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 (あ) 存立根拠は 分かりません。ないのではないか?

 (い) 国家とは 《スサノヲ市民社会( S 圏)‐もっぱらのアマテラス公民圏( A 圏)》という二階建ての構造を成して 公民 A 圏が主導していとなまれる社会の形態である。と仮説します。

 (う) おそらくその特徴は ひとつに 社会秩序の問題として次がある。
 ひとが人間としての意志ないし心が踏みにじられるといった不法行為に遭ったとき その不法行為を――それは 無効の行為ゆえに――なかったことにするための原状復帰について 被害者の自力救済に拠らずに アマテラス公民のチカラ(権力)に拠ることを原則とする。
 これが 特徴であると考えられる。

 (え) すなわちひとは そのしゃべる言葉が 《あやまちうるスサノヲ人間語‐間違いのないアマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる二層構造を成すと捉えられる。このとき 普遍 A 語をもっぱらよく行使する 役割りをになう A 圏のチカラに 不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。
 これによって 人びとのあいだの和についてそれを保守する役割りが果たされる。

 (お) ところが 人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである。のではないだろうか?

 (か) それとも 二段構えであるか。つまり S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?

 (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。大岡裁判やソロモンの知恵が 大いにのぞましい。

 (く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?

 (け) スサノヲ市民社会の――ムラそれぞれの――自立がのぞまれる。かまど(へっつひ)は S 圏にあり。歴史は ここでいとなまれる。


 (こ) それとも A 圏を擁する国家なる社会形態こそが 人間とその社会にとって重大かつ欠くべからざる存立根拠を持つ。と見られますか?

A 回答 (15件中1~10件)

No,14です。



ええっと

> (8) ★ (は)オオクニヌシ蛮族を滅ぼしたアマテラス公民であったが、まだチョンコロ夷狄や漢姦がいる以上、その覇権を弱めることはできず、また対抗策を講じなければならかった。
>☆ 《滅ぼした》のではなく オホクニヌシが非戦論をとなえて 人殺し戦争を回避しました。ですから くにゆづりです。

「くにゆずり」はアマテラスの欺瞞。滅ぼしたのではたたりが怖いので、伝承の中で平和を作るというお決まりのパターン。現実にはイズモの子孫を祭司としてオオクニヌシと祀らせている(いまだに)。さらにオオクニヌシはさまざまな伝承で祟り神として出てくる。本当にくにゆずりであれば、これはおかしい。

近年のマキムクの調査によると、色々な土地から集まった祭祀土器が見つかっているので、そもそもアマテラス帝国は各地方(ヤマト、イズモ、コシ、キビなど)のムラ長が集まって、合議の下で作られたらしいと言われている。
しかし、やがてイズモはのけ者になったという状況も見受けられるらしい(イズモ系土器がどんどん減っているとか。古墳の形状が後期になるとイズモだけ違うとか?だった思う)

なぜ集まったかと言えば、ムラ単独では対抗できないチョンコロ、漢姦がいたからで、ムラムラでチカラを合わせるために、合議が必要であり、結果統一ルールのもと国家が出来上がったと考えられる。
単に力を合わすと言っても、誰がヒトを出すのか、カネを出すのか決まりがなければ、必ず揉める。
ムラムラが力を合わせるための統一ルールが国家のベースとなっている。

しかし、国家のベースができると、その権力集団はやがて階級を生む。
とはいえムラから国家への移行は、やはり強大な外敵がいたからこそだろう。

この回答への補足

  歴史知性の誕生と拡大再生産(その構造的な増殖)


 縄文時代| ・呪術的歴史知性(アニミズム・シャーマニズム)
       ↓ ・(原始心性。ヒルコ・ヒルメ / カムロキ・カムロミ)
      300BC
       | ・歴史知性の萌芽(時間と社会)
 弥生時代| [クニグニ]   (ネコ・ヒコ・ミコト)
       | [邪馬台国・狗奴国](ヒメノミコト・ヒコノミコト)
       ↓ [葛城]     (ネコヒコ〔ノミコト〕)
      300AD
       | [三輪イリ政権]
       | ・歴史知性の確立(時間・《わたくし》・社会)
       | ・(オホタタネコ原点・ミマキイリヒコ視点)
 古墳時代↓  
       | [河内ワケ=タラシ政権] (国家概念)
    400| ・アマガケル歴史知性(もっぱらの日子)
       | ・歴史知性のアマアガリ(スメラミコト)
       | ・仕掛け人:雄略ワカタケル
    500| [継体ヲホド政権]
       | ・ヨセ(寄せ)超歴史知性(アマテラスオホミカミ)
    600| [聖徳太子] (中央集権国家の構想)
       | ・アマテラス・スーパー歴史知性
       | ・(観念の新墳〔アメヒコ・アメヒメ〕)
       | ・オホタタネコ歴史知性はスサノヲノミコトを打ち出す
       | [天武天皇] (中央集権的国家体制の実現)
       | ・柿本人麻呂
       ↓ ・(オホタタネコ原点=ミマキイリヒコ視点の人)*   
 ・・・・・700


 * ここで統一アマアガリした歴史知性は はじめのアマガケリを成就した。
 成就したところで オホタタネコ原点の回復への道を開いた。
 人麻呂がこれを受け継いだ。ウタに遺した。

 (年代などは分かりやすいようにラウンドナンバーにしており 概括的なものであり また仮説によっています。)

補足日時:2014/10/08 10:28
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この回答へのお礼

 こいぷりんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 古代史等にかんしてわたしの捉えている限りで ご見解に反応してまいります。

 ★ 「くにゆずり」はアマテラスの欺瞞。滅ぼしたのではたたりが怖いので、伝承の中で平和を作るというお決まりのパターン。現実にはイズモの子孫を祭司としてオオクニヌシと祀らせている(いまだに)。さらにオオクニヌシはさまざまな伝承で祟り神として出てくる。本当にくにゆずりであれば、これはおかしい。
 ☆ これは たぶんオホモノヌシの神のことですね。つまり タタリを起こすのはです。
 そして オホクニヌシがオホモノヌシとして伝わっている場合もあるので 一般に両者が互いに間違われるのは無理もないと見られます。

 オホモノヌシは 次の纏向の地すなわち三輪山のふもとにゆかりがあります。

 ★ 近年のマキムクの調査によると、色々な土地から集まった祭祀土器が見つかっているので、そもそもアマテラス帝国は各地方(ヤマト、イズモ、コシ、キビなど)のムラ長が集まって、合議の下で作られたらしいと言われている。
 ☆ たぶん いいえだと思います。

 三輪のこの地には やはりイリ政権――スサノヲ市民政府――が打ち建てられたと見られます。
 卑弥呼らの三世紀を過ぎたあとのことです。原始心性としてヨリ(憑依)なるアニミズムやシャーマニズムであったものが 世界へのイリ(入り)を果たした歴史知性として人間が現われた最初の歴史です。

 その崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトは 記紀において《初国知らししすめらみこと》と呼ばれています。

 すでに卑弥呼らのヤマト(邪馬台)国のときにも ムラムラの連携は成っていたようです。(外国のつまり中国の文献による情報ですが)。

 だとしたら各地からのモノが遺物として出土してもおかしくありません。


 また 三輪山は――この山が オホモノヌシの祀られている神の山ですが―― その大神(おほみわ)神社が その摂社の檜原神社にアマテラスオホミカミを祀っているとは言え これはのちのアマテラス政府に譲歩してそうしたのであって まつる神はあくまで オホモノヌシの神です。

 ゆえに 三輪イリ政権≒スサノヲ市民政府は けっしてアマテラス帝国ではありません。




 ★ しかし、やがてイズモはのけ者になったという状況も見受けられるらしい(イズモ系土器がどんどん減っているとか。古墳の形状が後期になるとイズモだけ違うとか?だった思う)
 ☆ イヅモの古墳は もともと 方形だったり四隅が突出していたりする独特なものが多いようです。

 《のけ者》になったのではなく 確かにアマテラス政府に恭順の意をあらわすようになっているようです。
 このアマテラス政府というのは 三輪のイリ政権のあと 河内にその政権を建てた応神ホムダワケからの公民圏を言うものと見ます。

 ただし 実際には イリ政権と 政略結婚をおこなって血筋のつながりを確保しているはずです。

 ただし のちに聖徳太子あたりの時代に 中国へ遣い(遣隋使)をやったときの中国の記録には その日本の政府は 《多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)=タラシヒコ》と名乗ったそうです。その限りで イリ政権とのつながりよりは ワケ≒タラシ政権との近しさが持たれていたと見られます。

 すなわち 二階建ての国家を築いたのは 応神ホムダワケからの流れとしてのアマテラス政府であると考えられます。


 ★ なぜ集まったかと言えば、ムラ単独では対抗できないチョンコロ、漢姦がいたからで、ムラムラでチカラを合わせるために、合議が必要であり、結果統一ルールのもと国家が出来上がったと考えられる。
 ☆ ここでも いいえという見方をします。

 要するに 応神ホムダワケおよびその母・神功オキナガタラシヒメは イリ政権との血のつながりを得たあとは けっきょく全国制覇大作戦を立てたはずなのです。統一アマテラスなるスメラミコトに成るのだと 堅く堅く誓ったはずです。この筋の出身は ひょっとしたら《チョンコロ》ではないかと推し測られます。


 ★ 単に力を合わすと言っても、誰がヒトを出すのか、カネを出すのか決まりがなければ、必ず揉める。 / ムラムラが力を合わせるための統一ルールが国家のベースとなっている。
 ☆ その当時のインタムライズムは まだまだまとまりがよくなかったかと確かに考えられます。

 けっきょくその理由は すでに《神のごとくいかなる者の下にも立つまいと堅く心に決めた》ワケ=タラシ人なるアマテラス族が指導者たちのあいだに一枚噛んでいたからです。

 ★ しかし、国家のベースができると、その権力集団はやがて階級を生む。 / とはいえムラから国家への移行は、やはり強大な外敵がいたからこそだろう。
 ☆ 《国家》のベースも住民圏もまだ出来ませんでした。イリ政権は 百年持ちましたし 400年ごろ河内ワケ政権が出来てからも 指導者としてありました。

 ただし 横車を押したのが――すでに日本乗っ取りの百年の計を立てているからには―― 河内ワケ政権です。
 イリ政権の指導者のひとりであるイチノヘノオシハを とうとう雄略ワカタケルは 暗殺するというワザに出ました。あるいはその二三代あとで 例の継体ヲホドを オホキミに越前の三国から招き入れるという裏ワザをも用いたようです。

 それでもなお揉めました。その後欽明天皇と呼ばれる代で ある程度結着がついたようです。
 つまり 《くにゆづり》ということの実質的な中身が 長い歴史過程を経て いちおう出来上がったものと考えられます。

 さきほど天皇という言葉を使いましたが まだまだその当時にもなかったのであって この二階建ての国家が落ち着いたかたちで成ったのは やはり 天武オホシアマ天皇のときであろうと見られます。

 天武天皇は 八色の姓などで スサノヲ市民〔出身者〕のことを思いやった施策をおこなったようですが 結果は 中央集権制が出来上がりました。


 その一代前の 天武オホシアマ天皇の兄である天智天皇のときには 外敵の問題で ヤマトないしカワチから近江に政府を移したほどだとも言われますから 軍事の問題もからんでいると見られますが 見られるのですが いちばんの問題は 《もっとも高いところに上がりたい》という心理的な《悲願》によるのではないでしょうか。そのために揉めて来たのですから。相手の政権の有力者を暗殺するという手にまで出たのですから。


 継体ヲホドを――応神ホムダワケの五世の孫であるということで――越前からヤマトに来るように要請したのは おどろくなかれ カワチの側にもミワの側にも オホキミの位を継ぐ男子がいなくなったという事態になったからです。
 
 両系統のいづれにも 後継者がいなくなったのです。いなくなったと書かれています。
 そんなことがあったと考えられましょうか。
 雄略ワカタケルは 跡継ぎを根絶やしにしろと遺言しておいたのではないでしょうか。
 ただし ただ一人 自分の息子のヲホドをひそかにアフミ(近江)ないし三国にやって育てさせておいた。跡継ぎが途絶えたときには このヲホドを引きつり出して来なさいと言い渡しておいたはずです きっと。

 これで 全国制覇大作戦なる百年の計が実現します。完成です。継体ヲホドが現われたのは 応神ホムダワケからちょうど百年経った500年ごろです。

お礼日時:2014/10/07 22:02

(い)スサノヲ市民がアマテラス公民の下にいるのは、実はオオクニヌシ蛮族が居たことによる。


(ろ)オオクニヌシ蛮族は言語、文化の違う異民族であり、スサノヲ市民に対する略奪、凌辱は耐え難く、同言語、文化のアマテラス公民の冷徹、収奪にまだ未来を感じたスサノヲ市民は、その擁護受けることによって、オオクニヌシ蛮族に対抗した。
(は)オオクニヌシ蛮族を滅ぼしたアマテラス公民であったが、まだチョンコロ夷狄や漢姦がいる以上、その覇権を弱めることはできず、また対抗策を講じなければならかった。
(ほ)アマテラス公民は、ついにチョンコロ夷狄、漢姦征伐を行うも、膠着した。
(と)実に世界は、バテレン侵略王、自由という名の束縛同盟など、魑魅魍魎が跋扈しており、スサノヲ市民とアマテラス公民は強い集団としての国家を必要とした。
(ち)同様にチョンコロ夷狄、漢姦、バテレン侵略王、自由という名の束縛同盟にしろ、同様に食うか食われるかの認識を持っているために国家を形成した。

どうやら、得体のしれない外敵がいる限りは、国家は必要とされているようです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 ええっとですね。

 (1) オホクニヌシは スサノヲの娘婿であるか あるいは直接の子もしくは子孫であるかです。(いくつかの伝承があります)。

 (2) スサノヲが 異国(タカマノハラ)からイヅモにやって来て そこに住みつきました。わが心 すがすがし。と言ったそうです。治水にチカラを尽くしてムラオサになりました。そのあと イヅモをやはり治め発展させました。

 (3) オホクニヌシの代になって ほかのムラムラと連携し 国作りに励みましたし 薬草を研究し医療がすすみました。砂鉄が出て タタラ製鉄も出来ました。農具に進歩が見られます。

 (4) アマテラスという人間は 帝国主義者です。何でもいいものは欲しがるのです。欲しいものは手に入れないと 駄々をこねまくります。繁栄しているイヅモが欲しいというわけです。

 (5) スサノヲやオホクニヌシは けっきょく土着の人間となった模様です。そのかれらに おまえたちの土地は もともとタカマノハラなるアマテラスさまの領土である 服属せよと言って来たわけです。中国政府と同じ論理です。

 (6) 結論としては オホクニヌシのイヅモは アマテラス帝国の要求を飲みました。《くにゆづり》をしました。

 (7) かたちとしては このようにして スサノヲ市民圏なる一階の上にアマテラス公民圏の二階をつくって 二階建ての国の家が出来ました。


 (8) ★ (は)オオクニヌシ蛮族を滅ぼしたアマテラス公民であったが、まだチョンコロ夷狄や漢姦がいる以上、その覇権を弱めることはできず、また対抗策を講じなければならかった。
 ☆ 《滅ぼした》のではなく オホクニヌシが非戦論をとなえて 人殺し戦争を回避しました。ですから くにゆづりです。

 (9) だいたい推測するに アマテラス族が 《チョンコロ夷狄》の出身ではないかと見られます。その孫のホノニニギが高千穂の峰に天降ったというのですから タカマノハラは 半島の方面でしょう。

 (10) 400年ごろ 神功オキナガタラシヒメは――仲哀タラシナカヒコの妻であるが―― 三韓征伐に出かけているといった逆のウゴキもあります。その遠征のときに 応神ホムダワケが生まれています。

 (11) おそらく この応神ホムダワケの 河内におけるワケ政権(ないしタラシ政権)が じっさいには 土着の奈良の三輪イリ政権(スサノヲ市民政府)のあとを襲おうとして立ったものと思われます。つまり アマテラス族です。

 (12) 三輪山のふもとの崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトが市民らとともに 300年ごろ 敷いた市民政府 このムラなる共同自治で済んだものと思われます。いちいち国家にまで持っていかなくてもよかった。ほかのムラムラとチカラを合わせて 外敵にも対処すればよろしい。

お礼日時:2014/10/06 21:43

ヘーゲルの「法の哲学」と柄谷行人の「世界史の構造」をもとに国家とは何か、を述べます。



ヘーゲルによれば国家とは家族の共同体が.市民社会で失われたものを高次に回復された共同体です。
ヘーゲルは社会というものを「家族・市民社会・国家」の三層からなる発展形態だと考えました。
家族は共同体で、お互いに助け合い、有愛を育む共同体ですが、その家族を維持するためには市民社会に出て行って働かねばならない。
市民社会の論理が家族に入ってくることで家族は解体し、市民社会が実現する。
市民社会は個人と個人が敵対し、互いに生存競争をする弱肉強食の社会で、他人を手段として考えるから、道徳的なことを言ってはいられなくなる。
どうやって生存競争に勝ち残るかが主眼になるから、他人を互いに蹴落とそうとする。
市民社会は経済社会であり、資本制の社会。
家族にあった友愛は失われるから、人間は市民社会のなかで生きてゆくことは出来ない。
そこに国家が存在する理由がある。
国家においては市民社会で互いに敵であっても、それに反し人間は互いに同胞であり、仲間であるから、それは共同体であり、家族の友愛の高次に回復されたものである。
人間は国家の中でのみ、人間として生きることができる。

ヘーゲルは共同体を「人倫」という。
ヘーゲルにとって市民社会はその人倫の喪失態であり、国家こそが人倫の共同体である。

このヘーゲルの社会の三段階の発展を、交換形態の発展として解釈しなおしたのが柄谷行人で、柄谷はヘーゲルの家族をマルセル・モースの「贈与論」でいう純粋贈与の形態、市民社会を資本制の商品交換の形態、国家を収奪と再分配の形態と解釈した。
人類は古代からこの三段階の交換形態として発展してきたと同時に、現在の社会もこの三層からなる交換形態の混合からなっていることを明らかにする。
現代社会にも家族が存在し、そして商品交換からなる資本制の社会が存在し、その上に国家が存在する。
家族の中では互いに贈与によって、交換が行われており、父親は子どもの養育費や学費を負担するが、それを金銭で返せとは言いません。
また、母親は家事労働をしますが、それでお金に換算し、賃金を下さいとは言いません。
家族は共同体で、共同体の間の物品のやりとりは贈与によって行なわれているからです。
ところがこの家族も生計を維持するためには社会に出て働かねばなりません。
それが市民社会であり、市民社会は資本制の社会であり、商品交換の行われている社会です。
そこではすべては金銭に換算されます。
誰もただでは働かないし、また人をただで働かせることもできません。
物品はただではもらえないし、働いて賃金を獲得し、その賃金で買うより仕方がありません。
人間関係も経済的な利害得失によって判断されます。
金を持っている人間の周りには人が集まり、金を持っていない人間は誰も関心を持とうとしません。
いくら人格的に立派であっても、金がなかったら尊敬されません。
市民社会では、道徳的に立派なことは価値を持ちません。
互いに弱肉強食の激しい競争社会では、人倫という人間同士の友愛は失われます。
貧しいものはますます貧しくなり、富めるものはますます富みます。
貧富の格差が激しくなり、弱者はホームレスに転落し、食うのにも困ります。
そこに国家の存在する理由があります。
国家は国民から税の形で収奪し、金持ちから徴収した税金を貧乏な人間に福祉政策で再分配し、貧民を救済します。
なぜならば国家の成員はみんな同胞であり、仲間だからです。
家族にあった友愛の共同体を高次に回復したものだからです。
市民社会は商品の交換からなる社会でしたが、国家は収奪と再分配の形態だからです。
人間は国家の中で、市民社会で失われた人間性を回復します。
人間は国家の中でのみ、人間らしい生活ができます。

それが国家の存在する理由だし、国家の存在する根拠です。
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 国家にかんしてへーゲルの到達した地点は もう最後の最後なのでしょうか?


 ヘーゲルの文章につづいてマルクスのも引いてみます。:

 ▼ (ヘーゲル:国家について) ~~~~~~~~~~~
 国家は 実体的意志の現実性であり
 この現実性を 国家的普遍性にまで高められた特殊的自己意識のうちにもっているから
 即自かつ対自的に(* 絶対的に)理性的なものである。

    * (ぶらじゅろんぬ註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   おそらく人間関係のおよぶ範囲を一定の地域に取って そこであやまちうるスサノヲ人間語の侵しうるそのあやまちをすべて――思弁的にでも・事前においても――取り上げ そのアヤマチないしマチガイをただしたかたちの哲学体系として 国家は自己のあり方を その青空いっぱいに描き規定しようとする。のだと考えられます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 この実態的一体性は絶対不動の自己目的であって 
 この目的において自由はその最高の権利を得るが 
 他方 
 この究極目的も個々人に対して最高の権利をもつから
 個々人の最高の義務は国家の成員であることである。

   * 市民諸君よ この自由な開けたあおぞら教室に一人残らず参加しようということだと考えられます。

(ヘーゲル:『法の哲学』第三章 国家 §258)

 ▲ (マルクス:ヘーゲルおよび国家について) ~~~~~~
 へーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが 
 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。

 宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであったように 
 体制が国民を創るのではなく 国民が体制を創るのである。

 民主制と他のすべての国家形態との間柄は キリスト教の他のすべての宗教との間柄のようなものである。
 キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり 神化された人間が一つの特殊な宗教としてあるあり方である。
 同様に 民主制はあらゆる国家体制の本質であり 社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり それと他の国家体制との間柄は 類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。
 ただしかし 民主制においては類がそれ自身 実存するものとして現われる。

  (マルクス:『ヘーゲル国法論批判』)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この二つの文章による《国家》に対するそれぞれの観点は 基本的には互いに矛盾なく しかも このマルクスは このヘーゲルに対して新たな書き込みをおこなっている。中身が違って来ていると考えられます。

 それは 何か? 何があたらしく発生したのか?

 

 ▲ 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。
 ☆ これは 家族→市民社会→国家という巡礼の過程と似ている。ところが:

  ○ 友愛の共同体たる《家族》から出発して 友愛をも交換価値で図ろうというまでに発展する商品経済の世界たる《市民社会》を経由し さらに一段高いところに友愛の――そしてそのためには 強制力をともなう必要があるというその権力によるところの――回復を・すなわち《国家》として 実現する。

 こういった図式と経過する過程は同じようでいて かなり中身は違っているようです。

 早い話が 国家を・あるいはそのお二階さんたちの行為形式を 単純に言ってすでに《人間たらしめる》のだと言う。個人ないし家族つまりあるいはその集まりとしての市民社会――世の中――に生きる《人間》から出発して あの高いところに住んでいる国家ないし国家族を その同じ《人間》であるように改造するのだと。

 スサノヲ市民社会に アマテラス公民圏を従わせるのだと。けれども すでに主権の在り処はそうなっているし 公務員は公僕だと言われている。つまり 民主制の推進して来た努力のたまものである。

 《民主制はあらゆる国家体制の本質であ》るから あらゆる国家に対して・すべてのアマテラス公民に対して そのような《人間化》作戦は及ぶ。と言っているようです。




 
 おそらくこの今の議論において どこでそんな結論になったかと言えば 《市民社会》の中身の捉え方にあるのではないか。

 いくら商品万能の世界だと言っても その泥沼のシガラミたる商品世界の中にあっても・あるいはそうあるからこそ 家族共同体における友愛が むしろ顔を出して来る。

 顔を出して来ても 何も出来ない。しかも 商業社会にあっては 思いやりという人間性が 顔を出せないまでに死滅しかかっているという認識そのものは ひとであるなら 誰れもが持つ。いやというほど知らされ 持つに到る。いやと言っても 持たされるまでにその砂漠の有りさまを知らされる。

 ゆえに 国家を 人間たらしめる。のである。国家はすでに むしろそれ(国家または国家族)独自の論理でじんるいの歴史に現われて来ていたのである。のではないだろうか?

 アレクサンドロスは むしろ家族の愛のきづなを土台として 自分の国家を世界中に打ち建てようとしたのではないのか。初めはである。それは さらにその前にすでに 古代人の国家志向が――アマアガリ・シンドロームに罹った人間たちが――うごめいていたし 実際にそのウゴキを開始していたのではないか。


 ○ ヘーゲルは アマテラス公民から出発して スサノヲ市民を 主体化されたアマテラス語人たらしめようとするが 民主制は スサノヲ市民の・アマテラス普遍語の潜在する人間語から出発して アマテラス普遍語人に スサノヲ市民なる人間性を回復させようとする。



 われらスサノヲ市民は ホームレスたちに 起ち上がれと言う。
 金持ちよ 自由にやれと言う。思いっきり気の済むまで自由にやりなさいと言う。

 人間性は うしなわれてはいない。わざわざ回復しようとするまでもない。
 ちょっと胸に手をあてて いままでのシガラミをエポケーして もののあはれを知るなら 自覚は――ブッダ状態は――ただちに成る。と知るべきである。

 泉に湧く水のごとく みづみづしい気持ちに浸り 元気になる。

 みんなが元気になったら 国家の存立根拠はなくなります。

お礼日時:2014/10/05 17:01

>いちばん高いところへ上がらないと聞かないというアマアガリ・シンドローム 


>これが蔓延しただけではないのですか?

モンゴルもロシアも他国に滅ぼされたわけじゃないですから
反例になってませんよ
ただ、産業革命以降、労働力は機械に取って代わり、軍事力も
兵器の威力がものをいうようになると集団を大きくする意味はなくなります
ですので現代ではそういった自然淘汰の圧力は働いてないと考えます

では現代において、存立し続ける根拠は何かというと
国家を解体する理由がない というのが大きな理由だと思います
また、人間には社会性がありますから、すでに社会的な秩序ができあがった環境で
育つことでそこに順応するのも、存立し続けることに一役かってます
これは根拠がないのではなく、壊す理由がないことが根拠なんです

>国家の消滅が 人間と地球が存在するあいだに起こることはあり得るという含みでしょうか?

あり得るというか、歴史を振り返ればありましたよ
いくつもの国家が成立しては、どこかの国に滅ぼされてますよ
それとも全ての国家が消滅する可能性でしょうか?それならあり得るでしょう
核戦争が起こって人類の99%が死ぬとかいう事態が起きないとはいえませんから
同様に人間が存在するならまた国家を作る可能性もあります
つまり国家の完全な消滅は人間が社会性を失うことを意味します
社会性を獲得することがあるなら失うこともあるだろうと考えて
完全に消滅する可能性はあると思います
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ モンゴルもロシアも他国に滅ぼされたわけじゃないですから / 反例になってませんよ
 ☆ でも 大きくすることに必然性があって 大きくした。そのあと その大きいままでは 存続しえなかった。ということは その必然性は 必ずしもつねに当てはまるものではない。ということになると思いますが。




 ★★ (回答No.9) 人の多さは ( a ) 労働力の多さになりますし、( b ) 別の集団と争いがあったときも / 数が多い方が有利です
 ★ 兵器の威力がものをいうようになると集団を大きくする意味はなくなります / ですので現代ではそういった自然淘汰の圧力は働いてないと考えます
 ☆ ということは ( b )の側面としては意味がなくなった。けれども ( a )の労働力の多さにかんしては 依然として当てはまるのではないのですか?

 当てはまるのでしたら 大きくなったままで存続するはずです。よね。




 ★ では現代において、存立し続ける根拠は何かというと / 国家を解体する理由がない というのが大きな理由だと思います
 ☆ あぁ。そう来ましたか。
 
 ただただ《解体する》だけでは 理由が無いでしょうね。破壊すればよいとは成りません。改造する必要がありましょうね。

 回答No.10では かなりそのためのやり取りを残せたのではないかと思っているのですが どうでしょう?
 インタムライズムです。

 アマテラス公民圏のお役所はみな スサノヲ市民圏に文字通り従属して 資料提供やもろもろの秘書なり実働部隊なり何やかやなりの仕事をさせればよい。

 いえ。実働部隊は それぞれのムラの役人がにないます。国家ないし二階のレベルでは 全国のそして世界のムラムラの連携のために 全体的な資料やデータが必要ですから その作成や管理や提案などにも当たる。とすればよいでしょうか?






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 また、人間には社会性がありますから、すでに社会的な秩序ができあがった環境で
 育つことでそこに順応するのも、存立し続けることに一役かってます
 これは根拠がないのではなく、壊す理由がないことが根拠なんです
 ~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 互いに歩み寄れたのではないでしょうか。

 要するに質問者の言っていることは お二階さんたちは 一階のスサノヲ市民圏に《大政奉還》しなさいということなんです。そのあらたな維新が出来たなら あとはみんなで知恵をしぼって いろんなかたちに よりよい社会を作り直して行けばよい。

 国家は インタムライズムなるスサノヲ市民圏の連合を土台とし 二階はそこに従属して仕事をする中二階のような姿に変わって行けばよいかも知れません。

 優秀な公務員さんたちは 世界的な S 圏連合(インタナショナルはインタムライズム)のために大いに能力を発揮してくれましょう。


 そういうふうに未来社会の青写真を描くならば
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 同様に人間が存在するならまた国家を作る可能性もあります
 つまり国家の完全な消滅は人間が社会性を失うことを意味します
 社会性を獲得することがあるなら失うこともあるだろうと考えて
 完全に消滅する可能性はあると思います
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ という消極的な暗いシナリオではなく そうではなく いまの国家にあっても培って来た社会性はこれを大いに活かしつつ しかもいまのお二階さんの――言わば事実じょう独占的で たぶんそろそろ賞味期限も消費期限も切れて来ていて その能力の発揮もままならぬ状態と情況に落ち入っているそのお二階さんの――よさは残しつつ アウフヘーベンしつつ なおさらに新たな役割りをになってもらえばよい。のではないでしょうか?

お礼日時:2014/10/05 14:13

B様、おはようございます。




>「不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。」
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この回答へのお礼

緊急避難という場合はあります。

お礼日時:2014/10/05 08:53

No.1です。



>どうして たまたま成ったかたちが 永続性を持つと暗黙の裡に思っているような考えを推し出させるのか? いちばんよい社会形態であるとか これ以外にないのだとか そういったニュアンスで議論を打ち出すことになるのか?
分業が行われる現代社会において、誰か・何かが法の制定・執行や公正な裁判、そして社会秩序の維持などの役割を担う必要があり、その役割を担うのが、国家機構やその役人なのだと思います。もちろん、分業もしくは国家機構に代わる新たなパラダイムが生まれたらその役割は小さくなり、場合によっては不要になるはずです。

>(く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?
>(く‐1) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は つねにスサノヲ市民圏を主導するといったかたちで存続することは 要らない。のではないだろうか? あくまで 《 S 圏 ‐ A 圏》の相互連関制として 互いに(もしくは特に スサノヲ市民らの)自由を尊重し 人びとの生活としても国の運営としても 知恵を出し合ってあゆむ。とならなければダメだ。

まず、この考え方の前にある問題提起は「S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?」ですよね?

私も、地域社会ができるかぎり権限を持つべきだと思いますし、国家機構の権限・介入は最小限にとどめるべきだと思います。確かに先に書いた通り、政治の権限は宗教的・カリスマ的な指導力や歴史的正統性に由来する場合が一般的です。でも現代社会においては、政策決定に関して最も権限を持つべきはその当事者であるべきというのが私の意見です。とはいえ、外交・軍事などは国家機構の役割だと思いますし、法・ルールはできるだけ国家レベル(できれば世界レベル)で統一されている方が都合がいいことが多いのですが。

ここで補足要求です。この質問では、スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏に二分されていますが、以下の社会機構はどちらに分類されると思いますか?2語の定義の解釈に齟齬があると話がかみ合わなくなるので、明確にしておきたいです。私の解釈を書いておきますので、食い違いがあれば補足が欲しいです。

<アマテラス公民圏>
・国際連合
・EUやASEAN
・日本という国家機構
・OECDやWTO
・日本経済団体連合会(経団連)
・日本労働組合総連合会(連合)
・同業者組合(医師会、農協など)
・多国籍企業
・国内大手の企業

<スサノヲ市民社会>
・(日本に道州制が導入された場合の)道や州
・都道府県
・東京23区
・政令指定都市
・中核市
・特例市
・その他の市町村
・政令指定都市の区や地方自治区(~市○○区)
・町内会や自治会
・個々の集落(個々の都市・個々の村落)
・同業者組合の地方支部
・地域の中堅企業
・零細企業
・家族経営の企業
・個々の企業の労働組合
・世界的NGO
・全国規模のNPO
・地域NPO

他にも疑問があります。
・なぜ、国家論に日本神話を持ち出すのでしょうか?史実に基づいて書いてあるわけではないうえ、世界的な普遍性を持っていないので、違和感を覚えます。特別な理由があるのでしょうか?
・なぜ、「人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである」といえるのでしょうか?欧州の魔女裁判や関東大震災の朝鮮人虐殺のように、民衆によって逆に生命の危機にさらされる可能性も否定できません。(荀子の性悪説や法家の法治主義の考え方にもそぐいませんが、これについては書いておくだけで、深入りするつもりはありません)

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。


 ★ もちろん、分業もしくは国家機構に代わる新たなパラダイムが生まれたらその役割は小さくなり、場合によっては不要になるはずです。
 ☆ このご見解を得られるなら この質問は 質問者から見て 目的を果たした。こう考えます。(その考えの見直しが必要かどうかについても みなさんの回答とのやり取りをつうじて おこなって行きたいと思います)。



 ★ 私も、地域社会ができるかぎり権限を持つべきだと思いますし、国家機構の権限・介入は最小限にとどめるべきだと思います。
 ☆ ええ。いまのところ この方向性ないし志向性が存在すると確認できれば 万々歳です。


 ★ 確かに先に書いた通り、政治の権限は宗教的・カリスマ的な指導力や歴史的正統性に由来する場合が一般的です。でも現代社会においては、政策決定に関して最も権限を持つべきはその当事者であるべきというのが私の意見です。
 ☆ ここでは 《歴史的正統性に由来する場合が一般的である》という見方について それは 事実として済(な)し崩し的に或る種のナラハシ(慣習法)となったようなかたちにおいて いわゆるデ・ファクト・スタンダードと成ったというほどの内容までだと考えます。つまり そういう意味で《正統性》という言葉には 一定の条件がつけられるはずだとは考えます。

 その上で 将来に向けての思潮を成すとわたしも思います。




 ★ とはいえ、外交・軍事などは国家機構の役割だと思いますし、法・ルールはできるだけ国家レベル(できれば世界レベル)で統一されている方が都合がいいことが多いのですが。
 ☆ このご見解に対しては いきなり対案のごとき考えを――いま確認して来ているところの未来社会としてのイメージを描きつつ――述べてみます。

 (1) 《外交・軍事などは国家機構の役割だと思います》について反対するのではなく そういうよりは あたらしいウゴキをすでに今捉えようとして言うのですが まづ《軍事》はすでに あしき事態であるとしても国家ではないチカラが現われて来ています。

 (2) それにつれても・あるいはそうでなくても以前からだと思いますが 民間外交というかたちもあり得ます。日本のインタムラ(村)イズムなる S 圏市民社会連合が 中国の同じスサノヲ市民連合と自由に対等に外交をおこなって行ってもよいではないか。

 (3) むろん どの国との関係においても そのような民間外交を活発にあらゆる範囲におけるネットワークとして築いて行ってもよいはずだ。

 (4) 法律は もともとムラムラのナラハシに発しています。 S 語社会にあってもその中から普遍 A 語を持ちつつあります。アマテラス公民圏は そこからさらに《もっぱらの A 語担当の公民》を お二階という地位として配置したに過ぎません。

 (5) その上で
 ★ 法・ルールはできるだけ国家レベル(できれば世界レベル)で統一されている方が都合がいいことが多い
 ☆ となるのだと思います。

 (6) 言いかえると すでに S 圏連合なるインタムライズムが 互いの連携のために全国レベルにしろ世界レベルにしろ《 A 語法律担当機関》をもうけて活用すればよい。つまりはいまある役所を スサノヲ市民たちが――いまも実際には雇い主であるのですから――使いこなして行けばよい。

 (7) つまり国家はすでに スサノヲ市民社会に従属する。この基本線にてあたらしい歩みを始めればよい。のではないでしょうか?

 (8) いまのアマテラス公民つまり中で国家公務員は その優秀な人たちは スサノヲ市民社会圏に大いにアマクダリして来て 活躍して欲しい。






 ★ ここで補足要求です。この質問では、スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏に二分されていますが、以下の社会機構はどちらに分類されると思いますか?
 ☆ 承知しました。

 ★ <アマテラス公民圏>
 ☆ は 次のように国家のレベルを超えるような組織・機関――丸印――については 《メタ・アマテラス公民世界》とでも捉えればよいのではないでしょうか。

 ○ 国際連合
 ○ EUやASEAN
 □ 日本という国家機構
 ○ OECDやWTO
 ▽ 日本経済団体連合会(経団連)
 ▽ 日本労働組合総連合会(連合)
 ▽ 同業者組合(医師会、農協など)
 ▽ 多国籍企業
 ▽ 国内大手の企業

 ☆ □ はアマテラス公民圏です。▽は スサノヲ市民圏・民間のものです。
 次についても このようなシルシで区分します。

 ★ <スサノヲ市民社会>
 ▽ (日本に道州制が導入された場合の)道や州
 ▽ 都道府県
 ▽ 東京23区
 ▽ 政令指定都市
 ▽ 中核市
 ▽ 特例市
 ▽ その他の市町村
 ▽ 政令指定都市の区や地方自治区(~市○○区)
 ▽ 町内会や自治会
 ▽ 個々の集落(個々の都市・個々の村落)
 ▽ 同業者組合の地方支部
 ▽ 地域の中堅企業
 ▽ 零細企業
 ▽ 家族経営の企業
 ▽ 個々の企業の労働組合
 ▽ 世界的NGO
 ▽ 全国規模のNPO
 ▽ 地域NPO

 ☆ ムラ(市町村)より広範囲でレベルも上の都道府県や道州やの自治組織は 基本としてインタムライズムのヨコの連携組織に従属するというかたちです。国家・アマテラス公民圏が従属するというかたちに同じくです。

 NGO や NPO などは あくまで S 圏に足をつけた団体であり運動であると捉えます。

 一般に企業は スサノヲ市民に準じる S 語行動主体なる法人組織です。ムラムラと大いに連携して行って欲しいと思います。労組をも交えて。

 (その結果 インタムライズムと言えども 部分的にムラ・グループどうしで 世界的にも 経済戦争が起きるかも知れません。正々堂々と競争して欲しいと考えます)。


 (お礼欄につづく)

補足日時:2014/10/05 04:22
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この回答へのお礼

 (補足欄よりのつづき)


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 他にも疑問があります。
 ・なぜ、国家論に日本神話を持ち出すのでしょうか? 史実に基づいて書いてあるわけではないうえ、世界的な普遍性を持っていないので、違和感を覚えます。特別な理由があるのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一般的に・基本的に 議論や理論のための資料や素材は どこからでも採り入れます。造語だけなら どのようなデータであっても まったくかまいません。躊躇せず用います。

 《アマテラス・スサノヲ》なる用語は 使い勝手があり便利だと思っています。

 国家論ないし社会科学の議論に《神話》をなぜ持ち出すか? これについては これとしての特別の理由説明が必要だと思います。

 けれども これは(つまり 神話や民間伝承は) やや安易であるかも知れませんが 社会の成り立ちについて歴史学の成果資料と同じほどにおしえてくれると思っています。

 国家の成立といった主題について むろん歴史学が担当するのですが それにしたところで記紀神話を上手に採り入れて理論を構成すれば 学的価値にじゅうぶんあたいする。と考えます。

 そしてこのような日本の神話をふくむ歴史と社会についての《人間と社会の理論》は じゅうぶんに世界のその同じ主題をめぐる議論に光をもたらすほど 普遍性を持つ。こうも考えています。

 たとえば オホクニヌシの S 圏市民社会が アマテラス・タカマノハラの服属要求を受けて 《くにゆづり》をしたという物語――おとぎ話であるかも知れないわけですが――これは それにもかかわらず現代の日本人の社会を見てみても決して現実離れをしているとは思えない。スサノヲ市民らは せいぜい反抗するにしても一揆止まりである。


 すなわち 《万人の万人に対するたたかい》をひとつの前提事項として持ち出して来る社会では 個人が言わば《スサノヲ市民≒アマテラス公民》というように つねに・どこでも《アマテラス普遍語》をしゃべりたいという衝動的・本能的かつ主知的な行動形式であるのだと考えられます。

 日本社会は

  《 A 圏主導 ‐ S 圏従属》連関制
  つまり
  両圏分離にもとづく・むしろ頭で立って逆立ちした連関制

 であると見られるのに対して 西欧社会は

  《 S 市民圏( S ≒ A なる主体) ∽ A 公民圏( S ≒ A なる主体)》連関

 であるように思われます。相似の記号( ∽ )は 両圏が容易に転覆(回転=レヲリューション)するという意味です。


 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・なぜ、「人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである」といえるのでしょうか?

 欧州の魔女裁判や関東大震災の朝鮮人虐殺のように、民衆によって逆に生命の危機にさらされる可能性も否定できません。(荀子の性悪説や法家の法治主義の考え方にもそぐいませんが、これについては書いておくだけで、深入りするつもりはありません)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) ですから 大岡裁判やソロモンの知恵による裁定であれば A 語仲裁もよいものだと考えます。ですが それはむしろ S 語すなわちあやまち得るスサノヲ人間語について深い理解と思いやりがそなわっていると思われるからこそだと考えられるのです。

 (2) ケンカは 当事者双方が思う存分というほどにやり切ったほうがよいと考えられます。合法的な人間的なケンカの方法を編み出すべきです。アマテラス公民圏から・つまり上から ガス抜きをやるといった手法は ほとんどお呼びではありません。ウワベの取り繕いに終わります。大事な中身を放ったらかしにしています。

 (3) ですから このケンカをアマテラス公民が仲裁するにしても 大岡≒ソロモンの知恵がのぞまれます。
 ☆☆ (趣旨説明欄) (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。

 (4) 魔女裁判に対しては おそらく村八分が持ち出されるでしょうね。事実かどうか分かりませんが 火事と葬式の二分については 仲間扱いするという恰好です。

 (5) 関東大震災の朝鮮人虐殺については 虐殺がなかったと言おうとするのではなく そうではなくそれには よそ者だからという理由ではない別の理由があったという話を聞きます。おもに朝鮮人があたりかまわない略奪のような振る舞いをやったという話です。
 これにつきましては 史実かどうかまだあいまいですし そうであっても スサノヲ市民らのマチガイでありアヤマチであると見解を同じくすることを確認します。

 (6) そのような危険をも排除していないながら 《和は・・・むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである》という判断は ひとえに《上から目線の普遍アマテラス語による介入》による調停はたとえそれが成ったとしても スサノヲ市民らのあいだにしばしばシコリを残す。という理由があるからです。

 (7) ★ (荀子の性悪説や法家の法治主義の考え方にもそぐいませんが、これについては書いておくだけで、深入りするつもりはありません)
 ☆ 走り書きにしますが これらの考え方にもとづくならば――基本をその思想におくならば―― 社会の秩序は 恐怖政治によってしか得られないという結論になるのではありませんか?

お礼日時:2014/10/05 05:18

No7です


>どうしても人びとの数が多くなければならないという必然性はない。のではないでしょうか。
>いわゆる帝国主義者が~(略)~チカラにものを言わせて増やした。だけだとも考えられます

解釈が難しいのですが、ここで言ってる必然性とはある集団が力で別の集団を屈服させ
より規模の大きい集団を組織することで一つの国を作る必然性のことを言っていると
解釈していいんですよね?
つまりわざわざ集団を大きくする必要がないじゃないかと、集団を大きくして国を作らなくても
いいじゃないかと

ところが集団を大きくする必然性はあるのです
人の多さは労働力の多さになりますし、別の集団と争いがあったときも
数が多い方が有利です
集団が存在するという一点で、集団の規模は大きくなる方へ自然淘汰によって誘導されているのです

>たくさん生まれた国家が そのまま永遠につづくとお考えでしょうか?

すいません質問の意図がわかりません、が、永遠に続くとは考えません
人間も地球も有限ですから永遠の時の中ではどちらもいずれ消滅するでしょう
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ 人間も地球も有限ですから永遠の時の中ではどちらもいずれ消滅するでしょう
 ☆ 人間と地球が消滅する前に 国家が形を変えてその意味で消滅することはない。という見方でしょうか?
 それとも 国家の消滅が 人間と地球が存在するあいだに起こることはあり得るという含みでしょうか?

 質問者としては 後者の可能性を言っています。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところが集団を大きくする必然性はあるのです
 人の多さは労働力の多さになりますし、別の集団と争いがあったときも
 数が多い方が有利です
 集団が存在するという一点で、集団の規模は大きくなる方へ自然淘汰によって誘導されているのです
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ けれども ローマ帝国もモンゴルのハーン諸国も 集団を大きくしたあと 亡びました。

 いちばん高いところへ上がらないと聞かないというアマアガリ・シンドローム これが蔓延しただけではないのですか?

お礼日時:2014/10/05 00:12

予算だよ。



根拠は生き残る為。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 それは 強制獲得経済のほうの問題であるように思います。

 予算としての財政資金を獲得できるというその根拠あるいは正統性について問い求めています。


 ★ 根拠は生き残る為。
 ☆ 生きること・生き残ることは 国家でなくても問題となります。

お礼日時:2014/10/04 23:18

No6です



>《どうしても社会形態は 国家でなくてはならない》というほどの根拠は ない。
>ように なおまだ思うのですが どうでしょう。

社会性を持つ人間の集団の規模が大きく、かつ集団としての秩序を保つには
国家でなければならないと思います
そういった必然性があるから、国家がたくさん生まれたんだと思います
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 たぶんそれでも どうしても人びとの数が多くなければならないという必然性はない。のではないでしょうか。

 言いかえると いわゆる帝国主義者が――これは 遊牧民に多いそうですが―― あそこの土地も奪ってやろうとか あの民族もぜんぶ束ねてやろうとか言って チカラにものを言わせて増やした。だけだとも考えられます。うまく丸め込む場合も触れておかねばならないでしょうか。

 これも アマアガリ・シンドロームとわたしは呼びます。

 要するに――知性も腕力も有り余っているからなのでしょうか―― 自分がいちばん高いところに上がらねば承知しないというショウブンなのでしょう。

 アメリカは ようやくそのウゴキが控えめに成ってきたでしょうか。

 中国の指導者は まだまだこの性分に懲りていないかも知れません。





 たくさん生まれた国家が そのまま永遠につづくとお考えでしょうか? そういう問題としても問い求めるすべはあると思います。

お礼日時:2014/10/04 16:01

>(あ) 存立根拠は 分かりません。

ないのではないか?

我々の祖先が社会性を獲得したために、巡り巡って国家を形成するようになったのだと思います
なので存立根拠は本能です
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。

 そういった論理ですと いろんなふうに考えることが出来るのではないでしょうか。

 たとえば ひとつに
 ★ 本能
 ☆ とは言わずに すでにひとはその生まれつきの自然本性の内に 孤独でありつつ孤独どうしの関係が成り立っていて これがすでに《社会性》であった。ゆえに 生活共同あるいはさらに自治共同を互いにいとなむものなのだ。――といった説明です。


 ただし そこからただちにこの今の《二階建て構造》としての社会形態を つねにどの人びとも かたちづくるのだ。とは言えないように思います。

 部族単位で群れる社会のままにとどまる場合もあります。

 シベリアの広い大地に 百人単位ほどで生活する人びともいます。国籍は ロシアであるかも知れませんが あまり《国家》とは関係がないようにも見られます。ユカギール・マンモスの出たところのユカギールの人たちの話を聞いたことがあります。



 
 《どうしても社会形態は 国家でなくてはならない》というほどの根拠は ない。ように なおまだ思うのですが どうでしょう。

お礼日時:2014/10/04 14:11

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