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ローマ帝国、コンスタンティヌスが、当時のビザンティウムに、遷都した理由を知りたいです。

調べたところ、
●当時は文化的にも政治的にも東高西低だった…つまり、ローマよりも東にある現イスタンブールの方が、「中心」であったために、何かと便利だった?

●イスタンブールは、「諸蛮族」からの攻撃に対する守りが容易だった。

・・・といった理由が見つかりました。大体…それで合っているでしょうか?




また、特に後者についてですが、ローマよりもイスタンブールの方が「守りやすい」理由がよくわかりません。

ある人(WEB)は 「ここは半島、周りを海に囲まれていたので、守りやすかった」と描いていました。 しかし、海から攻められるということは、当時なかったのでしょうか? または海から攻めるということが容易でなかった、ということでしょうか?

また、何年もくだって、ビザンツ帝国は、現イスタンブールの周囲に城壁を巡らせたとあります。これは…「首都さえ守れば、他は別に良いのか?」 というか…。 たとえば中国なんかは、万里の長城を築いて 領土全体を守ろうとしました。 … どうせ「守る」ならば、手足を切り取られて頭だけ残ってもしょうがない(?)でしょう。 中国のように、自分の領土全体をケアする城壁を築くのが、スジかな? と思ったのですが、 いかがでしょうか。

A 回答 (2件)

遷都の理由については、ビザンツ帝国には詳しくないので他の回答者さんに譲ります。



ので、コンスタンティノープル(イスタンブール)の防衛の軍事的見地について。

まず、「海に面している」というのは防衛上は非常に有利です。世界中ほとんどのお城が「水堀」を持っています。水堀を越えて攻めるのは大変です。なんとなれば、国土周囲すべてが海に囲まれている日本は外国の侵攻をほとんど受けていません。せいぜいが元寇くらい。その元寇も、かつては「負けそうだったけど神風で助かった」といわれていましたが、近年の研究では台風(神風)による被害はそれほどでもなかったようで、むしろ「台風の被害を受けた」という口実で撤退したというのが実情に近かったようです。海に不慣れなモンゴル軍の負担は相当だったようですね。
江戸時代唯一の戦争である「島原の乱」でも、一揆軍が立て籠もった原城は海に面していて、なんでも原城近辺の海は流れが早いことで地元では有名らしく、しばしば潮の流れを知っていることに長けている籠城側が幕府軍の包囲を突破して外部と連絡をとっていたそうなんですね。上杉謙信は11万と号する大軍で小田原城を包囲しましたが、小田原城が戦国時代ほぼ唯一の城塞都市であったことと、上杉軍は水軍を持っていなかったので水軍を使って外部と連絡をする北条軍をどうすることもできず、結局小田原攻略は諦めざるを得ませんでした。
例え何十万という大軍がコンスタンティノープルを攻めても、海軍が制海権を握っていたなら攻めてくる軍勢は補給線が維持できませんから攻略することはできません。

実際、コンスタンティノープルはなんだかんだで約1000年もの間難攻不落を誇っていたのですから、当時のヨーロッパにおいて「最も難攻不落の城塞」であったことは間違いないと思います。落城の直接のきっかけになったのが「城門の鍵のかけ忘れ」だったのは有名な話ですよね。「それがなければ落ちなかったかもしれない」という人さえいます。

>どうせ「守る」ならば、手足を切り取られて頭だけ残ってもしょうがない(?)でしょう。

いえいえ、戦争というのは「頭」さえ守っていればそれでいいのです。
まず、領土全部をぐるっと壁で遮るのは現実的ではありません。日本の東北地方が約80年に一度大津波に襲われるからといって宮城県から青森県にかけての海岸線すべてにスーパー堤防を築くのは現実的には不可能ですね。
そう、津波と同じなのですよ。すべてを守れたらいいけど、それは現実的には不可能。でも守らないといけないから、その場合は守るに都合のいいところを必ず守ろう、という考えです。

武器や兵器の性能しか見ないミリタリーオタクは忘れるんですが、軍隊っつーのは非常に金がかかるものです。例えば10万人の軍隊なんていうとその10万人分の給料だけで結構な額になります。そしてそいつらは、飯も食えばウンコもします。食べ物も用意してやらないといけない。それが何日も何ヶ月も続くと遠征費も膨大となります。
一方、守る側はずっと少ない数で済みます。わざわざ遠征してくるのに比べたら、いうなれば交通費だってかからない。だから攻める側がよほどお金持ちじゃないと長期の攻城戦というのはできないのです。私たちは「落城した戦い」しか知りませんよね。織田信長が岐阜城を落とすのにどのくらい時間がかかったかとか、一向一揆がこもる大阪城や長島城攻略にどのくらい失敗したのかとか、武田信玄が箕輪城を攻略できずに「あいつ(城主の長野業正)なんか大嫌いだ」と地団駄を踏んだとか、まあマニアでもない限り知らないわけです。
豊臣秀吉が攻城戦の達人だったのは、度肝を抜くような数の兵隊を集めて、しかもその大軍が長期間包囲し続けてもヘバらない途方もない資金力があったからです。

質問者さんがおっしゃるのは、サッカーで例えれば「相手チームがボールを持ったときに自陣に入られたら危ないじゃないか」というようなもので、それはそれで一理はありますが、しかし自陣全部という広い空間を完全に守ることは不可能ですよね。
それより、「いくら攻められても、ペナルティエリア内に守備を集めてシュートも人も入れないようにすれば点は取られないじゃないか」というほうが自陣全体を守るより効率がいいですよね。だからプロサッカーの試合でも、スター軍団が集まるような強豪チームと2部リーグから上がってきたばかりの弱小チームが対戦するときは、弱小チームはまったく攻めないでゴール前をガッチリ守って「試合に勝って勝ち点3を狙わずに、0-0の引き分けで勝ち点1をゲットする」という戦術を使いますよね。
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この回答へのお礼

わかりやすくて、とてもおもしろく読みました。

ご回答、どうもありがとうございました!

お礼日時:2014/09/20 11:41

penichi さん、こんばんは。


中国のように、自分の領土全体をケアする城壁を築くのが、スジかな? と思ったのですが、 いかがでしょうか。
当時は人口も少なく、領域全体を防衛するやり方は非効率です。どちらかといえば、拠点防御、すなわち、城塞都市を築き、そこで籠城することで防御した方が効率的です。何か月も城塞都市を囲むのは補給の問題が難しいからです。
●当時は文化的にも政治的にも東高西低だった…つまり、ローマよりも東にある現イスタンブールの方が、「中心」であったために、何かと便利だった?

●イスタンブールは、「諸蛮族」からの攻撃に対する守りが容易だった。

・・・といった理由が見つかりました。大体…それで合っているでしょうか?




どうも東西南北の交通の要衝であり、天然の良港を備えているからだという説があるようです。
詳細は下記のURLを参照ください。

ビザンティオン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%A5% …
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この回答へのお礼

なるほど。
こういうページがありましたね!

交通の要衝。
防衛だけが全てではないですからね。

視野が広がりました(^^)

ご回答、どうもありがとうございました!

お礼日時:2014/09/20 11:43

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