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江戸しぐさとはどういうものでしょうか?
いつからあり、出典などはあるのでしょうか?

賛否についても割れているようですが、なぜそういうことになっているのでしょう。
否定派の意見というのは何を否定している?

存在しなかったというのは無理がある気がするのですが。

A 回答 (11件中1~10件)

http://www.edoshigusa.org/
http://matome.naver.jp/odai/2137388996067006901
この二つくらい見ればほぼ状況はわかると思います。

「存在した」という方に無理が有ります。そもそも証拠を提出出来ないのですから。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

そうでしょうか。
そもそも言葉が存在する時点でどういう形であれ存在しないということはありえないように思えますが。

記事を見ているとどれも江戸時代にこんなことあるはずがないというような描き方ですが「江戸しぐさ」とよばれているから「江戸時代に行われていたもの」という考え方がそもそもどうかと思います。
「明治期に行われていた江戸風のしぐさ」などという解釈は初めから見えていないのでしょうか。

補足日時:2014/09/17 01:37
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 江戸時代に、今言われているような江戸しぐさというマナー集が存在したかどうかは疑問があります。

おそらくは無かったのではないか。しかし、そのことだけでは江戸しぐさを拒否する理由としては充分ではありません。いいマナーなら使えばいいでしょう。

 江戸しぐさは、江戸時代の江戸がよく治まっていた頃を、ある種のマナーのユートピアと見て、マナーの体系を汲み取ろうとするものです。そういうやり方は先例があります。例えば儒学です。孔子は周がよく治まっていた頃は理想的な政治が行われており、人々も善良であったとし、それをユートピアと見て、見習うべきとしました。実際には、当時行われていたり、伝えられていたものを収集、整理して体系化したようです。

 孔子が考えたユートピアとしての周、ロールモデルとしての周の諸王が実在したかといえば、史実的にはそうではないでしょう。それでも儒学はうまく行き、後々まで伝わり、さまざまな良い効果をもたらしました。

 良いと考えたことを概念だけで説明するより、具体的な例、可視化したモデルなどを用いたほうが分かりやすくなります。イメージしやすくなる、といってもいいでしょう。

 ただし、史実的にそのようなことは無かった、と明らかになってきたとき、その批判に耐えられなければなりません。内容が良く、行ってみて益が大きいなら、典拠としてものが実在していなくても気にならないでしょう。逆に、面倒な割に実効性が薄いもの、つまり典拠だけが頼りのものなら、たちまち捨てられてしまいます。

 江戸しぐさに戻りますと、例えば「江戸しぐさにおける江戸は、実はいい面だけ取り出し、さらに理想化を施したものだよ。現代で必要なことも付け加えてある」としてマナーを提示していたら、これほど反対されることは無かったように思います。江戸しぐさの内容を見ても、譲り合いの勧めなどは内容として反対すべきものではありません。

 江戸しぐさ反対論が、これほど強硬になってきたのは、二つの理由があります。一つは江戸しぐさのマナー体系が必ずしも整ったものではない、むしろ思い付きを次々に付け加えていった、無秩序で歪な感じすらある、ということです。個々のマナーは良くても、何をどう集めるかは非常に大事です。儒学が成功したのは、個々の教えは当時の常識であるものの、孔子が思想的に一貫した体系を与えたことによります。

 生活の知恵であることわざでも、意味が真逆なものがあります。石橋を叩いて渡る、と慎重にすることもあれば、虎穴に入らずんば虎子を得ず、と思い切ってやることもあります。どちらも正しいですが、相反しています。それでもうまくいっているのは、状況に応じて、どちらなのかを判断して、使い分けているからですね。もし、どちらかだけを金科玉条のように用いるなら、不適切な判断、行動が増えてしまいます。

 江戸しぐさには一貫性や状況に応じた柔軟性がないのではないか、という危惧が反対論のベースの一つです。

 もう一つは、江戸しぐさ擁護論が暴走気味だということです。「史実ではないよね」に対して、「史実だ」と言い張り、「そんなに良いマナーなら、なぜ無くなったの?」と聞かれると、「江戸っ子絶滅政策のせいだ」などと言い募ります。疑問に対して暴論を返しており、悪質なカルトの様相を呈しているわけです。反対論がときとして過激であるのは、対応する擁護論が過激であることによります。

 儒学が長く用いられたのは、中国が近代の清に至るまで王朝制であり、仕組み的な部分が同じだったからです。一人の皇帝がいて、少数の臣下がいて、多くの民衆がいる。身分に上下があり、固定的でした。共和制となり、さらに共産制となると、儒学は指導原理として不適切になり、歴史として研究はされても、用いられなくなります。

 江戸しぐさが理想とする江戸時代も固定した身分制です。現代の日本がそのまま見習うには異質すぎます。適切な変更を加えて良いものにできるかもしれませんが、提唱側が暴論に陥っているようでは、それは期待できません。江戸しぐさが無理なく受け入れられるためには、史実にないことを敢えて含めてあることを認め、現代に適合するマナー体系を提示する必要があると思われます。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

私の言わんとしていたところはまさしくそれで、否定の仕方が江戸時代はこんなんじゃなかったはずだというのは短絡的というか、視野の狭い論調のように思えます。
では江戸しぐさが江戸時代の物かと言えばそれはわからないでは成立していない。

本回答では儒教と比較されているようですが、儒教の場合布教の明確な目的があり、史実です。実際現代の日本における孝行の考えや、日本仏教の生死観に至ってはほとんどが儒教と言えます。
これは林羅山が意図的に仏教を儒教化したとも言われていますが、江戸しぐさに関してもそうだということでしょうか?
誰かが教育や思想観の定着のために意図的に行ったというような説明ですがそれは事実でしょうか、持論でしょうか?

個人的な認識としてはこれは口伝の類ではないかと思っています。
つまり現代の教育に取り入れるだとか、それを躍起になって否定するとかそういうたぐいのものではなく、「こういうのいいよね」程度に市井の口の端に上がっていたようなものじゃないかと。

補足日時:2014/09/17 22:28
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存在していたものをそのまま書き残せばいいのに、美化しすぎていたり、



しまいには、平成版まで募集してしまう、というのが、「結局、江戸時代にあったのは何?」という本質を見失わせて、マニアが一般人からの信頼を失わせるような広報に暴走している、というだけでしょう。

傘ですれ違うときに傘をかしげて細い路地をすれ違うのは江戸の時代からあったでしょうが、「傘かしげ」という言葉があったかはわかりません。

急いで通り抜ける飛脚や早馬のために道の端3割で歩き、残り7割を空けていた、という割合は後日話を盛ったかもしれませんし、

列車などで、新しく来た方のためにこぶし1つ分だけ尻をずらす、というのはもう長椅子やベンチというものが存在する明治以降じゃないと江戸の町の茶屋の長椅子や縁側ではそこまで微妙なことしないだろう、とか。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

否定派の意見を見ていると江戸時代にはなかったというのは正しいように思えます。
なのでおそらく江戸時代のものではないでしょう。

>傘ですれ違うときに傘をかしげて細い路地をすれ違うのは江戸の時代からあったでしょうが

これについてもおそらくなかったと思います。
江戸時代では蓑笠のようなものが主流で、かしげるような傘はあったとしても番傘です。とても庶民の持つものだとは考えられません。

ただしこれは逆説的に傘を持つ人たちの所作を庶民が羨んでそう呼んだのかもしれないという考察もできるかもしれません。
いずれにしても議論のレベルがあまりに浅いように思えます。

補足日時:2014/09/17 22:35
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こちらの本を一度読まれて見ると面白いと思います。


http://www.seikaisha.co.jp/information/2014/08/0 …
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 #2です。



 儒学との比較は、理想化した昔に倣う成功例と失敗例の対比のためで、江戸しぐさと儒学に関連性があるということではありません。

>誰かが教育や思想観の定着のために意図的に行ったというような説明ですがそれは事実でしょうか、持論でしょうか?

 事実であり、持論でもあります。ただ、注意して頂きたいのは、教育への侵入という点では、江戸しぐさのみではないということがあります。

 教育面で言っていることは適切であるものの、根拠が極めて不適切であるものに「水からの伝言」というものがあります。「ありがとう」といった「綺麗な」言葉を掛けたり、そう書いた紙を貼った容器に入れた水を凍らせると「綺麗な」結晶ができ、罵倒語のような「汚い」言葉だと「汚い」結晶ができる。人間には大量の水を身体成分として含んでいる。だから、「綺麗な言葉」だけを使い、「汚い言葉」を使わないようにしないと、不健康になり死んでしまうよ。というものです。

 確かに罵倒語は気軽に使うべきではありません。感謝の言葉はどんどん使えばいい。。学校教育として、特にそのことは強調したいでしょう。でも事実無根のことを根拠にしてはいけません。水からの伝言の嘘が暴かれたとき(単に恣意的に画像選択をしただけだった)、多くの子どもが失望し、大人不信に陥りました。

 水からの伝言は、もう事実上、信頼性を失っていますが、カルト化した頑固な支持者もいて、それが不思議なことに江戸しぐさ支持者と重なっていたりします。それ以外に、EM菌があります。自然科学からは効果が否定されていますが、環境に良いとする、やはりカルト化した一群の人々がいて、川などに投棄を続けています。EM菌支持者も、不思議なことに江戸しぐさ支持者と重なっていることが多いのです。

 さらに、江戸しぐさ支持者から、「サムシンググレート」なる神もどきの提唱まで行われ始めました。要は進化論の否定、生命は神が造った、といったものです。

 つまり、既に問題は江戸しぐさだけではないのです。そのため、暴論の江戸しぐさ擁護論に対しては、擁護者がさまざまな似非科学等も要している事を前提に、反対論が先鋭化しているということがあります。嘘だった、ということで、特に子どもたちが悲しみ、不信を抱いて、前より状況が悪くなることが恐ろしいわけです。

 同じ江戸時代とされているものでも、「親父の小言」といったものは特に批判されたりはしていません。江戸時代の版と昭和に入ってからの版で相違があることを、研究している人は公然と認めています。つまり、時代に応じて変更されてきていることは明らかで、「親父の小言」が勧めていることは、世相に応じて変えられてきている、穏当なものであるわけです。それを紹介する人が、他の似非科学とセットにしたりすることもありません。

 江戸しぐさを拒否する人の主張は明快です。嘘で由来を飾りたてているのに、史実だと言う。内容が雑然としている(さらに、人の上に立つ人の心得、などと選民意識が見え隠れするなどもある)。いいことを言っているようだが、言われなくても分かっていることである。有害な似非科学とセットである。批判には一切耳を傾けないために不健全になっている。

 そういったことであるわけです。このままではとても認められない、いったんリセットさせなければならない、とするのも仕方のない面があります。

この回答への補足

補足ありがとうございます。

> 事実であり、持論でもあります。
事実であるとする論拠となるものを教えて頂ければと思います。
書籍やサイトがあるのであれば自分が疑問視している点の核心に近い内容になりそうですのでよろしければご紹介ください。

>つまり、既に問題は江戸しぐさだけではないのです。
むやみに議論の範囲を拡大すると論点のブレを招きいたずらにその進展を妨げることになりかねないと思っています。
ですので今回は問題を切り分けて江戸しぐさの起源と軌跡についてのみ理解できればと思っています。

補足日時:2014/09/18 17:35
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 #5です。



 江戸しぐさだけに限定する回答は、既にできるだけのことは致しました。江戸しぐさだけについて申せば、

>>誰かが教育や思想観の定着のために意図的に行ったというような説明ですがそれは事実でしょうか、持論でしょうか?

との追加質問については、他の回答者の方々も例を挙げておられるように、少なからぬ方々が検証していることです。ネットで解説も多数ありますし、書籍を出版している人もいます。事実であり持論というのは、そのことを含めての話です。

 持論という言い方は語弊があるかもしれませんね。肯定してる、と言い換えておきます。拙いながら、歴史の知識は多少あります。さらにお尋ねでしたので、私としては不可分となっている部分も回答致しました。江戸しぐさは、彼らカルト信者の武器の一つに過ぎないのです。

 そこから江戸しぐさだけに限定するように回答を戻すのはできかねます。私としては「なぜ、この方たちはこれほどまでにいい加減なのか?」という問題になっておりますので。江戸しぐさだけに限定するなら、最初の回答だけです。要は「普通に広めればよかったのにね。ここまで狂った騒ぎをしては、もうどうしようもあるまい」ということです。江戸っ子絶滅政策一つとっても、多少の歴史的知識があれば一笑に付すべきものです。そこまでして、傘傾げなどをありがたがるなんて、マナー以前、正気かどうかの問題です。

 ご下問にお答えできず、大変申し訳ありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
論拠のある事実ではなく、巷でそう言われているからそうだろうということですね。
私としてはあくまでその実態が知りたかっただけで、教育に使うことの是非などは度外視しています。

懇切に回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2014/09/18 21:44

 #6です。



>論拠のある事実ではなく、巷でそう言われているからそうだろうということですね。

再掲>追加質問については、他の回答者の方々も例を挙げておられるように、少なからぬ方々が検証していることです。ネットで解説も多数ありますし、書籍を出版している人もいます。

 こういうものを「巷でそう言われている」とは言いません。巷とは「町中」といった意味ですが、その程度のものではないことはご承知の通りです。巷の話くらいで質問者様も、

>賛否についても割れているようですが、なぜそういうことになっているのでしょう。

として質問されたわけでもないと思いますが、違ったのでしょうか? もしそうなら、お忘れになるとよいです。いろいろと話を集める、あるいは耳に入ってくるのを待つべきでしょうね。ある部分だけ分からないなら質問は有効ですが、あまりに漠然としたものを質問しても、質問が功を奏さないですから。

 書籍にまとめるくらいですから、相当な資料に基づいています(著者はかなり攻撃に晒されている模様で、それだけ擁護派は痛かったらしい。ちなみに、ネット上ではときどきその著者と話はする)。学術論文で議論できればいいのですが、江戸しぐさ擁護派がそういう真面目に議論される場に出てこないので仕方ありません。

 それとも、お聞きになりたい結論はもう決まっているのでしょうか? その場合は、それを教えていただくのが先決となります。そうでなければ、堂々巡りに陥ります。
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 やはり、この程度は出しておきましょうか。

ご要望通り、江戸しぐさ限定です。ウィキペディアは仕事が早いのかも。

・明治維新時の江戸っ子虐殺説(「陰謀論」内の項目)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E8%AC%80% …

 こういうことを、自衛隊の陸将補まで勤め上げた退官した人が言ったりするわけですね。江戸しぐさから外れますが、その方の著書一覧はご自身のHPより、以下のようになっています。

http://ikedaseiji.info/books.html

 これを見てどう判断されるかは、質問者様次第ですが、私個人としては正気の沙汰ではないと考えています。こういうものが、江戸しぐさということを少し調べると、ぞろぞろ出て来るのが現状です。こんなものが教育に入り込むのは、避けたいものです。江戸しぐさだけで入って来ないのです。セットで来ます。
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>江戸しぐさとはどういうものでしょうか?



「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学でであり、よき商人として、いかに生きるべきかという商人道で、人間関係を円滑にするための知恵」とされるものです。(NPO法人「江戸しぐさ」公式ホームページより。

具体的には「傘かしげ」「時間泥棒」「三脱の教え」などの江戸しぐさがあります

>いつからあり、出典などはあるのでしょうか?

「いつから」は不明で、出典などもありません。何故出典がなく「いつから」が不明かというと、「江戸しぐさ」の伝承者達は、明治維新の際にその革新性をおそれた薩長勢力によって虐殺されたからです。また、「江戸しぐさ」はもともと口伝で書き物を残すことが禁じられていた上に、わずかに残った記録は薩長勢力によって焚書にされたか、江戸っ子自らが粛清を恐れて焼き捨てたからです。(「江戸しぐさ」を推進する団体による主張)

>否定派の意見というのは何を否定している?

上記のような「江戸しぐさ」が存在したということを否定しているのです。勿論、江戸時代には江戸時代のマナー・行動哲学があったことでしょう。しかし「江戸商人特有で」かつ「明治維新で虐殺により駆逐された」「傘かしげや時間泥棒や三脱の教え」などは存在しなかった。というのが「否定派」の言い分です。(申し遅れましたが、私は多分質問者様のおっしゃるところの「否定派」です)

>「明治期に行われていた江戸風のしぐさ」などという解釈は初めから見えていないのでしょうか。

初めから見えていないのではなく、もしそういうものが存在するとしたら、それは定義上「江戸しぐさ」ではないということです。質問者様がそうお考えになるのでしたら、しかるべき資料をそろえた上で「江戸風明治しぐさ」とでも命名して、世に問うてみてはいかがでしょうか。

ちなみに「江戸しぐさ」とされているものが、実際は明治時代のマナーと考えるのも個人的には無理があると思います。例えば、「江戸しぐさ」には「喫煙しぐさ」といい、禁煙の張り紙が無くても、非喫煙者のいないところでは喫煙を遠慮したという「しぐさ」があるとされていますが、江戸時代はおろか、明治~大正~昭和初期まで喫煙は成人の当然のたしなみであり、「公共の場では喫煙しない」「喫煙者の前では喫煙を遠慮する」というのは平成時代のマナーです。例え「『こういうのいいよね』程度に市井の口の端に上がる」程度のことでも、明治時代としてはありえないでしょう。

>書籍やサイトがあるのであれば自分が疑問視している点の核心に近い内容になりそうですのでよろしければご紹介ください。

No4回答者様が提示されている「江戸しぐさの正体~教育をむしばむ偽りの伝統~」星海社新書/原田実・著 があります。これ以上の著作はない程の秀作です。「江戸しぐさ」という言葉・概念がいつごろ、どのように生み出されたかということについて、つまり質問者様が知りたいことについてこの著書では考察されています。なぜこの書籍を質問者が無視されるのかは判りませんが、タイトルや評判から「どうせ否定派が頭ごなしに江戸しぐさをバカにしているだけだろう」と思っていらっしゃるなら、公平を期すために、江戸しぐさ肯定派の越川禮子氏の著書でもあわせてお読みになればよいでしょう。

詳しいことは本をお読みいただくとして、「江戸しぐさ」とは何か、否定派の立場から一言で言えば「昭和生まれの知識人(芝三光)による発明であり創作」です。

>そもそも言葉が存在する時点でどういう形であれ存在しないということはありえないように思えますが。

う~ん、この意味がよく判らないのですが、例えば今私が「ぽじみでこ神によるぽじみでこの教え」(注:今適当にキーを打って作った言葉)が存在するといったら、それは存在するのでしょうか?「言葉が存在するなら存在する」というなら「ぽじみでこの教え」も存在するということになりますが…。

そうではなく、「ある程度有名になって知れ渡っているんだから、きっと昔からあった本当のことだよ!」ということであれば、例えば「断捨離」はどうでしょうか。この言葉および概念はある程度有名になって知れ渡っていますが、あくまでやましたひでこ氏の発明であり創作です。

「創作」が「昔からあったこと」のように思われて有名になるというのは、決して珍しい話でもありえない話でもありません。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

>もしそういうものが存在するとしたら、それは定義上「江戸しぐさ」ではないということです。質問者様がそうお考えになるのでしたら、しかるべき資料をそろえた上で「江戸風明治しぐさ」とでも命名して、世に問うてみてはいかがでしょうか。

定義の話はまた別の問題のようにおもえます。たとえば「大正ロマン」という言葉がありますがこれは大正時代からある言葉ではありません。これが昭和に作られたものだとしても「大正風昭和ロマン」とはならないでしょうね。
後半部は私はあくまで疑問定義しただけであり世間に問うなどという考えは毛頭ありませんので失礼ながら全くの左平次です。
私は否定派でも肯定派でもなく、強いて言うならば事実部分と虚構部分を分離したいだけです。

>ちなみに「江戸しぐさ」とされているものが、実際は明治時代のマナーと考えるのも個人的には無理があると思います

これについては先の回答でもいただいていますが、全てを一絡げにするというのに無理があると思います。明らかに一時に箇条書きで記されたというようなものではないので、当然後に付け足されたものもあるかと思います。一つを上げても論拠にはならないかと思います。

>「どうせ否定派が頭ごなしに江戸しぐさをバカにしているだけだろう」と思っていらっしゃる。

全くの邪推です。

>そもそも言葉が存在する時点でどういう形であれ存在しないということはありえないように思えますが。

上記についてですが、回答で述べられている通り広く膾炙されているということが条件です。そもそも言葉にそれ以上の価値判断基準はないと思います。
現に断捨離などは通俗概念として浸透し、辞書にも載っています。またそれを取り入れた考え方や商品なども実在するでしょう。
例えばロボットなどという言葉ももとは小説ですが、言葉のもとが創作かそうでないかなどと問うことに意味はないでしょう。そもそも創作でない言葉など存在しえないのではないですか。
繰り返しになりますが言葉のアイデンティティは広く知られているか否かです。広く知られているということは使う必要があるということであり、使う必要があるということはその要因があると考えるのが自然かと思います。


余談ですが、回答者様が指摘されている通り、知りたいと思ったきっかけは否定派の意見があまりに杜撰だと感じたためではあります。
賛成派否定派双方とも事実を知らずに主張だけが独り歩きしているように見えましたので。
あくまで知りたいのは事実がどうなのかという点についてです。

補足日時:2014/09/25 21:55
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>定義の話はまた別の問題のようにおもえます。



いえ、やはり定義の問題でしょう。

例えば「大正ロマン」といえば「大正時代の文化や風習に対して感じる憧れやノスタルジー」と定義できるでしょうね。「大正ロマン」という言葉自体が昭和時代に作られていても何の問題もありませんが、「大正」以外の時代に対して「大正ロマン」といえば「それは違う」という批判は免れないでしょう。例えば以下のような感じです。

A夫「『三丁目の夕日』って映画いいよなー。まさにあれこそ『大正ロマン』だよな」
B夫「いや、あれはお前、昭和30年代がモデルの映画だよ。三丁目の夕日は確かにいい映画だけど『大正ロマン』ってのは違うんじゃないか」
A夫「『三丁目の夕日』が何時代をモデルにしてるかなんてどうでもいいんだ! そんなことはこの映画の本質じゃない! それに『大正ロマン』ってのは、何も正確に大正時代のことじゃなくてもいいんだ! 『大正ロマン』っていうのは大正に限らず、とにかく『昔の日本に対して感じるノスタルジー』のことを言うんだ! お前の言ってることは短絡的で視野が狭くで杜撰なんだよ!」
B夫「…(いや、そんなお前ルールの「大正ロマン」を持ち出されても…)」

貴方の主張はA夫さんと変わらないように思うのですが。

勿論A夫さんが「大正ロマンとはとにかく昔の日本に対して感じるノスタルジーのことであって大正時代かどうかはどうでもいい」と考えるのは自由です。しかし、B夫さんに対して、ひいては世間一般に対してその考えに納得してもらおうと思うなら、それ相応の根拠を提示する必要があるのではないでしょうか。ましてそのように考えない人は「短絡的で視野が狭くて杜撰」とまでおっしゃるのですから。どうやら質問者様はこの私の考えを「左平次」とお呼びになるようですけれど。

私が、江戸しぐさ肯定派の論調を幼稚であり卑怯と考えるのもこの点にあります。多くの肯定派の言い分はこうです「江戸しぐさがないとは限らないよね」

「ないとは限らない」この言葉は便利です。おそらくどんなありえない事象でも肯定できます。「月に兎がいないとは限らないよね」「月にマクドナルドがないとは限らないよね」

では、月に兎がいると考える根拠について尋ねると「だっていないとは証明できないじゃないか」と。「月に兎がいる証拠」ではなく「月にうさぎがいないと証明することはできない」ことを繰りかえせば、議論に「負ける」ことはありません。こんな幼児でもできるような非科学的で非論理的な論法で「自分は賢く・疑問を感じていない人が愚かなのだ」と主張する人々が一定数いるということに関しては、怒りを通り越して哀れにさえ感じます。

話を「江戸しぐさ」に戻しましょうか。

>言葉のもとが創作かそうでないかなどと問うことに意味はないでしょう。(中略)広く知られているということは使う必要があるということであり、使う必要があるということはその要因があると考えるのが自然かと思います。

要するに、「江戸しぐさ」という言葉がうそっぱちでも、皆にウケてるからそれでいいじゃん! ウケてるってことは必要とされているんだよ! ということですね。 初めからそうおっしゃっていただければ、私の回答も違っていたのにと思います。私はあくまで「事実かどうか」ということについて回答したので「ウソでも江戸しぐさは必要か」という質問であればNo5~7回答者様の回答がそれに相当すると思いますが、何故かそれらの回答に対しては

>問題を切り分けて江戸しぐさの起源と軌跡についてのみ理解できればと思っています。
あるいは
>あくまで知りたいのは事実がどうなのかという点についてです。

と回答されています。

結局質問者様は、江戸しぐさが江戸時代(まあ、江戸時代周辺の明治時代や戦国時代であっても認めましょう)に本当にあったかどうかが知りたいのか、「江戸しぐさ」と呼ばれているものが現代日本にとって必要もしくは有用であるかが知りたいのかどちらなのですか?
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この回答へのお礼

>結局質問者様は、江戸しぐさが江戸時代(まあ、江戸時代周辺の明治時代や戦国時代であっても認めましょう)に本当にあったかどうかが知りたいのか、「江戸しぐさ」と呼ばれているものが現代日本にとって必要もしくは有用であるかが知りたいのかどちらなのですか?

下記のように質問している通りです。どういうものかというのは現在の通説ではなく実態です。
江戸しぐさとはどういうものでしょうか?
いつからあり、出典などはあるのでしょうか?

その他に関しましては失礼ながらこちらの補足した内容と理解があまりにズレていますので暇なときにでももう一度読み直してみてください。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/28 18:46

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