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 勤労の権利と義務をうたうのは 社会の中で仕事をするよろこびをとうとぶ精神から来ているはずです。

 ところが 権利も義務も何も 市場経済のもとでは あたかも人間もみながその存在(労働力の持ち主)じたいをも商品として売って生きて行くことを余儀なくされています。

 人間を顧慮するよりも 価格という交通信号に従って利益が得られるところへと水は流れて行きます。

 失業という《怠け》は 望まなくても・そのわれわれの意志を超えて 非自発的にこれを余儀なくされているという側面も出て来る。


 この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか?

A 回答 (22件中21~22件)

> この社会の中で 《ニート》以外に 《自律》している場合はあるだろうか?



ありません。また、ニートも「自律」していません。

なぜなら、ニートは労働の対価も払わず電気や水道などを利用し、誰かに「寄生」して生きている状態だからです。

「寄生」しているものを(人間に限らず)自律しているとはいいません。なぜなら、自律しているように見えてもその根本を支えている寄生元が倒れれば自律もなにもなくなるからです。

たとえば大樹に寄生している蔦などは、大樹が枯れたら一緒に枯れるほかありません。

>失業という《怠け》は 望まなくても・そのわれわれの意志を超えて 非自発的にこれを余儀なくされているという側面も出て来る。

失業が怠けなのか違うのは、それは今回の主題とは別の問題です。またそれが自発的でも非自発的でも、必ずしも本人の責任に帰するものでもありません。

しかし、だからと言って「ニート」が自律している、などとは夢物語にすぎません。
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この回答へのお礼

 ぴーえいちぢぇいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ★ なぜなら、ニートは労働の対価も払わず電気や水道などを利用し、誰かに「寄生」して生きている状態だからです。
 ☆ この《寄生》にまで到っており それに自由に甘んじているということは――少々のアルバイトによるカネ稼ぎをもしりぞけているということは―― まさに《自律》なのではないでしょうか?

 ほかには いないでしょう。

 ★ なぜなら、自律しているように見えてもその根本を支えている寄生元が倒れれば自律もなにもなくなるからです。
 ☆ じっさいに《寄生元が倒れる》ことを望んではいないと思いますが 問題は この寄生元たる社会が・そして殊には共同自治の代表者としての市民政府が さらに反省をおこなって よりよい方法を考え実施するということ。ここにあると はっきりと語っている。そこまでの自己表現をもおこなっているからには 自律ではないでしょうか?

 望むらくは 最小限 自分ひとりの生活だけは 自立するようになること。ではないでしょうか。



 ★ 失業が怠けなのか違うのは、それは今回の主題とは別の問題です。またそれが自発的でも非自発的でも、必ずしも本人の責任に帰するものでもありません。
 ☆ ええ。この主題は これからも大きな課題となると考えます。くわしく研究されるとよいと思います。
 


 ★ しかし、だからと言って「ニート」が自律している、などとは夢物語にすぎません。
 ☆ つまりこの《夢物語》が あんがいわれわれの未来社会の旗手またはその旗に画かれるイメージ(ただしまだその陰画)になっているのではないでしょうか。ネガをポジに変換すれば 将来は あかるい。・・・どうでしょう。

お礼日時:2014/03/19 12:39

自己の生命の社会的拡張を日常的に自覚化する事で、


アメ(お金)やムチ(法規)による他律的社会行動ではなく、
生きる意志として、自律的に社会行動をとれるようになる。
お金を固有の価値を持った物であると考えず、助け合いと
しての社会の需給をつなぐ情報=感謝の気持ちに還元する。

原始共産制における血縁の感情的な社会化が、分業化&
組織化の発達において、拡張する流通のために貨幣を
生み出した時に、助け合いとしての社会は、お金を奪い合う
弱肉強食の擬似ジャングルと化したのだ。
「需給をつなぐ情報」をお金という物質化したために、独立
した価値を持つようになってしまった部分を、人の側からの
意識の社会性の醸成だけでなく、物の側からのIT化による
キャッシュレス化と、個人端末で商品タグを読み取る事で
生産者と消費者が互いに顔の見える取引きを行う事で、
感謝の気持ち=助け合いとしての社会に誘引する。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 次の用語は きちんとその定義をお聞きしなければ話がなかなかすすまないと考えます。


 ★ 自己の生命の社会的拡張
 ★ 自律的に社会行動をとる
 ★ 原始共産制



 初めから 個別に反応してまいります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自己の生命の社会的拡張を日常的に自覚化する事で、
 アメ(お金)やムチ(法規)による他律的社会行動ではなく、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 《お金》は ただ仕事に対する報酬を貨幣という兎にも角にも客観的な評価にゆだねた結果としてあるだけですから それを得ようとする考えも行動も 基本としてはふつうに 仕事を果たしその報酬をみなで分配しているということに過ぎません。

 そのような基本の見方だけに終わらないとしても その基礎としてのあり方についても顧慮しなくては 話が部分的なものに過ぎなくなるでしょう。

 また 《ムチ(法規)》 これも 同じことです。ともあれ人びとは 社会におけるそれぞれの行動と互いの交通(まじわり)について どのようにすれば互いの存在や生活をとうとびつつ持続的におこなって行けるかを考え これを取り決めただけなのですから まづその基本としては 《ムチ》などという見方は 出て来ません。それは きわめて派生的な現象としての問題であると まづことわってからの話になるでしょう。

 すなわち 人びとの行動について
 ★ 他律的社会行動
 ☆ であるなどという規定をおこなうのが 早すぎます。これでは 出来る話も 一向に前へすすみません。片寄った見方だけを提示しているに過ぎないからです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 生きる意志として、自律的に社会行動をとれるようになる。
 お金を固有の価値を持った物であると考えず、助け合いと
 しての社会の需給をつなぐ情報=感謝の気持ちに還元する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 生徒の作文だと言わない人がいたら おしえて欲しい。きちんと説明します。

 と言うより 
 ★ 自己の生命の社会的拡張を日常的に自覚化する事
 ☆ と
 ★ 生きる意志として、自律的に社会行動をとれるようになる
 ☆ こととは いったいどのようにつながるのか?


 どうも言っていることは 《生命が拡張される》と言っても 単なる認識の問題であると見られますから 実質的には
 ★ 生きる意志として
 ☆ ということのみではないでしょうか 中身のあることは。つまり 認識の問題は その中身を《生命》のほかに説明しなければまだ話は始まりません。

 そしてこの《生きる意志として》というのも たいていの人は それぞれおのれの意志として生きているのですから やはり中身がまだ伝わって来ないと言わねばなりません。気の持ちようで 元気にもなれるといったお話であるようにしか聞こえません。



 
 ★ 原始共産制
 ☆ が どうして一般的な議論に上がると言えるのでしょう。そんなことは 決まっていません。どう決まっているのでしょう?

 ★ 原始共産制における血縁の感情的な社会化
 ☆ 《社会化》は 知性によるものです。感性を排除する必要はないでしょうが 自己の社会化は いわば――自然本性としての潜在意識にのみ拠るような単純な共生性にもとづき―― そのようなカカワリ(関係)が具体的にマジワリ(交通)となるときには やはり歴史知性というべき知恵がはたらいて おのが心(精神)を開き マジワリを遠くへと伸ばすことが賢明であるとさとったところから出発するものと考えられます。

 つまりは 言わば関係の絶対性を 実質的に具体的に実現とするという思いでありそれを行動に表わすのであると考えられます。

 《原始共産制》とは この自然本性における生まれつきそなわった共生性を 抽象的にではなく具体的に じっさいの生活において仮りに描いてみせたもの。なのではないでしょうか。必ずしもそういった社会生活が あったということではないでしょう。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 原始共産制における血縁の感情的な社会化が、分業化&
 組織化の発達において、拡張する流通のために貨幣を
 生み出した時に、
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうでしょうか? それはただ単に 氏族が種族となり部族となって生活を共同化して行くとき 部族どうしのあいだにも 交通が始まったというだけであり 相互の《贈り物》合戦などから始まる交易――つまり モノをめぐる交通――にあたって そのシルシ(象徴でしょうか)を石や貝として決めて用い合ったに過ぎないのではないでしょうか。

 つまり言いたいのは そこではまだモノの――特には商品としての――評価がそれとしておこなわれているわけではなく 互いにおのれの部族の生活共同を外に広げたというに過ぎず そのマジワリのシルシをやり取りしているだけではないか。

 そのような共同体どうしのマジワリにあたっては まだまだ《分業化&組織化》は発達していないでしょう。ましてや 《流通》の――つまり 商品の――問題ではないはずです。部族ごとに 自分たちの提供するモノのほうが すばらしく立派だということを競っていたというに過ぎないのではないか。
 ここから 広く交易が始まったと それはそれとして 言えるとしてもです。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 助け合いとしての社会は、お金を奪い合う
 弱肉強食の擬似ジャングルと化したのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ほんとうにこんなことを思っているのですか。作文としてでも あまりよい点数はもらえないでしょうに。

 ★ 「需給をつなぐ情報」をお金という物質化した
 ☆ これは 存在やその心(意志)をとうとび合う生活共同ではなく 貨幣を価値測定のしかも公共の手段としたのですから モノゴトはすべて その評価方法が当てはめられて行きます。いのちの値段といったことも 現われます。
 つまり すべては商品化したかたちで 人びとは互いのカカワリを持ちマジワリを展開する。というだけのことです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 「需給をつなぐ情報」をお金という物質化したために、独立
 した価値を持つようになってしまった部分を、
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 致命的なマチガイです。

 《おカネが独り歩きする》のは 商品の交換というかたちで成り立つ経済社会にあっては そう見えるというだけのことです。商品に成っていないものが ひょっとしてまだあるかも知れないといった話を生んでいるということ これが 《おカネのあたかも独裁》というふうに見えるということです。

 なぜ 見えるだけだと言えるかと言えば 当然のごとく人びとは 互いの共生性にもとづくという歴史知性にすでに目覚めておりこの社会性――カカワリとマジワリ――が基礎として成り立ってるかぎりで この基礎としての生活共同を実現するためにこそ 貨幣経済をえらんでいると知っているからです。デメリットもあるとは知っていることです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「需給をつなぐ情報」をお金という物質化したために、独立
 した価値を持つようになってしまった部分を、

 人の側からの意識の社会性の醸成だけでなく、

 物の側からのIT化によるキャッシュレス化と、
 個人端末で商品タグを読み取る事で生産者と消費者が互いに顔の見える取引きを行う事で、

 感謝の気持ち=助け合いとしての社会に誘引する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《感謝の気持ち=助け合い》は すでに基礎としての共生性に見られています。知っているひとは知っています。

 だから その人間としての社会性というわづかな・けれどもあたかも絶対的なまことに信頼して人びとは たとえ自律する生活がむつかしくても それでも日々をうんうんとみづからを推してあかるく生きて行きます。
  
 ★ 人の側からの意識の社会性の醸成
 ☆ は すでにいやというほど先刻承知です。人治によらず互いの話し合い〔とそれによる取り決め〕をつうじて・ということは 合理性にもとづく互いの共同自治をつうじて 経済生活をも送ろうというときに 資本主義はそれとして合理的であるとは思っています。自由であり あるいは 貨幣による評価は 等価交換をささえるものです。


 たぶん このような情況にあって 人為的に何かを成し得るかと問うのなら それは 共同自治の中の――経済行為じたいではなく それらを社会的な全体からながめてよりよくおこなえるように環境を整備するというその――共同自治そのものの領域に期待するものがあるかも分かりません。早い話が 地域主権といった方向性です。



 というふうな感じで 受け留めました。

お礼日時:2014/03/19 12:24

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