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NHKのリスニング入門で、「"Elizabeth"の名前の由来はヘブライ語で "oath of God" という意味だ」と、いう内容がありました。「これに近い意味の日本の名前は「のぞみ」かな・・・」と続きますが、この "oath of God" という語句はキリスト教(またはユダヤ教)でどういうことを言うのでしょうか、詳しい方ご教授下さい。

A 回答 (2件)

「のぞみ (hope)」とはたいへん素晴らしい解釈だと思います。

信心深い方には(何となくであっても)理解しやすい解釈だろうと思います。

"oath of God" (神自身による誓い)が意味するところは、キリスト教でもユダヤ教でも、神ご自身が人類に対して下さった約束(promise)を指します。神様が約束して下さったのだから、そのお言葉に「嘘や偽りはない」「間違いはない」と考え、そのお言葉を信じるというのが人の心(あるいは心得)というべきもので、そう信じるからこそ、自分の抱く夢や願望がいつかは叶う、という希望がわくのだと考えることができます。勿論、この前提には、「神の介在 (God's devine intervention)」なしには、何事も(究極的には)実現しっこない、という宗教観(宗教心)がありますから、何でも自分自身で「叶えてやる」という人生のアプローチとはちっと違いますね。

聖書でこれについて引用できる箇所としては、以下が挙げられるでしょう(日本語の聖書での呼び名を知りませんが、章や節の番号は同じです)。
Hebrews 6:13-20
Genesis 22:15-17
Genesis 15:2-4

人の個人的な思いや考え(thought)は、神の約束(promise)により保証(to assure)されて(assured)、初めて実現可能なものとなり、この時点で、人の思いや夢が、実現可能なものへと昇華され、ここでthought が 希望(hope)として定義される、というのが背景のロジックで、これが"oath of God" = "hope" という解釈に繋がると考えてよろしいでしょう。

よく、"I doin't make a promise lightly" (そんなに軽く「約束」はしない = 「約束」ということを軽々しくとらない) とか、"I don't make a promise that I cannot keep" (守れない約束はしない = 約束を破るということの責任の大きさを自分は自誡している)という表現を使いますが、これは、キリスト教やユダヤ教において、「約束する(to promise)」ことへの責任の重大さがいかなるものかという私たちの認識を反映している表現です。ですからキリスト教では、「神に誓って(swear to God)」という表現を軽々しく使うことを戒めています(禁じています)。勿論、何かにつけて"swear to God" と言う人はたくさんいますが、これは表現(a figure of speech, an expression)としては可能でも、本来してはいけない行為と理解されています(されるべきものです)。人間にそこまで重大な責任がとれる訳がない、という認識がこの前提にあり、それでも軽々しく「約束」や「誓い」をたてたりすることは、「怖れ多い」こと(奢り昂ぶり、自信過剰、横柄さ、そして不浄ないしは冒とく)と批難されるべきだ、というのが、キリスト教での教えです(参照: Matthew 5:34-37)。

こうした「約束」や「誓い」が、神様によってされたのであれば、それには間違いはない「はず」で、Abraham が神が下さったお約束を信じつづけたように、私たちも、うたがうことなく、信じる心を持ちつづけていたいものですが、そこまで信心深い人はなかなかおらず、疑ってみたり、願事が叶わないといって誰か(何か)をののしったりすることがあります。これも人情か、或いは人間の弱さというものかもしれませんが、それが故に、むしろ「約束」を守り通すこと、及びその「約束」を信じ通すことの重みを、自戒すべきでしょう。

キリスト教信者でなくとも、日本の方々は「走れメロス」を読んで、「約束」と「信じて疑わない」ことの重みに感動されたことがおありでしょう?

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因みに、私はニューヨーク州のNotary Publicとして、人々に「宣誓(oath)」させる立場(to administer an oath)にあり、私自身も公僕(a public officer)として「嘘をつけない」立場にあります (under oath) から、事の重大さは自分なりに認識しているつもりですが。教会で牧師さん(私はプロテスタントなので)から上記にあるようなことについてのお話を伺うと、人の弱さが身にしみます ("to be humble before God"という認識)。

ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

おそらく、そういう解釈だろうと思っていましたが、きちんと説明していただき確信が持てました。言葉から素直に解釈すると「信子」とか「恵」辺りの方が近いと思いますが、そこを「のぞみ」までふくらませるところが、宗教的な発想なのですね。

お礼日時:2004/06/16 18:30

オウス オブ ゴッド ですね。



これを参照してください。聖書からの抜粋です。


ヘブライ人への手紙

{6:1} ですから,わたしたちは,キリストについての初歩的な原理は後にして,完成へと押し進むことにし,次のような基礎を再び据えることはやめましょう。すなわち,死んだ業からの悔い改め,神に対する信仰, {6:2} 数々のバプテスマについての教え,手を置くこと,死んだ者たちの復活,そして永遠の裁きなどに関することです。 {6:3} 神が許してくださるなら,わたしたちはこのことを行なうでしょう。 {6:4} というのは,いったん啓発を受け,天からの贈り物を味わい,聖霊にあずかる者となり, {6:5} 神の良い言葉と来たるべき世の力を味わっておきながら, {6:6} その後で離れ落ちる者たちについては,彼らを再び悔い改めに立ち返らせるのは不可能なのです。神の子を自分たちで再びはりつけにして,彼を公の恥辱にさらしているからです。 {6:7} というのは,土地が,その上にたびたび降って来る雨を吸い込み,それを耕している人たちに役立つ作物を生み出すなら,神からの祝福を受けますが, {6:8} イバラやアザミを生じるなら,それは退けられ,のろいに近づいており,その終わりには焼かれてしまいます。

{6:9} しかし,愛する者たちよ,わたしたちはこのように語ってはいても,あなた方については,もっと良い事柄,また救いに伴う事柄があると確信しています。 {6:10} というのは,神は不義な方ではないので,あなた方の業や,あなた方が聖徒たちに仕え,また今も仕えていることによってみ名に示した愛の骨折りとを忘れることはされないからです。 {6:11} わたしたちは,あなた方ひとりひとりが,終わりに至るまで十分な希望を保つため,その同じ勤勉さを示して欲しいと思います。 {6:12} それは,あなた方が不活発になったりせず,約束を信仰と忍耐とによって受け継ぐ人たちの模倣者となるためです。 {6:13} 神はアブラハムに約束されたとき,ご自分より偉大な者にかけて誓うことができなかったので,ご自身にかけて誓い, {6:14} 「わたしは必ずあなたを祝福し,必ずあなたを殖やすだろう」と言われたのです。 {6:15} こうしてアブラハムは,辛抱強く耐え忍んだのち,約束のものを獲得しました。 {6:16} というのは,実際,人間たちは自分より偉大な者にかけて誓うのであって,その誓いは確証となってあらゆる論争に決着をつけます。 {6:17} このように神は,約束の相続人たちにご自分の考えの不変性をさらに豊かに示そうと決めると,誓いによって介入されたのです。 {6:18} それは,自分の前に置かれた希望をつかもうとして避難所に逃れて来たわたしたちが,神が偽ることのできない二つの不変の事柄によって,力強い励ましを得るためでした。 {6:19} その希望を,わたしたちは魂の錨《いかり》,確実でしっかりした希望,また垂れ幕の内側に入って行くものとして持っています。 {6:20} そこへは先駆者であるイエスがわたしたちのために入り,永久にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられたのです。


これをどう解釈するべきか...
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