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『南洲百話』山田準 著に、明治維新後の夏、木戸邸に政府要人が集まり会合する際に、西郷隆盛が来ないので、やむなく使者を日本橋の西郷邸にやったら、西郷は一着しかない着物を洗ってしまい褌姿で、しきりと字を書いていた。やむなく使者は戻って木戸にその事を話す
と笑って木戸の着物を貸して、ようやく来させた。その後、西郷は着物を返さず着用していた、という逸話があります。とても面白い話ですが、いつの事なのでしょうか?。

ネットで歴史好きな方のブログでは明治元年のことではないか?、とありました。つまり戊辰戦争中の夏だと、私は失礼ながら納得出来ないのです。
明治元年は4月に無血開城し京都にいた木戸は船で江戸に上ると江戸城に宿泊し、7月には京都に帰り8月には萩で松子を正式に妻にしてます。早い話、夏には東京にいなかったのです。
では翌年はどうかと申しますと明治2年の6月から九段で邸を構え松子と暮らし始めます。という事は明治2年というわけ。6月26日は木戸の誕生日なので木戸の邸で政府要人を集めて祝うのも考えられます。5月には五稜郭戦争も終結してますから、そのお祝いを兼ねて。でも夏で褌姿には時期が合わない気がします。
さらに明治3年は九段自宅は招魂社建立の為に立ち退き駒込に引越してます。

なんか違和感を感じしっくりいかないので、今度は西郷側を調べて見ると、
西郷隆盛が日本橋に邸を構えたのが明治4年から6年まで、後は下野してます。
さらに明治4年の秋から明治5年の夏まで木戸は岩倉使節団で欧州を旅して秋に帰国してます。

という事は、この良い話は史実ではないか、それとも明治4年7月9日の木戸邸での廃藩置県の秘密会議のエピソードだったのでしょうか?。でも廃藩置県を断行すれば薩長自体が反乱して政府が転覆しそうな緊迫した夏。とても、この逸話のようななごやかな夏には思えません。
どなたかアドバイス下さいませ。

A 回答 (2件)

再度、失礼致しますm(_"_)m



木戸が山口帰郷から東京に帰った明治4年5月28日以降、
『木戸孝允日記』に「西郷」が登場するのは明治4年6月13日から。
あと6月17・19・24日と続きますが、西郷隆盛が明治4年6月25日に参議に就任して以降、
木戸孝允との接点が急増、6月27日には木戸の熱い思いが書き連ねられ、
以降廃藩置県に向けての動きが活発化。

以下、日記抜粋形式で…
「明治四年六月十三日/晴終日家居…今夕山縣素狂來話其主意は今日は<※マヽ>今日
 西鄕吉之助山縣を訪(※うかが)ふ…」
「同十七日/晴一字過退出宮中におゐて黑田了助に面會す條岩二卿余を別席に被呼
 余一人參議之上に立以て上下を勸導する云々を教諭あり其元因は今日西鄕吉之助板垣
 退助相共に二卿に謁し懇迫此事を言上せり余已に過日山縣井上を以答西鄕之外無他意
 故に又余の心事を逐一陳述せり退出懸け後藤雲濤を訪ひ制度之一條等を論じ今日二卿
 へ陳述し且西鄕へ答へし處の主意を語り板垣にも了解あらんことを欲す…」
「同十九日/晴終日家居養病岩卿に一書を出す今朝條公來駕過日岩卿一同西鄕板垣より
 建白の主意を以頻に出頭せんことを御催促なり余固辭如…」
「同廿四日/晴井上世外宍戸敬宇鳥尾小彌太吉富樂水等來話岩卿に一書を呈す則御答書
 あり大久保來訪制度等之儀に付巨細談論且西鄕進仕の一條に付余亦同職盡力の邊も云々
 …」
「同廿五日/晴岩卿來臨昨日大久保來て如相談是非余與西鄕同勤參議且此度制度御改正等
 の事に付云々御議論あり余答大久保と無異只管余三年前の宿志を達し勇退せんことを欲
 す九字參…四字歸家西鄕吉之助今日參議奉職之由に而來訪…」
「同廿六日/七字過より雨今日始て數十日の炎熱を忘る八字出門西鄕を訪ふ不在直に參
 朝條岩嵯峨諸卿西鄕等と卿輔人撰の議事あり不如意十に八九諸卿實に時勢人情に迂闊
 也…」
「同廿七日/晴昨日の雨にて大に冷氣を覺ふ昨夜來此度改革の次第を想察し余此度當職
 を奉命せし時懇々相論せしことゝ總て齟齬依て不得止八時參
 朝諸卿へ論し且西鄕へ相議し今日卿輔の發表を暫御見合あらんことを欲し盡力せし處
 已に大隅福羽等奉命且西鄕も從來の所以を知らず余の論更に徹貫する不覺依て此儘發
 表に至り然る後一所致あらんことを思ふ
 十二字休息處におゐて大臣納言參議列坐の折此度御改革の次第余の最前論述奉命せし
 時の約と大に齟齬なる所以を論陳し然る後西鄕に及ひ去冬已來之有様を語り余の其爲
 邦家安善せさる所以を述ふ與西鄕相談する數時終に我論の忽に彼の心腹に入るを覺ふ
 西鄕の公心余の心に徹し不覺感歎せり今日之事余亦一至誠を以
 邦家の重事を負荷し滿腹の論議を陳述せり此時條卿始已に退
 朝依て一書を以此次第を告け明日より迅速制度の一度ならんことを欲す政府の基立確
 定諸省の制限章程不想定ときは以何歟
 邦家を治せんと余の思至今日尤切迫然して始西鄕始諸省の制限而已を論し政府の基立
 を不語依て議論大に混雜せり至于爰漸相定爲
 邦家獨欣躍せり今朝來過日の行かゝり今當職奉命に當り諸前參議と旨趣を論し尤大隈
 于此間に周旋し大に余の奉命を促せり依て昨日來の事最前大隈の余に告し處と甚齟齬
 せり故大隈を責る數度大隈亦爲 邦家下爲余に甚盡力せり三字過退
 朝直に大隅に至り今日與西鄕相語り西鄕の公心を賞譽し爾後今一盡力制度一定の事に
 渉り諸同志と其約を終んことを論す大隅同意也…」
「同廿九日/晴八字前參 朝過日來の議實に遷延するを患ひ大に岩卿と大論し又條公に
 機を誤らんことを責め又西鄕へ重て制度の主意を論し今日二字に至り…
 …九字過歸家吉富同道也昨日制度の大主意を論せし二冊を西鄕へ相示せり又同氏の見
 込も可有之」

「明治四年七月二日/晴八字前神田邸に至り其より直に參…西鄕參議不參參議は只余一
 人也二字前退出…」
「同五日/晴八字參 朝今日より制度調らへの議事相始る西鄕と余と議長の席に列す
 右大臣公巳に御退出に付尚明日九字約し今日皆退出于時二字…」
「同六日/晴八字過參…十二字過退出…
 (鼇頭<※頭注>)今日井上世外と前途の事を議す西鄕の在所向依て今日山縣狂西鄕へ
 至る杉猿村宮木直之進來る」
「同七日/晴九字前江藤中辨を訪ふ十一時歸家…二字頃神田邸に至り杉を訪ふ于時井上
 世外今日余を訪ふ西鄕斷然同意之返答を聽大に爲國家に賀し且前途の進歩も亦於于此
 一層するを樂めり…」
「同八日/晴六字岩卿に至る巳に參 朝依て余亦直に參 朝今十字より議事席に出政體
 論不至一定三字過退出于時雨○西鄕と對談大改革の事件數條を議定す…」

「同九日/昨日來の風雨至今朝東風尤烈都下之不可數十字參 朝制度之議員不參多し依
 て今日延引西鄕亦不參也大久保等大に議論彼過日來不解處も稍似有解者制度之事皆其
 末を論し其本を論するもの少し依て確立する甚難し二字退出邸中破損甚多し今夕西鄕
 兄弟大久保大山彌助井上世外山縣素狂等集會此度廢藩論の順序を論す…」

「同十日/晴八字參 朝西鄕不參此度改革の事件一決の上は制度も其上にて調ふるに如
 かずと余依て江藤中辨に只三五日制度へ出席せさる趣を相告く尤此度の事件極密也
 二字退出直に大久保に至り西鄕と相會し大改革一條に付人選等の事を稍相議す五字過
 歸家 (鼇頭<※頭注>)余今日來る十四日を發令之日と定む」

因みに、「明治四年七月九日」は新暦変換「1871年8月24日」。
あと、木戸の記述だけでは七月九日の集会場所が不明確のため、
「大久保利通日記」で確認してみますと、
大久保は大山、西郷(弟)と同道して(午後)五時より木戸邸訪問、西郷隆盛は後入来の様子。

〇『大久保利通日記.下巻/日本史籍協会/昭和2』
「七卷(明治四年七月)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075745/98
<98/285>(177頁)
一「九日今日暴風雨ニテ所々破損多し九字參 朝二字退出大山子小西鄕子同道
  五字ヨリ木戸子江訪老西鄕子も入來井上山縣も入來…」

以上 西郷隆盛参議就任の明治4年6月25日以降、
両者は昼間の公務を含め何時でも会える状況だったにもかかわらず、
敢えて木戸邸に西郷を呼び寄せる必要が生じたとするならば、
上記の内では「明治四年七月九日午後五時からの集會」以外に有りませんので、
最も相応しい日時だと思います、エピソードの「真偽は別として」。

(その日以降の可能性の余地も残るとは言え、大政奉還・王政復古・版籍奉還ときて、
「廃藩置県」より大事は考え辛いです。都合の良い解釈ですが…)

以上 素人の当て推量に過ぎませんが、
少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

目からウロコで感激感謝します。
西郷隆盛の逸話で登場する木戸孝允さんが着物を貸してでも自宅に来させる微笑ましい話ですが、褌姿で座る西郷隆盛に着せる時期は夏でないと気分が乗らないし、日本橋の西郷隆盛邸から馬車に乗り駒込に駆ければ夕方5時以降になるでしょうし、三条さん岩倉さんに内緒で話すには、6月26日の木戸誕生日なら、すっきり納得します。
なんか喉のつかえが取れた気が致します。
それと大久保利通公の日記も見てみる、というのは浅学非才の私には思いつきません。ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/14 19:31

エピソードの「真偽は別として」の但し書きは付きますが^^


『木戸孝允日記』から両氏の接点を確認することで、
相応しい日時を探ってみました。

〇『木戸孝允日記.第1/妻木忠太編/早川良吉/昭和7.12』
[自明治元年四月一日至同四年二月十三日]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075389/5
〇『木戸孝允日記.第2/妻木忠太編/早川良吉/昭和8.3』
[自明治四年三月朔日至同七年二月晦日]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075400/3
〇『木戸孝允日記.第3/妻木忠太編/早川良吉/昭和8.6』
[自明治七年三月一日至同十年五月六日]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075415/3

下記は流し読みの中で拾い出したに過ぎませんので、
見落としもあるかもしれませんが、
明治元年(※慶應四年も含みますが、遡って明治元年表記)に関しまして、

木戸孝允は、少なくとも明治元年4月1日~閏4月9日在京都。
閏4月10日11時過出家、西宮小憩、7時過神戸泊、12日乗艦、13日3時過龍ヶ口着舶揚陸、
閏4月14日整武隊の馬をかり帰鴻(※帰郷)~山口・萩方面~5月8日まで在山口。
5月9日3時馬関(※下関)到、夕宿屋ふし龍~5月22日まで在長崎。
5月23日4時過上艦・揚碇、11時頃漸弼浦碇泊揚陸、5月24日5時揚碇ケートルを損し不得止
又弼浦帰泊、5月25日朝6時揚碇5時馬関、馬関旅宿櫛正、5月26日八幡社詣、
5月27日朝5時過揚碇、10時三田尻(※防府)着、4時過帰艦、5月28日暁藝州過、薄暮播州洋、
5月29日暁神戸揚陸、12時乗艦、1時天保山、3時過中ノ島鴻市別荘着、8時寓に帰る。
5月30日・6月1日在京都、6月2日6時上舟午時枚方過、薄暮到伏水亀甲屋泊。
6月3日~
「六月八日/例刻參仕 主上出御薩州公歸國の御會議あり終て御暇を賜ふに決す
 公歸國の後三十日を不出國内之大兵を引卒し東發之御都合也西卿(※西郷)も亦隨而
 歸國す」
「六月十日/朝御堀春江來る昨日西鄕六條本陣に出頃日の情實を言上せし由有 
命春江來而余に傳ふ余西鄕の議論不服事又多し有深意暫不論也」
~6月21日在京都。

6月22日神戸4時乗艦、薄暮浪華川口碇泊、6月23日発船已に12時に至る、6月24日9時遠江洋望み、6時伊豆下田沖、6月25日7時品川沖着舶、漁船にて品川橋向の海岸着、松岡屋
小憩、湯屋岡揚亭入湯、11時頃品川を出、西城御本営に至る、後に藩邸に至る。
6月25日~6月29日在江戸。

※因みに、旧暦時代の「明治元年6月25日」は新暦変換「1868年8月13日」、
同様に「明治元年6月29日→1868年8月17日」「明治元年7月1日→1868年8月18日」で、
赤フンか否かは別としても、褌一丁でもおかしくない季節ではあるようです。※

上記「6月25日~6月29日在江戸」は明治元年夏季に木戸孝允が江戸に居た期間の
全てです。あとは東幸(9月20日~10月13日)供奉時の10月13日からとなりますので、
季節が合いません。
一方、明治元年中に西郷隆盛が江戸に居た期間は、
〇「西郷隆盛に学ぶ会(例会・資料-1-5)」によりますと、
http://www.sohrin.net/saigou/nenpyo05.html
「3月11日着~14日発、3月29日着~4月28日発、閏4月23日着~5月29日発」が全て、
また前記六月八日の條のとおり、島津忠義と共に西郷隆盛は6月9日京都発で鹿児島に帰郷。
両者共に東奔西走の様子で、次に西郷隆盛が東京に現れるのは「明治2年6月1日~25日」。

以上『木戸孝允日記』と「西郷隆盛に学ぶ会(例会・資料-1-5)」を信じる限りでは、
明治元年中夏季に江戸(東京)での両者の対面は有り得ませんので、
明治元年中にエピソードが生まれる余地は皆無。

続いて「明治2年6月1日~25日」、これは明治二年中の西郷隆盛の在東京期間の全て。
『木戸孝允日記』によれば、木戸孝允は当時在京都のところ、明治2年5月23日神戸泊後、
5月24日10時乗艦~5月26日横浜着で26~28日横浜泊で、5月29日東京着。
6月1日~7月29日の間、在東京。8月1日~9月26日の間、箱根方面長期旅行と続きます。

さて、両者在東京の夏季ですが、『木戸孝允日記』「明治2年6月1日~25日」各條を見ても、
この期間「西郷」の記述は見当たらず、対面して記述無しは考え辛く、
どうやら、明治二年中もエピソードが生まれる可能性はゼロ。
〇『木戸孝允日記.第1/妻木忠太編/早川良吉/昭和7.12』
<120~124/239>(230頁6行目~238頁5行目)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075389/120

あと、明治三年中は西郷隆盛が東京に現れた形跡が無いため省略。

続いて問題の明治四年^^
明治四年中の西郷隆盛の在東京は「2月2日着~2月15日発、4月21日着~」
…両者間の親密度合いのこともありますので、
一先ず季節や居住場所の問題を横に置きますと…

大久保・西鄕が山口の木戸邸を訪ね土州同行を依頼した正月10日を含め
明治4年1月6日~15日の間に木戸は大久保・西鄕と面談を重ねていますが、
何れも問屋口(※山口県防府)界隈でのお話。
次に三者同行した土佐行(1月16日~21日)に続き神戸(1月22日)・浪華ほか~横浜(2月1日)
までは何れも旅先でのお話。

「明治四年二月十日/…今日朝廷上御評議之趣御示あり明日西鄕板垣杉御召之御都合也…」
「同十二日/…三條公西鄕其外會集之節懇切の餘從來之弊害の陳論す…西鄕吉之助來訪
 藩情且時情等を談し朝廷上之事に及へり…」
「同十四日/晴…朝三字過退出神田邸に至り…其より薩邸に至り西鄕に面會告別又
 世外を訪ふ…」
「同十五日/晴終日家居…又今日の一事とせり然るに今日山縣狂介西鄕吉之助へ談せし
 意齟齬あり哉…」などで、
西郷隆盛の在東京「2月2日着~2月15日発」の間で木戸邸で対面したとおぼしきは
「明治4年2月12日」のみの様子。

次に西郷隆盛の在東京「4月21日着~」となりますが、
木戸は明治4年2月24日(横浜発)~5月28日(帰家)の間、
往路・復路共に神戸・大阪などでの滞在を含め山口に帰っていましたので、
エピソードに相応しい日時は相当に限られそうです^^

佳境を目前にして中途半端ではありますが、
諸事情により一旦失礼致しますm(_"_)m
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