、実際にはレーシック手術なり、(実際に効果がどこまであるかは別として)他の視力回復法なり、という選択肢もあるわけです。

AかA以外か、なら2つに分けることもできますが、仮にA以外となっても今度はBかB以外か、というような話が延々続いて行って、やっぱりAがよい、という話になることもこの方法(AかA以外か)では予想されます。

私自身は各々の立場の利点・欠点を整理するためには、各々の立場に分かれて議論するのは非常によい方法だと思います。
ただ、今は、その立場の選択肢が2つというのはあまりに少なすぎるのかな、という気がしています。
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この回答へのお礼

多様化ですね。逆に共通して意見持てないバラバラという感じでしょうか。

細分化は逆に見えなくなりますよね。

複雑でも利点欠点のため、議論するというのは本当に必要だと思います。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 19:06

人権を侵害しないでね。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 19:08

 二極分化というよりも多極文化ですね、世界の動向は。

殊に1980年代以後のドイツに始まる第三極およびそれ以前の70年代に見られるフランス・イタリア・スペインのユーロコミュニズム(日本ならば社民主義に相当もします)の形成に対する対抗軸の形でレーガンおよびサッチャーが編み出したレーガノミックスとサッチャリズムによる急速な保守化と小さな政府論が、地続きである欧州大陸での軍事的緊張と自国の領土は関係のない話でしたから、その様に無責任な論調が許されたともいえます。
 実際にベルリンの壁やヴェルヴェット革命はポーランドやドイツから始まり周辺へと波及的に広がってもいき、その端緒はドイツに配備される予定だった戦域核とそれに対向するための戦術核の問題があります。
 STARTIIの問題です。これも米ソ冷戦の最終段階であり、アメリカからは遠く離れた欧州大陸の中央部での問題です。
 けれども「それを実際に配備される側」としては堪ったものではないことも事実です。ドイツの国民が自らの政治選択をする中で、元々は環境保護団体として出発した「緑の党」を議会での第三勢力として送り出しもしたとの事実もあります。それまではSPDかCDUかの選択でしたが、何れでも帯に短したすきに長しの状態でしたから、それとは少し違うアマチュア政治家の視点議論できる勢力(とはいえSPDと反ナチおよびネオナチでは共闘できる立場)を後押しした形です。
 こうした一方、日本では明治以後も何一つ変わってはいません。議会制とはいっても名ばかりで、組織の利益代表を出自とする候補が議会に送られても、実質は変わりがありません。根本にあるべき「議論」ができないのでは立法としての存在意義すら問われかねない形です。
 多数派の意見が全てに優先するとの勘違いは、「決める政治」の代名詞でもあり、それは内実としての議論が為されない限りでは極めて危険な方向性を示すともいえます。カール・シュミットの言辞を誤解する今の日本には耳の痛い言葉として響いています。
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この回答へのお礼

もともと日本人は論理性についてはという感じなんですね。
議会とか議論とか成熟しないですよね。

多極化というのは現在ですよね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 19:11

不立文字とか無分別とかいわれて


言論弾圧されてしまうので、無理なのです。
なぜか道元の言葉は問題ないらしいです。
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この回答へのお礼

本来、哲学はきちんと勉強すべきなんでしょうね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 19:12

政治に限っての話ですが、


二つに分かれての議論は、問題が分かりやすく、意思決定しやすいのは確かですが、
どうしても『対立』という構造になりやすく、
その図式から、結論がYES・NOの二極論化しがちです。

拮抗した一つの問題があった場合、
二つの対立した議論からは
『六割の人の大満足・四割の人の大不満』
という答えが生まれやすいものですが、
複数の党派に分かれ、それぞれの理屈の元に議論して
『八割の人のやや満足・二割の人のやや不満』
という答えを出した方が国民の最大幸福度が高くなると思われます。

中途半端は良くないといわれますが、政治では三者三様の理屈の元に議論し、
最大の妥協点を見つける、
一見すると中途半端な答えが一番正しい答えなのではないかと思います。
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この回答へのお礼

協調型と対立型が世界でありますよね。

対立型は日本で2大政党が失敗した例は戦前もあって、かなりむかない制度なんでしょうね。

かといって、現在の問題は視点が一つになることだと思います。方程式を描いたみたいに一つの答えがあるという勘違いというのでしょうか?

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 19:15

政治家が国民をナメて、与党も野党も同じ


ような公約を掲げ、選挙が終わったら
官僚に迎合し、政治献金してくれる大企業に
利益誘導するという、茶番劇に陥っている
からだ(国民もワイドショー政治に満足)。

本来、政治とは国の舵取りであり、長期的
ビジョンや生きるポリシーといったものを
明確にする所から議論が始まるが、政治家に
そんな見識はなく、国民は流されて生きる
歯車に堕しており、議論になど興味はないのだ。
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この回答へのお礼

それはあります。無関心でそのうち真実が何かすらわからなくなって。

政治に国民が振り回されてはいけないですね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 19:07

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