事実と真実の違い
事実と真実の違いを教えてください。とりあえずネットの辞書ですぐに出てくる情報を末尾に添付しておきます。それぞれキーポイントを抜き出すとこう。
事実:実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。
真実:うそ偽りのないこと。本当のこと。
なぜこう表現が違うのかなと疑問に思います。
表現の違いに意味があるのであれば
・真実は、実際に起こったことではない場合も含む
・真実は、現実には存在しない事柄も含む
・事実は、本当ではない事も含む
ということなのかな…とは思うのですが、
私は基本、事実という言葉しか使わないのですが、「事実と真実は違う」などといって使い分けている人がいました。その人はやや特殊な人で、抽象的・観念的・宗教的な説明で何を言っているのかわかりませんでした。
以下のサイトではこんなことが書いてありましたが
「事実」と「真実」は違います。生きていくにはどっちが重要?
http://menzine.jp/otona/sinnjitujijitu7451/
# 「事実=真実」と勘違いしないようにしましょう!
# みんなが信じたことが「真実」となるのです。
# それが事実とはかけ離れたただの興味本位の噂だとしても
それが正しいなら、真実とは「みんなが信じた」かどうかだけが重要で「本当のこと」ですらなくともよいということになり、辞書の説明とも違うような気がします。が、そういうものなのでしょうか?
質問は以下です。
(1)ある事柄(時事ネタや歴史ネタなど)に関して、事実と真実の違いがわかる文の具体例を挙げてください【重要】
(2)事実と真実の違いを、説明してください
よろしくお願いします。
----------------------------------
事実
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/96192/m0u/
[名]
1 実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。「意外な―が判明する」「供述を―に照らす」「―に反する」「―を曲げて話す」「歴史的―」
2 哲学で、ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在または出来事。論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるものとして規定される。
[副]本当に。実際に。「―一度もその人には会っていない」
真実
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/114349/m0u/ …
[名・形動]
1 うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。「―を述べる」「―な気持ち」
2 仏語。絶対の真理。真如。
[派生]しんじつさ[名]
[副]本当に。確かに。「―情けない思いをした」
No.13ベストアンサー
- 回答日時:
日常の場合、真実と事実は同義と考えて大丈夫なので、国語辞書などで意味を調べると
同義としか受け取れないような表現になっています。
ただし、場合により、事実のほうが意味が拡張されるため、
事実であるが真実ではない という場合が生じます。
<意味拡張される例>
ご飯:通常は米飯のこと。意味拡張した場合、食事全般を指すので、うどん、そば、ハンバーガーなど(米ですらない)をご飯と言う。
ご飯は、誰でも意味拡張したほうを使うので、使っても問題ないけれど、事実を意味拡張する場合、
どのような視点で以って意味拡張するのか、予め伝えておかないと相手が誤解する可能性が高くなります。
<意味拡張その1> 法律用語の場合
たとえば、刑法の「名誉毀損」とは、事実の摘示により社会的信用を落とした場合を指します。
このとき事実=真実なら、デタラメを吹聴されたために社会的信用を落とした場合
といのは名誉毀損ではない(真実を吹聴したら名誉毀損になる)
ということになり、直感とずれて(デタラメの吹聴のほうが悪いと考える人のほうが多いはず)しまいます。
で、法律の場合、
事実=具体的なことがら。それが正しい(=真実である)かどうかは、関係ない。
Bさんはバカだ......具体的ではない。 よって、名誉毀損にはならない。
(侮辱のほうに該当する。)
Cさんはインポだ.....具体的である。本当であっても、ガセであっても、 名誉毀損が成立。
※Bさん、Cさんの部分は実名が入り個人が特定できるとします。
真実.....事実が正しい(ガセではない)場合を指す。
<意味拡張その2> 理系文書で相手を説得するとき
※日本語文献初出は、たぶん、中公新書「理科系の作文技術」、木下是雄
事実=正しいかどうか調べればわかることがら。(調査の難易度は関係ない。)
意見=事柄に対する判断。人により判断が異なってもかまわない。
真実=事実のうち、正しいこと。
孫権は呉の初代皇帝である......事実であり、真実である。
曹操は魏の初代皇帝である......事実であるが真実でない。(初代皇帝は曹丕。)
孔明は偉大な政治家である......事実ではない。意見である。
※ごく少数だとは思うが、孔明はアホ政治家と評価する人がいても、
それは個人の価値判断であり、間違いと決め付けることはできない。
孔明は偉大な政治家である、とCさんは言った......事実である。
※Cさんがそう言ったか言わないかということが問題となる。
私は、殺人犯人Bは発砲するのを目撃した。
.....Bが殺人犯人、という部分は意見の可能性が大。それ以外は事実。
地球は温暖化しつつある。.....これは事実か意見か微妙。
いちおうの目安(科学者・技術者にとっての目安)として、
判断は、それが不確かなほうから
憶測<推測<仮説<法則<定理
法則(今後ひっくり返る可能性はごく低い)以降は判断でなく事実で
推測以前は意見。仮説は、場合による、といちおう考える。
※アボガドロの仮説、のような場合、「仮説」は歴史的な言い回しに過ぎず、
実態は法則であるため、法則扱いとします。
> みんなが信じたことが「真実」となるのです。
> それが事実とはかけ離れたただの興味本位の噂だとしても。
たとえば「円周率は3ちょうどである」と、皆が信じたら、円周率は3なのだろうか?
ゆえに、http://menzine.jp/otona/sinnjitujijitu7451/ は、
事実と真実の用語を逆に使っている、と解釈すれば、
理系の常識(=木下さんの本と同じ定義)と一致します。
この回答への補足
>※日本語文献初出は、たぶん、中公新書「理科系の作文技術」、木下是雄
>事実=正しいかどうか調べればわかることがら。
>意見=事柄に対する判断。人により判断が異なってもかまわない。
>真実=事実のうち、正しいこと。
これは『中公新書「理科系の作文技術」、木下是雄』をお持ちでそれを見ながら回答されたという事ですかね?もしそうなら、該当箇所(ページ数など)を教えてください。
もし、実際には書籍は見ていないがその本にそう書いてあると書いてあった何かがあるという場合には、その「何か」を教えてください。
よろしくお願いします。
「事実」は、法律用語の場合には辞書の言葉と異なる意味になるようですね。というか、辞書定義の「事実」と、法律用語の「真実」が同じ意味になるのですかね。「正しい事」とは「実際に起こったこと」と別なのでしょうかね。すごく文系チックなお茶の濁し方のような気がしてしまいます。なんだかよくわかりませんね。
辞書定義の「事実」:実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。
法律用語の「事実」:事柄。実際に起こったかどうか、現実に存在するかどうか、正しいかどうかは関係ない。
法律用語の「真実」:正しい事柄。
理系文書でも同じなのですかね?これについては、その書籍を確認してみたいと思います。
ありがとうございました
No.15
- 回答日時:
>『中公新書「理科系の作文技術」、木下是雄』の該当箇所
P101~。
なお、本を買う(借りる)のが面倒なら、
「事実 意見」で検索すればそこそこヒットします。(木下さんに対する反対意見も若干ですがヒットします。)
なお、哲学における「真実」について。
めんどくさいのであまりコメントしたくないが。。。。
哲学でいくら「真実」といわれても、科学技術頭でとらえると、意見(事実ではない)
のほうの定義に該当してしまいます。ゆえに、真実ではないということ。
この回答への補足
書籍確認しました。
実は、「理科系の作文技術」という名の書籍で「真実」などという言葉を使うことなどありえないのではないかと思っていました。実際に読んでみると「文系の文章では」というような文脈なのですね。納得しました。
ありがとうございました
No.14
- 回答日時:
まず私は日常生活で「事実」と「真実」を意識して使い分けてはいません。
また宗教的な人間でもありません。しかし以下の「事実」と「真実」の使い分け例は、「やや特殊な人で、抽象的・観念的・宗教的な説明」に該当するのかもしれませんが、私の心にはストンと入ってきました。いかがでしょう。聖書に書かれたイエスの生涯はたしかに一貫した真実を持っているが、ひとつひとつの事実という点では必ずしも正確に書かれていないのである。(遠藤周作『イエスの生涯』新潮文庫48ページ)
たとえ現代の聖書学者がイエスの出生にまつわるルカ福音書やマタイ福音書の記述をイエス伝説から採ったものとみなし、それを事実ではないと考えるにしても、これらの物語は人間にとって真実だったからである。(遠藤周作『イエス巡礼』文春文庫12ページ)
クリスマスや受胎告知がたとえ創作であっても、その創作の動機は人間の悲しみから生まれたものであり、その創作は優れた芸術作品と同じように、事実よりはるかに高い真実だったのである(同14ページ)
以下独り言です。気にしないでください。「それが真実ならば、多くの言葉は必要ないのではないだろうか」
>聖書に書かれたイエスの生涯はたしかに一貫した
>真実を持っているが、ひとつひとつの事実という点では
>必ずしも正確に書かれていないのである。
「事実と真実」という言葉の使い分けという意味では、何となくしっくり来ますね。はっきりと分かるようにいっていないからこそ、何となく正しいように感じるだけかもしれませんが…。キリスト教の書籍って、はっきりとは言わずできる限りふわっとあいまいに表現しようとしている文が多いように感じ、苦手です…。
ありがとうございました
No.12
- 回答日時:
#11です。
>「事実」と「事実であると誤認」は私にとっては違います。
:
「事実」と認定した時点と「事実であると誤認」した時点が同じということは有り得ないですよね。
平安時代の美人が今でも美人というわけではないでしょ?
新たな事実が判明するまでは、あくまでそれは事実として通用し続けるわけです。
つまり、「事実」=「事実であると誤認していた事実」ということじゃないですか?
論点のずれを防ぐためにクイズ形式にしてみましょう。
<第1問>
繰り返しになって恐縮ですが、あなたが、コペルニクスやガリレオ以前の時代に生きていたとして、誰かに、「太陽が地球の周りを回っているというのは本当ですか?」と聞かれた場合、なんと答えますか?
1.「事実です」「事実のようです」
2.「事実ではありません」
3.「わかりません」
<第2問>
あと、もうひとつ。現在、あなたが事実と認識している事柄に関して、それは将来的にも不変の絶対的な事実である、と断言できますか?
繰り返しになりますが、あなたの「事実」という言葉に対する解釈は分かりました。
そういう考えの人がいてもいいと思います。私は全く否定しません。ただ、私にとってはありえない考えです。「事実」と「事実であると誤認」は私にとっては違います。
ありがとうございました
No.11
- 回答日時:
#10です。
>私が質問をしているのは「事実と真実の違い」です。なのに、「一般的な事実の意味と、あなたの事実の解釈の違い」の話が主になってしまい、そもそもの質問の話ができなくなっています。
:
そうでしたか。
一番最初の、#8の回答文は全てご覧いただけましたか?
であれば、「事実と真実の違い」について述べている箇所がほとんどであり、「一般的な事実の意味と、あなたの事実の解釈の違い」については、
---------------------------------------------------------
この論理は、
「事実」とは、「現実に存在する事柄」ではなく、正確には「現実に存在すると思う事柄」であり、
「真実」とは、「うそ偽りのないこと」ではなく、厳密には「うそ偽りが無いと思ったこと」である、という前提に基づいて述べているものです。
---------------------------------------------------------
という3,4行だけだということがご理解いただけると思うのですが・・・。
当然、その部分を主にして述べたつもりはないのですが、そのような印象を与えてしまったということは、わたしの記述の仕方が悪かったのでしょう。
この箇所は、言葉というものに関してのそもそも論だったのですが、別角度から、もう少し述べてみましょう。
ちょっと想像してみていただきたいのですが、あなたがコペルニクスやガリレオが生まれる前の人間だったと仮定してください。
当時の辞書にも、おそらくですが、
【事実】1 実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。
という記述はあったものと思われます。
この場合、あなたが他人から「太陽が地球の周りを回っているって事実ですか?」と聞かれたら、「はい、事実です」とお答えになると思うのですが、いかがでしょうか。
ところが、現在は、逆の地動説が事実として認定されています。
つまり、わたしたちは、「現実に存在する事柄」ではなく、「現実に存在する(と思う)事柄」を「事実」と表現しているわけです。
そもそも、「現実に存在する」という判断は個人の認識において確定するわけですから、「現実に存在する事柄」というのは、必然的に「現実に存在すると思う(認識する)事柄」以外の何ものでもないのは理の当然と言えます。
コペルニクスやガリレオがいなければ、もしかすると、現在でも天動説がまかり通っていた可能性はあるわけですから。(あくまで例えば、の話ですが)
現在の「事実」というものは、常に事実で無くなる可能性を含んでいるということでもあります。
>あなたの言葉の解釈だと、事実も真実も一つとは限らない、人によって変る、両者に特に違いはない、ということですかね。
:
違いますね。
まあ、上の説明で大体わかってもらえたと思いますが、事実という以上、通常は、あるひとつの時代、あるいは地域などで大多数の人間が共有しているパターンがほとんどでしょう。
その前提で言うと、「絶対的事実」「絶対的真実」というものを特定するのは難しい、ということは言えるかと思います。
「両者の違い」については、#8で十分に述べたつもりですので、再読していただければ幸いです。
要点を#8の文中から2箇所ほど抜粋しておくと、
---------------------------------------------------------
・「事実」とは、有るか無いか、に対する答えであり、「真実」とは、それが「本当にあるのかどうか」に対する答えである。
・あるひとつの事実に対する疑問が生じた結果として、より信憑性のある新たな事実の存在が判明した場合、その新たな事実に対して「真実」という言葉が適用されるのではないか、と思います。
そのために生み出された言葉、ということも言えるかもしれません。
「事実」とは、有るのか無いのか、という点に関して有ると言える場合の事柄。
一旦、事実と認定された(または、認定していると思い込んでいる)その事柄に関して、「新たな事実」という表現では補いきれないほどの新たな事実が判明した場合、それに対応するための言葉が「真実」である。
---------------------------------------------------------
といったあたりですかね。
この回答への補足
>現在の「事実」というものは、常に事実で無くなる
>可能性を含んでいるということでもあります。
「事実」という言葉に対するあなたの解釈では
以前:天動説が事実だった
現在:地動説が事実になった
ということなのですよね。つまり事実そのものが変化すると。
そういう考えの人がいてもいいと思います。私は全く否定しません。ただ、私にとってはありえない考えです。「事実」と「事実であると誤認」は私にとっては違います。
No.10
- 回答日時:
#9です。
ちょっと補足しておいたほうが良さそうなので、もう一度おじゃまいたします。
>一般的な辞書とかけ離れた独自解釈をする人がいてもいいと思いますよ。
:
それほど独自の解釈でもなければ、辞書に限定した解釈でもないんですけどねえ。
辞書が「現実に存在する事柄」と表現していれば、それは、正確には「現実に存在すると(我々が)思う事柄」と言っていることになります、という事実(だとわたしが思っていること)を申し上げただけです。
>一つ一つ言葉の解釈具合を確認しなければ正しい会話が不可能になるため、通常のコミュニケーションが困難になるとは思いますが。
:
「通常のコミュニケーション」とは何を指しているのか興味深いところです。
「一つ一つ言葉の解釈具合を確認」しないままコミュニケーションを行なっていることが多いというのが我々の日常ですが、そのため、誤解や齟齬が生じ、そこから様々な問題が発生しているとわたしは思っています。
それを極力避けるためには、一つ一つの言葉の解釈具合を時には確認しつつ、おっしゃるところの「通常のコミュニケーション」の危うさを省みるという姿勢が大事なんじゃないですかね。
今回のご質問なども、そういう意味で意義深いものと捉えたので、質問とは直接的には関係のないことだったかもしれませんが、ちょっと蛇足的に触れてみたわけです。
まあ、要するに、事実だ、とか、真実だ、とか言葉で断定することはできても、それはあくまで、そう言った人が、事実だと思っていること、であり、真実だと思っていることだ、ということです。
そんなことはないだろう、と考える人がいても、それはそれでよろしいかと思いますよ。
余談の余談ですが、辞書の表現に限らず、人の言うことの、言葉ひとつひとつの意味をさらに掘り下げていくと、断定の難しさということを思い知らされますね。
私たちは、誰であれ、それと知らずに、矛盾したことを平気で言い募っているもののようです。
言葉の果たす役割は案外と重大なのでしょう。
>「通常のコミュニケーション」とは何を指しているのか興味深いところです。
この質問だってそうですよ。私が質問をしているのは「事実と真実の違い」です。なのに、「一般的な事実の意味と、あなたの事実の解釈の違い」の話が主になってしまい、そもそもの質問の話ができなくなっています。
あなたの言葉の解釈だと、事実も真実も一つとは限らない、人によって変る、両者に特に違いはない、ということですかね。
ありがとうございました
No.9
- 回答日時:
#8です。
>えぇー。思うかどうかが重要で、現実かどうかは関係ないのですか…。辞書の定義が根本的に間違っているということですよね。
:
辞書の定義が間違っているというよりは、言葉というものは、すべて、そうしたものだ、ということです。
たとえば、少し前までは、運動中の水分は控えるべき、ということが事実(現実に存在する事柄)として広く認定されていました。
しかし、現在では全く逆のことが事実とされています。
どちらも当事者にとっては事実だった(事実である)わけですが、このように相反する事柄に関しても事実という言葉は適用できる(できた)でしょう。
つまり、当事者が思う(信じる)事柄を事実と呼んでいるだけです。
こうしたわたしの見解もすべて末尾に(と思う)という要素が、好むと好まざるとに拘わらず付与されざるを得ません。
いちいち付けているとわずらわしいので省略されているだけであり、辞書の記述に関しても、それは同様です。
>天動説・地動説について、私にとっては
・太陽の周りを地球が周っている
・地球の周りを太陽が周っているという説が存在した
・天動説が事実だと信じる人もいた
ここまでが事実です。
しかしそこを通り越して天動説自体が事実だ(った)とする考えは私には到底受け入れられません。
:
そう言えるのは、あくまでコペルニクスやガリレオなどの先人がいたからこそです。
当時の人々が「地球の周りを太陽が周っているのは事実だ」と言ったのは、たしかに今となっては誤った認識になるわけですが、しかし、誤った表現とまでは言えないでしょう。
わたしたちは多くの誤った(可能性のある)認識に基づいて、正しいと思う事柄を事実と認識しているわけですし、「事実」というのは、そのような場合のための言葉だからです。
通常は、「誤っている」と気づくことはありません。
なぜなら、「誤っていない、と思い込んでいるから」です。
つまり、「誤っていないと思い込んでいること」を「事実」と認識するのはやむを得ないことだと言えるはずです。
そうでなければ、事実という言葉自体が存在できないでしょう。
当時の時代に立ち戻ってみれば、その人々が「地球の周りを太陽が周っているのは事実だ」と表現することを規制することは不可能だ、ということがおわかりいただけると思います。
たとえば、机の上の紙に定規を当てて直線を描いたとします。
「わたしは直線を描いた」は事実のように思われることでしょう。
しかし、アインシュタインの相対性理論に基づけば、地球は、常に自転・公転をし続けているのであり、宇宙空間に対しては必然的に曲線になってしまう(らしい)。
もっと簡単に言えば、山の手線の電車の中でいくらまっすぐ走っても、最終的には円を描いて走っていることになる、といったようなこと。
「わたしはまっすぐ走った」は誤りですが、「わたしはまっすぐ走ったと思う」なら誤りではありません。
「思う」は不確定要素を含んでいるからです。(必ずしも適切な例ではないかもしれませんが、真意は汲み取っていただけると思います)
アインシュタイン理論の後では、同じひとつの事柄が事実から誤りになったわけです。
しかし、「わたしは直線を描いた」が正しいと思い込んでいる以上、それは、その人にとって「現実に存在する事柄」であり、それを覆すだけの根拠が登場しないうちは、それは、その人にとっての事実と言わざるを得ません。
そんな事実を超える新たな事実、つまり、真実としてアインシュタインの理論が登場するまでは、ということです。
そして、このように真実として認識された事柄は、それが当たり前の認識となる頃には、やがて事実として定着していくはずです。
いつか、次の、新たな真実が発見されるまでは。(当然ですが、「このようにわたしは思う」ということです)
>辞書の定義が間違っているというよりは、言葉というものは、
>すべて、そうしたものだ、ということです。
そうですか…。
あなたの「事実」という言葉に対する解釈は分かりました。一般的な辞書とかけ離れた独自解釈をする人がいてもいいと思いますよ。
ただ、あまりにも独自すぎる解釈をしていると、一つ一つ言葉の解釈具合を確認しなければ正しい会話が不可能になるため、通常のコミュニケーションが困難になるとは思いますが。
ありがとうございました
No.8
- 回答日時:
基本的に辞書の語義どおりだと思います。
「事実」とは、有るか無いか、に対する答えであり、「真実」とは、それが「本当にあるのかどうか」に対する答えである。
ということになるのでしょう。
「本当にあるのかどうか」という疑問が生じない事柄に関しては、真実という表現はおそらくそぐわないのだと思います。この論理は、
「事実」とは、「現実に存在する事柄」ではなく、正確には「現実に存在すると思う事柄」であり、
「真実」とは、「うそ偽りのないこと」ではなく、厳密には「うそ偽りが無いと思ったこと」である、という前提に基づいて述べているものです。
絶対的な事実や真実というものは存在しない(ように思う)ということですが、この前提で、もう少し述べてみます。
まず、わたしたちは、何事にせよ、事実(と思うこと)に基づいて判断する生き物だと思います。
一時間、列に並んで10個入り80円の卵を購入できたとしましょう。
通常200円の売価であれば、「120円の得をしたこと」は事実(現実に存在する事柄)と言えます。
この事実自体は揺るぎません。
ただ、ここで、その事実に対して「うそ偽りが無いだろうか?」という疑問が発せられたとき、真実の出番が回ってくるのだと思います。
つまり、本当に得をしたのか? わたしたち全員の一時間には120円の価値しかないのだろうか?といった疑問です。
もっとも、暇をもてあましている人もいますから、その人たちにとっては、価値ゼロの一時間に120円の価値が付与されるわけですから、(とりあえず)大いに有意義な事実であることは確かかもしれません。
そうした疑問が発せられない事柄に関して真実という表現が用いられることはありませんし、無理に用いれば不自然になることでしょう。
こうした疑問が皆無の段階においては、「事実」だけですべて判断できます。
むろん、そうした疑問が湧いたとしても、その事実を検証しさえすれば、旧来の事実は、実は事実(現実に存在する事柄)ではなかったことが判明することもあるわけで、その場合、検証によって判明した新たな事実を本当の事実として新たに認定し直せば良いわけですから、真実という言葉が殊更必須というわけでもありません。
しかし、天動説を信じていた人々にとって、太陽が地球を回るという事柄は圧倒的な事実として存在していたわけで、地動説は「新たな事実」であり、天動説は「旧来の事実」である、といったように単純に分類区別するのは、おそらく至難の業ではないか、という気もします。
新しい事実が判明した場合、「旧来」「新た」という違いこそあれ、「事実」という同じ表現を使うには抵抗があるのではないか、ということ。
あるひとつの事実に対する疑問が生じた結果として、より信憑性のある新たな事実の存在が判明した場合、その新たな事実に対して「真実」という言葉が適用されるのではないか、と思います。
そのために生み出された言葉、ということも言えるかもしれません。
「事実」とは、有るのか無いのか、という点に関して有ると言える場合の事柄。
一旦、事実と認定された(または、認定していると思い込んでいる)その事柄に関して、「新たな事実」という表現では補いきれないほどの新たな事実が判明した場合、それに対応するための言葉が「真実」である。
といったところでしょうか。
この回答への補足
天動説・地動説について、私にとっては
・太陽の周りを地球が周っている
・地球の周りを太陽が周っているという説が存在した
・天動説が事実だと信じる人もいた
ここまでが事実です。
しかしそこを通り越して天動説自体が事実だ(った)とする考えは私には到底受け入れられません。
「事実」という言葉の基本的な定義に、大きな隔たりがあるようですね。
えぇー。思うかどうかが重要で、現実かどうかは関係ないのですか…。辞書の定義が根本的に間違っているということですよね。
私は事実という言葉は辞書の定義どおりだと考えていて、何も疑問は持っていませんでした。しかし、それに似ているが異なる言葉として真実という言葉が存在すしていて、しれが事実とどう違うのかという疑問を持ってこの質問をしました。
ですので、事実という言葉自体がそもそも辞書の定義とは異なるというご意見は想定していませんでした。事実という言葉の認識だけでも人によって大きく異なるのですね…。
ありがとうございました
No.6
- 回答日時:
まず、似た意味の言葉の意味の違いについて考えるとき、辞書の説明はほとんどあてになりません。
また、あなたの知人がどう考えているか、あるサイトで何が書かれていたか、などをもとにして考えても、それはある特定の個人の考えですからこれもあてにはなりません。
言葉の意味というのは(当然のことですが)辞書によって決められるものでもある特定の個人によって決められるものでもなく、世間一般でどのように使われるかによって決まります(「決まります」という表現は正しくないかもしれませんが。言葉の意味、使われ方はどんどん変わっていくものなので)。辞書はそれを後追いして大まかな説明をしているだけです。だから辞書の定義を比較して「これでは違いがわからない」「どこが違うんだ」などと考えてもあまり意味がないのです。
では「事実」と「真実」は世間一般でどのように使われているでしょうか。
たとえば「私たちの教団に入ればこの世界の真実について学ぶことができますよ」という表現は不自然なものではありません。この場合の「真実」というのは「この世界がどのような原理に基づいて成立しているのか」とか「神様はどのようにしてこの宇宙を作ったのか」とか「人間の生きていく意義とは何か」とか、そのようなことを多分さすのでしょう。
そしてこの表現を「事実」に置き換えると、これはちょっと不自然に感じられるでしょう。「この世界の事実について学べる」という表現自体が耳慣れないものですが、敢えて意味をとるなら「アメリカの大統領はオバマさんだ」とか「ベテルギウスは近々爆発するかもしれない」とか「原宿駅は代々木駅の隣にある」とか、そういうことを学べるということでしょう。
とすると「真実」は「事実」に比べてより抽象的なもの、根源的なもの、原理のようなもの、というような意味を持っているのかもしれません。「事実」は「真実」と比べるとより具体的なことがら、個別のことがらだと思われます。
また別の例として『相棒』の片山右京が「どうやら真実が見えてきたようですねえ」と言ったとしましょう。この場合の「真実」は「犯人は誰か」とか「犯人はどのようにして密室殺人を行えたのか」とか、そういったことをさしますね。
この場合「見えてきた」ものは抽象的なものではありませんし、ここで「真実」を「事実」と言い換えても違和感はありません。ありませんが多少ニュアンスが違うように思われます。「真実が見えてきた」という表現の方が「この事件の全体像が分かってきた」「この事件の最も重要な部分、核心となる部分が明らかになってきた」「今まで謎だった部分、どうしても知りたいと思っていたことがらが分かってきた」という感じが加わりますね。この場面でも「真実」という言葉の方が何か根源的なもの、原理のようなもの、重要なものを指しているのではないでしょうか。
またまた別の例ですが、裁判で証人は「真実を述べることを誓います」というような宣誓をします(本物はもう少し長いのですが)。
裁判で証人が話すことといったら「はい、そのとき山田さんは赤い帽子をかぶっていました」とか「これは僕の時計です。間違いありません」といったようなものでしょうからこれこそは「事実」と言い換えても意味は変わらないでしょう。「事実を述べることを誓います」と宣誓しても問題はないでしょうし、信頼性が低くなることもなさそうです。それでもやはり微妙なニュアンスの違いはあると思います。「真実」という言葉の方がどこか「崇高性」「神聖さ」といったようなイメージを与えるでしょう。これは裁判というもの自体にそのような「崇高性」や「神聖さ」といったものが求められているからだろうと思います。
上記のような例から考えると、「真実」は「事実」に比べて、より根源的なもの、原理のようなもの、核心部となるもの、重要なもの、抽象的なもの、崇高なもの、神聖なもの、というような意味を持ち、「事実」の方がより個別的で具体的なニュアンスを持つ、ということになるでしょう。
似ている言葉の意味はかなり重なり合っているので、Aという言葉の代わりにBという言葉を用いても特に違和感はないということが多いのですが、ある場面ではAという言葉を使わないと不自然だとか、Bでも構わないけれどAを用いると微妙にニュアンスが異なる、といったこともしばしばあります(それがまったくなかったらどちらかひとつだけあればいいわけですよね)。
それを知るためには、様々な場面でAやBという言葉がどのように使われ、それを入れ替えるとどのようにニュアンスが変わるか(また変わらないか、あるいは不自然なものになるか)を学んでいくしかないでしょう。
>まず、似た意味の言葉の意味の違いについて考えるとき、
>辞書の説明はほとんどあてになりません。
お、なるほど!
>言葉の意味というのは世間一般でどのように使われるかによって決まります
>辞書はそれを後追いして大まかな説明をしているだけです。
そうですね。ただ、辞書には「世間一般でどのように使われるか」が読んでわかるように書いてあってほしいものだと期待しているのですが。
宗教やっている感じの人だと「真実」を好んで使いそうですね。また、宗教っぽくなくとも右京さんなら「どうやら真実が見えてきたようですねえ」と言いそうですね(実際のセリフですか?)。
>「真実」は「事実」に比べて、より根源的なもの、
>原理のようなもの、核心部となるもの、重要なもの、
>抽象的なもの、崇高なもの、神聖なもの、というような意味を持ち
ねるほど…。何となくですが実際の使われ方の違いはわかりました。
ありがとうございました
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『こと○○に関しては』という使い方
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「雄」ってなんと読みますか?
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「全体観」という言葉はありま...
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カメラが「とらえる」の「とら...
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いち~~として、の「いち」の...
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読み方は間違ってないですか?
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「とおり」?「とうり」??
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バルデリ・バルデラってなに?
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