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 勤労の権利と義務をうたうのは 社会の中で仕事をするよろこびをとうとぶ精神から来ているはずです。

 ところが 権利も義務も何も 市場経済のもとでは あたかも人間もみながその存在(労働力の持ち主)じたいをも商品として売って生きて行くことを余儀なくされています。

 人間を顧慮するよりも 価格という交通信号に従って利益が得られるところへと水は流れて行きます。

 失業という《怠け》は 望まなくても・そのわれわれの意志を超えて 非自発的にこれを余儀なくされているという側面も出て来る。


 この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか?

A 回答 (22件中1~10件)

自己の生命の社会的拡張を日常的に自覚化する事で、


アメ(お金)やムチ(法規)による他律的社会行動ではなく、
生きる意志として、自律的に社会行動をとれるようになる。
お金を固有の価値を持った物であると考えず、助け合いと
しての社会の需給をつなぐ情報=感謝の気持ちに還元する。

原始共産制における血縁の感情的な社会化が、分業化&
組織化の発達において、拡張する流通のために貨幣を
生み出した時に、助け合いとしての社会は、お金を奪い合う
弱肉強食の擬似ジャングルと化したのだ。
「需給をつなぐ情報」をお金という物質化したために、独立
した価値を持つようになってしまった部分を、人の側からの
意識の社会性の醸成だけでなく、物の側からのIT化による
キャッシュレス化と、個人端末で商品タグを読み取る事で
生産者と消費者が互いに顔の見える取引きを行う事で、
感謝の気持ち=助け合いとしての社会に誘引する。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 次の用語は きちんとその定義をお聞きしなければ話がなかなかすすまないと考えます。


 ★ 自己の生命の社会的拡張
 ★ 自律的に社会行動をとる
 ★ 原始共産制



 初めから 個別に反応してまいります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自己の生命の社会的拡張を日常的に自覚化する事で、
 アメ(お金)やムチ(法規)による他律的社会行動ではなく、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 《お金》は ただ仕事に対する報酬を貨幣という兎にも角にも客観的な評価にゆだねた結果としてあるだけですから それを得ようとする考えも行動も 基本としてはふつうに 仕事を果たしその報酬をみなで分配しているということに過ぎません。

 そのような基本の見方だけに終わらないとしても その基礎としてのあり方についても顧慮しなくては 話が部分的なものに過ぎなくなるでしょう。

 また 《ムチ(法規)》 これも 同じことです。ともあれ人びとは 社会におけるそれぞれの行動と互いの交通(まじわり)について どのようにすれば互いの存在や生活をとうとびつつ持続的におこなって行けるかを考え これを取り決めただけなのですから まづその基本としては 《ムチ》などという見方は 出て来ません。それは きわめて派生的な現象としての問題であると まづことわってからの話になるでしょう。

 すなわち 人びとの行動について
 ★ 他律的社会行動
 ☆ であるなどという規定をおこなうのが 早すぎます。これでは 出来る話も 一向に前へすすみません。片寄った見方だけを提示しているに過ぎないからです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 生きる意志として、自律的に社会行動をとれるようになる。
 お金を固有の価値を持った物であると考えず、助け合いと
 しての社会の需給をつなぐ情報=感謝の気持ちに還元する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 生徒の作文だと言わない人がいたら おしえて欲しい。きちんと説明します。

 と言うより 
 ★ 自己の生命の社会的拡張を日常的に自覚化する事
 ☆ と
 ★ 生きる意志として、自律的に社会行動をとれるようになる
 ☆ こととは いったいどのようにつながるのか?


 どうも言っていることは 《生命が拡張される》と言っても 単なる認識の問題であると見られますから 実質的には
 ★ 生きる意志として
 ☆ ということのみではないでしょうか 中身のあることは。つまり 認識の問題は その中身を《生命》のほかに説明しなければまだ話は始まりません。

 そしてこの《生きる意志として》というのも たいていの人は それぞれおのれの意志として生きているのですから やはり中身がまだ伝わって来ないと言わねばなりません。気の持ちようで 元気にもなれるといったお話であるようにしか聞こえません。



 
 ★ 原始共産制
 ☆ が どうして一般的な議論に上がると言えるのでしょう。そんなことは 決まっていません。どう決まっているのでしょう?

 ★ 原始共産制における血縁の感情的な社会化
 ☆ 《社会化》は 知性によるものです。感性を排除する必要はないでしょうが 自己の社会化は いわば――自然本性としての潜在意識にのみ拠るような単純な共生性にもとづき―― そのようなカカワリ(関係)が具体的にマジワリ(交通)となるときには やはり歴史知性というべき知恵がはたらいて おのが心(精神)を開き マジワリを遠くへと伸ばすことが賢明であるとさとったところから出発するものと考えられます。

 つまりは 言わば関係の絶対性を 実質的に具体的に実現とするという思いでありそれを行動に表わすのであると考えられます。

 《原始共産制》とは この自然本性における生まれつきそなわった共生性を 抽象的にではなく具体的に じっさいの生活において仮りに描いてみせたもの。なのではないでしょうか。必ずしもそういった社会生活が あったということではないでしょう。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 原始共産制における血縁の感情的な社会化が、分業化&
 組織化の発達において、拡張する流通のために貨幣を
 生み出した時に、
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうでしょうか? それはただ単に 氏族が種族となり部族となって生活を共同化して行くとき 部族どうしのあいだにも 交通が始まったというだけであり 相互の《贈り物》合戦などから始まる交易――つまり モノをめぐる交通――にあたって そのシルシ(象徴でしょうか)を石や貝として決めて用い合ったに過ぎないのではないでしょうか。

 つまり言いたいのは そこではまだモノの――特には商品としての――評価がそれとしておこなわれているわけではなく 互いにおのれの部族の生活共同を外に広げたというに過ぎず そのマジワリのシルシをやり取りしているだけではないか。

 そのような共同体どうしのマジワリにあたっては まだまだ《分業化&組織化》は発達していないでしょう。ましてや 《流通》の――つまり 商品の――問題ではないはずです。部族ごとに 自分たちの提供するモノのほうが すばらしく立派だということを競っていたというに過ぎないのではないか。
 ここから 広く交易が始まったと それはそれとして 言えるとしてもです。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 助け合いとしての社会は、お金を奪い合う
 弱肉強食の擬似ジャングルと化したのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ほんとうにこんなことを思っているのですか。作文としてでも あまりよい点数はもらえないでしょうに。

 ★ 「需給をつなぐ情報」をお金という物質化した
 ☆ これは 存在やその心(意志)をとうとび合う生活共同ではなく 貨幣を価値測定のしかも公共の手段としたのですから モノゴトはすべて その評価方法が当てはめられて行きます。いのちの値段といったことも 現われます。
 つまり すべては商品化したかたちで 人びとは互いのカカワリを持ちマジワリを展開する。というだけのことです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 「需給をつなぐ情報」をお金という物質化したために、独立
 した価値を持つようになってしまった部分を、
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 致命的なマチガイです。

 《おカネが独り歩きする》のは 商品の交換というかたちで成り立つ経済社会にあっては そう見えるというだけのことです。商品に成っていないものが ひょっとしてまだあるかも知れないといった話を生んでいるということ これが 《おカネのあたかも独裁》というふうに見えるということです。

 なぜ 見えるだけだと言えるかと言えば 当然のごとく人びとは 互いの共生性にもとづくという歴史知性にすでに目覚めておりこの社会性――カカワリとマジワリ――が基礎として成り立ってるかぎりで この基礎としての生活共同を実現するためにこそ 貨幣経済をえらんでいると知っているからです。デメリットもあるとは知っていることです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「需給をつなぐ情報」をお金という物質化したために、独立
 した価値を持つようになってしまった部分を、

 人の側からの意識の社会性の醸成だけでなく、

 物の側からのIT化によるキャッシュレス化と、
 個人端末で商品タグを読み取る事で生産者と消費者が互いに顔の見える取引きを行う事で、

 感謝の気持ち=助け合いとしての社会に誘引する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《感謝の気持ち=助け合い》は すでに基礎としての共生性に見られています。知っているひとは知っています。

 だから その人間としての社会性というわづかな・けれどもあたかも絶対的なまことに信頼して人びとは たとえ自律する生活がむつかしくても それでも日々をうんうんとみづからを推してあかるく生きて行きます。
  
 ★ 人の側からの意識の社会性の醸成
 ☆ は すでにいやというほど先刻承知です。人治によらず互いの話し合い〔とそれによる取り決め〕をつうじて・ということは 合理性にもとづく互いの共同自治をつうじて 経済生活をも送ろうというときに 資本主義はそれとして合理的であるとは思っています。自由であり あるいは 貨幣による評価は 等価交換をささえるものです。


 たぶん このような情況にあって 人為的に何かを成し得るかと問うのなら それは 共同自治の中の――経済行為じたいではなく それらを社会的な全体からながめてよりよくおこなえるように環境を整備するというその――共同自治そのものの領域に期待するものがあるかも分かりません。早い話が 地域主権といった方向性です。



 というふうな感じで 受け留めました。

お礼日時:2014/03/19 12:24

> この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか?



ありません。また、ニートも「自律」していません。

なぜなら、ニートは労働の対価も払わず電気や水道などを利用し、誰かに「寄生」して生きている状態だからです。

「寄生」しているものを(人間に限らず)自律しているとはいいません。なぜなら、自律しているように見えてもその根本を支えている寄生元が倒れれば自律もなにもなくなるからです。

たとえば大樹に寄生している蔦などは、大樹が枯れたら一緒に枯れるほかありません。

>失業という《怠け》は 望まなくても・そのわれわれの意志を超えて 非自発的にこれを余儀なくされているという側面も出て来る。

失業が怠けなのか違うのは、それは今回の主題とは別の問題です。またそれが自発的でも非自発的でも、必ずしも本人の責任に帰するものでもありません。

しかし、だからと言って「ニート」が自律している、などとは夢物語にすぎません。
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この回答へのお礼

 ぴーえいちぢぇいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ★ なぜなら、ニートは労働の対価も払わず電気や水道などを利用し、誰かに「寄生」して生きている状態だからです。
 ☆ この《寄生》にまで到っており それに自由に甘んじているということは――少々のアルバイトによるカネ稼ぎをもしりぞけているということは―― まさに《自律》なのではないでしょうか?

 ほかには いないでしょう。

 ★ なぜなら、自律しているように見えてもその根本を支えている寄生元が倒れれば自律もなにもなくなるからです。
 ☆ じっさいに《寄生元が倒れる》ことを望んではいないと思いますが 問題は この寄生元たる社会が・そして殊には共同自治の代表者としての市民政府が さらに反省をおこなって よりよい方法を考え実施するということ。ここにあると はっきりと語っている。そこまでの自己表現をもおこなっているからには 自律ではないでしょうか?

 望むらくは 最小限 自分ひとりの生活だけは 自立するようになること。ではないでしょうか。



 ★ 失業が怠けなのか違うのは、それは今回の主題とは別の問題です。またそれが自発的でも非自発的でも、必ずしも本人の責任に帰するものでもありません。
 ☆ ええ。この主題は これからも大きな課題となると考えます。くわしく研究されるとよいと思います。
 


 ★ しかし、だからと言って「ニート」が自律している、などとは夢物語にすぎません。
 ☆ つまりこの《夢物語》が あんがいわれわれの未来社会の旗手またはその旗に画かれるイメージ(ただしまだその陰画)になっているのではないでしょうか。ネガをポジに変換すれば 将来は あかるい。・・・どうでしょう。

お礼日時:2014/03/19 12:39

資本主義の外、例えば無人島で自給自足で生きるのならともかく、資本主義の中で生きる以上、消費だけして生産しないということはあり得ず、ニートでも自己の生命を再生産している以上、他人が生産した商品を消費する一方で、みずから働いて生産過程に入るか、それとも他人に寄生して生きるほかはなく、それを「自律」とは言わないと思います。


いいかえると絶対的な「自律」というのは、人が社会に生きる以上はあり得ず、相対的な概念にすぎません。
ドゥルーズの「ノマド(遊牧民)」というのは、日本でいえばバブルの時代、社会が好景気にわいて余裕があった時代には可能だったかもしれないけど、今の日本のように衰退に向かっていて、社会に余裕がない時代には、あり得ない話です。
もう一度言えば、「自律」というのは資本主義の外に求めるべきものではなく、資本主義の中で各人がその才能によって相対的に実現すべきもので、いわば関係概念です。
仕事の喜びとか、生きがいのために資本主義が存在しているわけではなく、資本主義はそれ自体で、その論理で動いているので、資本主義の中で生きている人間は自己の生命を維持するためには否応なくそこで働かざるを得ないものです。
「自律」したかったら、資本主義の論理の中で実現するしかなく、資本主義の外に求めても、それは逃亡か寄生以外の何ものでもありません。
もし、「自律」したかったら、僧侶にでもなって、食料を托鉢で調達して生きてゆくよりない。
それとも無人島で、ただ一人生きてゆくよりない。
それができなかったら、平凡な会社員になって、日々、チンタラチンタラ生きてゆくよりない。
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この回答へのお礼

 まづ
 ★ いいかえると絶対的な「自律」というのは、人が社会に生きる以上はあり得ず、相対的な概念にすぎません。
 ☆ とおっしゃるとおりで この認識が基礎であり もっと言えば この理解が行き届くなら この質問の役目は果たせた。とまで考えております。


 ご回答をありがとうございます。


 なぜそうかと言えば みづから〔の身と心(≒知力かな)〕を商品とせざるを得ないかたちででも経済的に自立――自立――するというのなら ともかくですが そうではなくみづからを何らかの規範やまたはおのれの意志そのものによって律するという生き方なんてあるのか? という・そもそものうたがいから 発しているからです。
 自分で歯をみがくことと目がさめるまで眠っていることくらいではないかと思います 自律行動というのは。


 さて 細かく読んでまいります。

 ★ 仕事の喜びとか、生きがいのために資本主義が存在しているわけではなく、資本主義はそれ自体で、その論理で動いているので、資本主義の中で生きている人間は自己の生命を維持するためには否応なくそこで働かざるを得ないものです。
 ☆ 自分という資本で一からたたき上げた初期のころには そのような仕事の自由とそれの享受は 《仕事のよろこびや生きがい》となっていたかも知れません。

 そのあとは 資本じたいの増殖 それもただもう論理だけの自己増殖に 人間のほうが寄り添って行き 身分制なる支配のくびきを取り払おうとした自由人も もはやミイラ取りがミイラになったかにさえ思われます。

 ひょっとしたら そのような増殖論理を 裏からも表からもプラスだけではなくマイナスつまり機会費用をも考慮に入れて 完璧に追求した場合に そのひとは 完全に自律した行動を取っていると 自分では 思うかも分かりませんが。




 ★ もし、「自律」したかったら、僧侶にでもなって、食料を托鉢で調達して生きてゆくよりない。
 ☆ ですから これは ニートがあんがい実現しているかも知れない。と思ったわけです。
 

お礼日時:2014/03/19 15:05

ひきこもることと自律することは別々の「軸」に


よるものです。

生計を立てねばならぬことから解き放たれれば
ニート生活も一人の人間として自律することも
意味を変えるでしょう。

自分が考えるところの生産的な生き方に注力
出来るのですから。

少し現実的な話を書きましょう。

不労所得を生計を立てるに足る金額で得る。

そのためには資産が必要ですよね。

銀行にお金を預ける、とか資本家は労働者を
搾取して肥え太る、許せぬという人には何故か
経済的に豊かでない人が大半であるように
見受けられます。

同時に、競馬やパチンコ、酒、趣味などに
借金してさえ入れ込む人の比率もまた高い。

10万円ぽっち、そんな僅かなお金では
人一人一か月も生活するのは厳しいです。
でも、逆に云えば、余程厳しい経済状況でも
10万円を一年かけて貯金することはそれ程
不可能じゃない。

この10万円は絶対に生活費として手をつけない。
借金もしない。

これは、厳しい現実に晒されている人には
とても難しいことでもあります。
仕事なんて、あるだけマシだという人も
大勢いる。

お金がないから学ぶことも出来ない。
学ぶことが出来ないから、精神的にも
能力的にも豊かにならない。
生きることが辛い。
だから、享楽に身を浸し、心を癒すしかない。
そこで散財してしまう。
当然、お金の出入りは出の方が多いという
逆転になり、借金、複利、元本減るどころか
増える、携帯止まる、貸家を追い出される、
これで子供でも抱えていたら、いつも死と
背中合わせに生きてるような現実になる。

誰が良いとか悪いとかの話がしたいのでは
ありません。

人間は、その殆どが、自分が知っていることしか
理解できないし、出来ること、やったことがある
ことしか、出来ない、という厳しい事実について
書きました。

10万円のお金がキープしてある、ということは、
核兵器の抑止力と同様に、使えないが力を持つと
いうことにつながるのです。

さらに、それを少しづつ増やして運用する知識と
経験を持てれば、10年も経たずに100万円に
増やすことが出来るでしょう。
100万円のお金は、専業のデイトレーダーなら、
一年間で二倍から三倍には増やします。
仮に利率30%程度で回しても、更に9年経てば
1000万位にもなります。

資産であれ、人間関係であれ、知識であれ、
努力に比例して大きくはなりません。
漠然とですが、指数級数的に増えていく。

だから、勢いがついて加速がついてくると
一般人には想像も出来ない数千万、数億という
巨額の資産になって、お金がお金を生む
サイクルが大金持ちを生みます。

ホリエモン始め、優秀なベンチャー企業家で
金融に無縁という人は少ないのではないで
しょうか。

そういう知識と経験は、他人の話を聞いたり
本を読んだだけでは到底身に付きません。
迂闊に手を出せば丸裸になって以前より
悪い状態になる・・・はずだ。

そう恐れる人が大半です。

お金は給料としてもらうもの、自分の時間を
切り売りしてもらうもの。

だから、組織の中で自分の商品価値が
上がって行く努力をしようとする人も多い。

それでも、運用益で多額のお金を手にする
人々の思考とは全く別次元の考えですから、
総額がた易く計算出来てしまう。

簡単に生涯賃金や、それで贖える生活を
考えれば、生きながらにして既に死んでいるも
同然、と考えてしまう人が沢山出てくるのも
理解出来ないことではありません。

でも、銀行の僅かな利息に不平をもらし、
まず当たらない宝くじをまとめ買いし、たまに
パチンコで当たればパーっと使って仕舞う。
見栄を張り、でかい車に乗りLEDで改造し、
古くて安い貸家住まいで貯金なんか無い。

いくらロスだらけの人生だと判っていても
それをやめられないのは、「お金を増やす
ことが自分にもできるのだ」という経験が
余りに乏しいからです。

一回で多額のお金を代償なしに手に入れる。
思考は泥棒と余り変わらないのですが、
この射幸心そのものが(哲学的にも、です)
そのまま商業主義の中では安っぽく再生産
される消費財に過ぎません。

お金も時間も知識も経験も・・・人生の価値
それ自体が、巻き上げられる宿命を負っている。

それはまさに、逆説的ですが、「自律的」に
巻き上げられていく姿そのものです。

お金を高い所から低い処に流れていく、
それだけの見方でいると永久にお金が
何かということについて何の進歩もないまま
子供時代と同じ世界観で生き続けることに
なってしまう。

どんなことでも、新しい何かを手に入れるには
代償を支払うことが必要ですよね。
ま、釈迦に説法ですけど。

努力、費やす時間、投資する資本、共同する
仲間関係。

私が書きたい大事なことは、資本主義を語る
人は、それが是であれ否であれ、お金が
生き物のように振舞うことを学ばねば見当違いな
考えから抜け出せないだろう、というご指摘です。

資本家を蔑視し、清貧を尊ぶ生き方は昔から
繰り返されてきた不平等に対する頑固な拒絶
ですから、ここで俎上に載せる程の意味のある
テーマではありません。

ですが、知らぬままの素人考えから抜け出せず
ちぐはぐな思考ループ、迷路の中をぐるぐる回って
いるばかりでは、そもそも設問の意味さえ疑わしく
なります。

だらだらまたもや書いてしまったけれど、設問は
カテゴリーが哲学ではなくて経済学に答えが
あります。

単なる不平不満を哲学的に書きなおしても、
「金持ちはズルイ、楽して僕達の命を吸って
肥え太ってるんだ!」という程度の古く臭い
僻み根性を言い換えているだけのお粗末な
ものになりがち。

豊かになることも目的にするのが生きること。
清貧を崇めるのは単なる表現ですが、現実は
今月の生活費も老後の貯金も全部必要額が
存在し、出さねばならない時は支払わねば
なりません。
そんな当たり前のことさえ、僻む人は何としても
勇気を出して自分を見つめようとはしません。

誰をなじっても世間を憂いても自分の暮らしは
全く豊かにならないばかりか、労働に対する
意欲さえ薄れさせ、自分をスポイルするばかり。

自分の中に、そこら辺の連中より、人間として
上位の存在だ、と盲信したがるのは私も含めて
普通の凡人の偽らざる本音です。
無論、あなたご自身もかなりその思いが強い。

それは無報酬、労働の喜び、清貧などとは
全くベクトルが別の欲望そのものです。

哲学と異なり、欲望充足には明確な方法が
あり、手順があり、効率があり、結果があります。

その中でどんな手法で何をしていくら手にしたのか。
それ以上でもそれ以下でもありません。
運用が出来て初めて、資本について意味のある
ことが語れるのです。

経済は哲学ではないし、不平不満も哲学では
ありません。

要は、お金を稼ごう、或いは増やそうと実際に
動く勇気があるか、自分の欲望をまるで無いことの
ように隠して自分でも見ようとせずに自己欺瞞の
罠に落ちるかの二者択一でしかありません。

本当に欲がないなら、あなたのように次々と
他人との議論を必要としたりはしません。
自分の中で穏やかに、確固たる哲学があり、
死ぬまで静かに一人で完結して行けるからです。

でも、自分の欲望を普遍的かつ絶対的な
崇高な意味、価値にすり替えようとする気持ちが
先に書いた凡人のありがちな自己保存の欲望から
生まれるものだと明確に自覚できるなら、実際に
不労所得をどっさり稼いでみる挑戦をするだけの
ことです。

実現する。

それなしに語られる哲学的な経済程、お腹が
膨れないものはありません。

根源的な意味において、全ての事物は自律して
いますし、単独では而立し得ませんよね。

毎度失礼ながら、お考えになればなるほど、
昔からの考え方を多少違う言葉で言い換えた
だけのどうどう巡りのはまってる感が否めません。

あなたはリタイヤしてお勤めしなくても良いお立場なら
100万円単位位のお金なら動かせるのではないでしょうか。
銀行に預けたお金はまさしく、広義の賭博と言える運用で
彼らに莫大な利益を与えてくれます。

その大本が、金持ちを唾棄すべき存在と憎む労働者達が
僅かな金利と引き換えに預けたお金なのです。
これも釈迦説ですね。

その運用をやってみれば、もはやバカバカしくて
銀行にお金など預ける気になれなくなります。
まあ、生活費の引き落としは別にしてね。

そうして運用することで、労働の単価、価値と
いうものにきちんとした「価格」を与えて考えることが
出来るようになります。

一生懸命高度な知識と経験を奮って時給2000円。
でも、運用が生み出すお金はそういう換算でなら
時給一万円にも十万円にもなります。

生活や将来設計から逆算した必要貯蓄額、所得。
その物差しで社会を見る限り、永遠に社会の実像は
見えません。

戦争も宗教も哲学も何もかも。

私達普通の庶民が与り知らぬ高みで、巨大な資本
という「生きたお金の気象」に動かされています。

正直毎度のことなので余り期待はしていませんが、
お金が生き物であることを学び直すために、純粋に
しばらくお金の運用にのめり込んでみることを
お勧めします。

そこから、全く新しい、社会の見方を学べます。
今のあなたは以前ほどではないけれど、頑なに
ご自分の世界にこだわり過ぎです。
もう少し、若々しい考え方をなさる方が良いと
思います。

これであなたが金融筋の企業や組織の退職者で
あったなら、私の方が赤っ恥ですけれどね。

この回答への補足

 No.16のお礼欄を承けて そのつづきです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 知れば知るほど人間は多種多様であり、
 一把ひとからげに都合よく解釈・分類しても、
 それは人間が一人一人持っている固有の色合い
 ・・・個人の特有性を塗りつぶして判ったふりを
 するだけの「裸の王様」状態になります。

 ・・・

 無論、私の目線とて、世界を広く捉えようと
 考えすぎて若いころに広角レンズになって
 しまった感が否めませんし、最近ではとみに
 老眼が厳しく近くが見えません。
 乱視も入っているようですし、お酒など
 頂いた日には世界が揺れている日さえ
 ありますから偉そうなことなど言えません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう《まえがき ないし 但し書き ないし 効能書き》については 取り上げません。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 あなたのお話を読むと、眩暈がするほど
 度が強い、魚眼レンズのような世界観だと
 毎回感じます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そこに見えたものが何か? そのことをめぐって議論するのが ふつうです。

 魚眼レンズかどうか知りませんが 科学の眼とは そういうものもあるのではないしょうか。
 《眩暈がする》とき だから よくないか だからよいか いづれもの見方があり得ましょう。それは 中身で勝負です。それだけのことです。――この一点から あなたの議論の半分は 目をそらせようとしているのではありませんか?




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 根本的にあなたではない、私、という
 存在について、あなたに判ろう筈も
 ありません。誰の欲求も、です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かるという認識の問題ではないと お応えしておきます。あるいはつまり あとでは分かることになるわけですが 初めの接点といったものは まづ感性であり その感性をつうじて捉えるものは 先ほど触れたミラーニューロン現象が いちばん分かりやすいのではないかと考えます。

 ただの観念をとおして想像力だけによる思弁的な思索もあるわけですが この外から来る欲望・つまり相手のそれが 鏡のようになってこちらの身と心とに映し出され これを知る。このことは じゅうぶんあり得ますよ。心配要りません。

 全部を分かるというのは 想定です。あらゆる欲望を――つまりは ふつうに言えば人間の意志内容です この意志行為の中身を――知ると 理論としては 言います。そして 突き抜けるとも言います。つまり 客観視の問題です。

 そのあと おそらく大きな違いは この突き抜けたあと それでも 欲望を知っているし これを実際にみづからの内にも起こす。それをつうじて そのとき向き合っている相手〔との間に生じたところ〕の欲望を生け捕りにする。こうも言っています。

 これは 生活日常における思惟と行動とで実証するよりほかはないと考えられます。(そのよい説明をさらにさらに表現しても行くでしょう)。




 ★ ~~~~~~~~~~~~
 根本的にあなたではない、私、という
 存在について、あなたに判ろう筈も
 ありません。誰の欲求も、です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それでは お尋ねします。まづ《欲求や欲望》を 意志行為として捉えた上でですが これを《誰の欲求も欲望も ほかの人間としては誰一人として 判ろうはずがない》というとき そしてそれに対してわたしは 《少しづつ・そして想定としてはぜんぶ(または 全体として) 分かるようになる》というとき あなたは何故《このわたし( bragelonne )が ほかの人の意志行為について分かっているとか 分かっていないとかというかたちで 分かる》のですか?

 意志行為として分かるから それらの欲望を突き抜けるのだとわたしが言うとき そのことの真偽が なぜあなたには分かるのですか?



 そうではなく 具体論や各論をめぐって 議論をして行けばよいのではないですか?
 もし相互理解がどうしても行き届かない部分が出てくれば それはそういう分野だと相互に了解して ほかの分野で話をつづけて行けばよいのではないですか?

 あなたの論旨は 《そもそも哲学は》論において ご自分の定義に合わない・そこから逸れていると判定したとき ゆえに それは 目の視力もメガネの度もくるっていると決めつける議論です。






 ★ ~~~~~~~~~~~
 一生を費やして考え抜いても、傍らの
 伴侶についてさえ、識ることが出来るのは
 僅かな部分だけ。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 認識論です。敢えて言えば そこから一歩も出ず 閉じこもった蛸壺哲学です。
 出来るところから 行動する。という実存形式もあり得ます。そこのところに目をやってみてください。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 私が伝えたいのは、理にかなった《巨視》は
 当然に、己は無に等しい、という焦点を結ぶ
 ということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 敢えてふるくさい言いぐさを出してみましょう。

   自未得度先度他

 
  ○ 「自未得度先度他」の話
   http://www3.omn.ne.jp/~imanari/howajimitokudo.htm

 人によって好き嫌いのある言わば宗派の問題にもかかわるコトワザのようなものですが かえってそういった批判もがあたえられているところにおいてでさえ こういう理論が持たれているという意味でも 出してみました。

 すなわち順序がぎゃくであって 
 ★ 己は無に等しい、という焦点を結ぶ
 ☆ に到ったそのあとでもいいのですが たとえそうではなくても・つまりは そんなことにはお構いなしに(自未得度) 荒々しいほどに荒削りのままに おのれの捉えた《巨視》を表わしこれを展開し ひとびとにそれをめぐるさらなる問い求めを問う。こういった行き方もありなのではないですか?

 ★ 己は無に等しい、という焦点を結ぶ
 ☆ ことは すでに我れに還った我れにあっては おぼろげにも見えており ならばそのままたとえば《無我:アン‐アートマン》として立論したり あるいはぎゃくに 《無にひとしいわれ》ゆえにこそ《ブッダター(≒アートマン:霊我)がやどる》といった想定をもしてみる。

 このような実存形式――ひとつの説明に過ぎませんが――だととらえてみてください。

 順序がぎゃくだという点に ミソがあります。実践哲学もありえますよ。

補足日時:2014/03/23 11:25
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 おのが反応を持ったままにお応えしてまいります。真理は中間にあるということにでもなれば おなぐさみですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 生計を立てねばならぬことから解き放たれれば
 ニート生活も一人の人間として自律することも
 意味を変えるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というとき ですから わたしの質問趣旨は これを言わば逆手にとってあたらしい命題を推し出したかたちになります。

 すなわち:

   生計をみづからのチカラで立てねばならぬにも
  かかわらず ニート生活に甘んじているし むし
  ろ 積極的にそうしている。――これが 言うとす
  れば 《自律》的な社会行動である。

 です。《社会的》というところに 力点があるはずです。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 お金も時間も知識も経験も・・・人生の価値
 それ自体が、巻き上げられる宿命を負っている。

 それはまさに、逆説的ですが、「自律的」に
 巻き上げられていく姿そのものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは おもしろい。《自律的社会行動》論者に聞かせてあげたい。というための質問でもあります。


 

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 私が書きたい大事なことは、資本主義を語る
 人は、それが是であれ否であれ、お金が
 生き物のように振舞うことを学ばねば見当違いな
 考えから抜け出せないだろう、というご指摘です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まさに――前項の議論と合わせて―― いまの世の中では 《自律的に生きようとするなら その仕組みからしてその仕組みに巻き上げられなければ 生きて行けないというほど 他律的な社会だと知るべき》であり 《お金のウゴキに素直にしたがって他律的に行動するなら あんがい自律しているがごとき余裕を得ることが出来る》ということではないかと思います。



 ★ 設問は カテゴリーが哲学ではなくて経済学に答えがあります。
 ☆ とは考えない理由は No.1でのやり取りに書き込みました。資本主義という他律的な社会にあっても そのひとつの根拠は 人間の自然本性として誰もに共通の基礎たる共生性(または 関係の絶対性)にあるということ そしてそれゆえに この他律的で残酷な経済システムであっても 自由と等価交換といった共生性をえらんでいるということ。ではないかと考えます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~
 要は、お金を稼ごう、或いは増やそうと実際に
 動く勇気があるか、自分の欲望をまるで無いことの
 ように隠して自分でも見ようとせずに自己欺瞞の
 罠に落ちるかの二者択一でしかありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 申し訳ないが 市場で売られているものは 良心の呵責なく何でも買って食べればよいのですという実存形式を思うべきでしょう。二者択一だとは考えません。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 本当に欲がないなら、あなたのように次々と
 他人との議論を必要としたりはしません。
 自分の中で穏やかに、確固たる哲学があり、
 死ぬまで静かに一人で完結して行けるからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここにも物言いをつけます。

 欲望はすべて――じんるいのありとあらゆる欲望を――わが心に受け留めて やがてこれらを突き抜ける。
 ただし 突き抜けたあとにも これらの欲望をみな知っている。けれども 突き抜けている。――こういった境地もあるとお伝えしておきます。

 (外から来た欲望については これをわが身に受け容れ――というよりは その相手の存在や心を受け容れ―― その相手や情況のいかんによれば・その状態に応じて こちらはその相手のいだく欲望をじっさいにこちらが欲し実行をもすること これもありです。それは それが 欲望の生け捕りです)。



 ★ 根源的な意味において、全ての事物は自律して / いますし、単独では而立し得ませんよね。
 ☆ これは 質料(モノ)が 人間の手に負えない。また神の手にも負えない。といった物質の自己運動を言っているだけだと思いますが。





 あとは ハウ・ツーものであり そのことをまなんだあと どう考えどう行動するかの問題になるでしょうから いまは受け留めただけとしておきます。

 

お礼日時:2014/03/19 15:48

>★ もし、「自律」したかったら、僧侶にでもなって、食料を托鉢で調達して生きてゆくよりない。


>☆ ですから これは ニートがあんがい実現しているかも知れない。と思ったわけです。

僧侶が托鉢するのは生きていくためではなくそれが修行の一種だから托鉢する必要はなくてもあえて自分の意志で托鉢する訳です。なのでこれは自律と言えます。
一方、ニートが親に生活費を恵んでもらったり生活保護を貰うのは自分では生活費を賄えないという状況によってその選択肢を選ばされているからです。すなわち他律です。
自分で生活費を稼ごうと思えばいくらでも稼げるけど、なんらかの目的のためにあえて他人に生活費を出させているニートがいるとしたらそれは自律と言えるでしょうね。
でもそんなニートってどれくらいいるんですかね。

>すなわち:

   生計をみづからのチカラで立てねばならぬにも
  かかわらず ニート生活に甘んじているし むし
  ろ 積極的にそうしている。――これが 言うとす
  れば 《自律》的な社会行動である。

ニートの多くは働こうとしたけど仕事がみつからなかったり、働いていたけど挫折してニートになってしまったり現実逃避をしていくうちにどうにもならないところまで自分を追いつめてしまったわけでして、これは積極的にそうしたのではなく、能力不足などの様々な要因に追いつめられて他律的に決定されてしまっただけですよ。

彼らは積極的にニートに甘んじているのではない。ニートを止めるという選択肢を選べないから仕方なくニートをやっているのです。
もちろん、ニートには自殺するとか餓死するとか歯を食いしばってでも努力して働くとか他のいろんな選択肢はあります。その中で(他の選択肢が選べなかったからにしても)ニートを選んだのは自分の意志でしょう。
でもそうであるならばニートになるという選択肢もあるにも関わらず仕事をしている非ニートもまた仕事をすることを選択したのは本人の意志です。
ニートを自律というならば仕事をしている人も自律していると言えないでしょうか。
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この回答へのお礼

 あるふぁXXXさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 僧侶が托鉢するのは生きていくためではなくそれが修行の一種だから托鉢する必要はなくてもあえて自分の意志で托鉢する訳です。なのでこれは自律と言えます。
 ☆ 法事や戒名の料金であるいは観光事業によってでしょうか 生きていけるから 托鉢は する必要がない。ということでしょうか。《出家》とは えらい違いだと思うのですが それでも《修行》として成り立っていると言い張るようですね。日本なら日本のブディストたちは。

 つまり 法事や戒名料の報酬は はじめからあった修行なのでしょうか? それとも 修行は托鉢などとして決まっていて ほかには生活のために金儲けの営業をするということでしょうか?



 ただし 面白いことを言ってらっしゃる。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自分で生活費を稼ごうと思えばいくらでも稼げるけど、なんらかの目的のためにあえて他人に生活費を出させているニートがいるとしたらそれは自律と言えるでしょうね。
 でもそんなニートってどれくらいいるんですかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 要するに 資本主義の敢えて言えば歯車のひとつとして組み込まれて生きることを拒んでいる。とすれば 《自律》としての社会的行動をめざしている。こう捉えたということですが? ・・・



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ニートの多くは働こうとしたけど仕事がみつからなかったり、働いていたけど挫折してニートになってしまったり現実逃避をしていくうちにどうにもならないところまで自分を追いつめてしまったわけでして、これは積極的にそうしたのではなく、能力不足などの様々な要因に追いつめられて他律的に決定されてしまっただけですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まぁ 皮肉たっぷりになるということかも知れませんが このように資本主義の乗り合い自動車に乗っているなら だれもが《他律》としての社会行動を余儀なくされる。
 
 その他律的行動のうち 仕事をもってはたらいている場合と 何もしない場合とがあって どちらかというと 仕事をしない場合のほうが 自律的な行動に 結果として 成っている。のではないかと言っています。

 《現実逃避》をした結果が むしろ自律的な生き方になっているのではないかと。


 すなわち 考えてみれば この《現実を こばむ》というのも 人間の――たぶん感性にものを言わせたところの――能力であるかも分かりません。現実を いかにしてでも人間的なものとして受け留めていたいし そういうものにしていたい。という感覚的な・《人間性》なる能力が ニートの人たちにはそなわっている。ということかも分からないぢゃないですか。




 というふうに議論を引っ張って来たと思ったら またまた面白いことをおっしゃる。:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 でもそうであるならばニートになるという選択肢もあるにも関わらず仕事をしている非ニートもまた仕事をすることを選択したのは本人の意志です。
 ニートを自律というならば仕事をしている人も自律していると言えないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 両者の――いづれも意志行為であるときにも見られるように思われる――違いは ニートは 人間性なる感覚を大事にしている。ということではないでしょうか。

 つまり 社会のうちの一定の部分として ニートのような感性人間がいてくれると われわれは まともな人間性について おもんぱかっていることが出来る。つねに そういった思いと考えを呼び起こしてくれる。そういう社会的な貢献を成している。かも分かりません。

 そういう目を持って感じることのない人たちも これまた いることなのでしょうが。

 あるふぁXXXさん おもしろい議論をなさいますね。

お礼日時:2014/03/19 22:12

 感想(間奏?)です。




 自分も#5さんの、

>でもそんなニートってどれくらいいるんですかね。

には賛成なんですが、ヒッピーっておぼえていませんか?。今から50年以上前に、彼らはいたはずです。当時の自分は餓鬼だったので、彼らには嫌悪感しか持ちませんでしたが、思春期の妄想としては「世界は変わるかもしれない」という感情もあった。

 ヒッピーの全盛期には良い処の子女がヒッピーに出家(?)するのが流行りだった。今風に言えば、自立したニートかも知れない。

 彼らの言い分では、あえて働かないという反社会性こそが、資本主義への拒否アピールであり、社会的行動だった。便利な言い訳だよなと、思うと同時に、けっこう本気だったのではないか、という印象も持っている。

 このような行為は、私生活や庶民文化のカジュアル化(非フォーマル化)という世界的な流行にも暗に陽に連携し、その代表選手は、ビートルズやローリング・ストーンズやモータウンレコード,カーペンターズなどだった(映像のない時代だった!(^^;))。

 それでみんなウッドストックで盛大な夢を見た。音楽が世界を変える、・・・と。

 しかし変わらなかった。思春期の敏感さを残しつつ、理屈っぽくもなり始めた二十歳の頃に(←良い響きだ(^^))、1970年代から80年代へ向けて、時代の雰囲気は劇的に変化した。

 Japan as Nor.1・・・だ!。ヒッピーやってるのはバカだ!。暗くて汚くてポリシーのある奴なんていらない。四畳半フォーク?・・・やめてくれ、心が腐る・・・。・・・などなど。しかし、その時代も凋落した。


 ・・・でも(^^;)。世界は変わったんですよ、ほんのちょっぴりだけれど、ヒッピー達が目指した世界へ。

 今の自分たちの私生活や文化や各国政府の昨今の行動やEUの成立なんかを、50年前や100年前の時代状況と比較すると、なんとなく「そうかもしれないなぁ~」と、自分は思います。

 ニートについては現状では、ネガではなくネガネガ過ぎる。彼らがヒッピーのようになり、ニート文化をもって世に出るかは、私にはわからない。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★  ニートについては現状では、ネガではなくネガネガ過ぎる。彼らがヒッピーのようになり、ニート文化をもって世に出るかは、私にはわからない。
 ☆ ニートを出したことについて 何とか辻褄を合わさなければならない羽目に落ち入ってしまいました。

 ★ ネガではなくネガネガ過ぎる。
 ☆ ん? ネガネガなら ポジ? でもないんですね。しつこく根っからのネガといった意味でしょうか。

 ★ 彼らがヒッピーのようになり、ニート文化をもって世に出るかは、私にはわからない。
 ☆ ニートらの姿が 資本主義をこばむかたちとしてネガからポジになるときには われらが地球は 未来社会を生きているであろうと これまで言って来た手前 なんとか説明責任を果たさねばらない。・・・


 と言っても むしろ《何もしないたたかい》であるとも言って来ています。
 つまりは 端折った言い方になりますが いづれの時にか われらがお二階さんたちが その二階なる高台において いつしか踊り出すであろうという天気予報です。そのとき どんでん返しが始まるのだと。


 つまりは――いま現在の結論ですが―― ニートらは・そしてわれわれも 別に何もしなくてもよい。ニートはニートとして 生活して行けばよい。

 つまりは お二階さんたちには すでにご自分たちの腹の中に・あたまの中に 自分たちが唱えて実行して来たアンチ・テーゼが作用している。人間性に対するアンチテーゼがです。アマアガリして二階からながめて暮らすというかれらの夢です。したがって この反措定に対して 自分自身が あらたな反措定をおこない始める。つまり 踊り出す。

 という予測としての方程式です。

 《ニート文化》などというカザリをつける必要はない。こう言ってよいと考えます。




 No.5のあるふぁXXXさんは おもしろい議論をなさっていますよ。ニートが なるほど自律的な社会的行動をおこなっているかも知れないという見方をも ふくみ持っておられるようです。――これだけで 質問者としては満足です。といった質問だったんです。


 要するにつまりは ビートルズも何も 何らうったえることがなくてもよい。ニートが世に現われた。これだけで じゅうぶんだという展望なんですが。・・・

お礼日時:2014/03/19 22:44

>ニートは 人間性なる感覚を大事にしている。



人間性を大事にしているのではないですよ。単に社会に対応するための努力を諦めて流されているだけにすぎません。
それを一部のニートは「俺たちは社会の歯車になりたくない」「今の社会は非人間的」などの言葉で誤魔化しているにすぎません。
彼らの多くの本音は「できるならバリバリ働ける立派な社会人になりたかった。そして異性と恋愛を楽しんだり結婚してみたかった」でしょうね。でもそれができそうにないからそれ自体の意義を否定して虚勢を張るわけです。すっぱいブドウですよ。


また、ニートによって家庭が崩壊したり、親が自殺するほど追い込まれることもあります。
そこまでではなくても大なり小なりニートを養わされている家族は苦しんでいます。
まあ一族が資産家だとか、なんらかの手段で若いうちに大金をためて働かなくても問題ないのならニートでも問題ありません。
でもそうでもない一般家庭において自分が家族を苦しめる原因だと自覚しつつもニートである彼らは本当に人間性を大事にしてるのでしょうか。確かにそれは自分の意志かもしれません。でもそれは「自分を律している」と言えるのですかね?
単に働きたくない、怠けたいという欲望に流されているだけではないでしょうか。
それを自分の意志で流されているから自律と言えるのですかね?しかも現実逃避をしながら。
bragelonneさんが自律という言葉を欲望や諦観に流されるという意味で使っているのであれば私には辞書を読んでくれとしかいえませんが。

もしも意図的に家族を恨んでおり、彼らを苦しめるためにあえてニートをやっている人がいるのなら方向性や善悪はともかく自律的と言えるかもしれませんね。

この回答への補足

 おぎないです。

 タトエ話です。必ずしも ピッタリではないかも知れません。
 マルタとマリアという姉妹の話が 聖書にあります。
 イエスを家に迎え マルタは もてなしのために忙しくはたらいているのにマリアは イエスのそばに坐ったまま話を聞くのに忙しかったという話です。

 ▲ (ルカによる福音書/ 10章 38節:マルタとマリア) ~~~~
  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html

 38:一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

 39:彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

 40:マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。

   「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせて
   いますが、何ともお思いになりませんか。
    手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 41:主はお答えになった。

   「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を
   乱している。
 42: しかし、必要なことはただ一つだけである。
   マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ニートが知らず知らずの内に――あたかも社会の人びとの心の奥で願っているその内容を追い求めてのように―― 無為をえらび頑なにこれをまもっている。これは それとしてとうとび 見守って行ってもよいのではないだろうか。

 という質問趣旨です。どうでしょう。

補足日時:2014/03/20 09:24
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 人間性を大事にしているのではないですよ。単に社会に対応するための努力を諦めて流されているだけにすぎません。
 ☆ そのとおりだと――だいたいにおいて わたしも――思います。ですから 人間性を大事にしているというのは 結果として・社会全体から見て という話です。

 ですから
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 また、ニートによって家庭が崩壊したり、親が自殺するほど追い込まれることもあります。
 そこまでではなくても大なり小なりニートを養わされている家族は苦しんでいます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった問題が起こるときには 長い目で見て 将来へとつなげて見て行って欲しいと思うのですが。


 ★ ・・・でもそれは「自分を律している」と言えるのですかね?
 ☆ ですから 資本主義社会において 社会という観点から・結果論として捉えた場合 ニートが ひょっとしたら 意外と未来社会を――本人たちはおおむね何も考えずに・意識もせずに――見つめて知らず知らずのうちに 呼び起こすような行動を取っているということになるかも知れない。というようなお話です。



 ★ 単に働きたくない、怠けたいという欲望に流されているだけではないでしょうか。
 ☆ それが・それこそが 未来社会の招来にとって とうといことであるかも分からない。というお話です。

 《はたらきたくない・怠けたいという欲望に流され》とおすのも ひょっとしたら 人間性として潜在する能力であり よき自然本性であるかも分からないぢゃないですか。

 全部がぜんぶ よいとは言えませんが 結果的に自律している。のかも知れませんよ。


 皮肉になると思いますが わたしなどは なかなかニートの生き方をすることは出来ないと思います。仕事をさがすでしょうし 何か手伝ってくれと言われたら やるでしょうから。徹底することが わたしには 出来ないと思います。

 そういう姿を想い描くなら そのわたしのような姿は やはり中途半端な人間性を模索しているというふうになると思います。そうではなく 徹底することができるのは 人間としてのチカラであるのではないか。

 結果としてそうだと言えるかも知れないし さらにはそのことが 社会の進展をはばむのではなく むしろよい方向へみちびこうとしているかも分からない。本人たちは 何も考えていず思ってもみなかったということになるとしてもだと思うんですが。
 

 あるいは 思うにですが あるふぁXXXさんのこのような批判ですね このニート批判をも 本人たちに伝えることもよいと思います。ひとつのまともな議論であると思います。

 両立し得ませんか?
 

お礼日時:2014/03/20 00:41

B様、こんにちは。

一面、とても鋭いご指摘と思います。


そうなんですよ。
一見、「ノーマルだ」みたいな装いをしていながら、実は他律的。
一見、「異常だ」みたいながら、実は自律的。

実は他律なヤカラが、自律なのを「アイツはオカシイ」と言い始めるから、
モンダイはヤッカイである。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 一見、「異常だ」みたいながら、実は自律的。
 ☆ これは たぶん他律を余儀なくされている状態をすでに自分の中に飲み込んでいて 情況をも把握しているということならば あたかもすでに自律的に生きていると言えるかも知れない。といったところでしょう。

 自律なんてのは まづ無理なはずですから。

お礼日時:2014/03/20 14:39

 #6です。



 まずこの二つ。

(私へのお礼の一部)
>と言っても むしろ《何もしないたたかい》であるとも言って来ています。

(#7さんへの補足の最後)
> ニートが知らず知らずの内に――あたかも社会の人びとの心の奥で願っているその内容を追い求めてのように―― 無為をえらび頑なにこれをまもっている。これは それとしてとうとび 見守って行ってもよいのではないだろうか。

>という質問趣旨です。どうでしょう。


 いつだったか「あなたの意見は、私の言うところのネガ戦法だ」と言われて、その時は理解できなかったのですが、何となくわかった気がします。

 再びヒッピーに戻りますが、バーガーによる「故郷喪失者達」には、ケーススタディーとして当時のヒッピー文化も扱われています。

 アメリカでヒッピーが現れたのは、いつだったか?。ベトナム戦争への兵役拒否がきっかけだった。不況ではないが暗い時代だった。日本の新宿あたりにヒッピーが出没し出したのは、いつか?。オイルショックが直撃した頃だった。日本は、間違いなく不況だった。

 そうなんだ、ヒッピーになる具体的理由なんて、良い処の子女を除けば「戦争したくない」とか「仕事がない」とかが現実の理由だ。そこで都合の良い理屈を募る訳だ。バーガーは、こう言っています(ただし私による意訳です)。

「ヒッピー文化は(大げさに言えば)、現行体制と正反対のものを標榜したので、現行体制の正確なネガとなった。そのために――あたかも社会の人びとの心の奥で願っているその内容を追い求めているかのような――行動に映る」

「しかしその動機,行動には一貫性がない。唯一の一貫性は現実を拒否する(逃避する)という一点においてのみである。従って彼らは、現行社会に寄生して生きる。彼らが何を言おうと、現行社会は覆らない。覆ったら、彼らは生存できないからだ」

 で、ヒッピーの大部分は様々な助けもあって、社会復帰した。ネガからポジになった。様々な助けが出現したのは、彼らの努力というか、彼らが存在するという社会的圧力の賜物ではあった。生活全部がデモみたいなものだ。

 復帰した彼らが改革者であったかと言うと、そうではない。ネガが正確だっただけに、ポジは正確に現状追認だった。彼らは普通にバリバリ働いて、普通の幸せを望んでいた。

 でもですね、きっと・・・彼らは職場で所謂、「新人類」であり「ニュータイプ」であり「ゆとり世代」だったのだろうと思う。


 ネガからポジになったからといって、全てが±0の雲散霧消ではない。団塊世代とその一世代後の私共に、ヒッピー思想は間違いなく刷り込まれたんですよ。ともに青年期と思春期という敏感な成長期を通じて。いま隣に一世紀前の典型的な日本人がいたら、自分は西洋かぶれの放蕩者に見えるのではなかろうか?。

 当時のヒッピー文化は、当時の共産圏にはとどいていなかったはずだ。当時の共産圏は、それへの防衛にけっこう必死だった。その中で過ごしたのが、プーチン大統領だ。

 色々な事情があるから一概には言えないが、今回のクリミア問題で、ウクライナ・クリミア・ロシアと、EU・アメリカの反応は対照的に見える。ウクライナ・クリミア・ロシアは、ヒッピー文化が到達しなかった東欧圏だった。

 ※ ヒッピー文化も、しょせんはローカルなムーブメントだった訳だ。


 ・・・でも(^^;)。世界は変わるかも知れない。ほんのちょっぴりだけれど・・・。

 ニートが存在するという事自体が、現状に対するアンチテーゼになっているならば、これだけインターネットが普及した時代に、その感覚(感覚が大事です)が拡がらない訳がない。いま現在の思春期や青年期の若者に対して。


 ・・・だから期待します。

 でも、精神の力だけによって、世界(世間)が劇的に変わる事は、ほとんどない。

 これも本当ですよね。なので、ちょっぴりを・・・(^^;)。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 バーガーは 県の図書館になかったんですよ。購入するまでに到らなかった。いまのところ。・・・

 ★ 新人類
 ☆ が現われたときには わたしは たいへんおどろきました。

 とにかく あいさつをしない。おしだまっている。それでいて 話をするときには ふつうに話す。仕事となれば ふつうにまともである。――ぶったまげました。

 ★ ヒッピー
 ☆ は――新人類には数人に会っただけですが―― 情況じたいとしても同時代を生きたわけですが どういうわけか ピンと来ていません。ヤッピーとかもあったようななかったような感じですが ジーンズを履くのは 何となくいいなぁと思ったものですが ヒッピーは 何だかわかりません。

 日本でも流行ったような・いや 何でもなかったと言うべきような。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 
 で、ヒッピーの大部分は様々な助けもあって、社会復帰した。ネガからポジになった。様々な助けが出現したのは、彼らの努力というか、彼らが存在するという社会的圧力の賜物ではあった。生活全部がデモみたいなものだ。

 復帰した彼らが改革者であったかと言うと、そうではない。ネガが正確だっただけに、ポジは正確に現状追認だった。彼らは普通にバリバリ働いて、普通の幸せを望んでいた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このあと

 ★  でもですね、きっと・・・彼らは職場で所謂、「新人類」であり「ニュータイプ」であり「ゆとり世代」だったのだろうと思う。
 ☆ というふうに来るのですか。つまり ヒッピーがすでにいなくなった時のあたらしい人間像と 重なり合うところがあるということですよね。

 中で 《ニュータイプ》は 知りませんでした。
 ▲ (ヰキぺ:ニュータイプ) ~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5% …

 ニュータイプ (Newtype) は、「ガンダムシリーズ」に登場する架空の概念である。

 新しい人類とされる人達を指すが、もともとの概念が曖昧だった事に加え、作品が進むにつれて言葉の意味する事象が広がりすぎたため、はっきりとした定義は困難である。物語中では、ニュータイプとされる人々は特異な能力を持った人物として描かれる事が多い。ニュータイプに対する従来の人類はオールドタイプ (Oldtype) と呼ばれ、やや軽蔑の意味合いを込めて使われるケースも多い。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 何だか 遅れている感じ。我れながら。


 ★ でも、精神の力だけによって、世界(世間)が劇的に変わる事は、ほとんどない。
 ☆ 聖書を引いて来たので 《精神》と言っているのですよね。

 非思考の庭は 精神――つまりは 思考の緑野――を超えていますよ。

 経験事象にちなんで言えば ヒラメキにかかわっています。
 
 現行の為政者にしたところで あたらしいヒラメキが みづからの内に起きるのを見い出すことがあるかも知れない。その真実のチカラには 抵抗も対抗もできはしない。踊る阿呆に見る阿呆・・・と言うかどうか分かりませんが やがていい気分になって踊り出すと思いますよ。よしよしと言ってやれば 済みです。

 

 ★  ニートが存在するという事自体が、現状に対するアンチテーゼになっているならば、これだけインターネットが普及した時代に、その感覚(感覚が大事です)が拡がらない訳がない。いま現在の思春期や青年期の若者に対して。
 ☆ ええ。たしかに。マルタとマリアの姉妹の話などを交えて ほんとちょっぴりは 見方を変えてみなければならないかも分かりません あたらしい感覚を得るには。


 ウクライナは こう言っても何にもならないのだけれど かわいそうですね。変な籤を引いたみたい。

お礼日時:2014/03/20 22:50

人が働く機械のようになったという節は否めないと思います。

そんな中で働かないというニートは確かに何かのキー、社会の歪を解くキーであり得ると思います。そういう意味で、ニートも何かの働きを担っているとも言えます。お金を稼ぐだけが働いているということにはならないでしょうし、マクロ的に、社会現象としての働きを見れば、ニートの働き、機能というのも論じれると思います。そもそも、誰一人不参加者を出さない社会というのは気持ち悪い。ニートの出現する社会が物質的には豊かであると肯定的に見ることもできます。多様性を担保しているという面でも、ニートを肯定することができる。
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この回答へのお礼

 おおお やったぁ。こういうお話が聞きたかった。

 こんばんは。まづは ご回答をありがとうございます。

 直前のNo.9 でーでーてーさんのところで感じたことは このニート論にとって ちょっぴりはものの見方考え方を変えてみることも必要であるかも知れない。とは思いました。

 放っておいても 世の中はすすむかと思いますが ほんのちょっぴり世の中に対する認識を変えることも大事であるかも知れない。

 そうして
 ★ お金を稼ぐだけが働いているということにはならないでしょうし、マクロ的に、社会現象としての働きを見れば、ニートの働き、機能というのも論じれると思います。
 ☆ というところまで到れば かなり地盤は強固になって行くでしょうし 水嵩も増して行くことでしょう。インターネットをつうじて あえてこの言葉を用いるなら《うわさ》が 駆け巡るようになるかも知れない。それぞれの地域さらにまた活気づくならよいと思います。


 あぁ そうですね。やはり ニートは いまはまだ言わばネガの状態にあるということは否めませんから。何か きっかけとなるようなことが 何か魔法の杖を一振りするような・・・。

 ちょっと弱気になりましたか。

お礼日時:2014/03/20 23:02

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