プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 次のくだりを 取りあえず取り上げます。

 ▼ (老子 18章) ~~~~~~~~~~
 大道廃(すた)れて仁義あり。
 智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり。
 六親和せずして孝慈あり。
 国家昏乱(こんらん)して貞臣(ていしん)あり。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 はっきり言って何が言いたいのでしょう?

 仁義や慈悲や愛やの倫理的な理念を言うようになってしまったら それは すでに世の中が廃れているシルシである。――ということは だから何を言おうとしているのか?


 さとりを主張するようになったなら もう世界の倫理や共同自治は 終わりにちかづいている。ということでしょうか?


 かんたんですが このあたりに絞って問います。おおしえください。



 あと もし余裕があれば その思想を日本人はどのように受け容れて来たか。どう取り扱ったのか。このあたりについても問い求めたいと考えています。

 

A 回答 (9件)

人類の分業化の発生=助け合いにおいて、当初の原始


共産制においては、血縁の延長として個人的な感情の
延長において、自律的に助け合っていたのが、分業化の
発達による流通の拡大において発生した貨幣は、助け
合いにおける感謝のしるしであるはずが、固有の価値を
持った物体として、それを奪い合う事(拝金主義)で結果
的に助け合う=他律的に生かされるようになった。

つまり、自己の生命の社会的拡張を自覚化して、その
他我意識(博愛)において自律的に社会行動をとる
(生きること自体による喜び)のではなく、お金や出世と
いった馬車馬の目の前のニンジンによって結果的に
生かされる、(自己チューな意識のままの)弱肉強食の
擬似ジャングルと化したのだ。
その「自己チューな意識のまま」である事は、他律的
社会行動において社会性を劣化させる歪みを派生させ
るので、「お金や出世」といったアメだけでなく、「法規や
モラル(ここで問題となる倫理)」といったムチも発達した
のである。
自律的社会性が可能なほど認識が深めれば、単純に
意志の最大充足を目指せばよく、外的な価値(アメ)や
権威(ムチ)は不要だ。

この回答への補足

 同じ主題であらたな論点をめぐる質問へ移ります。

補足日時:2014/10/11 16:05
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この回答へのお礼

 (1)
 ★ 人類の分業化の発生
 ☆ たとえばおそらく女が赤子を産む――男は産まない――というのも 分業のひとつなのでしょう。それが 《発生》すると見るのですね? そう見るところから 人間と社会との理論にとっていかなる視点が得られましょうか?

 (2)
 ★ 人類の分業化の発生=助け合い
 ☆ 分業しなければ人びとのあいだの《助け合い》は 生まれませんか? 《出産》の有無による性差 これが分業=すなわち子育てをめぐる協業であるとして これを敢えてわざわざ《助け合い》と見るのでしょうか? なぜそういう一つの規定に特化するのでしょうか?

 (3)
 ★ 人類の分業化の発生=助け合いにおいて、当初の原始共産制においては、
 ☆ 《原始共産制》って何ですか? もしたとえば家族のあいだで互いに何もお返しをも期待していないでおこなう行為 このような無償のおこないによって成り立っている人間関係であるとすれば それは 現代人の家族のあいだにも見られると言うべきでしょう。人なる存在のあゆみ( basis = 基礎)として。

 人類史のその昔の原始共産制とは どういう内容のことでしょう? 《当初》と《その後》とは どういうふうに違って来ているのでしょう?


 (4)
 ★ 当初の原始共産制においては 血縁の延長として個人的な感情の延長において、
 ☆ 血族どうしにはそれとしての特別の個人的な感情があった。のですか?
 姻族にもそのような感情が同じ内容として及ぶ。ということを言うのですか? 
 それらは ほかの・よその人びとにたいする感情とは別なものとして区別することが出来るということですね? それを話の前提にするのですね?


 (5)
 ★ 〔当初の原始共産制においては 血縁の延長として個人的な感情の延長において〕 自律的に助け合っていたのが、
 ☆ 《自律》って言いますが すでにその頃には人びとが《みんな や われわれ》の中にあって《わたし》なる個人が自覚的に存在しましたか? 存在しなくては 《自律》も《他律》もないのでは?

 けれどももし――時代を超えて考えるに―― 《分業=すなわち協業》をすでに前提として設定しているのならば たとえ相手の願いを聞き入れてそれに従った行動をしたとしても それも《他律》をきっかけとしつつわが意志によって《自律》した振る舞いである。と言えるのではあるまいか。

 要するに自律と他律との境界をいったいどこに引くというのだろう。

 (6)
 ★ 分業化の発達による流通の拡大
 ☆ 《贈与》なる経済の段階を飛び越していませんか。部族どうしのあいだにおけるモノのやり取りをも伴なう外交的な政治=経済的な行動です。

 (7)
 ★ 分業化の発達による流通の拡大において発生した貨幣は、
 ☆ ですから 最初の貨幣は むしろ贈与としてのやり取りが部族ないしムラムラのあいだを行き交うときにそのシルシとして取り決め合った石なり貝なりのことではないのでしょうか?

 けれども 交換価値としての貨幣なる段階に飛ぶわけですね。

 (8)
 ★ 貨幣は、助け合いにおける感謝のしるしであるはずが、
 ☆ そうでしょうか? むしろ《助け合い》としての社会的な役割り分担なる分業にあっては そのまま何かのシルシを必要とするような協働行為ではなかった。のではないか?

 助け合いなら 言葉も要らず 相手の目を見れば お互い心は通じ合うはずです。


 (9) 
 ★ 貨幣は、・・・固有の価値を持った物体として、
 ☆ まさか。金銀貨幣なら 金銀なるモノとしての値打ちがあるのでまだしも・と言ってもそれにしても その額面の値打ちまでは無いのがふつうであり(半額なら半額の価値しかない) それが いったいいつ・どこで《固有の価値を持った物体として》現われたのか?

 固有の価値は すでに金銀銅なる金属として帯びていたのです。それだからこそ物指しとしての貨幣にも用いられたのです。


 (10)
 ★ 貨幣は、・・・固有の価値を持った物体として、それを奪い合う事(拝金主義)で
 ☆ 世の中みな盗人であり泥棒ばっかりだということでしょうか? 《奪い合う》というのは 単なる比喩ですね。それにしても この世のあきんどはみな 金儲けのガリガリ亡者であるとは よくも言えたものですね。たぶんご自分の心の中を投影しているのでしょう。それでなくては 言えたものではないでしょう。

 (11)
 ★ 貨幣は、・・・固有の価値を持った物体として、それを奪い合う事(拝金主義)で結果的に助け合う=他律的に生かされるようになった。
 ☆ 貨幣経済は 中立です。商行為もそれなりに倫理的にそして経済行為としての合理的な内容をともなうようにという前提でおこなわれているものです。

 おいしいものを食べてもらおうと野菜をつくったり魚を捕ったりあるいは料理して食事を出したりするその経済活動は その中立性において互いに助け合っています。分業=協業です。

 また《他律的》も《自律的》も 社会的に役割りを分担し合っているからには 《自律的にして他律的な経済行為》というかたちに成っているはずです。


 たとえ《拝金主義》が経済の面で社会を主導していることがあるとしても そのガリガリ亡者が 頭のてっぺんからつま先まで《汚い手を使って行動している》というものではない。もしそうだとしても それを告発することと 社会と人間の理論を明らかにすることとは 別の問題です。

 拝金主義が横行し蔓延していたとしても 貨幣をもともなった自由市場経済としての基礎においてわれわれは経済活動をも共同自治の行為をもそして文化的ないとなみをも これからも続けて行くはずです。

 《貨幣⇒ 他律としての社会生活》といった規定に いったい何の意味があるのですか?


 (12)
 ★ つまり、自己の生命の社会的拡張を自覚化して、その他我意識(博愛)において自律的に社会行動をとる(生きること自体による喜び)のではなく、お金や出世といった馬車馬の目の前のニンジンによって結果的に生かされる、(自己チューな意識のままの)弱肉強食の擬似ジャングルと化したのだ。
 ☆ あなたの頭の中こそが 原生林の生い茂る密林ですよ。


 (13) 
 ★ その「自己チューな意識のまま」である事は、他律的社会行動において社会性を劣化させる歪みを派生させるので、「お金や出世」といったアメだけでなく、「法規やモラル(ここで問題となる倫理)」といったムチも発達したのである。
 ☆ ご勝手に。


 (14)
 ★ 自律的社会性が可能なほど認識が深めれば、単純に意志の最大充足を目指せばよく、外的な価値(アメ)や権威(ムチ)は不要だ。
 ☆ ですから もしこのような《外的な価値(アメ)や権威(ムチ)》によってもっぱら他律的に生きる人間がいたとしたら――そんな狭隘な規定をこそうたがって止まない者ですが それでももしそうだとしたら―― そのような人たちに どのようにして《人間としての手》を 互いに自由において 差し伸べるのか? こういう問題にもうとっくに移って行っているはずなのです。

 ★ 外的な価値(アメ)や権威(ムチ)は不要だ。
 ☆ とするのなら どうするか? 何ら考えていない。《認識とその深まり》をしか扱わない。

 ★ 意志の最大充足を目指
 ☆ すには どうしたらよいか? たとえ金儲けの新興シュウキョウであっても その人にとって待ったなしのその場をしのぐだけのコトだとしても そのための手は差し伸べることもあるのです。

 そんな手にひっかからないためには ではどうするか?
 その問題には手を染めない。蛸壺に引き籠もっているのみ。なんぢゃよ。
 
 ご回答をありがとうございました。何度同じことを言わすんぢゃ。
 この回答のどこが 老子なのですか?

お礼日時:2014/10/11 13:00

 人は未熟な時期を経てからしか大人になれません。

様々な成長の過程、人生のフェイズにある個々人が混然一体として共存しているのが世の中で、その世の中が動的に前進していくのが歴史です。
 人間存在に必然的に付随する未熟な時期の問題の改善、その手段を否定するのはよくないことです。ただ老子としては個々の手段的な理想のさらにその先にゴールとでもいうべきより大きな理想があると強調したかったのではないでしょうか。

この回答への補足

 すずめのこくすさん こんにちは。ごかいとうをありがとうございます。


 なかなか読み取りにくくて 分からないような感じがありますが まづ:
 ★ 人間存在に必然的に付随する未熟な時期の問題の改善、その手段を否定するのはよくないことです。
 ☆ (1) 《未熟な時期の問題》というのは 《必然的に付随する》ものだとしても 考えてみればその子どもの頃において 初めっから《問題》ばかり起こしているというわけでものでもない。とまづ思われるのですが どうでしょう?

 (2) むしろ《必然的に付随する》としても それは 未熟な子どもゆえにまだ何も世の中のことは知らないからこそ起こす問題であって やたらにその問題を改善するのだという目だけで捉えるのは いかがでしょう?

 (3) 問題の改善の前に・また並行して 教育があります。一般には学校教育です。つまりは 問題を起こすことのないように世の中のことをわきまえること。これも 集団の中に置かれた生徒としておそわりまなんで行くことと思われます。

 (4) そして問題が起こったときに この解決や問題環境の改善がおこなわれます。この改善のための
 ★ 手段を否定するのはよくないことです。
 ☆ というふうに読んだのですが ここが分かりにくいですね。誰がこの手段を否定するのでしょう?

 

 ★ ただ老子としては個々の手段的な理想のさらにその先にゴールとでもいうべきより大きな理想があると強調したかったのではないでしょうか。
 ☆ ここも読み取りづらいです。
 (5) ★ 個々の手段的な理想
 ☆ とは何か? 教育・特に人間関係にかんする知育徳育のことでしょうか そして起きた問題の解決や問題環境の改善のための手段としてのまなび――これらの《手段的なもの》に《理想》がある。ということでしょうか?

 (6) そこからさらに:
 ★ 個々の手段的な理想のさらにその先にゴールとでもいうべきより大きな理想がある
 ☆ それは・それが 《大道》であり《無為自然》だということなのでしょうか?




 そうだとして このあとは 当然のごとく《大道・無為自然》とは何か? この問いに移行するものと考えられるようです。ありがとうございました。

補足日時:2014/10/11 11:43
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この回答へのお礼

 例によって土曜の朝は 用があります。

 補足欄にて お昼頃にお応えいたします。あしからず。

お礼日時:2014/10/11 09:11

小賢しい人間の知恵などに頼るな、という


ことです。

これは、ドイツ観念論哲学にも通じるもので、
啓蒙主義とロマン主義の東洋版です。
ドイツ観念論と異なるのは、中国の思想は
政治思想だ、ということです。

君主や官僚が知恵を絞ってやってもろくな
ことにはならない。
無為自然に委ねるのが最良だ、ということ。

自由主義経済を説いたハイエクは、この老子の
影響を受けている、と言われています。

知恵の限りを尽くした社会主義国家が無残に失敗
した現実を見るにつけ、老子の正しさが確認できる
次第。



”その思想を日本人はどのように受け容れて来たか。”
   ↑
日本人はかなり老子的だと思います。

中国の子供に、聞きました。
将来何になりたい?
「官僚! 主席 、大企業のCEO」

日本の子供に聞きました。
「大工さん、花屋さん」
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この回答へのお礼

 ううーむ。いえ まづは お早うございます へきゆさん。ご回答をありがとうございます。


 ★ 自由主義経済を説いたハイエクは、この老子の / 影響を受けている、と言われています。
 ☆ ハイエク個人の心情にとっては それでよいかも知れませんが 自由市場経済にまかせたままではないのでしょう?
 都合のわるい部分が出て来たら 社会として国民経済として 考え直しわるいところは直して行きますよね。

 無為自然は そこまでのことを言っていますか?



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 君主や官僚が知恵を絞ってやってもろくな
 ことにはならない。
 無為自然に委ねるのが最良だ、ということ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 儒教が為政者の側からその公民の視点でものごとを考え 思索も政策も考え出し編み出すのだと言っていませんか?

 つまり 修身・斉家・治国・平天下と言ったとき やはり市民一人ひとりの倫理観ないし実践倫理として問題をあつかっているのではないのですか?

 ですから 仁義としての修身とそして無為自然なる大道との違いを いくらかは論議しておく必要がありはしないでしょうか。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
  ”その思想を日本人はどのように受け容れて来たか。”
   ↑
 日本人はかなり老子的だと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 反論するしないではなく そうではなく単純に感じるところを述べますが:

  ○ 日本の子供に 将来何になりたい? と聞いて 「大工さん、花屋さん」という答えが返ってくるのは ただただ 日本人が縄文時代と弥生時代とに培った歴史的な生活の筋道のようなものなのではないか? すなわち その意味でのシントウではないか?

 と思います。ということは シントウとタオイズムとの異同を明らかにせねばならない。のかも知れません。

 ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/11 09:08

例えば、日照りの時には水が貴重でしょう。

その少ない水のおかげで争いも生じるかもしれません。しかしながら、この状況も、雨が降れば根本的に解決します。
老子の言う仁義や智慧、英雄、孝行、忠臣などは、日照りの時に残された水のようなものです。一方、雨は、大道(本来の在り方)のことであり、大きな悪の無いことであり、太平の世のことであり、皆仲がいいことであり、よく治まった国のことです。少ない水よりも、雨を求めよう、そういう教えなのです。大本を修めよう、と言うことです。
ご理解出来たでしょうか。
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この回答へのお礼

 あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ええっとですね。復唱をはぶいてすでにこちらからの反応になりますが

 もしそういう理解であるならば:

  
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~
 大道も仁義も タトエとしてそれぞれ雨でありその水である。
 とするならば 仁義を説くコンフシアニズムは 大道(ないし無為自然)を説くタオイズムの言わば弟子である。と言っていることになるようですが それでよいのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 儒教と道教は 同じものだ。後者の根から前者のオシエが枝葉のごとく育った。――こう言っていることになりますまいか。


 そういった点になお違和感がのこりました。ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/11 08:54

>★ そこ(大道・無為自然)に戻るのが本道である、ということのようです。


>☆ これは 実現可能であるから 人びとよ つとめなさい。と言うのか。それとも もう世の中の状態は>すでに廃れてしまっているのだから 手遅れである。ただ そういった《本道》についての反省的な自覚だけは出来るのだから そのことにつとめなさい。なのか?

直接の回答ではないのですが、先日、偶然老荘に関する漢文の質問が出ました。晋書に出てくる向秀字という人物に関して、「老荘の思想を盛んにして、その結果、儒教や墨子の教えが衰えていった」という意味にとれるところがありました。晋書という文献はあまりアテにならないものだそうですが、もしかすると、儒教への批判から、老荘による無為自然の生き方の興隆があったのかもしれません。そうだとすれば、老子のその言葉は、効果があったということでしょうか?

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8777929.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
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この回答へのお礼

 ▼ (玄風を振起す) ~~~~~~~~~~~
 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8777929.html

 晋書にいふ。向秀字は子期、河内懐の人なり。清悟にして遠識あり。少(わか)くして山濤の知る所となる。雅(もと)より老荘の学を好む。

 荘周内外篇は歴世観る者あるといへども、その旨統を適論するものなし。秀、すなはちこれが解を為(つく)り、奇趣を発明して、玄風を振起す。これを読む者、超然として心悟す。

 郭象また述べてこれを広め、儒墨のあと鄙(いや)しめられ、道家の言、つひに盛んとなる。嵆康よく鍛し、秀、これが佐(たす)けとなり、相対して欣然たり。傍らに人なきが若し。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。


 墨子は あまり振るいませんでしたね。兼愛という理論じたいは よいものと見られますが。規範となっては おもしろくありません。

 儒教も このいまの《大道廃れて仁義あり》という捉え方をされては 《鄙(いや)しめられ》たと割り合いかんたんに推測され得ます。

 問題は それゆえ 《道家の言、つひに盛んとなる》という報告の内実でしょうね。仁義の代わりに 無為自然がオシエとして教えられるようになったというのでは 何だかウワベの問題に終わると見られてしかたありません。

 いやいや 心配ご無用:
 ▼ 秀、すなはちこれが解を為(つく)り、奇趣を発明して、玄風を振起す。これを読む者、超然として心悟す。
 ☆ ウワベのおしえを覚えるというのではなく 《超然として心悟す》というのだから。――と言えるのかどうか?

 《さとり》という概念ないし実践は もうゴータマ・ブッダで懲りています。外形的な説明は いくらでもあるのですが 中身のある実践とその説明は ついぞありません。(さとりについては ラプラスの魔のほうが うんと間に合います)。

 それと同じようなことが この玄風による心悟にも 疑われるのではありますまいか。



 
 なぜなら もしこの玄風による心悟が 《かむながらの道・もののあはれを知る・親鸞の非知なる信仰》と同じ内容であるなら それは 現代にも世界中にも――これからでも――あまねく行き渡っていてよいはずです。

 親鸞の到達した地点が 普及していないのは まだ大方の理解がそこに到っていないからです。

 わたしの視点は もうこの一点にしぼっています。情況説明のみに終わりますが。


 信仰の梵我一如なる類型のことですが 特にその信仰についての《非知》なる神が 普遍なる神であるという見方です。自然(じねん)は ここに吸収されます。

お礼日時:2014/10/11 00:07

こんばんは。



私も、そんなに詳しいわけではないので、私自身の解釈ではなく、一般に言われていることだけに触れます。議論をする能力はありません。
ここで批判していいるのは、当時の民衆とかではなく、儒教のようですよ。大道というのは、タオがもたらす無為自然に生きること。それができないと、仁義、大偽、孝慈、貞臣というものが出てくる。儒教がそのようなことを説くのは、無為自然の生き方ができないからで、そこに戻るのが本道である、ということのようです。
日本人がこれをどう受け入れてきたかについては、知識はありませんが、日常的には、日本には儒教的な道徳観が根を下ろしたと思うので、あまり重要な役割はしなかったのではないかと思います。
これと似た言い回しで、もっと痛烈なことばが荘子のどこかに出ているはずですが、今ちょっと探せないので申し訳ありません。ネコさんならご存知かもしれません。

この回答への補足

 議論を吹っ掛けるつもりはありません。
 そのような結果を引きつれて来るとしても あらたな疑問が湧きましたので 訪問者の方々と自分のために覚え書きをします。


 ★ ここで批判しているのは、当時の民衆とかではなく、儒教のようですよ。大道というのは、タオがもたらす無為自然に生きること。それができないと、仁義、大偽、孝慈、貞臣というものが出てくる。儒教がそのようなことを説くのは、無為自然の生き方ができないからで、そこに戻るのが本道である、ということのようです。
 ☆ すなわち 疑問はこうです。:

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~
 初めに大道は あったのか?

 無為自然は――タオによってもたらされ――人びとにあって生きられていたのか?

 そうだとしたら どうしてそれが廃れてしまったのか?

 儒教が出たので 廃れたのか?

 無為自然の生き方が出来ない儒教が どうしてタオのチカラのあった世界から出たのか?

 それとも初めから 無為自然は 現実の人びとの生きる姿としては唱えているものではない。だから ただの理念か?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 聖書なら アダムとエワの自由意志の問題として描いているところです。その点 タオイズムでは どうなっているのか? 知りたいところです。

補足日時:2014/10/11 15:11
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この回答へのお礼

 こんばんは たすてん先生。ご回答をありがとうございます。


 ★ ここで批判していいるのは、当時の民衆とかではなく、儒教のようですよ。大道というのは、タオがもたらす無為自然に生きること。それができないと、仁義、大偽、孝慈、貞臣というものが出てくる。儒教がそのようなことを説くのは、無為自然の生き方ができないからで、そこに戻るのが本道である、ということのようです。
 ☆ ええ。そうなのでしょうね。へんな言い方になりますが そのあたりまではだいたい推測しえたのですが そのあとですね そのあと だからどうなのか?

 コンフシアニズムは ダメだと言おうとしているのでしょうか。

 本道は やはり 無為自然でしょうか? 

 だとしたら その無為自然なる生きるさまは 《仁義》が その理念をいちいち言わずとも 人びとにあって守られている。――と言おうとしているのか?

 あるいは そもそも仁義といったオシエそのものが あまりよい倫理的生き方でもないのだ。――と言いたいのか?

 けれども 儒教でなくても――もし《大道・無為自然が廃れてしまっている情況》になれば―― 仁義を説くか 苦からの解脱としてのブッダ道を説くか 隣人愛を説くか・・・するのも むしろ最小限に必要なことである。とも考えられるのではないか? 社会にとって 安定した秩序が必要だと考えられるかぎりで・あるいはつまり言わば その場を取り繕う一時的な秩序だとしても 待ったなしの秩序の必要性が求められるかぎりで。

 だからつまり 老子は何が言いたいのか? なのですが。


 ★ そこ(大道・無為自然)に戻るのが本道である、ということのようです。
 ☆ これは 実現可能であるから 人びとよ つとめなさい。と言うのか。それとも もう世の中の状態は すでに廃れてしまっているのだから 手遅れである。ただ そういった《本道》についての反省的な自覚だけは出来るのだから そのことにつとめなさい。なのか?





 ★ 日本人がこれをどう受け入れてきたかについては、知識はありませんが、日常的には、日本には儒教的な道徳観が根を下ろしたと思うので、あまり重要な役割はしなかったのではないかと思います。
 ☆ あっ これは 見解を同じくします。ピッタリと。

 儒教道徳の内容が そのままたとえば山村に住む現代の人びとが毎日山の神に手を合わせるような生活信条やまた心にとって ピッタリの思いであるかどうかそれは また別の話だとも見ますが。




 道教ないし老荘思想 これについては けっきょくわたしは勉強して来ていません。高校の漢文にも出ていなかった〔か または 出て来ていても すっかり忘れています〕と思います。

 日本古代史をやったとき 座談会で福永光司からほかの日本史の先生方がまなんでいるところを読んだり 論文集に福永が名をつらねているその論文を読んだりしただけに終わっています。

 というのも これなら 道教は 神道に親和的な部分はすでに神道として受け継がれているでしょうし 違和感のある部分なら そのまま忘れ去られて行ったものと理解しました。いえ つまり その感覚を それでよいと思い込んでしまいました。

 あとは 文献から用語を輸入しただけである。道観やらの目に見える建物などがかつては 造られたとかどうとか言っているのみである。ここでも 親和性の部分は それとして受け容れられ受け継がれているだろうし 違和のある部分は 捨て去られて行ったであろうと見たわけです。


 議論はしませんが 《無為自然》にしても かなりの程度において深く受け容れられていると見られると同時に けっして――感覚による推理ですが けっして―― もののあはれを知ることと同じ道をあゆんでいるとも捉えられませんでした。強いて言えば 平行線のごとく並行している。こうまで感じています。議論にはすすみません〔というずるい述べ方にとどめます〕。


 すなわち 道教は 日本人の思想ないし生活態度にとって打っちゃっておいてよい。こういう先入見で来ています。




 ★ これと似た言い回しで、もっと痛烈なことばが荘子のどこかに出ているはずですが、今ちょっと探せないので申し訳ありません。ネコさんならご存知かもしれません。
 ☆ そうですか。荘子の文句だと 言おうとするところが掴みやすいでしょうか。



 ありがとうございました。参考にすべきところを考えてまいります。

お礼日時:2014/10/10 23:08

理解が出来ないのか、知りたくないのか、己を隠したいのかはどうでも良いが、あまり寝ぼけた台詞をこくと抉るよ?



私は何度も言っているが、理解出来ないのならば先ずは守破離の守から始めろと言っている。

理解出来る程度の知能になるまで、暗唱したまえ。


其れともまた、一から教授して欲しいのか?
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この回答へのお礼

 趣旨説明欄の述べるところに沿って――あるいは その趣旨内容があまりにもひどく妥当性にとぼしいと考えるのなら その旨を明らかにして しかるべく――ご自分の見解を述べる。

 これが 言わずもがなの回答者の姿勢でしょう。



 意味の取れなかった箇所のほかに きちんと応答したところもあります。

 そのあたりについてだけでも もし違った見解であるのならば その旨を書き込むようにしてください。



 あぁ 無駄な手間暇がかかりますね。いつものごとく。

お礼日時:2014/10/10 22:32

別に末法思想ではない。



生物本来の生き方に沿わない生活をしている事を指している。

人間は組織を制限無く発展・拡張させて行く方向にシフトしてしまった。

此の世は限りがあるのだから、永遠の成長は有り得ない。

成長を望まなかった時代には、大道に沿って生きていた。

成長を望んだ後は、コントロールを要する様になり、仁~が生まれた。

成長する同志が境界を接した場合はどうなるだろう?

政治学の内容を多分に含んでいる文章だ。

>さとりを主張するようになったなら もう世界の倫理や共同自治は 終わりにちかづいている。ということでしょうか?

上記の様に違います。

>日本人はどのように受け容れて来たか。

知りません。

此れは人種どうこうでは無いです。
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この回答へのお礼

 ★ 生物本来の生き方
 ☆ が《大道》ですか?

 0ふーる0さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 《本来の》と言っても 分かりにくいところでしょうね。

 ★ 人間は組織を制限無く発展・拡張させて行く方向にシフトしてしまった。
 ☆ 《制限なく》は 言い過ぎでしょうね。どうですか。

 何かが廃れたとは言え ある程度は理念になりうると捉えられている《仁義》が考えられそれなりにとうとばれる社会情況もあるとは考えられるからには。


 ★ 此の世は限りがあるのだから、永遠の成長は有り得ない。
 ☆ これは あいまいであるように受け取られます。

 永遠を人類の初めから終わりまでの期間として捉えるなら そのことを指摘してもあまり 実際上の意味はない。

 たとえば高度成長期にしても確かにひと一人の一生の内におさまってしまうかも知れない。けれどもその期間の最中にあっては――永遠につづくとは思っていないと同時に―― 人間の分際や物差しに即して限りなく成長をすすめて行くという態度もあり得る。と思われます。
 
 未来永劫にはあり得ないと知ることと ひとつの短い一定期間のあいだには人間に即した自由な行動を推し進めることとは 両立しうるように考えられます。


 と考えて来るなら 次の見方についても やや粗いという印象があります。
 ★ 成長を望まなかった時代には、大道に沿って生きていた。
 ☆ 自分たちの分限に応じた成長を望んだとしても 大道(?)からそれほど逸れてしまうとも思えない。といった感覚もあり得るように思えて来ます。


 ★ 成長を望んだ後は、コントロールを要する様になり、仁~が生まれた。
 ☆ コントロールあるいは 個人の自治また社会としての共同自治 この共生の原則は 世がいかに乱れた状態になったとしても 忘れられているわけではない。その原則は ほかならぬ仁義や礼智信であってよいし さほどおろそかにされたことにもならない。のではないか。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 成長する同志が境界を接した場合はどうなるだろう?

 政治学の内容を多分に含んでいる文章だ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは 残念ながら意味が取りづらかったところです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >さとりを主張するようになったなら もう世界の倫理や共同自治は 終わりにちかづいている。ということでしょうか?

 上記の様に違います。

  >日本人はどのように受け容れて来たか。

 知りません。

 此れは人種どうこうでは無いです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ますます お説に ついて行き難い思いがあります。捉えがたいからには 反応が出ません。
 
 でも ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/10 22:04

たとえば親孝行な人がいて、みんなに賞賛されたとします。


ほとんどの人が親孝行なら、親孝行な人が1人いても目立たず
ほめられもしません。
親孝行な人がほめられたということは、親孝行な人がとても少なく
なげかわしい社会になっているということです。

みんなはそれがわかってなくて、親孝行な人を賞賛しますが
本当は、喜ばしい状況ではないのです。

老子は、その当時の世をなげくとともに、それに気付いていない
人々を批判しているのです。
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この回答へのお礼

 ばぐす3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 批判
 ☆ なのでしょうね。《大道〈廃れて〉仁義あり》というくらいですから。

 つまりは
 
 ○ 親孝行が目につくのは・その意味で仁義があるのは 大道が廃れたことを表わす。

 ということですよね。

 つまり
 ★ 老子は、その当時の世をなげくとともに、それに気付いていない / 人々を批判しているのです。
 ☆ という批判なのだろうと思いますが 果たしてこの批判を言っているだけなのですか? 

 人びとよ おまえさんたちは親孝行を褒めているが それは 大道(?)が廃れているだけのことだよ。と もし言っているのだとしたら そう言ったあと 何を求めているのか? 何をどう見直し考え直そうというのか? 

 それとも 批判をつたえて それでおしまいということなのか?


 そのあたりが よく分からないでいます。お分かりになりますか? よろしかったら どうぞご見解をお寄せください。



 つまり もし
 ★ ほとんどの人が親孝行なら、親孝行な人が1人いても目立たず / ほめられもしません。
 ☆ というふうな人びとの状態と情況が 大道であるとすれば そこに立ち戻ろう。と言っているのでしょうか?

 いやいや もう戻れない。ただ せめて世の廃れたさまなのだと自覚をして生きなさい。という意味なのか? ・・・・


 要するに 
 ▼ 大道
 ☆ って何なんでしょうねぇ。

お礼日時:2014/10/10 21:44

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