プロが教えるわが家の防犯対策術!

なんだか少しだけ腑におちないもので質問いたします。
複数ですがまとめて回答頂ければ助かります。

朝倉方を攻める時、信長は浅井長政に約束していた「攻めるときは義理の弟であるオメーにちゃんと連絡すっから」ということを破って朝倉を攻めようとし、結果的に浅井家は古くから同盟関係っぽい朝倉家と組まれ挟み撃ちになるような形で金ケ崎撤退し、後の姉川合戦、小谷城攻めに繋がっていきます。

個人的に織田信長という人は非常に戦略眼に富んだ人物だと思うのですがなぜ、浅井家に普通に相談しなかったのでしょうか?
実際には長政のお父さんがまだ実権を握ってたようですが、今ウチめっちゃ勢いあるし、一緒に攻めろとまでは言わなくともこっちから嫁がせた妹お市も居るでしょだから「お前んとこは知らないフリして黙って動かないでちょうだいね」ぐらい言えたような気もします。
長政のお父さん、そして旧家臣団の爺様達は勢いある織田家に本気で勝てると思ってたのでしょうか?
また、よく聞くのが浅井長政という人もある程度、信長を尊敬、慕ってたような文献もあり、誠実な長政が朝倉と織田の板挟みに悩むことのないよう信長が気を使ったとか到底信ずるに値しない記述もあることです。

それとも逆のパターンで織田信長自身、または織田家全体、浅井家を信用してなかったのでしょうか??(まぁ信用できないから黙ってたんでしょうけども)
少なくとも黙っているより攻めることを誠実に言っておいた方が(反対されたとしても)あとあと楽に事が進んだような気もします。

また、織田信長は妹が嫁に行った浅井家を天下布武の途中であれ最終的にであれ最後には討ち滅ぼす対象にしてたのでしょうか?
もしくは黙って朝倉に攻めいれば、浅井家が朝倉と組み、実際そうなったようまとめて始末できる、そういったことを初めから画策してたのでしょうか?
そうだとすると命からがら逃げてきた金ケ崎がおかしくなりますね。

一般的には「義理の弟である浅井が裏切るはずがない」という歴史認識なのでしょうが、裏切るはずがない、と解ってればやはり浅井家に何も言ってないことがおかしく感じます。

前にも述べたよう長政のお父さんやら古い家臣団がまだ実権握ってたのは織田方にも解ってたはずなので「義理の弟といえども裏切られるおそれも十分あるかも」というのが真相のような気もします。

う~ん、そうするとまた命からがら金ケ崎の撤退、がなんだか信長らしくない実にトンチキな戦術法に見えて仕方ありません。
信長はその程度の頭しかなかったのでしょうか?


色々質問が重なりすみませんが宜しくお願い致します。

A 回答 (6件)

浅井家は代々朝倉家とは親戚関係にあって、長政の代で織田家から嫁を貰う事で親戚になった。

浅井家の領地を通過しないと朝倉攻めはできないので浅井家は承知のはずである。浅井家では父と子で意見が分かれ、織田軍に隙があったので寝返ったのだろう。信長自ら出陣したことが失敗であった。浅井が織田を攻めたのは明らかな裏切り行為である。信長が長政を信用してしまった戦略の失敗。妹からの知らせがなければ討ち死にであった。
長政の父にすれば、浅井・朝倉は名門で嫁を貰ったぐらいで織田の軍門に下りたくなかったのだろう。小谷城は難攻不落で織田は陥落に手こずるほどの名城で自負もあった。
信長はその後は自ら出陣することを極力避けている。有力武将による多方面軍作戦を取っている。しかし同じ失敗を本能寺で犯して殺された。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。書かれてるようなことはだいたい解ってたのですが「なぜ普通に連絡しなかった」のか不思議でした。やはり連絡を取るほどもなく「長政だけでなく浅井家自体」を信用してたのでしょうか。
そうなると信長の失敗以外のなにものでもありませんね。周りの家臣もなにも言えなかったのでしょうし。
明智の時もそうですが、周りが見えてなく自意識過剰の戦略だった、と言わざる得ません。

お礼日時:2014/07/29 19:57

そもそも織田家と浅井家の政略結婚は浅井家当主久政(長政)は反対でした


信長にしてみれば京までの街道が安定すれば良い訳です

信長からの離反は長政の意見ではなく久政が頑強に言い張って
長政も押し切られた形です(だからこそ信長の読めなかった)
長政は信長を裏切る気はありませんでした

その事実は後から知ることになります
だからこそ信長は長政の意思(カレだけは自分を裏切るつもりは無かった)と知って市の娘3人を助けたのです
決して妹の娘だったからという理由だけで助けたわけではありません
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この回答へのお礼

アズキさん回答どうもです!
浅井家がどうであれ、いずれにせよ信長の読みが浅はかだった、ということなのでしょう。
浅井家の裏切りに激怒した、といくつもの史料にありますが信長の思慮のなさが伺えます。
現代に於いて信長が誇大妄想的に、さも偉人であったかのよう語り継がれてるのはなぜなのでしょう・・・

お礼日時:2014/07/29 19:49

常にギャンブルを張ってないと急速な成長はできない。



「信長らしくない実にトンチキな戦術法」と思えちゃうのは、天下統一を行った豊臣秀吉の主君が織田信長であり、その信長がトンチキするわけない!という色眼鏡で見ちゃうからではないでしょうかね。

ギャンブルはトンチキに通じますから。

http://www.ss.em-net.ne.jp/~samrai/war_jp16c/car …

比較第一位の大名家であるが、畿内政権でしかなかった。 新しい実力者が三年後上洛

http://www.ss.em-net.ne.jp/~samrai/war_jp16c/car …

1565年と75年の版図色分け
近畿中央部を中心に考えると、西にシフトしている三好長慶と東にシフトしている織田信長。
そんなに大きな違いはないんですよね。
64年に42歳で死没した長慶ですが 75年段階で信長は41歳

上の色分け図を作られた方も「比較第一位の大名家であるが、畿内政権でしかなかった。 新しい実力者が三年後上洛」と書いていますが、浅井に倒されていたら三好長慶よりも歴史上「くそみそ」に書かれていたと思います。

昨今の信長称揚と違って、戦前では「部下に背かれた殺された トンチキな戦国大名」というのが信長の位置づけでもありましたので。
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この回答へのお礼

色々な情報ありがとうございました。他の回答者さんもありがとうさまでした!

お礼日時:2014/08/07 18:01

No.1です。


織田信長は父の死後、叔父や弟を殺し独裁支配で強くなった戦国大名です。この点が武田信玄とは異なるところです。成功すれば大勝利ですが、忠告する家臣がいないので失敗もするのです。そのことが致命傷になるのです。天下を取っていても、朝廷に刃向かう姿勢では何時かは暗殺されていたと思います。その時に天下を取ったのは家康だったでしょう。
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いろんな物語があって、真実は誰にもわかりませんが、トンチキではない説を紹介します。



名目は若狭攻め、将軍のお墨付きをもらった連合軍。
朝倉攻めではないので浅井に報告する必要はないです。
浅井の主力と長政は参戦していません。一部の家臣が不穏な動きをしただけ。
猜疑心から裏切りと騒がれたのでしょう。
後ろめたいから、早々と撤退。
当初の目的を果たしての凱旋で、予想外の朝倉の追撃にたまたま秀吉が遭遇。
秀吉にしてみれば手柄話は大げさに盛る筈で、実際の金ケ崎撤退は有力武将も死んでいない、大事ではなかった。
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>個人的に織田信長という人は非常に戦略眼に富んだ人物だと思うのですがなぜ、浅井家に普通に相談しなかったのでしょうか?




相談する必要性がないし、相談するという約束もないし、しかも長政は承知してるしって感じでは?
実際長政は動いてませんよね。

そもそも、攻めるのは越前ではなく若狭だし

>少なくとも黙っているより攻めることを誠実に言っておいた方が(反対されたとしても)あとあと楽に事が進んだような気もします。

それは、現代から見たらそう感じるだけでは?
そもそも、浅井領内を数万の軍が通るのに事前通告してないって本当かいな?という疑問も湧きまよね。



>前にも述べたよう長政のお父さんやら古い家臣団がまだ実権握ってたのは織田方にも解ってたはずなので「義理の弟といえども裏切られるおそれも十分あるかも」というのが真相のような気もします。

実権は長政が握っていたでしょうね。ただ一部が背いているだけで。


>う~ん、そうするとまた命からがら金ケ崎の撤退、がなんだか信長らしくない実にトンチキな戦術法に見えて仕方ありません。
信長はその程度の頭しかなかったのでしょうか?


常識で考えれば、浅井は裏切る利点がないわけで、そこで、ほとんど損害なく撤退している信長を褒めこそすれ批判する局面ではないと思うがな。

裏切る裏切らないは結果論でしかないし
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