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哲学とは何でしょうか?

「知識欲」ということは分かりました。

ジャンルが神学や科学に限定されるということでしょうか?

A 回答 (10件)

ウィトゲンシュタインは「哲学探究」のなかで、こう言っています、



「哲学とはハエにハエ取り壺からの出口を見つけて抜け道を教えてやることである」と。

またこうも言っています、

「哲学とはわれわれの知性の惑溺に対して言語の手段によって行なわれる戦いなのだ」と。

ウィトゲンシュタインによれば哲学の問題というのは言語の正しい用法を学んだならば解消してしまう問題なのだ、と。

つまり言語の詐術によって私たちは幻惑されているので、言語分析によって言語の用法を正せば、たいていの哲学の問題は解消してしまう性質のものだということです。
哲学の目標は、哲学を言語分析によって幻惑の元を断ち、哲学を否定すること。
実際、ウィトゲンシュタインは「論考」を書き上げて、これで世界の謎はすべて解き明かしたからと言って哲学を放棄して小学校の先生になりました。

何が哲学の眩惑なのか、1つ例を挙げれば、「私は・・・・」とか「時間は・・・・・」とか「社会は・・・・・」とか、何ものかを主語において語るとその主語が実体的に存在するものと錯覚する傾向があります。
デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」といい、その主語の「われ」を実体的に存在するものと錯覚しました。
古代ギリシャのアリストテレスも「文法で、主語に置かれたものが実体である」と言って、主語と実体を同一視しました。
「私は・・・・」と言って、私を主語において語ったからと言って、私が実体的に存在するわけではありません。
また「時間は・・・・」と言って時間を主語において語るからと言って、時間が実体的に存在するするわけでもありません。
ところが私たちは何ものかを主語において語ると、そのものが実体的に存在するものと錯覚するのです。

これが言葉の詐術の例です。
哲学の役割は言葉の用法の間違いを指摘し、その正しい用い方を示し、間違いを正すことです。

「私とは何か?」とか「存在とは何か?」とか「世界には始まりがあるかないか?」とか「世界は部分からなるか、それとも部分からならないか?」とか「世界は有限か、無限か?」とか、その種の問題はすべて言葉の用法が間違っていることから由来する、虚構の問いです。
人類は古代ギリシャ以来、2500年に渡ってその種の虚構の問いに悩まされてきました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>「哲学とはわれわれの知性の惑溺に対して言語の手段によって行なわれる戦いなのだ」と。

だから皆さんのご回答は言葉が非常に難しいのですか。
僕はもうあっぷあっぷしています。

「これで世界の謎はすべて解き明かしたから」
これはあり得ないと思います。
教え育てることは素晴らしいとは感じます。

「言葉の詐術」は確かにあると思います。
言語が人の間を取り持っている限り、間違いを正すことは不必要な論争を避けるに至るでしょう。理性の教えとも受け取れます。

「虚構の問い」
宇宙人はいるか?いないか?ですか。
ちょっと違うか。
すみません。僕は素人なので大目に見てくださればと思います。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/15 05:27

学問的な事は他の回答者が答えて下さるでしょうから、個人的に思ってる事を



「考える事」かなぁ?と思ってます。

だからジャンルはなんだっていいんだと思います。
例えば…皮は食べるべきか捨てるべきかとか、今なんでコケた?とか、誤字はどこまで許せるか どうしてそう思うのかとか、腐女子はなぜ発生するかとか、しょーもないと思うような事でも、子供がかえるはなんでみどり?とか チョコレートはなんで美味しいの?と思うような事でも、考えればOK!だと。

それぞれが出すことえもいろいろで OK!だと思ってます。
一般的な事と違ってもいいんだと カエルの色は 雨の季節だから とか おいしそうだから とか でも、そしてなんで その答えなの? と考えるところから始まるんじゃないかなぁ?
そこから導き出されたのが、雨に濡れた葉っぱの色だから でも、キャベツと似た色だから でも…

考えが奥に行くと科学的になりそう

う~ん、雪の中の丹頂鶴の絵が美しいと思うのはなぜ? 胸が痛くなるから → 深い感情を呼び覚ますから でもいいような
どんな感情かは、個人の経験で左右されるから本当の正解はなさそうな気がするけど、考えた本人が納得いくまで考える道筋が哲学なような気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「カエル」が二度も出てきて参りましたが・・・カエル好きですか。
カエルの種の全てが緑色ではありません。
それは生物学です。
ダーウィンの進化論ですね。

因みに申し上げますと、カエル社会ではモード革命が起こり、こんなダッサ茶色は嫌だとする部族が反乱を起こし緑色を取り入れました。
もちろん嘘です。

脳を働かせるのが哲学であるとするなら、そこにジョークも必要かと思いました。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/16 07:58

哲学とは何かに答えを出すこと。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

答えに到達する手段として、先人の知恵に触れるということでしょうか。
また、周囲に意見を求めることでしょうか。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/16 00:52

ヴィトゲンシュタインによると


「命題を明晰にすること」
ドゥルーズによると
「新しい概念を生み出すこと」ですが
今の所、納得出来たのはこのふたつです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>今の所、納得出来たのはこのふたつです。

納得できないことだらけですが、それを自己のなかで追及していけば良いのだと受け取って宜しいのでしょうか。

「新しい概念を生み出すこと」
その為には他者の意見に耳を傾け、真摯にその意見についても考えていく必要もありますね。

僕は心理学のほうが性に合っています。
経済学部卒ですから心理学も少しは学んできたことで入りやすいのですが、それも哲学の一環だったのかと思えばなんだか気恥ずかしいです。

多角的に物事をみるという癖はついておりますけれど、哲学に関しましては知らぬうちに触れてはいても食わず嫌いだった感がございます。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/15 04:58

中世以前、宗教が哲学(世界観)であり科学(存在論) でした。


人々の環境に対する認識の深まりにおいて、科学が 独立した知的作業分野となり、次いでその科学の発達 において得られる世界像の深まりにおいて、宗教は 日常の即物的実感から遊離した、独自の世界観となり、 独立したものになったのです。
その意味では、「哲学をしよう」とことさらに構えなくても、 何か1つの事について深く&広く考察すれば、哲学的に なると言えます。

つまり哲学とは、総体的な世界全般について日常実感 の奥に向かって洞察する事であり、そこの中から特定の 対象についての「洞察」が、たとえば生物は生物学、 化合物は化学、星は天文学といった具合に独立した、 残りが哲学なのです。
この世界を構成する情報は、生物学・化学・物理学と いった具合に分断して存在する訳ではなく、そうして 独立した分野になるのは、それを扱う我々の側の 処理能力の限界によるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「宗教」というものに馴染めないのかもしれません。僕は無宗教です。それを否定するものではありませんが、自分のなかに取り入れるのには抵抗を感じてしまいます。

>「哲学をしよう」とことさらに構えなくても、 何か1つの事について深く&広く考察すれば、哲学的に なると言えます。

そうしたなかでこのお言葉には救いを感じました。

観察に終始せず「洞察」すること。
常日頃から自然と湧き出る「知りたい」という欲求は、これからも大切にしていきたいと思いました。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/15 04:40

「哲学」は国によって異なります。



例えば、アメリカでは「全ての学問」の総称です。

その為、日本では哲学と関係ない医学博士は「Ph.D in Medicine」ですし、経済博士は、「Ph.D in Economics」となります。(Ph.Dとは、 Doctor of Philosophyの事です。)


日本は、アメリカと異なり、「哲学」と言う学問が独立しています。主に、偉人の言葉の研究や、宗教学に近いことをやっていますが、宗教学は宗教学であって、哲学ではないですね。

よく分らない学問になっているので、質問者さんのような疑問を抱く人が多いのは当然と言うべきでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>よく分らない学問になっているので、質問者さんのような疑問を抱く人が多いのは当然と言うべきでしょう。

正直申しまして全く分かりません。
だから馴染めないんです。

「愛知学」とするのであればカテゴリを細分化すべきでは無いとも思います。
回答者様の仰るとおりなんです。

格言を紐解くだけが哲学との概念すら持っています。
そうなりますと時代遅れと窺える思想が多く、また、押しつけがましくも感じます。

日本では小難しいようなイメージで定着してしまったように思いました。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/14 09:13

概念を構築し認識を新たにして共有概念で他者と認識を持てる。


そこで、意思疎通ができる。

明らかにし、導き出し、選択肢を得て選択をする。
その過程へて、自身の適切な選択の結果を得る。
選択を実行し遂行し、その結果に繋げることまでが哲学の知であり
常に知と共に前進し共有し、成果を成し遂げたり分かち合ったりできるようになる。

常に自らが意識し認識し、知と共に過ごす。
それを持って「知を愛する」ということだと思います。

その全体を持ってして、哲学と称されていると思います。

この回答への補足

申し訳ございません。

お礼の漏れがないように順にお礼をしていますが、何故か飛んでしまったようです。

もしかしますと新機能に僕が馴染んでいないからかもしれません。

大変失礼いたしました。

補足日時:2014/10/16 00:23
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>概念を構築し認識を新たにして共有概念で他者と認識を持てる。

「共有概念」はとても大切であると思います。
そこが根本であり、そこに食い違いがありますと正論もただ空回りするに潰えます。
そこで共通概念である定義が求められるのだと思います。

>そこで、意思疎通ができる。

確かに。まずはそこからです。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/16 00:46

 こんにちは。




 ★ そもそも哲学とは何ですか?
 ☆ というように《そもそも○○は何ですか?》という問いを発しこれに答えるのが 哲学です。

 哲学とは? にも答えます。

 基本としては 《マ(間)が違ったときや抜けたときなどに 元の状態に立ち還る》ための思索とその実行の手段をも考えさらに実際に元の状態に戻ること。これが 哲学といういとなみです。

 

 ぶっつけ本番のときもあるでしょうし また 日頃からすでにこの思索をおこなっておくこともします。

 
 すなわち:

  そもそもマが違うとは どういうことか?
  間抜けとは 何を言うのか?
  
  マを回復すればよいのか?

  そもそもマとは何か?


 さらにあるいは:

  マとは とうぜん人と人とのあいだであるか?

  その人間関係というマに どうして違いや抜けが起きるのか?

  人間関係のことをマと言うのだとすれば 世界はすべてマから成っている。

  あとは 自然環境および マの歴史過程としての社会環境である。

  マの一般理論として 世界の認識が出来そうである。

  ・・・

 というふうに理論をも考えておきます。

 自然界ないし自然身体と《われ》とのマをめぐって その事実認識をおこなうのが 自然科学です。

 社会環境と《われ》とのマ あるいは マなる諸関係とその総和としての社会について事実認識をおこなうのは 社会科学です。

 《われ》と《われ》とのマについて――出来るだけその普遍性を捉えることが出来るようにとの志をもって――考察するのは 人文科学です。

 《われ》は この場合思いっきり《主観》のことですから そこに普遍性があるかどうかは 決まっていません。そしてなくても 認識のいわゆる客観性を得ようと目指します。


 このような科学は 経験事象としての《可知(既知および未知)ならびに不可知(知り得ないと知ったことがら)》を取り扱います。世界認識とは 経験世界についての認識です。


 ところが ここで 経験事象を超えている《非経験の場》も想定され得ます。それは 《非知》として《人間が知り得るか知り得ないかが知り得ないこと》が想定され得るからです。

 この《非知》とは何か? を扱うのが 《神学》です。《非知= 非経験の場》 これが 《神》のことです。



 なお
 ★ 知識欲
 ☆ というよりも――つまりたとえば 神とは何か? なる問いから入るよりも―― もし神がいるとしたら なぜこの世はこんなに悲惨なことが多いのか? というような《マの違いないしマの抜け》を何とか出来ないものかというこころざしを持ったところから入るという場合もあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>そもそもマが違うとは どういうことか?

間違う。思想のベクトルがあらぬところに向かっていること。

>間抜けとは 何を言うのか?
 
無為でないこと。 

>マを回復すればよいのか?

持ちえない者に回復もなし。

>そもそもマとは何か?

呼吸に近いものである。

思ったままを書きましたが、難しいものですね。
なぜなら人とはそこに、固定された観念を植え付けられているからだと思います。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/14 08:56

生きるすべを考えさせてくれるものです。

生きるすべを教えてはくれません。自分で考えて生きるすべを知ることです。この知ることを楽しむことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「生きる術を教えてはくれない」とのことは僕も感じていました。
延々と論を繰り返すような感が否めないんですよね。
結果を求められる毎日に身を置きますと、性急になり区切りを設けてしまう癖がついておりまして、楽しむまで至っていないのが実情でございます。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/14 08:34

tubasa2014 様、



私にとっての哲学観は、森羅万象の事象の分析であると考えていますので、神学や科学も広義には哲学に含まれると考えています。しかし、これは、飽く迄、私の個人的主観に過ぎません。ググってみましたら、以下のブログの方に日本人が記録に残した哲学観について、簡単ではありますがヒントが書かれています。ご参照して下さい。該当部分をコピペしておきます。

http://kingkingko.cocolog-nifty.com/blog/2008/03 …

★上記ブログの一部のコピペです。

いわゆる、「無知の知」というやつですね。で、これを受けて、江戸時代に「蕃書調所」で日本最初の哲学の講義をした西周は、philosophyを「希哲学」と訳したらしい。philein(愛する)=希、sophia(知恵、知識)=哲、でつじつまは合っているのだが、しかし、明治になって西は、なぜか「希」を削ってしまったのである。なんで削ったのかね。で「哲学」だけが残ったと。
 そんなことを知ると、「愛知学」とか「希知学」としておけばもう少し、なじみやすかったのではないかと悔やまれる。

★西周(にし あまね)が江戸時代の蕃書調所(ばんしょしらべしょ:現代的には、洋書購読室)で哲学の講義をした時に、彼は「希哲学」としたようです。意味は「希哲」の「学」です。知恵や知識を求める学問と言う意味です。後に、「希」の漢字を外してしまい、現代語の「哲学」が定着してしまいました。

★都道府県の愛知県は偶然に過ぎませんが、「愛知」の意味が哲学の意味です。

★この回答は参考程度に一読するに止めて下さい。

ロータス 拝
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

西周とは、フリーメイソンではありませんか。
僕は坂本龍馬が好きですので思わずそこに食いついてしまいました。

「哲学」とは、読んで字の如く、学ぶ道理に明るいことを指すのでしょうか。
仰るように「分析」ですね。

神学は精神論でもあり、人の心を宇宙とするなら科学でもあるかと思います。

「森羅万象」とは、とても美しい響きを持つ言葉です。


とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/13 07:34

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