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 ▲ (ヨハネによる福音書 14:6 ) ~~~~~~
 イエスは言われた。

   「わたしは道であり、真理であり、命である。

 ▲ (KJV John 14:6) ~~~~~~~~~~
 Jesus saith unto him,

   I am the way, the truth, and the life:

 ▲ 14:6  ~~~~~~~~~~~~~~~
 λέγει  αὐτῷ  ὁ  Ἰησοῦς 

    Ἐγώ  εἰμι  ἡ  ὁδὸς  καὶ  ἡ  ἀλήθεια  καὶ  ἡ  ζωή

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ これは・つまり《わたしは道であり、真理であり、命である》は  神がその昔モーセに自分の名を明かしたときの《わたしはある(エフヱ―)》を引き継いでいるものと考えられます。

 ▲ (出エジプト記 3:14) 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ(エフヱー アッシェル エフヱ―)」と言われ


 ☆ 《存在》が 《真理・生命・道》と表わされた。つまりところが このように一人称のワタシで語ったとしても じつは 神が《〈わたしはある〉 それがわたしだ》と名乗ったときと同じように このワタシは 非人称なのである。なぜなら ワタシと言っていても 人間ではないのだから。


 ここで 《真理と命》とは ひとまづ措いておきます。《道》を取り上げます。

 つまり 非人称の誰かが・つまりそのナゾの何ものかが 自分は道だと言ったというのなら では人間は 何と名乗ればよいか? というのが この質問の主題であり問いです。



 たたき台があると 話がすすみます。そこで

  ○ わたしは愛である。〔と人間が語った〕。

 という事態を取り上げます。これは 非人称ではありません。自己紹介のような文であり命題です。

 すなわち――話をすすめるための論理を飛ばしている嫌いがありそのことを自覚していますが―― もしひとが《わたしは愛である》と言って おのが人生なる道をあゆむ ということがあり得るか? それでよいか? を問います。

 ここは 聖書の系譜として問うていますが それに囚われずにお考えを述べてくだされば さいわいです。

 すなわち論点ないし焦点は 《非人称》による表現を人がおのれの血とし肉とした場合 どうなるか? どう自己表現するか? にあります。非人称の表現なる《 Es denkt. (それが考える)》を超えたいという魂胆です。

 愛とは スサノヲ市民のおのが自治ないし自己経営のことです。

A 回答 (9件)

またあんたかな?



若者がナザレのイエスの元を訪れて聞いた。
「私は救われることが出来るでしょうか?」
イエスは言った
「富み栄える者が天国に入る事は
ラクダが針の眼を通るより難しい」
若者は蹌踉としてして去った。
彼には巨万の富があったのだ。
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この回答へのお礼

 どういう話ですかいな? 質問とどういうつながりがありますか?

 ご回答をありがとうございます。


 たとえば 趣旨説明の初めに引いたくだりは イエスの次のことばから始まっています。
 ▲ (ヨハネによる福音書 14:1) 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

 ☆ そのイエスの話の中からたとえば次のくだりを取り上げましょう。:
 ▲ (ヨハネによる福音書 14:12-14) ~~~~~~~~~
 12: はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
 13: わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
 14: わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/12/26 09:13

イエスキリスト時代の当時は「わたしは道であり、真理であり、命である 」とキリスト本人が言うしか無かったのでしょうね



本来なら 祭司や立法学者がキリストを受け入れたのなら 其処から広がるが キリストを広めるのが目的じゃ無いので 一種の「宣伝カー」の役割をイエス自身が起こしたのでしょう・・

そして 現代になり キリストと名乗らなくても 次第に 神の国になって行くので 今回のキリストは 自ら名乗りを挙げない
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この回答へのお礼

 という話はしていないのです ここでは。

 いいですか?

 《キリスト》なる言葉ひとつを取ってもそれはすでに 神の問題です。神学であり ふつうの社会生活の中での会話とは違った特殊な話になります。

 したがって 《わたしは道であり真理であり命である》といった神そのもののかかわる表現を避けて――いっさい避けて―― ふつうの言葉だけで しかもその神学内容と同じことが言い表わせないか? これが問いです。


 そういう気遣いをする必要のない時代に入っているのだというのなら そのように回答すべきです。
 もっとも結論だけをポンと出して その説明はけっきょく出せないまま ずっとやり取りをつづけたかたちになっています。不本意であるなら 中身を明らかにすることがおのれの名誉のためにも大事でしょう。



 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2014/12/27 16:23

これだけは言っとこう。


私は私である。
このオカマ臭い控えめな自覚をぶっ飛ばして、
俺は俺だー。
こういう事である。
おもに喧嘩を仕掛けることにある。
あんた~、
この期に及んでまだよぼよぼとジジ臭いこと言ってるよ。
無駄なことよしなよ。
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この回答へのお礼

 わからん。わい。


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/12/26 23:41

こんにちは。





☆☆ 《存在》が 《真理・生命・道》と表わされた。つまりところが このように一人称のワタシで語ったとしても じつは 神が《〈わたしはある〉 それがわたしだ》と名乗ったときと同じように このワタシは 非人称なのである。なぜなら ワタシと言っていても 人間ではないのだから。
◇三人称の”ワタシ”ですか。
であるとするならば、
個別的存在ではない、一般者としての”ワタシ”、普遍者としての”ワタシ”
ということになるのですかね。
あるいは、
egoとしての”ワタシ”ではない、egoとして語られる”ワタシ”ではなく、
現存在としての”ワタシ”、ナマの”ワタシ”。
この二つの線になるのではないでしょうか。
普遍者とのして”ワタシ”ならば、アートマンですわね~。

 ▲ (出エジプト記 3:14) 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ(エフヱー アッシェル エフヱ―)」と言われ

の”わたし”は、
実存っぽい響きを持っているように思いますが、普遍者としての”ワタシ”なのでしょう。
そして、
真実在であるとするならば、「ある」や「存在する」としか語ることしかできないでしょうね。



~~~~~~~~
  ○ わたしは愛である。〔と人間が語った〕。

 という事態を取り上げます。これは 非人称ではありません。自己紹介のような文であり命題です。

 すなわち――話をすすめるための論理を飛ばしている嫌いがありそのことを自覚していますが―― もしひとが《わたしは愛である》と言って おのが人生なる道をあゆむ ということがあり得るか? それでよいか? を問います。
~~~~~~~~
アートマンとしての”ワタシ”ではなく、
肉体を有した”ワタシ”、つまり、「人間の内に愛はある」となるのでしょうか。

神さまに”愛”なんて感情はないでしょうから、
神の現われとしての現象やハタラキ、作用の中に愛はある、
と言った方がいいのかもしれませんが。
ちなみに、
ここで言っている「愛はある」は、肉体を有した我々が「愛として感じる」の意味であって、
普遍としての愛があるや、そのような愛を感じるといった意味ではないです。


ヨハネの第一の書4:16の「神は愛なり。God is Love.」には抵触するので、
クリスチャンの方からクレームはつくのでしょうけれど・・・。
ですが、
ここで語られる《愛》は、地上の、つまり、肉体を有する我々の《愛》ではないので、この問題もなんとかクリアーできますかね。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 三人称の”ワタシ”ですか。
 であるとするならば、
 個別的存在ではない、一般者としての”ワタシ”、普遍者としての”ワタシ”
 ということになるのですかね。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ げんみつに言うと 《一般者としての”ワタシ”》という解釈は むつかしいでしょうね。
 人間としての一般性と 非人称(非知)とは 別だと考えられます。経験事象と非経験の場とです。

 《普遍者としての”ワタシ”》――これは 《霊我:アートマン》のこととしてなら 相当するものと思われます。

 経験的なことがらとしての《普遍者としての”ワタシ”》もあり得ますね。自然本性が 残念ながら 朽ちるべき存在であることといった普遍性なるワタシ。

 あぁ ずばり言ってありました。
 ◇ 普遍者とのして”ワタシ”ならば、アートマンですわね~。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   ○ わたしは愛である。〔と人間が語った〕。
  ・・・

 アートマンとしての”ワタシ”ではなく、
 肉体を有した”ワタシ”、つまり、「人間の内に愛はある」となるのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。そうです。スサノヲ市民のおのれをめぐる自治です。意志行為です。


 ◇ 神の現われとしての現象やハタラキ、作用の中に愛はある、 / と言った方がいいのかもしれませんが。
 ☆ もちろんそういう場合も考えられますが ここでは そのような非人称(=非知)をふくむ表現を避けるわけです。きちんと完全に避ける表現で しかも非人称表現の中身を表わすことが出来るか? という問いです。

 いちいち《 Es denkt. (それが考える)》といった表現であれこれ詮索していても始まらないのではないか? という発想からです。
 


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ちなみに、
 ここで言っている「愛はある」は、肉体を有した我々が「愛として感じる」の意味であって、
 普遍としての愛があるや、そのような愛を感じるといった意味ではないです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ でもそれを避けます。というのは 《神の現われとしての現象やハタラキ・・・》というふうにすでに神を持ち出している場合は避けるという意味です。


 考えてみれば どう表現してもそれは むしろ神に到る補助線であるしかない。のかも分かりません。でも その補助線だけで表わすことは 可能か? が問いです。

 《神》を持ち出さない。そして 非人称表現としても神のことを言うかたちを採らない。という条件です。




 ◇ ヨハネの第一の書4:16の「神は愛なり。God is Love.」・・・ここで語られる《愛》は、地上の、つまり、肉体を有する我々の《愛》ではないので、この問題もなんとかクリアーできますかね。
 ☆ ですから 愛を 意志行為のことだとだけ規定します。意志による自己経営です。

 すなわち
 ◇ ヨハネの第一の書4:16の「神は愛なり。God is Love.」には抵触するので、
 ☆ というごとく 《おのれの自治》と規定しても 愛と言ってしまえば神への補助線に成ることは成るのだと思います。けれども それでも補助線のみで表わすという方向性です。《わたしは 〈わたしは愛である〉というヱクトルですよ》と表現しています。

 ひとりの人間にとって 愛とは おのが身と心との自治行為である。と規定したら どうなるか? です。

 慈悲も慈愛も 抹香臭いでしょう。と思ってです。

お礼日時:2014/12/26 15:59

一応、追加です。



~~~~~~~~~~

ayam ātmā brahma

Brihadaranyaka Upanishad 4.4.5

"The Self is Brahman"




tat tvam asi

Chandogya Upanishad 6.8.7 et seq.

"Thou art that" ("You are Brahman")


Brahman
http://en.wikipedia.org/wiki/Brahman

~~~~~~~~~~~

> Aatman(霊我)=  aham (人なるわれ)

これは、めんどうなことになりそうなので、


他のもウィキペディアから引用してみました。


ayam ātmā brahma

Brihadaranyaka Upanishad 4.4.5

"The Self is Brahman"


こちらのほうが、アートマンとブラフマンが出てきます。


tat tvam asi は、

チャーンドーギヤ・ウパニシャッドのほうに出てきます。
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この回答へのお礼

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~
 ayam ātmā brahma

 Brihadaranyaka Upanishad 4.4.5

 "The Self is Brahman"
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《 This aatman 〔 is 〕 Brahman. 》でしょうか。


 この梵我一如は けっきょく神を想定したあとの信仰においてその中身を想像して得られる観想です。

 抹香臭いように思います。


 経験思想として どう表わすか? を問います。



 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2014/12/26 11:09

~~~~~~~~~~



aham brahmāsmi

Brihadaranyaka Upanishad 1.4.10

"I am Brahman"

I am as eternal as Brahman


Brahman
http://en.wikipedia.org/wiki/Brahman

~~~~~~~~~~~

ウィキペディアの梵我一如の英語のページを見たときに

梵我一如
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91% …


Tat Tvam Asi
http://en.wikipedia.org/wiki/Tat_Tvam_Asi


tat tvam asiで、これはブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドに出てこないのでは
と気になっていたけど、ウィキペディアのBrahmanのページに

aham brahmāsmi 

Brihadaranyaka Upanishad 1.4.10

とか出典が書いてあって参考になりました。

出てきますね。梵我一如。失礼しました。


ですが、

SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/

大正蔵を梵我一如で検索してもなかった。



私はブラフマンである。

わたしは道であり、真理であり、命である。


ウパース。
ウパーサナー。

ウパニシャッド。
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この回答へのお礼

 ○ aham brahmāsmi : 私はブラフマンである。

 そして

 ○ tat tvam asi (” that thou art.”)
 
 ☆ この《きみ( tvam; thou )》は誰のことか? 何のことか?

 ・ tat ( that )・・・tvam ( thou )
__________________
 ・ Brahman(神) =  Aatman(霊我)
 ・ Aatman(霊我)=  aham (人なるわれ)



 ところで これらの命題は 《わたしは道であり、真理であり、命である。》と同じようにあたかも非人称が主語となっていると考えられます。

 さいごの解釈例であるところの:

 ・ Aatman(霊我)=  aham (人なるわれ)

 
 これは 半分 人間的であり経験的なものごとを表わしています。つまり 誰にもブッダター(仏性)がやどるといった想定のことを言っています。が まだ 抹香臭いように思います。

 そこでという質問になっています。



 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2014/12/26 09:44

こんばんは。




>「愛とは スサノヲ市民のおのが自治ないし自己経営のことです。 」

そう。
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この回答へのお礼

 そうですか。賛成票ですね。
 ありがとう。


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/12/26 09:29

あなたには 何を言っても 知識だけで考える癖が付いてるので 解き明かす順番だけ書いて置きますね




善悪知る木の実とは 何なのか 

そして 蛇とは何なのか

サタンとはルーシェル

ルーシェル→エバ→アダム

カイン→アベル

イエスキリスト降臨

霊的復帰

新しいキリストの再臨

霊 肉 共に復帰
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この回答へのお礼

 だから このいま すでにそのすべては成った。と言ってるんです。

 このいま・ここなるわたしに成った。

 なぜなら 信仰の問題だからです。非思考ということは 無時間ということです。非時間と言ったほうがよいでしょうか。


 ですから そのことを表わすには ひとが どう名乗ったり自覚したりすればよいか? と問うています。
 
 愛を おのれの自治として定義すれば 経験的な意志行為のことですから 《わたしは愛である》は 上滑りはしません。

 信仰は 上滑りも下泳ぎもなく 雲をつかむような話ですから 《わたしは 道であり 真理であり いのちである》だけでは 分かりにくいのです。そしてあたかもオシエを他人におしつけているような恰好になってしまいます。それゆえです。

 ご回答をありがとうございました。



 なお ルシフェールですよ。どうでもよいことですが。

お礼日時:2014/12/26 09:24

可哀想に ・・・



知識だけ取り入れたから 真実が見えないだけ


きりすとの使命は 唯一つ 「原罪」を除去する為



「わたしは道であり、真理であり、命である」は その前の 堕落性本性の取り方を教える事の意味・・
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 もし
 ★ きりすとの使命は 唯一つ 「原罪」を除去する為
 ☆ であったとすれば 《わたしは道である》という言葉を――それは 人間イエスの発言というよりは神キリストのであると考えられるからには―― 人間が言う表現に言い直してください。こういう問いです。どうでしょう?



 ちなみにわたしの考えでは 《原罪》は初めから――アダムとエワのエデンの園のときから――なかった。というものです。

 エワとそしてアダムが 人間の自由意志ということについて知る話において ヘビがその自由度を引き出すというかたちを採って描かれた。したがって いつか・つまりやがてキリストの人間としての登場のときに このヘビのハタラキをめぐってそれを消すという物語も描くかたちにせざるを得なかった。だけだというものです。


 ★ 堕落性本性の取り方を教える事
 ☆ という解釈が 或る意味で為され得るかたちの《へび》の物語だという意味です。

 cf. 【Q:われわれは原罪を犯せしや?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html

 じつは このときの考えは まだふるいものです。わざとそれをも出しました。いまの考えは 次です。

 【Q:感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7401704.html

 聖書においてその初めから 新約聖書におけるイエスの磔の終わりに到るまで ヘビの問題・ヘビなるハタラキの克服の物語がつづられています。けれども それは もともと何もなかった――ヘビをたまたま〔いわゆるサタンないし悪魔として〕登場させたものですから これを最終的に始末しておかねばならなかった。そういう物語として結着をつける必要があった。だけであるというものです。

お礼日時:2014/12/26 00:09

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