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 ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。


 たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき  これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。

 その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ》として心をかたちづくります。

 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》という概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。


 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか?

 コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? あるのか?







 ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている妄想があるからです。その思いが くすぶっているからです。


 イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにも それは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようというコンタンが ちょっぴりあるからです。




 ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。
 ところが 《かなしい》というのは 何ごともしかねる(つまり 出来ない)思いだと言っているのであって つまり:

  いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ)
  をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる)
  ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい)
  かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲)

 というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。

 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。触れるか触れないかの身のウゴキの問題なのである。



 これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。

 わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを言っている。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。

 (-ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。ゑぐる(抉る)やわく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです)。
 
 昨今では クオリアといったことも言われて来ていますが:

 ○ こころは あるか? 
 ○ 《こころ》とは 何ぞや?

 お考えをどうぞ。

A 回答 (21件中1~10件)

アームストロングの分類によると、心の哲学には大別して、唯心論と唯物論があり、唯心論はヘーゲル・ライプニッツ・バークリなどが唱え、仏教もだいたい唯心論ですが、心が世界を作っている、という見解は今では誰もそれを正しいという人はおらず、論外で、唯物論が主流です。


その唯物論にもいろいろあって、デカルト・ロックの心身二元論があり、スピノザ・これにラッセルを含めてもいいと思いますが両面説(平行論)があり、さらに中立一元論があり、ヒューム・ハックスリの「束二元論」というものがあり、さらに同じ唯物論でも行動主義があり、これはワトソンやライル・それにウィトゲンシュタインも含まれる。行動主義のほかに中枢状態説あるいは心脳同一説があり、スマート・プレイス・パットナム・などが知られている。
そして現在最も有力な考えは行動主義から発展した機能主義が主流。
パットナムやアームストロング、あるいはこれにファイグルを含めても良いかもしれない。
機能主義によれば、心的状態とはあるシステムにおける機能的役割によって規定される内部状態のことです。
その機能的役割は入力・出力・他の内部状態、の三者に対する因果関係によって決まるものとされます。
だから入力・出力が、インプットがありアウトプットがあれば、その中間が何であろうと問わないから、今はやりの「人工知能」に哲学的基盤を提供するものとして歓迎されています。
つまり、ロボットだって入力・出力があれば心を持たせることは可能だということです。
ただ、機能主義にとって欠点・難問は、感覚質・クオリァの存在です。
心とか心的現象を論じる時に、機能と共に感覚質・クオリァの問題を避けて通るわけには行きません。

○心はあるか?
心はあるものではなく、機能です。
つまり何らかの脳の活動に伴う随伴現象です。

○<こころ>とは何ぞや?
いろいろな説があって、どれが正しいか、分かりません。
しかし、少なくとも、デカルトのいうような実体ではありません。
また、唯心論のいうような観念でもありません。

この回答への補足

 この質問につきましては 各回答者からそれぞれの切り口で・つまりアプローチの仕方で 問題を見直す見方をも提起してもらっています。

 中で哲学史と言いますか 研究史のあらましを明らかにしてくれたのが このご回答でした。

補足日時:2014/11/07 10:14
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この回答へのお礼

 なるほど。いろんな説が出されているわけですね。

 ご回答をありがとうございます。

 先に質問の趣旨に掲げたことは――と質問者の土俵に話を挙げますが――次のように確認します。:

 1. 《心脳同一説》ではなく 脳(または身全体の知覚)から始まって心がかたちづくられる。と言っています。

 2. 知覚内容について概念化やその認識〔およびさらには そこから感覚を離れた観念となった言葉を想像において駆使しつつ思考をつらねて行くおこない〕がありうる。

 3. これは・つまり観念論は 心の内でおこなわれることであるが それが(つまり その想像力の発揮されて描かれた世界が) ふつうに心のことだと言えるかどうか? については 懐疑的に見ています。

 4. 《心身二元論》は 存在がたとえば生命として現象しているからには・そしてそれがひとつの全体論として捉えられるからには しりぞけます。

 5. 単純に身心の《両面説(平行論)》と言って言えなくはないのでしょうが 身とその感覚から出発しているからには せいぜい《中立一元論》に立ちます。つまりは 生命存在の一元です。そこに身のハタラキとそしてそこにかたちづくられる心とがあると。

 6. 《唯心論》とか《唯物論》とかというふうに 《唯一》の第一原因にまでさかのぼるようにして持って行くことはないだろう。とも。



 ★ そして現在最も有力な考えは行動主義から発展した機能主義が主流。
 ★ 機能主義によれば、心的状態とはあるシステムにおける機能的役割によって規定される内部状態のことです。
 ☆ 申し訳ないですが まだはっきりしません。

 ★ その機能的役割は入力・出力・他の内部状態、の三者に対する因果関係によって決まるものとされます。
 ☆ まだ分かりませんが ここで《因果関係》を持ち出す意図は よく分かりません。あらかじめながら むしろ《内部状態》であるなら 知解としての・いわゆる世界認識よりも 《わたし》の意志行為が中軸を成すもののように考えられます。それを 機能主義的にものごとの《因果関係》としてそれぞれの要素に還元して捉えるのでしょうか。


 ★ だから入力・出力が、インプットがありアウトプットがあれば、その中間が何であろうと問わないから、今はやりの「人工知能」に哲学的基盤を提供するものとして歓迎されています。
 ☆ それも 前もってのプラグラムということですよね? つまり 大きく背景を成すものが ひとりの人間の意志ということではないのですか?


 ★ つまり、ロボットだって入力・出力があれば心を持たせることは可能だということです。
 ☆ 過去の経験としての内容やあるいは それらを要素・要因ごとに分析してそれらを自由に想像力によって結びつけたその結果としての経験行為 これをここでは《心を持たせる》と言っているのですよね?




 ★ ただ、機能主義にとって欠点・難問は、感覚質・クオリァの存在です。 / 心とか心的現象を論じる時に、機能と共に感覚質・クオリァの問題を避けて通るわけには行きません。
 ☆ 先ほどのロボットの問題から ここへ来たのですか? 《機能主義》をかかげたときから 心をその機能に還元したのですよね? つまり もしクオリアがあるのならば その初めの時点で そのクオリアを棄てて来たのではないのですか?

 かと言って クオリアが どれだけの内容を心にとって成すのか。これは わたしにはまだ分かりませんが。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ 心はあるか?

 心はあるものではなく、機能です。
 つまり何らかの脳の活動に伴う随伴現象です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは 上に述べた(1)項などと同じ内容であると受け取りました。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ <こころ>とは何ぞや?

 いろいろな説があって、どれが正しいか、分かりません。
 しかし、少なくとも、デカルトのいうような実体ではありません。
 また、唯心論のいうような観念でもありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (4)や(6)項などとして受け取りました。

 ありがとうございます。
 

お礼日時:2014/11/03 12:28

なんとなくの思いつきです。



旧約聖書の世界観という質問でお金が出てきたので
貨幣経済と宗教について考えてみたときに

仏教だと四無量心が気になりました。
もしも悲劇の誕生と貨幣が関係あるのであれば、
特に、「悲」カルナー。

救いたいというのも欲望で、無量であれば、
無限の欲望ですよね。貨幣経済に由来しているのだろうか、とか。

それで、無量光や無量寿つまり阿弥陀仏までを
話題にする必要がないかもしれませんが、
極楽浄土は宝石だらけ。

さすがに道元の只管打坐は貨幣経済とは関係ないか。
足ることを知らない、終わりの無い修行。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 救いたいというのも欲望で、無量であれば、 / 無限の欲望ですよね。貨幣経済に由来しているのだろうか、とか。
 ☆ わたしは その順序は ぎゃくだと考えます。

 神のつたえた言葉にもさからうという自由度を ひとは初めから持っていた。(そのように造られている。自然本性)。ゆえに。

 経済生活において ほかの人たちとモノを・あるいはその共通の価値としてのシルシ(つまり貨幣)を媒介としてモノを交換するという仕組みをも つくり出したのでしょう。その自由意志によって。



 ですから 貨幣ないし資本が自己を増殖させようとしておこなう自己運動 これは そのように《物象》として現象するかぎりで 人間には――そしてたぶん神にも――手におえないことであるように思われます。
 
 と同時に これについて何とかしようとするのも 人間の自由意志でありその知恵である。こうも考えます。


 たとえば より良い品質を求めつつ 安価で多くの人びとにその製品が行き渡ることをよしとしたなら 一品種大量生産がおこなわれます。(少品種だと言ったほうがよいかも知れませんが)。

 これが 各家庭や個人にじっさいに行き渡ったとすると そのあとは どうなるか?
 あたらしい品種がつくられるでしょうが それもそれほど大量につくってももはや いわゆる買い替え需要しかなくなって来た場合には どうするか?

 有効な需要が不足するようになるというのは 長い目で見て 目に見えています。

 現在にもすでにそのような兆しは見え始めています。

 
 となると 資本の無限なる自己増殖の運動は どうなるか?


 そういったことと合わせて こころの問題は 問われて行くものと考えます。

お礼日時:2014/11/05 13:58

~~~~~~~~~~~~~~



コインによって、人類の欲望に火がついた。ちょうどその頃、アテナイで新しく誕生したものがあったという。
ギリシア悲劇だ。
コインとギリシア悲劇の関係は、なんだろう。ギリシア悲劇には、当時のアテナイの人々のどんな心が記されているのだろう。
それを知るために訪れたのは、イギリス南西部にあるエクセターという町だった。この静かな町に、コインと心の関係を研究する世界的な権威がいる。
エクセター大学の歴史学者、リチャード・シーフォード博士だ。この番組では数十人のお金の研究者に取材をしたが、ほとんどの研究者が、このシーフォード博士を推薦してくれた。そして、シーフォード博士の話を聞いて、
人間の心がいかにコインによって影響を受けたか、痛感することになった。
少し長くなるが、シーフォード博士の話を引用したい。

「ギリシア悲劇は、アテナイにコインが導入された直後の、紀元前6世紀の終わりに出現しました。問題は、この二つに関連性があったかどうかです。当時の人々が非常に意識し、悲劇の題材にしたのはお金でなんでも行おうとする人々がいるという事実です。彼らのお金に対する欲望を限定できるものはなにもありません。お金は『無限の欲望』を生み出したのです。道徳も、法律による強制も、タブーも可能な限り多くのお金をもとうとする欲望を防止することはできません。古代ギリシアの歴史家、哲学者は、お金を通じて権力を得て、さらにより多くのお金を得るために何でもしようとする暴君の姿を描きました。彼らはもっとも近い親族でも殺すだろうし、神殿を略奪し、聖なるものを侵害して神の怒りを買う危険さえ冒すでしょう。お金のためなら何でもするのです。無限の欲望は、我々にとっては非常になじみのあるものです。『いくらあっても、ありすぎることはない』、『お金を得るためなら何でもする』というのは、私たちが普通に抱く感覚です。しかし、古代ギリシアの人々にとっては、お金は現れたばかりで、それも非常にすばやく現れたものでした。あらゆるものを変化させました。
ソロン、アリストテレス、その後の哲学者にいたるまで、アテナイの人々にとっては、無限の欲望は大きな衝撃でした。

中略

アテナイで起こった社会の急激な変化。それは、社会の仕組みが現代とつながった瞬間だった。
現代人の心の原点はここにあるとシーフォード博士はいう。
「アテナイでコインが誕生したときに、現代人の心が生まれました。古代ギリシアの文化が我々にとって
なじみ深いのは、彼らが、我々の生活を支配しているお金をもつようになった最初の人々であるからです。
彼らが初めて感じ、考え、また警告したのと同じ危機感を、いま、我々も共有しているからです。」

~~~~~~~~~~~~~~~

Human ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか

NHKスペシャル取材班 角川書店

第4章 交換する人・そしてお金が生まれた ~都市が生んだ欲望のゆくえ~

381~391ページ
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 (1)
 あたらしい質問へ移りつつありますが・そしてすでにこれまでの回答者とのやり取りで告白してもいるのですが 《心はあるか?》と問うて その答えは 《あることはある。ただし 世界についてどう認識し どう向き合いどう行動するかをめぐるハタラキ〔として心〕があるのみだ》といったふうに書いています。


 ですから 《貨幣がこの世に出来てからというもの この貨幣をめぐってどう行動するかについての心のハタラキはある》ということまでは すでに確認済みだとは 強引ですが言っておきたいと思います。



 (2)
 問題は どのようにして《貨幣》が生まれたか? ではないでしょうか。 単純に言ってそれが知りたい。と。



 (3)
 貨幣に対する人間の思想・態度については
 ▼ 彼らが〔* つまりアテナイ人たちがコインを目の前にしている自分を・ないし自分が貨幣制度の中にいることを〕初めて感じ、考え、また警告したのと同じ危機感を、いま、我々も共有しているからです。」
 ☆ というからには 《貨幣という手段による人間の限りない欲望》が発生したという認識と同時に その無限の欲望の結果として《お金のためなら人殺しでも何でもをする》という考えが生まれてしまったという警告やまたそれについての危機感もが すでに持たれた。と言うのですから そのように素直に受け取ればよいのではないでしょうか?
 つまり 人間の心とは そういう相い対立することがらについての両面の考えを持ち得て その範囲を広げて行くものだと。 


 (4)
 言いかえると (1)で触れた《ハタラキとしての心》になるのではないか。おおむね そういう捉え方が ひとまづ得られる。ということ。

 この質問では 貨幣論をすすめるわけではなく またその種の主題や論点をめぐってそれぞれ個別的に 心はどう対処するかをおもな課題とするものでもありませんので。


 (5) 
 あるいは この質問の課題としては 
 ★ 欲望
 ☆ について どう捉えておくか? これは そのまま任務とするところであるかも分かりません。

 つまり 欲望について 感性・感情・情念と言った側面とそしてそれらをどう概念化しどう処理するか――世界をどう認識しどう行動のために判断するか――は ここでの主題であるかも分かりません。

 もっとも この主題も あたらしい質問がその問い求めの対象としていますので そちらに移行してもらってもよいかと考えます。

お礼日時:2014/11/05 12:08

すみません、15番です。

ちょっとくどくなるかもですが、多少気になったことがありまして

>>間には心があって内的必然性という不条理な自由度のある行動が可能なのですね。それが人間の人権、独自性、アイデンティティに関わってきます。
> ☆ 条理にかなうことでなくても 心の枠組みの中で ものごとが熟して来てその必然性によって促され たとえ不条理なことでも 実行に駆り出されることがあるかも知れない。でしょうか。

 その決断つまり意志行為は 行動の中軸を成していて 人格や自己同一性の問題となる。でしょうか。


おおむねよろしいかと思うのですが、いわゆる心の動きというものが外部からは必ずしも整合性のないものとしてあらわれる、それを不条理と表現したものです。そこにわれわれが理解できるCPU的機械ではないこころの不可思議な部分がある(ロボットではない)ということです。われわれの自由とはそういうことでもあると私は理解しているのですが。

こころが感覚器官と深く結びついていることは確かにそうです。外部からの刺激に心が敏感に対応することは心が(動物的な)感情に近いものでもあるということだろうと思いますが、しかし感情はほぼ機械的な必然性をもった原始的なものですが、こころは違います。私見では枠組み、規則性がないことが心の構造の解明を難しくしているとおもいます。此処はブラジュロンさんとの認識の差かもしれません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 なるほど。
 ★ 内的必然性
 ☆ とは 外で起きている必然性の流れに従属するわけではない。自己が自己であるところの自由を持つ。でしょうか。


 そうして そのような《外部における必然の流れ》というのは 往々にしてワタシはまづ感性として・また感情として受け留めることになる。ゆえに 心の内的必然性とは 或る意味で内面にも入って来ているところの感情からも自由な独自性を じっさいに持っている。ですか。

 ★ しかし感情はほぼ機械的な必然性をもった原始的なものですが、こころは違います。私見では枠組み、規則性がないことが心の構造の解明を難しくしているとおもいます。此処はブラジュロンさんとの認識の差かもしれません。
 ☆ と。




 そうですね。わたしが 《心の枠組み》と言ったのは 単純に上のご指摘にある《心の構造》のことです。

 外からの刺激として受け取った感覚に・つまり感覚の要請するところに したがう場合もさからって独自の道を行く場合も 両方があります。そういう意味で枠組みを ほとんどそのハタラキとしてのみ 成しているように見える。と言っていました。


 おそらく 外からの必然性の要請を《感情》として受け取れば ふつうはこのような感情のとりこになるかと言えば 心はふつう ならないのだということなのでしょう。たとえ 感情一筋に動くという場合にしても ひとはそうではなく行動する自由を留保しているのだという前提は 変わらない。こういうことなのでしょう。






 その上で 異論を差し挟んでみます。
 ★ しかし感情はほぼ機械的な必然性をもった原始的なものですが、こころは違います。
 ☆ つまりこのことは 《知覚》は ウソをつかない。という意味にもなります。《感性》は およそ一筋縄で捉えることができます。

 《感情》というのは ちょっと他の要素をそれらに付け加えた別の概念になるかも知れません。

 知覚したもの・その第一次的な感性 これを言葉にして捉えたとき その概念にあたかも心が――あたかもわが心が何かを思ったかのように――価値判断を付け加えることが起きます。

 最近の出来事として芳しからぬ場合の事例を取り上げましょう。

 ▼ 「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」
    産経新聞 11月3日(月)13時0分配信
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141103-00000 …


 ☆ すなわち 宮沢経産相の資金管理団体が SMバーへ支出していた問題で その支出の不適切さをなじるのに
 ▼ 「あなたが口にするのも汚らわしいところに政治資金を支出していたこと
 ☆ と菊田衆議院議員は言ったそうです。

 つまり言いかえると 《 SM バー》という言葉から想像されることをイメージに思い浮かべて そのとき知覚として得たイメージについて さらに今度は心によって《口にするのも汚らわしいところ》というように規定した。価値判断をくわえた。




 知覚は 正直です。二枚舌やダブルスタンダードなどは ありません。
 ところが もしこれに あたかも感情移入してのごとく・しかもそこに心による内容の評価をくわえるという事態も 起きます。

 むろん心は 外界からの刺激から自由です。刺激のもたらす必然性のごとき流れが 感情としてさらにわが身と心とに押し寄せて来たときにも それに対して自由な立ち場を採り得ます。じっさい採ります。

 ここまでは おそらくふつうの事態です。

 問題は 心が自由に採る態度について そこに価値判断が入って来るとき その判断(つまり 心)はこれまた さまざまであり得ます。


 いまの事例で言えば:
 1. SM バーをその姿のまま感じ取る感性が 第一次的にあります。正直な内容なのでしょう。

 2. そのあと 単なる感想としてもあるいはひととおりの価値判断としても 心の介入を経た認識が起き得ます。

 3. つまりは 心は――精神とそのハタラキとしての事実認識や対応策としての意志行為において―― 社会一般的に言って ふつうの妥当な判断となるものや いやちょっとおかしいぢゃないかと見られる規定とが 持たれます。

 ☆ したがって わたしの言いたかったことは こうです。:

 4. 心は 枠組みとしてのようにハタラキとしてある。なぜ枠組みかと言うと いちおう・ひとまづ かの正直で素直な感性をそのままみづから(つまり心)の中に 認識として取り入れるゆえです。

 5. そのあと心は その自由さを発揮して 感性の伝えたコトについておのれの見解をかたちづくり表明する。

 6. ですから《枠組み》というのは 最初の知覚内容を おのが価値判断の対象とするときにも 大きくその前提としている。という意味になります。決して束縛するものではなく制約となるものではないはずです。

 7. 問題は 素直に捉えた知覚内容について よく判断するかどうかでしょう。



 先ほどの事例には おまけの話があります。
 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 これがさらに飛び火した。菊田氏が地元・新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」に参加している写真がネット上にアップされ拡散したのだ。

 この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2メートル、重さ約600キロ)に初嫁をまたがらせ、子宝や夫婦円満、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する霊験あらたかな神事なのだが、菊田氏が笑顔でご神体にまたがる写真は大きな反響を呼んだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ★ いわゆる心の動きというものが外部からは必ずしも整合性のないものとしてあらわれる、それを不条理と表現したものです。
 ☆ というごとく SM バーの件についても反応し判断していたらよかったのに。

 という見方でよいのですよね?

お礼日時:2014/11/04 18:55

君には私という先達がいるからスランプはうまく切り抜けるだろうさ。


心が死ぬことは、絶望の事お言っているのだと言う結論だよ。
望みと願いが別か一緒か?
神があなたに願う。
これが判らないのなら、
あなたである事が神に望まれている。
こう言う慰めの様な表現なら理解できるだろう。
ジラーチちゃんのスパルタで突き動かされた私には無かったことだが、君は今あきらめという形で失望しようとしているのかもしれない。
それは慎重で堅実だろう。
成功の近道だ。
そこで死に向かう(理解する)高速道路を開通して、刃向う者どもを皆殺しにする攻撃力を発揮すれば、滅びをもたらすものとして免許皆伝だ。
どうも今回は先輩面したな。
君には君だけの道のりが当然あるだろうさ。
参考にしてくれ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 総じて言って 気のせいかどうなのか近頃 神について触れることが多いのでないかい?




 いやいや わたしは すでに揺らぐことはないのです。

 あゆみの速度をゆるめているといったような情況です。




 ★ 君は今あきらめという形で失望しようとしているのかもしれない。
 ☆ ここの《あきらめ》という問題には関係していると思う。その仕方がまた問題だと思うけれど。どうあきらめるか? でしょうね。

 《失望》は無いと思う。希望の度合いを見積もりつつその度合いに沿って行動してきたからには。

お礼日時:2014/11/04 09:35

ふざけてキュアブルーム様とあいさつしてくれた方がうれしいよ。


喧嘩腰でなければ君はふざけないだろうが。

しかもその心というのは 単なるハタラキとしてだけである。というのが いまの中間の結論です。

これは地獄めぐりをしたころの私の心理状態だ。

神の手向ける人への願いに忠実に働こうそする気持ちだ。
そこで突き動かされているような錯覚があるのだろう。
その先は、すでに確信している自己の存在の再確認だろう。
そこを通過してさらにその先にも、願いというより、神様のバカな人間どもなりの愛し方というのもある。
楽しみは尽きない。
ところで真人間の私はいつまでも人助けをしていないね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 地獄めぐり
 ☆ かどうかは分からないが いま何となく自信をなくしている状態ではある。


 そして だいたい全体として 何か漠然としている。
 ★ 神の手向ける人への願いに忠実に働こうそする気持ちだ。
 ☆ といった感覚は起きない。淡々とした感じ。

 
 ★ そこで突き動かされているような錯覚があるのだろう。
 ☆ これも分かるような感じになるが あいまいなままです。



 まぁ 何のまとまりもない返答ですが。

お礼日時:2014/11/04 00:04

究極的には肉体が滅してもほろびないのが心だ。


感性としてその潤いで確認できる。
そもそも記憶の墓標じゃなく神の預かる記憶の宝石があるなら、その不滅の自己こそ本質であると心得たまえ。
仏陀を名乗るのなら、これに挑戦しろ。
君はむしろ、猿回しの様な質問をしてるがね。
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この回答へのお礼

 ふられおん氏の登場。ご回答をありがとうございます。


 ★ 君はむしろ、猿回しの様な質問をしてるがね。
 ☆ あぁ。それは たぶんこの質問でわたしは自分の書いたたたき台〔の内容〕については まったく自信がないというところか来ているかと考えます。


 ある程度まで・ここらあたりまでは自信があって 割り合い簡単に答えることができたりあるいは回答者さんに解説することが出来たりする。しかも それ以外は 分からない。

 知っている範囲でのやり取りで あたかも《猿回しのような》振る舞いになっているのであろうか。あまり褒めたことはではないようである。こころしなければ。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 究極的には肉体が滅してもほろびないのが心だ。
 感性としてその潤いで確認できる。
 そもそも記憶の墓標じゃなく神の預かる記憶の宝石があるなら、その不滅の自己こそ本質であると心得たまえ。
 仏陀を名乗るのなら、これに挑戦しろ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 振り方が ややこしいように思う。答え方がきわめてむつかしい。


 ここに来て 《心変わり》をしたようなことを言いますが 《心はあるか?》と問うて来たのではあるけれど 《あることはある》というのが ひとつの答えであり しかもその心というのは 単なるハタラキとしてだけである。というのが いまの中間の結論です。


 このハタラキとしての心を 《ほろびない。不滅だ》というのは ちょっと飛躍しすぎではないだろうか。何とも言えませんが。


 ちょっと寝かしておきます。(あとで 考えがまとまるかどうかは 白紙ですが)。

お礼日時:2014/11/03 23:23

ブラジュロンさん、こんばんは。


私の関心の中心にあるお題が出ていますので、ちょっとお邪魔しました。

まず
>○ 《こころ》とは 何ぞや?

でしょうか。人間はロボットに近い機械の一種であると最近書きましたが、機械とはこうもりとかイヌとかいう生物に関していえること(すべて刺激で動く。動きが平明で完結している。必然の世界)で、人間は少し違うと思います。どうしてそういえるのかは、なかなか難しいことですが、ひとことでいえば心、不条理があるということでしょう。そういう意味で心はあるのですが、この理由が分かりにくいのは、たぶん、人間が人間自身を観察する、それには心自身が必要であり、心が介在していなければならない、そういうなかなか面倒なつらいことが関係しているからでは、と私は思っています。
自分で自分は(完全には)捉えられない。しかし心は自分でしか捉えられないし他人の心を捉えることは原理上できない(心は見えない。そういった狼が尾っぽを噛むような構造になっているのだろうと思います。

イヌはかなり人間の振る舞いを見て勉強し、人間に似て複雑な生き物になってきましたが、やはり天然ロボットのひとつで、刺激(環境を含む)によって必然的な行動を取ります。これは心がない証拠です。人間には心があって内的必然性という不条理な自由度のある行動が可能なのですね。それが人間の人権、独自性、アイデンティティに関わってきます。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ひとことでいえば心、不条理があるということでしょう。そういう意味で心はあるのですが
 ☆ なるほど。動物は 条理・不条理の区別をしないでしょうね。そしてその判断は 《こころ》にかかわる。ということでしょうか。



 ★ たぶん、人間が人間自身を観察する、それには心自身が必要であり、心が介在していなければならない、そういうなかなか面倒なつらいことが関係している
 ☆ ふうむ。なかなかむつかしいですね。

 自己が自己に向き合うのは けっこう大変だということでしょうか。

 《わたしがわたしである》とき――自己に到来するとき――このときには あんがい単純なのでしょうね。外が見えていると言いますか。あるいは 相手がそして世界がよく見えると言いますか。そのように 心をも透明にしたごとくにわたしは 世界に位置する。

 それとは微妙にちがって 《わたしがわたしに向き合う》ときというのは どういうことになるか? 心という枠組みのようなものが そこに出来るのでしょうか。――いや ちょっと分かりませんが。




 ★ しかし心は自分でしか捉えられないし他人の心を捉えることは原理上できない(心は見えない。そういった狼が尾っぽを噛むような構造になっているのだろうと思います。
 ☆ ううむ。何て言いましたか ウロボロス? そういったおかしな姿に先ほどの――もしそうだとしたら――《心の枠組み》が捻じ曲がったようになるのでしょうか。

 ううーん。と言うよりもわたしなら それは 枠組みであって 心の中身は その場合にはむしろ何もない。というふうにも思えて来ましたが やはり分かりません。



 ★ イヌはかなり人間の振る舞いを見て勉強し、人間に似て複雑な生き物になってきましたが、やはり天然ロボットのひとつで、刺激(環境を含む)によって必然的な行動を取ります。
 ☆ ええ。ここは 分かりやすいように思います。やはり本能の問題でしょうか。

 ★ これは心がない証拠です。
 ☆ そうですね。たぶんイヌは 自己を見つめたならそのときには ウゴキがストップしてしまうかも知れません。心の枠組みは出来ないのかも知れません。(ただし 知覚をつうじて 何かを捕まえようとして知恵をはたらかせるような動作があるかにも見えます)。



 ★ 人間には心があって内的必然性という不条理な自由度のある行動が可能なのですね。それが人間の人権、独自性、アイデンティティに関わってきます。
 ☆ 条理にかなうことでなくても 心の枠組みの中で ものごとが熟して来てその必然性によって促され たとえ不条理なことでも 実行に駆り出されることがあるかも知れない。でしょうか。

 その決断つまり意志行為は 行動の中軸を成していて 人格や自己同一性の問題となる。でしょうか。


 しょうしょうむつかしかったのですが こんな感じになりました。

お礼日時:2014/11/03 22:31

心ですか。

 心はもともとは動物の腸(はらわた)を意味していたと聞きましたが、人間の内臓の意味になったそうです。

それが転じて精神の意味するようになったとのこと

まあ語源はいいとして 「心」と言うのは「精神」と同じような意味に使われるようです。

ここからは私の考えになりますが 心(精神)は性質で出来ていると観測しています。

脳や体の反応が主体化して、その物質的反応に伴う性質が精神、つまり心を実現していると思います。

私は自分の定義で「存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギーのこと」(素粒子もエネルギーで出来ていると観ます)

つまり性質はエネルギーや素粒子とともに存在している。心も性質で出来ているから性質として存在していると考えます。

心とは進化の過程で存在を求めて反応してきた性質が主体化したものです。心は自由を得て様々な心の有り様を選択してきました。

その心によって人間の生活や喜怒哀楽 恋愛 仕事その他諸々がなされる訳です。

存在しようとする性質を多く持ってる場合が殆どで こそ存在しようとする性質の事を存在性と呼んでいます。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。



 ★ まあ語源はいいとして 「心」と言うのは「精神」と同じような意味に使われるようです。
 ☆ そうなんでしょうね。そして精神は わたしは 記憶と知解と意志との三つだと見ています。

 ★ ここからは私の考えになりますが 心(精神)は性質で出来ていると観測しています。
 ☆ 《性質》ですか。ご持論ですね。

 ★ 脳や体の反応が主体化して、その物質的反応に伴う性質が精神、つまり心を実現していると思います。
 ☆ これは すでに――簡単にですが――次のように書き込みました。
 
 ☆☆ (No.10お礼欄)  ~~~~~~~~~~~
 ですから 知覚が脳神経において情報としてワタシに与えられる。これをワタシは 認識し言葉の上でも保持しひとまづは記憶へと処理したりあるいはただちに どのように応答としての振る舞いをおこなうかを考えたりします。

 つまり この《知覚および認識(知解)ならびに――記憶をつうじて――どうするかの意志》 これが わたしの捉えている《こころ》です。そしてそれは あたかも《わたし》の精神の作業とほとんど同じである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり この考えに従うなら まだ 残念ながら《性質》という表現にはピンと来ていません。《機能・ハタラキ》がふさわしいと いまのところ思っていますから。



 ★ 私は自分の定義で「存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギーのこと」(素粒子もエネルギーで出来ていると観ます)
 ☆ エネルギーなら 《ハタラキ》ではないか? とはまだ思います。



 ★ 心とは進化の過程で存在を求めて反応してきた性質が主体化したものです。心は自由を得て様々な心の有り様を選択してきました。
 ☆ そうですね。分かりませんが それに合わせてわたしの感覚に合った表現をすれば:

 ○ 心とは進化の過程で 存在(つまり わたし)が求めているものを捉えその求め方を考え さらにはその方法を実行するようにと意志をうながす。意志は 心(精神)の中軸を成して わたしはそこで社会における生活の主体となる。心はその自由を発揮して 様々な生活の有り様を考えそこからよいものを選択してきました。




 ★ その心によって人間の生活や喜怒哀楽 恋愛 仕事その他諸々がなされる訳です。
 ☆ 自由なる意志をうながし(つまりは 意志が意志みづからをうながし) 社会に生きる・わが生活を推し進める。そのとき《喜怒哀楽 恋愛》は むしろ相手との関係において発生するものであって わが心には――なぜなら心は ハタラキであるのだから――むしろ無い。《仕事》は 心と世界 あるいは 他者の心とわが心 といった関係過程において 互いによき方法をえらびながら すすめて行くいとなみである。というふうに考えます。




 ★ 存在しようとする性質を多く持ってる場合が殆どで こそ存在しようとする性質の事を存在性と呼んでいます。
 ☆ あぁ。なるほど。《心というハタラキをそなえて生きる存在》 その志向性でしょうか。これを《性質》と捉え 《存在性》と呼ぶ。でしょうか? 

 存在には 心をはたらかせるという志向性がある。それは 性質であり 存在性である。でしょうか?

お礼日時:2014/11/03 18:56

心というのは、


諸観念の結合体、統合体、または、その統合システム
のようなものなのでしょうね。

観念よりは心象やイメージの方が用語としては適切なのかもしれないですが。


感覚器官などから得られる様々な様々な情報の処理系であり、その処理過程や結果を含めて、
「心」と呼ぶのではないか。
コンピュータやCPUなどに該当する脳―――パソコンではなく、超並列処理のできる超《スパコン》のようなもの―――は含みませんが・・・。
《心》は、脳が作るマルチ・タスクの空間であり、そのタスク間の話し合い、騙し合い、争いなどが行なわれるているんでしょうね。


タスク
https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%8 …



こんなことをちょっと考えています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 心というのは、
 諸観念(心象やイメージをふくむ)の結合体、統合体、または、その統合システム
 のようなものなのでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このシステムは けっきょく世界の全体を見ている。とはすでに捉えたところです。たとえば 例の三位一体論にちなんで分析的に捉えた世界認識の図です。


 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
               ↓  ↓        ↓      ↓
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________

              ↓      ↓      ↓     ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 もしこうだとしますと この質問で問いたかったことは まづこのように確かに《心は ある。はたらいている》。のだけれども このシステムのごとき心は 考えてみるに このように世界を映しているだけであって そのシステムのハタラキだけであって そのしみじみとした中身などは無いのではないか? これです。

 意志行為として 問題について認識を深め処方箋を書くというときにも 心としての内実というような問題はないのであって 世界に起きている問題をあたかも客観的にあつかい対処しようとするだけなのではないか? 




 
 ◇ 《心》は、脳が作るマルチ・タスクの空間であり、そのタスク間の話し合い、騙し合い、争いなどが行なわれるているんでしょうね。
 ☆ 《マルチ・タスクを処理するハタラキ》が 心(精神:記憶と知解と意志)である。しかもそれは 《そのタスク間の話し合い、騙し合い、争いなどが行なわれるている》にしても それらを一つひとつ取り扱うのも そのハタラキが心そのものである。それ以外には むしろ無い。


 ということは そのような心のハタラキというのは むしろ世界のほうから要請されているそのとおりの解決法であるということであって けっきょくこの解決法を何とか見つけ出しそれを実行するのみだと言ってもよいかも知れない。

 心が・人間の心が さも繊細でたいせつな場でありその思いもとうといものであるといった見方は それに対応する中身は無いのではないか? 


 かぶせるようにしてですが こんなことを考えています。

お礼日時:2014/11/03 18:32

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