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 次の命題についてその当否を問います。

 ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~

 (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。

 (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。
    
 (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。

 (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。
   
 (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。

 (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?

 (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?

 (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


           *


 別の言い方で問います。

 (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。
 言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。

 (こ) その意味は こうです。
 人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。
 分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。

 (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?
 そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。

 (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。
 ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?

 (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。

 (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。
 
 (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

A 回答 (13件中1~10件)

あると思いますし


bragelonneさんの立場に立ってもあるということになってしまいます
というのも

>(か)《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?

とあるように、《赦す・赦さない》の文化があることを認めてるので
それは赦すという行為が存在することを意味します
そしてその行為が存在するところには赦す者と赦された者が存在することになり
赦す能力が存在することになってしまうのです

人間どうしの交通論の一環として生まれたとしても、ほんとうの心に反してても
それは赦す能力の否定にはならないと思います
だって現実に存在するし、《赦す・赦さない》の文化がないときは赦すことなんて
なかったのだから、本来存在しないって論法なんでしょうけど
それを言うなら言語が存在する前は言葉を話す人がいないんだから本来的に人間は
言葉を操る能力は存在しないってことだって言えてしまいます
我々が言葉を操れるように、赦す能力もあるのです


ただ文化的な面ではなく宗教的な面からなら、赦す能力はあるかと問えると思います
例えば、ある人が罪を犯して文化的に罪を赦されたとします
その人が神の前で罪を告白しろと言われた時に赦された罪も告白すべきだろうか?
つまり人は神に代わって罪を赦すことができるのか、あるいは人に赦された罪は
閻魔大王は不問にするだろうか
そういう側面からなら赦す能力があるかと問うことができると思います
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この回答へのお礼

 あしさい888さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 そうですね。ひとの心を 第一次と第二次とのふたつに分けられるという前提がありました。これについて しっかりとは説明していませんでした。

 生まれながらの自然本性なる心。これが 第一次。

 なぜ第二次の心が生じるか? これは ひとが経験的にして有限で相対的な存在でしかないからです。あやまち得るのが 人間です。マの違いや抜けをもおこなう自由度を持ちます。

 
 信仰にあっては この《有限性》を超えるところの《無限》の世界を想定するようです。(アートマン=霊我。ブッダター=仏性。プネウマ=神の霊。・・・)

 ということは もしこの信仰の問題をも人間の《現実》にふくむとすれば こうなります。

  ○ ひとの心は 《無限性 - 有限性》なる二重性から成る構造を持つ。

 《第一次の心》とは 無限性にあたかも接してその――いわゆる真理に裏打ちされたような――自然本性を保つというときのわが心です。
 むろんこのような心であっても・つまりその判断力としての意志にあっても その自由度は この真理を見たというかのようなわが心になおも逆らって 何かを欲しこれを実行に移すことがあります。

 これが 《第二次の心》であるとも言えるのではないでしょうか?
 第二次の心が あたかも悪貨は良貨を駆逐するというかのように 第一次のわが心をどこかへ追いやってしまった。そこにむしろ社会の秩序を保つために 人びとのあいだの交通整理を取り行なうために法律(または シュウキョウの倫理規範)が取り決められて行きます。

 つまりは ゆるす・ゆるさないを人間が決めることが出来るという人為的な観念が共同化されて行った。


 この現状にかんするかぎり:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >(か)《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?

 とあるように、《赦す・赦さない》の文化があることを認めてるので
 それは赦すという行為が存在することを意味します
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃるとおりのことが ただいまの現実です。

 ★ そしてその行為が存在するところには赦す者と赦された者が存在することになり / 赦す能力が存在することになってしまうのです
 ☆ というイデオロギー(観念体系)が築かれるに到りました。


 と見るのですが どうでしょう?





 ★ 人間どうしの交通論の一環として生まれたとしても、ほんとうの心に反してても / それは赦す能力の否定にはならないと思います
 ☆ 《ほんとうの心に反している――つまりは わが心において それをおこなうとヤバイと感じられ ヤマシサ反応が起きるということ――》 これは そこには《ゆるす能力もゆるさない能力も》無いと思っているわけです。つまりは そのように今から思えば赦す赦さないにかかわるような・《怒り》が込み上げてくる何らかの仕打ちを 相手からこうむったときにも  ほんとうの我が心にあっては 赦す能力も赦さない能力も無いと思っているわけです。

 そのあと ゆるす・ゆるさないという文化が生じて来た。よって その権利だとかあるいは能力だとかも もともとあるはずだという議論へと進んで来た。うんぬんです。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だって現実に存在するし、《赦す・赦さない》の文化がないときは赦すことなんて
 なかったのだから、本来存在しないって論法なんでしょうけど
 それを言うなら言語が存在する前は言葉を話す人がいないんだから本来的に人間は
 言葉を操る能力は存在しないってことだって言えてしまいます
 我々が言葉を操れるように、赦す能力もあるのです
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という論理からの批判については 冒頭の議論が 《待ち構えて》います。

 すなわち 歴史的・時間的に昔と今とに分けるのではなく そのいま・ここなる現在において ひとりの人間には 《無限性 - 有限性》なる二つの要素が存在すると想定できるのではないかという議論です。

 ひとが 無限性――すなわち わが心がつねに《ほんとうの》心に従うことが出来るみなもとのチカラ――にもとづくなら 赦す・赦さないの能力はない。となるという寸法です。


 言いかえると いま・ここなる生身の人間にあって 《第一次の心》を実践する能力としての自然本性もあれば そこから脱線する《自由度》をもったわが心もある。となります。

 《言語》を持った段階の歴史にあっても 言語以前の生と社会を生きた人間の自然本性をなおよく保っているのではないか。という視点であり その視点を 《言語以後の文化段階》なる人生および社会についても 自由に当てはめることは出来るのではないか? 

 特にただちに何かの効果や有益なことが出て来なくても そのように言語以前の世界にも われわれの頭と心とが開かれているということは 基本的に言って有意義ではないか? です。




 ★ ただ文化的な面ではなく宗教的な面からなら、赦す能力はあるかと問えると思います
 ☆ わたしの見方は その真逆です。シュウキョウがからむと 余計 ほどける結びもほどけなくなる。と思います。文化つまりここでは特には法律ですね この法律ないし慣習法のところまでに限って捉えたほうがよいと思っています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 例えば、ある人が罪を犯して文化的に罪を赦されたとします
 その人が神の前で罪を告白しろと言われた時に赦された罪も告白すべきだろうか?
 つまり人は神に代わって罪を赦すことができるのか、あるいは人に赦された罪は
 閻魔大王は不問にするだろうか
 そういう側面からなら赦す能力があるかと問うことができると思います
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 非常にかなしく残念なことながら 《発想》がすでに《文化的・宗教的に》逆転してしまったのではないか? と考えます。

 つまりここで言う《神》は これが 広い意味での文化段階における神であり――文化以前の神は 自然本性に宿りそなわっているという想定です―― まさしくシュウキョウの神です。人為的・人工的・作為的な神です。

 なぜなら 文化的に・法的に罪を赦されたとしたとき それは まだ甘い・軽い・甘すぎると言って 法律によれば罪が赦されるかも知れないが 《真理を扱う》宗教によれば それはそれは厳格に判定され裁定されるのだぞ よく心得よという《第二次のわが心による》議論なのです。

 早い話が 文化の極致が シュウキョウであり何ごとも見過ごさない公平なる目を持っている神〔という概念装置〕なのである。とその文化的知性は 言おうとしているはずなのです。


 これは あたかも 文化以前の自然本性における《ほんとうの我が心》が 想定されるだけではなく 真実の知恵なのだと言おうとしていることにひとしい。

 ほんとうは シュウキョウの神が問題ではなく 個人の内面における信仰の神(真理)が問われている。

 シュウキョウは 信仰のあたかもセミの抜け殻である。蝉本体を問うことなく しかもその本体の内面問題を扱おうとしている。



 こういったカラクリが じんるいの歴史には 構築されて来ている。のではないでしょうか?

 このマボロシをさとることが 信仰のねがいであり のぞみであると考えます。
 シュウキョウはつねにそのマガイモノを用意し提供しようとします。


 シュウキョウは すみやかに自己解体するのが せめてもの社会への貢献です。



 言いたい放題みたくなって すみませんが 偽らざる考えです。

お礼日時:2014/09/10 14:10

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~


 ただし相手は最も深き闇を携えた悪魔で、彼らを闇に落とした人類は対象外だ。
 人類は自らが理解すればよい。
 滅びの宴が始まる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは ちと 月並みの文句ではないだろうか?

 《赦す》相手が このような悪魔なのだろうか?
 その悪魔を闇に落とした人類? ――おそらく誰もがこれを読んでも まだよく分からないと思う。わたしも分からない。

 ★ 人類は自らが理解すればよい。 / 滅びの宴が始まる。
 ☆ 分からんなぁ。

フン、フンフンフンふーん。
ここの判らないという言い分はな、人類の誰もがあなたの裏切りを許さないでしょう。
こう響くのだよ。
そして私は赦されざる者を名乗る。
だからこそ悪だ。
とことんかっこいいだろ。
まさに仮面ライダーだ。
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この回答へのお礼

 分っかんないなぁ。

 芝居なら 文学の世界だ。哲学とは無関係。




 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/09/09 08:50

君の意見を肯定的に解釈すると。


赦す赦さないなんてことに悩んだりしないで仲良くしているのが普通じゃん。
そう言う事だろうね。
いいんでねえの。
しあわせて何よりだ。

俺様は黒き明星だー。
赦されたいんなら許してやる。
受け取れ。
俺様の愛だー。
こういう激しさだ。
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この回答へのお礼

 ただし しかるべき・必要なだけの――けっきょく互いのそして自由な――批判は おこないます。これは むしろ徹底的におこないます。

 その上で
 ★ 赦す赦さないなんてことに悩んだりしないで仲良くしているのが普通じゃん。
 ☆ となります。




 黒き明星は 分かるような分っかんないような。・・・




 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/09/08 23:32

9だよ。



君の前提の全てが間違っている。

これを君の前提の全ては私とは正反対だ。

こう修正しておこう。
礼儀のつもりだよ。
君は君で励みたまえ。
私は輝かしき光を身にまとった、初代男子プリキュアの方がしょうにあっている。
しかし人類の裏切り者として呪われた私は黒き明星だ。
そこまで悪の汚名を着ようとも悪魔を愛する。
かっこいいだろ。
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この回答へのお礼

 分っかんない。

 直前の回答への応答を見てみてくれたまえ。末尾のところだよ。



 つづいてのご回答をありがとう。

お礼日時:2014/09/08 23:14

フン。


君の前提の全てが間違っている。
赦しを受け取らないとしても一方的に許せばいい。
我が名においてだ。
社会の合意の過程を君は重視するが、いらんことだ。

そんなだと、
おめでとう君は無我だよ。
こんな厭味を言う事になる。

言葉として救いの片鱗がうかがわれる言い回しの例をあげると。
あなたは今だ自分自身を許すことはできないでいる。
しかし私はあなたを許す。
こんなべたべたな言い回しでぐっと着たりするだろう。
慈悲という慰めや人に救われるのはこんな思いからだろう。
社会的であることはむしろ、許さない事でなく、赦す事だろう。
黒き明星の私は社会通念を無視して、個人的かつ一方的に赦す。
ただし相手は最も深き闇を携えた悪魔で、彼らを闇に落とした人類は対象外だ。
人類は自らが理解すればよい。
滅びの宴が始まる。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 赦しを受け取らないとしても一方的に許せばいい。 / 我が名においてだ。
 ☆ この《我が名において》というのは どういう意味でしょうか?

 《ゆるす》のは おのれの意志行為です。つねに。そのような内容として 言ってみればやはりつねに《わが名において》 振る舞われています。


 ★ 一方的にゆるす
 ☆ というのは おそらく《ゆるす・ゆるさない》から自由な思いや心のことだとも考えられます。

 ただし その行為のマチガイについては その内容を明らかにして互いに知っておくということ。これをもおこなっておきます。

 このことが おそらく次の《社会の合意の過程》のことだと思われるのですが。つまり:
 ★ 社会の合意の過程を君は重視するが、いらんことだ。
 ☆ つまり ゆるしとは別のところで この過程を重視するということになっています。




 ★ 社会的であることはむしろ、許さない事でなく、赦す事だろう。
 ☆ まさにそのとおりであって これは――つまり《ゆるす・ゆるさない》が問題になるような社会状態というのは―― 第一次の自然本性から第二次の《文化》なる段階に入ったところで生じる。

 すなわち 何らかの人為的に人工的に作為的に《社会的な取り決め(つまり 律法ないし法律)》を持ったことから始まるものと考えられます。

 これを言いかえると:

 ○ 第二次の社会的にして文化なるものの情況にある人間関係に到る以前にあっては・すなわち 第一次なる自然本性にあっては ゆるす・ゆるさないという思考からひとは自由である。いちいち何も考えない。
 ただし そのアヤマチについて どこが間違ったのかなどについて 詳しく検証しておくし そのマチガイを侵した者にきちんと伝えられる。

 となります。

 この第一次なる自然本性に直接に立ち戻って考え行為を成すことを おそらく
 ★ 黒き明星の私は社会通念を無視して、個人的かつ一方的に赦す。
 ☆ というときの《社会通念を無視して》と言っているものと考えられます。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ただし相手は最も深き闇を携えた悪魔で、彼らを闇に落とした人類は対象外だ。
 人類は自らが理解すればよい。
 滅びの宴が始まる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは ちと 月並みの文句ではないだろうか?

 《赦す》相手が このような悪魔なのだろうか?
 その悪魔を闇に落とした人類? ――おそらく誰もがこれを読んでも まだよく分からないと思う。わたしも分からない。

 ★ 人類は自らが理解すればよい。 / 滅びの宴が始まる。
 ☆ 分からんなぁ。

お礼日時:2014/09/08 23:12

視点を変えまして、


「赦すとは信じる」ことである、と再定義ましょうか。
この定義は、おそらく、それほどひどい定義ではないのだろう、と思います。
前に提出した定義とも矛盾はしないと考えます。
そして、この能力は先天的に我々に与えられている。


人間や動物の赤ちゃんは、他者を疑うこと、恐れることを知りません。
無条件、無前提に他者を信じています。


いや、まぁ、赤ちゃんに聞いたことがないので、
本当にそうなのかどうかは確かめようがありませんが、
他者を疑うということは、後天的に自身の経験を通じて学ぶということだけは確かなのでしょうね。


如何がでしょう?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 自説を展開することをおゆるしください。

 
 アブラハムは 長子イサクをいけにえに捧げよと言われて 悩みに悩み 苦しみ抜いて ある結論に達しました。

 たぶん朦朧としたあたまに こうヒラメキを得たのだと見られます。:

 ○ ~~~~~~~~~~~~~
 もしおまえが 神のちからを信じているなら
 =ということは 自然本性にあってその自由において知覚し思考し振る舞うならば

 おまえは ひとを――自分にせよ他人にせよ――ころしはしないであろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 このような内容として

 ◇ 「赦すとは信じる」ことである
 ◇ 人間や動物の赤ちゃんは、他者を疑うこと、恐れることを知りません。 / 無条件、無前提に他者を信じています。

 ☆ という定義を受け留めます。



 言いかえると ものごころが着いてからは 先ほどの第一次の自然本性から文化なる段階に移ります。

  ○ なんぢ ころすなかれ。
 
 という規範を受け取ります。そういった段階としての
 ◇ 他者を疑うということは、後天的に自身の経験を通じて学ぶということだけは確かなのでしょうね。
 ☆ という《文化》状態の中にあってこそ 《あやまちをゆるす・ゆるさない》といった心的現象ないしその観念が生まれて来たのだと。


 ということは げんみつに言うとすれば

 ○ 信じる状態にあるならば すでに《ゆるす・ゆるさない》文化としてのクセから自由である。
 ◇ そして、この能力は先天的に我々に与えられている。

 ☆ このように展開されるのではないかと思っています。どうでしょう。



 ブディズムでは どう展開しましょうか?
 戒律という《文化》状態のみではないんでしょうね?

お礼日時:2014/09/08 22:49

「赦す」が「自由にする」という主体的行為や態度を指し示すのであれば、


人間には、「赦す」能力はあるのだろう。
この「自由にする」対象は、他者だけでなく、自身や自身の心なども含まれます。

ただし、無制限、無条件に「赦す」ことはできない。
一人一人、また、その「赦す」対象によって閾値が異なっている。


こういうことではないのでしょうか。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 今回は 反対の側から論陣を張りたいと思います。


 ◇ 「赦す」が「自由にする」という主体的行為や態度を指し示すのであれば、 / 人間には、「赦す」能力はあるのだろう。
 ☆ この《自由にする》が 人の意志行為のうちで おのれのヤマシサ反応にさからっておこなった行為によって ほかの人がその意志を自由に発揮する機会やチカラそのものを奪ってしまうことになった場合にかかわるのならば それは 出来ない。という仮説を推し出しています。

 そういう意味での意志行為としての相手や他人のあやまちにかんして こちらがすることの出来るのは そのヤマシサをともなった行為の内容を分析し 意志自由という(または 自由・平等・愛なる公理という)心を踏みにじったことを合理的に明らかにすることまでです。(法律にからめば その決まりにしたがった処理・処罰がくわわります)。




 ゆるすことも出来るという主張は ゆるす・ゆるさないといった文化がすでに人びとのクセとなりナラハシとなった段階と情況とにおいて現われる心的現象です。(法律もからむかとは思われますが)。

 自然本性は おのれの心の意志自由をゆがめたあなたよ もとの自然本性に立ち還れということだけをのぞみ じっさいそのために現場検証などをおこなうものだと考えます。

 この第一次自然なる人間から 第二次社会的自然へと 人間およびその心は《文化し進化した》のだろうと思われます。
 
 《自由にする》とすれば そういうカラクリが 社会の成り立ちとして二次的につくられて来ている。のだと見ます。
 


 ◇ この「自由にする」対象は、他者だけでなく、自身や自身の心なども含まれます。
 ☆ 他者については その心をどうにかすることは かないません。出来るのは 自分の考えやのぞみを伝えるところまでです。

 自己については すでに第一次自然としての自然本性にあっては もともと《自由にされている》状態にあると見ます。

 われが自由な状態にあるとき なれも かれも 同じく自由の状態にある。よって誰もが この自由なる状態について同じであるからには 互いに平等である。

 この自由性すなわち平等性が ヒトに共通の基礎を成すとするなら 互いにこれをとうとび その意味で愛し合うことが出来る。共生にみちびかれる。

 このような第一次の自然本性にあっては 人のあやまちについて――そのマの違いや抜け具合いを出来るだけ《客観》して分析し 将来にそなえることは出来ても―― それを赦さない・いや 赦す いやいやその民族はもろともにほろびるべしとして画策するといった措置は 人間には出来ない。しても 無効である。

 あるいは 第二次の社会的自然の文化状態の中で 幻想として おこなわれている。《さとり》を得るとは このまぼろしから解脱することである。



 赦さないことも赦すこともできないという能力を ひとは持つ。
 第二次の心的社会的現象は 要らないと。


 
 ですから 以上の議論によって
 ◇ ただし、無制限、無条件に「赦す」ことはできない。 / 一人一人、また、その「赦す」対象によって閾値が異なっている。
 ☆ という議論は 第二次の社会的文化としての産物の内においてこそ起きていると見られる現象である。こう捉えます。いかがでしょう。

お礼日時:2014/09/08 21:37

あなたはいつでもパープーですね。


考えをいじってはならないと言ったじゃありませんか。
思考するものなのです。好きにしてはいけません。
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この回答へのお礼

 ★ あなたはいつでもパープーですね。
 ☆ はい そうです。

 ★ 考えをいじってはならないと言ったじゃありませんか。
 ☆ そうでしたか。何しろ 健忘症でして。


 ★ 思考するものなのです。好きにしてはいけません。
 ☆ そうなのですか。

 ところで 好きにしなくて 思考するものだと捉えたら どういう答えが出て来ますか?


 ひあく123さん 続きましてのご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/09/08 18:20

「赦す」とはどういうことなのか、現在、思案中です。


正直、よく分からない。

日本語の語源的には、どうやら
 「緩(ゆる)ます」 → 「赦(ゆる)す」
らしいんですよ。
「ゆるゆる」、「緩い」の「ゆる」です。


で、問題は、漢字の「赦(しゃ)」ですね。
象形的には、
この「赤」は「火」に照らされた「人」を意味し、右側は「右手で”ボク”と打つ」ことを意味するらしいです。
ですから、この漢字自体が何を意味しているのか、さっぱり分からない。
ただ、
「捨(しゃ)」と関係があるらしい。
そして、「赦」は「罪」と関係があるようです。


ヨーロッパ、キリスト教世界では、「赦し」は「罪」と関係しますよね。
カトリックは、その典型なのでしょうけれど、
人の世界において、神からこの「赦し」の権限を与えられているのは、ローマ教会のみ。
これは、(ローマ教会以外の)人には、「赦し」の力が与えられていない、ということを意味します。
「赦す」ことができるのは、神だけなんだろう…。

ただ、こうしたキリスト教的な「赦し」という概念を、日常語として使われる「ゆるし」にまで適用するのは、如何なものか、と考えます。

少なくとも日本語の「ゆるす」は、「ゆるゆる」の「ゆるす」ですから(ニコニコ)。
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この回答へのお礼

 ◇ 日本語の「ゆるす」は、「ゆるゆる」の「ゆるす」ですから
 ☆ そうですよ。《大目に見る》といったニュアンスではないでしょうか。

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 つまり 《相手に対する強く・きびしく咎める姿勢をゆるめる》ことが出来るか? その能力が人間にあるか? です。

 つまり ささいなことだから その責めを問わないでおこう・大目に見ようという事例があったとしても 基本的に 人があやまちを侵して 咎を受けると思われるとき その責めをゆるめ 何もなかったことにする能力 これが 人間にあるか? です。


 クリシチアニズムは 関係ありません。

 関係させても よいわけです。



 横田めぐみさんの意志と自由を踏みにじったあやまちを ゆるす・ゆるさないという能力や資格が 人間にあるか? です。

お礼日時:2014/09/08 18:17

「あやまちを赦す」 定義づけが甘い。


許容するのか見放すのか、どうとでもとれる。

奇天烈な文語体で主題をぼかすのは、自分の思考に
酔っているだけに過ぎない。質問者に必要なのは哲学
ではなくて、純粋な医学によるしんだんではなかろうか。
違うというならば、口語体で客観的な論証を待ちます。

但し、100文字以内で。
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この回答へのお礼

 き_Aさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 奇天烈な文語体で主題をぼかすのは、自分の思考に / 酔っているだけに過ぎない。
 ☆ 酔えるほどの名文を書いてから言ってください。

 けれども ご自分が酔えたから そう言うんでしょう。ただし 相手をほめるのは 自尊心がゆるさない。
 自己投影でしょ。


 ★ 「あやまちを赦す」 定義づけが甘い。 / 許容するのか見放すのか、どうとでもとれる。
 ☆ 《赦す》という漢字は とがめても当然な被害を受けているのに これを放棄するごとく おこなわない。そういうふうな意味合いのはずです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 質問者に必要なのは哲学
 ではなくて、純粋な医学によるしんだんではなかろうか。
 違うというならば、口語体で客観的な論証を待ちます。

 但し、100文字以内で。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここまで自省的にして 自己に課題をあたえて ふるき《わたし》から卒業しようとするのは 見上げた態度だと思います。健闘をいのります。

お礼日時:2014/09/08 16:28

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