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こんにちは皆さん、
私は日本語を習っている外国人です。日本の歴史について詳しくなりたいので、古い文芸を読むことにしました。しかし、古事記とか万葉集とかが古い日本語で書かれている。
聞きたいのは:漢文と古文の違いは何でしょうか。また、万葉仮名は古文と漢文のどちらでも使われているのですか。いつから古文が使われていたか、いつからいつまで万葉仮名が使われたか迷っているので、教えて下さい。漢文・古文・現代文があり、他の文芸種類もありますか。
ぜひ古文と漢文をわかるようになりたいので、良い教科書を勧めてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

論語と土佐日記を読んでください。

前者が漢文で後者がかな文学です。
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漢文:古代に中国で、中国語で書かれた書き物です。

その後に日本で同じ形式で書かれた物も漢文と呼びます。 基本的に古代中国語です。 中国の古典と理解されてもかまいません。

この時代は、日本には文字がありませんでした。 文字のない時代に中国大陸から漢字とともに中国文学が輸入されました。 日本語そのものは、漢字が日本に入ってくる前から話されていました。 当時、先進国だった中国文学を、そのまま日本語で読んだのです。 中国語と日本語は文法が異なることから、日本独特の工夫をして、返り点など記号をつけるなどして、日本語として読んでいました。 この時代は公文書は漢文(古代中国語)であったために、日本で作成される書き物も基本的に、漢文でした。

万葉仮名:ひらがなの起源(origin)と考えられてかまいません。 はじめから決まったものがあったわけではなく、日本語は漢字では書けないので、読み方だけを基本的に借字して(字を借りて)日本語の音に該当するもの(ひらがなと基本的に同じ)を当てました。 見た目は漢文に見えますが、万葉仮名は音しかあらわしていなく、日本語の音を書き表すためのものです。 その後に、日本語に昔からあった言葉のみ(大和言葉)を使う文学ができました。 有名なものに万葉集があります。 この時代は、仮名は、どちらかというと劣るもの、簡易なものという考え方があり、男尊女卑の歴史から、仮名文学は主に女性を中心に発展したようです。 

ひらがなは、万葉仮名(漢字)が長い歴史の流れで、現代のような字体に、自然に変化したものです。はじめから決まった「ひらがな」があったわけではなく、いろいろなひらがな(異体字といいます)がありましたが、日本が近代化した時代に、現在のようなひらがなに統一されました。

カタカナは、もともとが、漢文に記号をつけて読むときの注釈のような目的で使われたように思います。 中国語は文法が日本語と異なるので、注釈をつけないと読みにくいことから、このような習慣があったと思われます。 その後に、比較的近年になりカタカナは、外来語を表記する文字となりました。

日本語が「漢字」と二種類の仮名「ひらがな、カタカナ」を使うのはこのような歴史的経緯があります。 漢字の訓読も、中国語からは言ってきた漢字に、日本語古来のことばをあてはめる習慣から発生したものです。

また、アジア地域では、日本が比較的早く、西洋に対して近代化したために、その時代に日本で作成された漢字熟語がかなりあります。 数学や文学、物理など、近代に欠かせない多くの漢字熟語が作成され、それが、逆に、中国語や韓国語(朝鮮語)に輸入されています。
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漢文:中国の古典、詩などをいいます。

四書五経・五言絶句・七言律詩などの種類があります。
    例:少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池糖春草夢 階前梧葉已秋声
    (朱熹/シュキ:1130年~1200年)

  中国の漢字は紀元前には成立しており、利用も盛んでした。紀元前の日本は弥生時代であり、ようやく3世紀に古墳時代になります。紀元前から漢字は細々と利用されていたでしょうが、古墳時代になって力をつけた豪族が中国大陸から書物などを輸入するようになります。
 そこで日本が取り入れたのが仏教や法律などで、漢字で書かれた文章をそのまま取り入れたのです。今で言えば英語の科学雑誌をそのまま読んで、最先端科学を身に着けるようなものだったといえます。
漢文はあくまでも中国の古典であり、日本語ではありません。したがって、万葉仮名は漢文には使われません。
    
  古事記や万葉集は日本が統一王国(大和王国)になった頃に編纂されます。日本の色々な地域の物語を集め「統一国家」という体制を整えるためです。しかし、この頃の日本語は話し言葉はあっても文字はなく、語り部が語る、歴史的叙述を含む物語を苦労して記録したのが万葉仮名になります。文字は漢字ですが、語り部の話を口述筆記するために、苦労してかな(日本語の表音文字)にしたのです。
 そのため、一見漢字にみえますが、読むと日本語になり、これを万葉仮名というのです。

  7世紀に成立したとされる古事記や万葉集ですが、これと前後して漢字を簡略化したひらがなとカタカナが生まれます。しかし、日本は国家作りのために中国から学んでいる最中でしたので、仏教法典や法律書などは、漢文のまま読めるエリートが必要でした。このエリートの伝統が長く続き、明治まで学問を学ぶものは最低でも四書五経を漢文のまま読めるようになる、のが重要だとされたのです。

 しかし、平安時代、仮名が成立すると女流文学が生まれます。紫式部による「源氏物語」や清少納言による「枕草子」などです。これらは漢字かな交じりで書かれており、日本語としての古文の最初の形態とされています。
 男性は仕事の都合上、漢文でレポートをするのが当然であり、仮名交じりの文章は紳士の書く文章ではなかったのですが、紀貫之は「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」と女性の姿を借りて、文章をつづる様になります。

これらの漢字かな混じり文体と紀貫之も編纂に参加した古今和歌集などの詩(ポエム)が元になり、日本語の古文・古典が作られていくようになります。

鎌倉時代になっても、相変わらず正式な記録やレポートというのは、漢文で書くことが求められていました。鎌倉幕府の法律である御成敗式目も正史とされる吾妻鏡にしても、文章としては漢文であり、そこに日本語として読めるように読み下しが付いている程度でした。

例として、先ほどの漢文を読み下すと
少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んず不可(べからず)、未だ覚めず地塘春草の夢、階前の梧葉、己に秋声
となります。このように読み下せるように
(レ:逆に読む、1・2:1から先に読んで2につなげる。ノやズはそのまま読む)
少年易くレ老 学難シレ成 一寸光陰不可2軽ズ1 未覚ズ池糖春草ノ夢 階前ノ梧葉已ニ秋声
とする程度で書かれていたのです。これなら漢文を完璧には読めない人でも勉強すればそれなりに読めるようになったわけで、現代でも高校の古文をちゃんとやれば、読み下しは難しくありません。

このような正式な記録は漢文という伝統が明治まで続くき、特に鎌倉時代から江戸時代までに候文(ソウロウブン)として形式的な発展をするのですが、文学は鎌倉時代に鴨長明が「方丈記」、兼好法師が「徒然草」を表すなどして、漢字かな混じり文章が発展していきます。

そして、江戸時代になると、浄瑠璃や狂言などの台本を書き起こしたものが庶民に普及し、それからさまざまな本が出版されるようになり、明治以降の近代日本語の基礎が作られていきます。特に江戸は本の普及も著しく、また各地方から来た人々の方言を平準化していったため、近代的な基礎がよりはっきりとしていったのです。

この江戸時代までの文章を通常古文・古典といい、古くは平家物語、新しくは仮名手本忠臣蔵などまでを言います。これの古典は漢字かな混じり文章であることが多く、庶民でも書いたり読めるものであったわけです。
また、正式なレポートや手紙などは漢文、または漢文から発展した候文を利用していたため、一見漢文のような古文が存在することになります。いずれの文章を読む際にも、現代日本語にはなくなってしまった文法が存在するため、これらの近代以前の文章を古文と総称するのです。
つまり、古文は明治以前の日本語文章の総称であるといえます。
ついでにいうなら古典も明治以前の文章をいうのですが、日本人が親しんでいる古典には中国を原典とするものも多いため、古典では必ずしも日本語の文章を指すわけではありません。

さて、現代文ですが、明治以降の文章は現代文に分類されることになります。しかし、明治期までは正式文章は漢文であった名残があり、人に伝える文章は読み下し風(または候文風)に、小説などは漢字かな混じりに書くのがいっぱんてきでありました。この漢文的な文章を「文語体」、小説的な文章を「口語体」と分けているのが、特に戦前までの文章の特徴になります。

戦後は、使用できる漢字の制限やかなの整理と制限などを行い、事実上文語体を廃止したため、今作られる文章はすべて口文一致の文章になっており、文法もかなり簡略化されているといえます。

良い教科書は分かりません。日本人向けであれば、高校の古文のテキストと参考書が一番分かりやすいでしょう。

外国人向けについては、漢文と古文の違いが分かれば、英語などの研究書もあるはずです。逆に古文のままの本なども売っていますので、好きなものを選んで辞書を引きながら解読してみるのもいいかもしれません。
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