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 ▼ ちょんまげ英語日誌:老子 第三十七章 
 道は常に無為にして、而も為さざるは無し
  http://blog.mage8.com/roushi-37
 
 ▽ 原文 ~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) 道常無爲、而無不爲。
 (い) 侯王若能守之、萬物將自化。
 (う) 化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。
 (え) 無名之樸、夫亦將無欲。
 (お) 不欲以靜、天下將自定。

 ▽ 書き下し文 ~~~~~~~~~~~
 (あ) 道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。
 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。
 (う) 化して作(おこ)らんと欲すれば、われ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以(も)ってせんとす。
 (え) 無名の樸は、それまた将に無欲ならんとす。
 (お) 欲あらずして以って静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。

 ▽ 英訳文 ~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) “The way” never does anything voluntary, but it can accomplish everything.
 (い) If a monarch follows “the way”, all things grow up spontaneously.
 (う) If there are some trying to forestall others, I calm them with the spirit of a nameless raw wood.
 (え) If people have the spirit of a nameless raw wood, they will renounce excessive desire.
 (お) If people do not have excessive desire and their minds are calm, the world will be stable.

 ▽ 現代語訳 ~~~~~~~~~~~~
 (あ) 「道」は自分からとくに何かをする訳では無いが、「道」によって成し遂げられない事は無い。
 (い) 人の上に立つ君主がこの事を弁えていれば、全てのものが自分から成長しようとするだろう。
 (う) 成長する過程で自分だけ飛びぬけようとするものがあれば、私は名も無い切り出したばかりの丸太の様な素朴さをもってその心を鎮めよう。
 (え) 丸太の様な素朴な心であれば、無駄な欲望を持つ事も無い。
 (お) 皆が無駄な欲望を捨て去り、心が静かであれば、世の中は自然と安定するだろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 特に次のくだりの意味をおしえてください。
 ▽ (あ) 道常無爲、而無不爲。
 ☆ 《無為》であるが 《不為は無い》?

 試訳:《非知⇒非在》なるナゾであるが 《不在は無い》。つまり 《遍在》する。

 《為す》という概念を用いているので なかなかピッタリとは解釈しにくい。創造神でもないものを。

 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。
 ☆ これ以下は よく分からない。つまり 《無為》と言っていたものがただちに《守る》という概念で捉えられている。人間が守るという捉え方である。分からんわい。

 ・・・・

A 回答 (10件)

お示しの英語訳・現代語訳は、かなり問題がありますね。




英語訳は
~~~~~~~
37章
道常無為而無不為。侯王若能守之,萬物將自化。化而欲作,吾將鎮之以無名之樸。無名之樸,夫亦將無欲。不欲以靜,天下將自定。

(The exercise of government)
The Dao in its regular course does nothing (for the sake of doing it), and so there is nothing which it does not do.
If princes and kings were able to maintain it, all things would of themselves be transformed by them.
If this transformation became to me an object of desire, I would express the desire by the nameless simplicity.

Simplicity without a name
Is free from all external aim.
With no desire, at rest and still,
All things go right as of their will.

http://ctext.org/dao-de-jing
~~~~~~~
で、
《まつりごと(政)》について述べた部分でげす。
心について述べてはいない!!


樸については
https://kotobank.jp/word/%E6%A8%B8-629369



~~~~~~
 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。
 ☆ これ以下は よく分からない。つまり 《無為》と言っていたものがただちに《守る》という概念で捉えられている。人間が守るという捉え方である。分からんわい。
~~~~~~
これは《道(神?)の見えざる手》みたいなものじゃないですか。
「為政者は余計なことをするな。さすれば世の中は治まる」という無為の政治、《黄老思想》というヤツですよ。

黄老思想
https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E8%80%81%E6%8 …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E8%80%81% …


『老子』は、基本的に政(まつりごと)を行なう人のための書物です。
下々の人間について、下々の人間のために書かれた書物ではない。
『老子』を買いかぶってはいけませんよ(笑)。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ふうむ。たしかに 神学と政治学とに 極端なほどに分かれていますね。


 ▲ (The exercise of government) ~~~~~~~
 (あ) 道常無爲、而無不爲。

 The Dao in its regular course does nothing (for the sake of doing it), and so there is nothing which it does not do.

 (い) 侯王若能守之、萬物將自化。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これは《道(神?)の見えざる手》みたいなものじゃないですか。
 「為政者は余計なことをするな。さすれば世の中は治まる」という無為の政治、《黄老思想》というヤツですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ だとすれば あたかも為政者は シャーマンのごとくあるように見られます。《余計でないことをおこなう》その部分にかんするかぎりで。



 《見えざる手》は むしろ商品の価格が 経済主体に対して交通信号のようにはたらきその主体らの活動を交通整理し 結果として全体にわたる資源の効率的な利用がおこなわれるようになる。といったことだと思うのです。

 さらに広く社会のウゴキにかんして当てはめるなら けっきょく大きく広くかつ長期的に見た自然史過程のことを言うのだと思われます。

 ところが おそらくこの自然史過程は それより他の手段や方策があるかと言えばないかも知れませんが それでもつねによく成るとは限りません。《無為を守れば 世はよく治まる》とは限らないように思われます。



 かくして
 ◇ 『老子』を買いかぶってはいけませんよ(笑)。
 ☆ 分かりました。うけたまわりました。


 別のほうの【Q:老子は 無神論〔なる信仰〕か?】へのご回答で おおむね基本的なあらましを捉え得たかと考えます。
 枝葉がまだ整理されていないかも分かりません。

 ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/28 19:31

現代の中国が乱れている(?)のは、


「不尚賢,使民不爭;不貴難得之貨,使民不為盜;不見可欲,使心不亂。」
と真逆の政策を取ったからではないでしょうか。

民に余計な知識を与えたから、天安門事件や今の香港の騒動のようなものが起きた。
尖閣諸島なんてものの存在を民に教えたから、尖閣諸島をめぐって絶えず日本と争わなくてはならなくなってしまった。

お金・貨を尊ぶ「貴難得之貨」の風潮を蔓延させたから、人々はこれをを追い求めて、あらゆる悪事に手を染めるようになってしまった。
現代の中国経済は、圧倒的多数の自国の貧しい人からの様々な搾取の上に成り立っている。貧しい農村地域からの都市部への出稼ぎ、人件費の安い農民工を使って、労働の搾取の上に成立している。共産主義の理念は何処に行ったのやら・・・。
環境対策には多額の経費が必要になるので、工場などはこうしたことをしない。その設備を備えていても、運転するとお金がかかるので使わない。己れの利のみをひたすら追求し、その結果、川や土壌を汚染し他人に害を与えようが、そんなことは知ったことじゃない。


ですから、中国という国家を治めるためには、
 1 民をバカにして、民の欲を最小限度にとどめる (道家)
 2 厳しく残虐な法律や刑罰を制定し、民の活動を最小限に抑える (法家)
しかないんじゃないですか。
中国には、
お上であるところの《公》という概念はあるでしょうが
───仁、礼、義、忠といった儒教的なものは所詮、皇帝(今ならばさしづめ中国共産党)などに仕える官僚・お役人・士大夫の道徳、心得に過ぎない。民など端から眼中にない。中国の民には、これとは無関係な、独自の民の論理(?)がある───
《公共・public》という概念や発想が欠如しているんでしょう。


☆どうなんでしょう 日本人は この――ひとつの側面としての――思想になじみますかねぇ?
◇日本には、《世間》や《人の目》、《人様》という、漠然とした空気の如き禁則が存在するので、そもそも道家的政治術は不要なんじゃないですか。
そして、日本の民はすでに色々なことを知っているから、馴染まない。
しかも、お上が何かを隠そうとしても、人口密度が高く、情報や噂があっという間に拡散してしまうので、そもそも情報遮断など出来ないですよ。
ですから、
日本の民を操るには、これを逆手にとり、情報操作を行って、新たな空気を作った方が楽。
そして、為政者側も自身が作ったこの空気に縛られ、身動きが取れなくなり、自縄自縛状態へと至る。
この自縄自縛状態、閉塞状況を打破するために、お上は黒船などの《外圧》などをうまく利用したりするようですが・・・。そして、この《外圧》すらいずれ空気になってしまう。
ですから、
日本人は、お上や日本の民自身が作り出す怪しげな空気に騙されないように、操られないように、賢くなければならない、
と思いますよ。

この回答への補足

 おぎないです。

 韓国人でも そのセンスがコモンセンスだったと認定してもよいと思った発言集です。


 ▲ (韓国大統領府が“7時間”疑惑に回答・・韓国ネットは「国民は馬鹿だと?」「どこで何してたか説明してほしいのに…」) ~~~~~~~~~~~
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141028-00000 …

 韓国ネットユーザーからは事故から半年後にようやく公開された大統領の動静に疑問の声が殺到している。主な意見を紹介しよう。


 「今日聞いた話の中で一番笑ったwwww」

 「本当コメディレベル…全国民を馬鹿扱いするとは」

 「7プン(足りない者)が…7時間で…7回指示…なんかピッタリだwww」
 
 「国民300人が命の危機にあっても電話指示だけ…これが韓国の大統領とは…今になって自慢げにマスコミプレーする無様な姿」

 「立派じゃないか…7時間に7回も…わあ、この偉大なる精力は世界第一級。崇拝する奴らの気持ちが分かるわ」

 「キム・ギチュンは以前、大統領の電話が不通により所在確認できず、と説明してたろ。国民は馬鹿だと?」

 「指示の有無ではなく7時間もどこで何してたか説明しろというのに、7時間に7回指示したとだけ言うのな」

 「そこまで細かい報告を受けて指示したなら、状況を詳しく把握してたはずなのに。大統領が災害対策本部に現れ『救命チョッキを着ていると聞いたのに、発見にそこまで時間がかかるの?』と尋ねたんでしょ?虚偽の報告を受けた訳?」

 「それをそのまま信じる無知な国民だと?」

 「筋書作りに必死だな、必死wwwwwキム・ギチュンは『よくわからない』などと二転三転してるし。産経はチョン・ユンフェ(元秘書室長)と一緒にいたと言うしwwwww」

 「朝鮮日報がパク・クネの7時間行方不明とコラムを掲載…産経新聞はそのコラムを引用して記事に…青瓦台は産経新聞を名誉棄損で告発。で、朝鮮日報にはお咎め無し。一体どういうことだ?」

 「大統領に恥をかかせるために記事を書いたとされる産経新聞は、朝鮮日報の最初の報道を単に引用したわけです。前後関係を踏まえて騒ぐように。大統領に恥かかせたのは朝鮮日報なのに」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2014/10/29 09:18
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 Record China って情報サイトがありますよね。ときどき見るのですが 最近では 次の記事にびっくりしました。

 ▲ 「涙で写真が見えない!」「日本人には1000年たっても追いつけない!」=中国ユーザーが感動した日本の施設とは
  http://www.recordchina.co.jp/a96349.html

 ☆ これは 盲導犬が引退して老犬ホームで介護されているのを知って その中国人は《涙で写真が見えない》と言っているようです。ねむねこさんにひびく話題でしょう。

 つまり申し訳ないのですが 動物やペットに関心がない人間であるわたしは ちょっと意外だったのでよく覚えています。

 つまり 中国人も おなじですよ。こういった情感の問題にしてもではないでしょうか。





 民は寄らしむべし 知らしむべからず。(つまり 知る能力などはないと言っているのだと思います)。というひとつの見識は まだまだ一昔前までは 日本でもあったのではないでしょうか。社会の木鐸と言っていた新聞社などが そういう上から目線を心の中では持っていたというように感じますし 聞きます。







 ◇ 環境対策には多額の経費が必要になるので、工場などはこうしたことをしない。その設備を備えていても、運転するとお金がかかるので使わない。己れの利のみをひたすら追求し、その結果、川や土壌を汚染し他人に害を与えようが、そんなことは知ったことじゃない。
 ☆ この方面にチカラをそそいで欲しいところです。


 シーチンピンは 皇帝になろうとしているのだとか。
 《法治》を言い出したことは この法によっておのれの人治を徹底させようとすることなのだとか。








 そろそろ 日中韓でインタムライズム共同体をつくろうと言って行くのもよいと思いますよ。

 日本人は 多数参加しましょう。中韓では それぞれ二三人でもその方向に動く人がいたら これを始めてもよいかも知れない。そう思うようにやっとなりました。

お礼日時:2014/10/28 21:59

NO.8の付け足し。




『老子』の第三章
~~~~~~
第3章

不尚賢,使民不爭;不貴難得之貨,使民不為盜;不見可欲,使心不亂。是以聖人之治,虛其心,實其腹,弱其志,強其骨。常使民無知無欲。使夫知者不敢為也。為無為,則無不治。

(Keeping the people at rest)
Not to value and employ men of superior ability is the way to keep the people from rivalry among themselves; not to prize articles which are difficult to procure is the way to keep them from becoming thieves; not to show them what is likely to excite their desires is the way to keep their minds from disorder. Therefore the sage, in the exercise of his government, empties their minds, fills their bellies, weakens their wills, and strengthens their bones. He constantly (tries to) keep them without knowledge and without desire, and where there are those who have knowledge, to keep them from presuming to act (on it). When there is this abstinence from action, good order is universal.

http://ctext.org/dao-de-jing
~~~~~~
が参考になろうかと思います。

政治をするには、民のお腹は満たしてやるけれど、民をバカのままにして置くことが重要(ポリポリ)。
民に「仁だ。礼だ」なんて難しいことを言わせてはいけない。
「仁だ、礼だ」なんて声高に叫ぶヤツ(知者)を重んじて、コイツらに何かをさせるようなことをしてはいけない(使夫知者不敢為也)。

色々なことを知ると、欲深くなり、その欲望や余計な知識を追い求めるようになって、世の中が治まりにくくなるんで。
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この回答へのお礼

 恐れ入りました。恐れ入谷の鬼子母神ですね。

 聞いていたような感覚がありますが はっきりしました。

 どうなんでしょう 日本人は この――ひとつの側面としての――思想になじみますかねぇ?



  《アマテラス聖人および為政者 - スサノヲ民衆》の
  絶対的に分離して逆立ちする統治の連関構造

 
 が説かれていましょうか。

 ご回答をありがとうございます。



 ひょっとして日本のお二階さんの中には この種のくだりの熱烈なファンがいたりして。・・・

お礼日時:2014/10/28 19:41

B様、こんにちは。




>「《為す》という概念を用いているので なかなかピッタリとは解釈しにくい。創造神でもないものを。」

そっすね。(「そんな先まで、責任持てるか?」)
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この回答へのお礼

wwwww

お礼日時:2014/10/23 14:54

 私利私欲を含めた作為的な人為という意味では無為こそ道にかなっている、ただし何もしないのではない。

無為自然ということで、タオの流れと矛盾しない人為が望ましいという主張なのだと思います。
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この回答へのお礼

 すずめのこくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 質問者のわたしがいぢわるなことは ご存じだと思います。

 ★ 私利私欲を含めた作為的な人為という意味では無為こそ道にかなっている、ただし何もしないのではない。
 ☆ ええっとですね。
 (1) 《私利私欲を含めた作為的な人為》 これは誰が考えても よいものだとは言わないでしょうね。いちいち老子とその解釈によって言われなくても分かっていることです。

 (2) では 《私利私欲を含めた作為的な人為》がよくないことだ だからそうではない内容として《無為》を持ち出してくる。そこまでは分かります。でも この無為が《道にかなっている》というのは どこからみちびかれますか? みちびかれないとも言えないかも分かりませんが みちびかれるのだと断定することは どうしてですか?

 (3) 《ただし何もしないのではない》ということであれば その無為――ないし無為自然――も そこで人為があります。人間の意志行為が行なわれます。まづ ここまでをおさえたわけです。次としては:

 ★ 無為自然ということで、タオの流れと矛盾しない人為が望ましいという主張なのだと思います。
 ☆ (4) 《タオ》って 道のただの中国語読みにしか過ぎません。けっしてその中身は まだ定義されてもいません。ただ《私利私欲を含めた作為的な人為》ではない人為だと規定しただけです。

 (5) 結論を急ぐならば 片や《私利私欲を含めた作為的な人為》 片や《前者の作為ではない無為自然なるタオの流れ〔としての人為〕》があるわけです。悪と善 善と悪だとすれば 哲学の問い求めるのは これら善悪の彼岸だということは 相場が決まっています。そこんところを どうお考えになりましょうか?


 そういう問題が横たわると考えます。

 聖俗・浄穢・優劣等々の二項対立を持ち出して その内のよいほうをえらぶ。というのは 子供だましだと考えませんか? 世の中は そんな簡単に善と悪とに分かれるものでしょうか。

 道教・タオイズムとか 老荘思想とか ただ有名なだけで中身は どうなのかな? という問題になりませんか?

お礼日時:2014/10/21 13:15

こんばんは bragelonneさん



「ミイラ取りがミイラになる」を「上善は透明な水のごとし」にすることが哲学の役割だということでしょうか?

老子が言いたいのは、自然界の清流に身を任せて生きなさいと捉えることができるでしょう。
しかしですね、自然と共に生きて行くという事を実践しても未来があるとは思えません。

私は、老子は世界の人達を純粋な心で助けることが必要だと述べているように感じるのです。

例えば、
綺麗な水を誰もが使えるようにするには、田舎暮らしをすることではなく、水を綺麗に濾過することが必要だと思います。

これで、老子の澄んだ心と清流が何の矛盾もなくなれば、哲学は役に立つのでは。
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この回答へのお礼

 お早うございます。てふ_てふさん。ご回答をありがとうございます。



 ★ 「ミイラ取りがミイラになる」を「上善は透明な水のごとし」にすることが哲学の役割だということでしょうか?
 ☆ いえ これは 単なる感想のもんだいです。


 ☆☆ (No.4補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
  (あ)★ 「ミイラ取りがミイラになる」という諺を思いつきますね。
  (い)☆ 水のきれいに透き通った湖を思い浮かべて欲しいものだなあ。

  上善は透明な水のごとし。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり(あ)をあなたが思い浮かべたのは わたしが批判しようとして老子を読み そこにむしろ自分(=ぶらじゅろんぬ)の見解に近いところの《非知》の思想を見出した ゆえに《ミイラ取りがミイラになった》ということからでしょう?

 それに対して いや それも言うなら《上善は透明な水のごとし》と言うごとく《水のきれいに透き通った湖》のようだと言って欲しいなぁと応じたのです。

 つまり わたし(=ぶらじゅろんぬ)が 心が澄んでいるので 敵(=老子)の文章を読むときでも 良いほうへ・相手の有利なほうへと解釈するようですねと言って欲しかった。――こういう意味です。






 あとは もっともなことをおっしゃっているようですが イヂ汚く言えば 絵に描いた餅ですよね。

 ★ 自然界の清流に身を任せて生きなさい
 ☆ って いったいどうやって実行するのですか?

 ★ 水を綺麗に濾過することが必要
 ☆ 心の水でしょう? どうやって?


 ★ これで、老子の澄んだ心と清流が何の矛盾もなくなれば、哲学は役に立つのでは。
 ☆ だけれどもですね。《清流》が抽象的すぎることはいま措くとすれば 《心》は・つまり人間の心は 《自然無為にのっとるような人為》と《その方程式を逸脱する作為》とがあります。

 きびしく言えば 前者の自然の人為にしても これは《ハカラヒ》なのです。つまり《人為》です。

 いったいどうやって人為=ハカラヒなる意志行為を 自然と不自然とに分けるのでしょう?
 (ぶらじゅろんぬ理論では 《やましさ反応》の有る無しで判定します)。

 だから老子は 具の入っていない味噌汁だと言っているのです。ゆう(湯 / 言う)だけです。

 これをやはりイヂ汚くののしるなら 実際に行動する思想としては インチキなのです。《無為自然》というひとつの理念を言ったまでなのです。

 ゴータマのさとりと全く同じです。どこまで皮を剥いて行っても 芯は出来ていません。
 苦を解脱した状態が さとりである。苦とは 思うようにならない状態で まださとりに到っていない凡夫のありさまである。といった《玉ねぎ》だけは わるびれず主張するわけです。《思うようになったさとり》とは その人の主観が《生活のすべてが思い通りになっている》と思い込めば 成就したとなるわけです。玉ねぎ説法です。

 それと同じです。《無為自然》も。《清流》とは 無為自然である。無為自然とは 水をきれいに濾過した清流である。わが生活のすべては 清流がながれるようになったとその人の主観が思い込めば 道の達人たる聖人だと説く玉ねぎ理論です。


 ゴータマ・ブディズムも 老荘のタオイズムも みんなみんな二千年のマボロシです。
 目を覚ましたブッダになりましょう。

 

お礼日時:2014/10/21 07:24

こんばんは bragelonneさん (^-^)



「ミイラ取りがミイラになる」という諺を思いつきますね。
Many go out for wool and come home shorn.(羊毛を刈りに出かけ、毛を刈られて帰ってくる者が多い)

仮観(妄想)にこだわるとそうなりますよ。だから、空観(世の中)を正しく認識して考えて行動しなさい=大道(自然の移り変わりでの、無知の知と同じような徳)
まぁ お役人 への戒めでしょうね。

簡単に説明しますと、

古臭~い事を勉強して、古い理想(想定内の理想)を追いかけても、現実の世界では、生命は刻々と生滅を繰り返しながら復活、再生しています。

人間には知恵があります。無知の知を実践することで、人間の徳は行われる。

想定内(理想)ってなんですか?自然は移り変わっているのに。

理想にこだわるから、世の中は平和にならないのですよ。(自然の移り変わりには、人間は無知の知の実践でしか対応できない、人間の徳である)

人間の徳により、大道(未来)はできるよ。

この回答への補足

 ★ 「ミイラ取りがミイラになる」という諺を思いつきますね。
 ☆ 水のきれいに透き通った湖を思い浮かべて欲しいものだなあ。

 上善は透明な水のごとし。

補足日時:2014/10/18 23:28
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この回答へのお礼

 てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 人間には知恵があります。無知の知を実践することで、人間の徳は行われる。
 ☆ これはこれとしていいんですが でも《無為》は 別のことを言っているのではありませんか?


 ▼ (あ) 「道」は自分からとくに何かをする訳では無いが、「道」によって成し遂げられない事は無い。
 ☆ 《知恵 あるいは 無知の知の実践》は この後半の部分にかかわっているのではないでしょうか?

 前半は よくは分かりませんが たぶん《人為 ないし人間の実践》を超えているような部分(次元?)を言っていませんか?



 ★ 想定内(理想)ってなんですか? 自然は移り変わっているのに。
 ☆ 《想定内》は 現状としての理想でしょうね。(起き得るエラーを修正しうる理想の状態)。あるいは 理想であったもの。
 
 ですから質問者としては 想定外のことをも認識や判断の前提として欲しいという問い求めです。


 

 
 ★ 人間の徳により、大道(未来)はできるよ。
 ☆ もしそうなら おそらく老子がワージョンアップしたということでしょうね。それなら いいんですけれど もともとの内容はどうであったか。

 言いかえると まだ 修正すべきところがあった。ということではないのですか?

 取りあえずは そういうツッコミの問題です。老子について。

お礼日時:2014/10/18 18:40

> 次のくだりの意味をおしえてください。

▽道常無爲、而無不爲。☆《無為》であるが《不為は無い》? 《為す》という概念を用いているので なかなかピッタリとは解釈しにくい。創造神でもないものを。

為は、もともとは[人為的につくる]ことを表す文字だったそうですが、[五穀不為]のように[結果となる、実を結ぶ、他のものに変化する、~になる]という意味でも使う文字になっています。 「なせばなる」と発音する場合、前のなすは意思的な行為、後ろのなるは結果の実現を指すのでしょう。
「道」を「自然」や「進化」に置き直して、「進化は常に意図的になされることはない。そして、進化は起きないことはない」「世の中の変化は誰かが意図して起こしているのではない。それでもっても、世の中に変化が起きないことはない」のようなことを思い浮かべれば、「無不爲」は「起らないことはない・かならず起きる」のように類推が可能でしょう。
道は道家の立場では、宇宙万物の根源にあるもの、あるいは宇宙万物の根源にあるものと反しない生き方・思考を指すようです。「爲學日益爲道日損」では、「学問を修めてゆけば(為は人為的な行為をしめす)日ごとに知識や推理力や論理構成力はついていく(益の一字)。無為自然の道を進むと(為道の二文字)日ごとに世俗の知恵や交渉力などは衰えていく(損の一字)」のような文字の使い方をします。このような用例では、損得優劣巧緻劣雑勝ち負けなどに関して知を働かせないで、そのような知を働かすことをしないことで、自分の中に興奮や落ち込み/優越感や劣等感/怒りや恨み・妬み・不安・恐怖・失意・愛着・所有欲などの感情的な波立ちを起こさないことに徹しようとする生き方を示しているようです。

道常無爲而無不爲の無不爲を「なさざるなし」と発音すると、意図的な達成を述べているような感じを起します。発音は「なさざるなし」であっても、内実は「(道そのものは一切意図することがないのに、)世の中はあり続け、なくなるものはなくなり、壊れるものは壊れ、生まれるものは生まれ、変化するものは変化し、続くものは続く。すべてのことが実現している。=道は意図して何かをすることはないのに、すべてを実現している」と述べているのだと思います。
道家の立場で、宇宙万物の根源にあるものと反しない生き方・思考を推奨しているのですから、王侯・支配者に対しても作為・為政をしないことを推奨し、積極的な政治をしなくてもうまく支配は続き、反乱や混乱、天候不順、他国からの攻撃もなかなか起きないはずだといっているのでしょう。 それでも、欲望をもって反乱、下剋上、攻撃をしてくるものが現れたとしても、(あらかじめ治安部隊や軍事増強、軍事訓練、防衛施設、治山治水の灌漑工事などをしていなくても)自然のままの丸太(樸)で十分に何とかなる(天下將自定) 慌てふためいたり、政権維持、治安維持、食料確保、イナゴの害などに対しても、欲を持たず、心静かにして、慌てて命令などを発しなくても、それで十分だ(不欲以靜)。 自然のままの丸太もまさかのための準備をして生え丈夫に太く育っているわけではない、ただ無欲、意図なくして自然に育っているだけなのだ(亦將不欲)。
  ~~~~  ~~~~   ~~~~
日比野暉彦さんはある程度時間が自由になるようですから、一つ方向で調べる場合にも、関連のことも調べたり、想像力をたくましくしてもいいのじゃないですか。
http://c.oshiete.goo.ne.jp/user.php3?u=1405333
他人に専門家の通説を説く必要があるわけでも、試験問題の回答に困っているのでもないのなら、また実用・日常問題の解決を図ろうとしているのでもなく、あれこれやっているだけならば、もうちっとやり方があるように思います。
周囲に相手をしてくれる人がいないので、こうしたサイトを利用する人も少なくないようですが、そうして事情で質問しているわけではないでしょうから、自分で多面的に調べるとか、あれこれと想像力をたくましく働かして考え、独自見解を作り出すのも、結構面白いと思います。
わからんわいと投げかけて回答を待ったり、回答を読んでから思考の次のステップを探すのも一つのやり方だなあとは思います。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8785993.html
しかし、他人とのコミュニケーションで探りを考えるのは、どう考えても、一種の依存をしていることになります。そのうち、レスポンスが少なくなると、レスポンスを求めるための質問を繰り返すような状況に陥りがちです。 ネット依存のような心理状態、メンタル障害を引き起こす可能性もあるかもしれません。
他人からのレスポンスに依存する程度を自ら抑制して、自立に向けての自律・セルフコントロールにも意を払った方がよさそうに思います。 (余計なお世話ですかね)
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この回答へのお礼

 もと‐こうこうせいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 為は、もともとは[人為的につくる]ことを表す文字だったそうですが、[五穀不為]のように[結果となる、実を結ぶ、他のものに変化する、~になる]という意味でも使う文字になっています。
 ☆ 留意します。


 ★ 「道」を「自然」や「進化」に置き直して、「進化は常に意図的になされることはない。そして、進化は起きないことはない」「世の中の変化は誰かが意図して起こしているのではない。それでもっても、世の中に変化が起きないことはない」のようなことを思い浮かべれば、「無不爲」は「起らないことはない・かならず起きる」のように類推が可能でしょう。
 ☆ ええっと 天の邪鬼としましては これら《進化》にしても《世の中の変化》にしましても 人為があるのではないか。人為は 自然としてのウゴキである可能性があります。ですが その中には よいわるいをひっくるめた意図的な・ためにする人為としての作為も あり得るはずです。

 すなわち 大きく生物としてのその身体の機能がおよそ自律的にはたらいて進化するというのでしょうけれど やはり意図的な作為もが その進化の過程にともなわれている。はずだ。と考えるのですが どうでしょう? 《世の中の変化》にしても 同じようにです。

 つまりもう少し細かく見る必要があるでしょう。すなわち 世の中の変化を 一人や二人の人間が意図して作為したとしても その意図どおりに変化するわけではない。と考えられると同時に その意図した内容が作為されたなら 世界の大枠の変化に対して部分的に何らかの影響を及ぼさないとも限らない。

 つまり 人間の意図したとおりに世界がすすむわけではない。と同時に その世界のあゆみに対して 意図した作為がおこなわれる限りで まったく影響を受けないということではない。と考えられます。


 そういった但し書きが必要であるように思ったのですが それはやぶにらみに過ぎますか?




 ★ 道は道家の立場では、宇宙万物の根源にあるもの
 ☆ この手の概念(?)が いちばん厄介なんですよね。
 いわく:宇宙の法則。いわく:世界原理。・・・ 
 《宇宙の根源》とか そこにあるものとか わたしには何とも分かりにくい言葉です。

 《摂理》という言葉 これは たぶん条理というような意味なんでしょうね。
 木には繊維があります。木目と言うのでしょうか。この筋目に合った鋸〔の刃〕の当て方をしないと なかなか切れません。
 それが 条理でしょうか。ということは 人についてなら 生まれつきの自然本性にあって これこれのごとく考えたり振る舞ったりしてはいけないというような条理があるかも分かりません。なぜなら それに逆らうなら 胸の動悸ははげしくなり 顔は冷や汗 赤くなったり青くなったり 舌はしどろもどろ。といった《やましさ反応》が起きます。

 ですから やましさ反応に逆らわない生き方が 摂理にもとづくことになるかも分かりません。
 ということは その考え方で 《宇宙の法則》とか《万物の根源》といったことについて捉えるとよいでしょうか? でも そうではなく 物質の問題なのでしょうか?




 ★ このような用例(* 宇宙万物の根源にあるものと反しない生き方・思考を指し示した文例)では、損得優劣巧緻劣雑勝ち負けなどに関して知を働かせないで、そのような知を働かすことをしないことで、自分の中に興奮や落ち込み/優越感や劣等感/怒りや恨み・妬み・不安・恐怖・失意・愛着・所有欲などの感情的な波立ちを起こさないことに徹しようとする生き方を示しているようです。
 ☆ ということは なるほどと思わせるような世間受けのするよさそうなことをおっしゃいますが その場合 だとしたら 《無為》ではなく 《無為という人為》はおこなっている。わけです。そうではない行為(つまり 無為に反する人為・すなわち 作為)をもおこなっているわけです。


 つまり言いたいことは 人間の行為を ふたつの相い対立する概念に分けて その二項対立を図式的に示して倫理のあり方を言おうとした。に過ぎません。なぜなら 人間の意志行為という意志行為は すべて相対的なものだからです。いちいち・わざわざ 対立する二項に分けて 《道徳》を説いたとしても それは自由ですが ただただ棚卸しをしているだけのことだと考えられるからです。

 棚卸しをしたから その人は よいことばかりを行なっているとは成らないでしょうね。

 そもそも いやしくも《道》というのなら それは善悪の彼岸を目指しているものである。と相場は決まっています。二値的な論理を人間の行為の分類に当てはめたところで 言葉遊びに終わってしまいましょう。






 けっきょくのところは おおせのところに拠るなら
 ▼ 道常無爲而無不爲
 ☆ の無為の為も 不為の為も 人間の意志行為がそこに含まれているということが ひとつ。

 つぎに その意志行為は 無為そのままの自然の人為と 無為にさからった不自然の人為すなわちその意味での作為とこれら二つの種類がある。とおっしゃろうとしていること。これが 二つ目。
 
 あとは ふたつの内のよいほうをえらぶのだということ。


 こういうことでしょうか?

 だとしたら それでは《無為》にしたがう・したがわない・またはさからうというのは どういうことか? という問いがなおそこには横たわっています。これを超えてすすまねばなりません。

 たぶん 老子は その答えを言っていない。のではないか。
 自分でも知らない。のではないか。
 つまり いぢわるく見れば ただのインチキ思想である。のではないか?

 なぜって 答えを知らないのに あたかも知っているかのように振る舞っている。これを 世間では ペテン師と言います。その手は インチキです。





 コミュニケーションの問題は ひとえに人びとが――日本人が―― 問題について最後までは問い求めないということ。そのとき人びとは 《死んだふり》をするクセがあるということ。ここにあります。

 目を覚ましてやらねばならないと考えます。

お礼日時:2014/10/18 14:46

>「(う) 化して作(おこ)らんと欲すれば、われ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以(も)ってせんとす。



吾?


>「(え) 無名の樸は、それまた将に無欲ならんとす。
 (お) 欲あらずして以って静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。」

・・・なるほどね。
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この回答へのお礼

www.

お礼日時:2014/10/18 08:07

こんばんは。




>「(あ) 道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。」

しょうがない。


>「(い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。」

しょうがない。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2014/10/18 04:45

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