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よく、「環境のせいにするな、自分が変わらない限り環境を変えても意味がない」みたいなことをよく聞きますが、どうしても変えられないことってありますよね?いわゆる不可抗力です。
極端な話でいうと、川崎の中1殺人事件だって被害者の環境を変えなかったからああいう無惨な結果になったわけで。
また、環境の力は絶大です。とても自分1人の力では太刀打ちできません。それでも環境のせいにするなというのですか?

A 回答 (11件中1~10件)

環境も一因で良いのではないですか?。


全てではないけれど、関係がないということはないです。

ただ環境というのは大きく二通りに分けられます。
自分とは直接関係がなく、ただその場に居合わせているだけの場合と、自分も影響していて、環境の一部である場合です。

前者の場合は、影響は「受けるだけ」であり、自分が環境に影響を与えるという意識は薄い(無いわけではないけど)ですが、後者の場合は自分と環境は密接です。
後者の場合は会社の仕事場とか、学校とか、そういう比較的限られた場所です。

問題は後者の場合に「太刀打ち」する、という考え方にあります。
自分も環境の一部ではありますが、全てではありません。
自分がもがいて、環境を変えていくことは可能です。
しかしそれは、長い時間や、他者との関係性の確立や、自らのバイタリティーなどが必要である場合も多いものです。
多勢に無勢で、環境はそう簡単には変わりません。
しかし「全く変えられない」ということでもないのです。
難しいことだけど、出来ないということではありません。
なので、環境のせいなのだから、と蓋はしないでください。

川崎の事件の場合でも、被害者少年の環境は確かに汲むべきものはありました。
しかし、先に言ったように、環境は変わっていくものでもあります。
自らが環境を選択する意思というものもあります。
けれど、まだ中1という幼さである彼にとって、そのことは大変なことでもあり、また、自らを変えていくには、彼の家の中での立場は、あまりにも不自由だった、とも想像できます。
親一人、きょうだい多数という環境は、彼の手で変えていくことは出来ず、また、彼がそこから抜けていくには、彼は幼すぎるわけですよね?。
それゆえに、彼が加害者少年と接近する切っ掛けや理由にもなったのでしょう。
自立心が高かったのでしょうね。

たしかに、もう少し風穴を開け、世間との風通しを図る必要はあったとおもいます。
そのことで事件が防げたかどうかはわかりませんが、彼にとって必要だったのは、おそらくは「島の生活」の時のような、少しだけ過干渉かもしれないけど、頼れる大人がいる場所だったのかもしれないですね。

>環境のせいにするな、自分が変わらない限り環境を変えても意味がない
これは、間違いではありません。
言い方を少し変換するならば
「どんな環境にあっても、環境は変えられる…自分が変えていこうとするならば」
…ということになるでしょうか。

ただし、闇雲にやっても、実現は難しいでしょう。
それは「相手にもその環境というものがあるから」です。
相手には相手の都合がある。
そのことを考慮した上で動かないと、なかなか動くものではないということですね。
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環境を問題視することは、間違いではないと思います。

だから、今の環境が自分にとってふさわしくないと思う時は、対処法として3つあげられると思います。
①今の環境にとどまって、環境に不満を抱いたまま、我慢して生活を続ける。
②今の環境にとどまりつつ、環境に不満がなくなるような努力(その環境下でのストレスを解消するために趣味作り、逃げ道をつくることや、現在自分がいる環境を変える努力をする)をする。
③自分が理想とする環境を得るために、今の環境下から離脱する。

以上の3つが考えられると思います。自分を変えるというのは②に該当する対処だと思います。自分の感じる感情をコントロールして、今の環境を自分にとって良いものにするといった具合でしょうか。

しかし、どの方法を選択するかは自分自身です。だから、誰かのせいには出来ません。環境を問題視しているのは、自分の決断を正当化するための理由を探しはじめているのかもしれません。ですから、自分が今、どのような決断をしたいのかを考えるきっかけととらえれば良いと思います。
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環境のせいにして人生が成功するのならそれ以上の事はないと思う。


環境のせいにして人生が成功していないから、討論になるのだと思う。

川崎の被害者がの環境を変えなかったとありますが、
当人がまじめに学生生活を送らなかったので、因果応報だと思います。
(故人をどうこういうのはよくないですが。)

嫌な事にぶち当たっても出席して大人になるのです。
不良仲間と付き合ったのは彼がそうしたいから作り出した環境です。
同級生が前に進むのを彼は見つめていただろう。でも出席しなかった、それだけです。
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いけないことはないですが、そう考えてしまえばそれがその人の環境になってしまいます。


環境というのは出来上がってどうしようもないものではなく変えられるものです。

どんなひどいところにも日は射してするのだし、虫の声、鳥の声、そよ風も涼風も、いろんな花も咲き目にすることができるはずです。
「よく見ればナズナ花咲く垣根かな」ぺんぺん草にだって花が咲くのです。
そういうものに目が向けられるかどうか。
誰もかまってくれないという。なら、自分がかまってあげる人が一杯いるじゃないですか。手助けを待っている人が一杯います。小さな親切にありがとうと言ってもらうことだってできるのです。
環境というのは勝手に出来上がるものではありません。自分がそれにどう関わってどう作り変えていくかです。放ったらかしではどうにもなりません。
「行く先に我が家ありけり かたつむり」
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いくら自分を変えようと努力したところで、問題は解決しません。



私は中学時代、壮絶ないじめに遭いました。何かをしたわけでもないのに、一方的に殴る、

蹴るの暴行を受けました。

もし違う中学校に行っていたら、ここまでの被害は受けなかったと思います。

環境のせいにすることは、少しも間違っていません。
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どうしても変えられないことはありますが、それ以外の所を変えていけば総合的な評価は全く違ったものになるのでは?


川崎の事件だって、殺されない方法はいくらでもあったと思いますよ?
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私が思うことの大半は既に回答されておりますが、私だけかもという考えを二つ。



偉そうなこと言う人は、まだまだヌルい環境しか知らない。
言葉の上では同じものでも、実態が全然違うってことはよくあります。

偉そうなこと言う人が、逆境を作り上げた張本人である。
自覚が無かったり、責任逃れのためだったり。後ろ暗いところがあると、人は高圧的なことを言って相手を黙らせようとするものです。

畳み掛けるように正論を叩きつけられどうしようもなく落ち込んだときは、この2つの可能性も考えてみたら少しは気が楽になるかもしれません。
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自分の力で周囲の人々の心を改めさせたり、決まり事やルールを変更したりして、


自分の身の回りの全てを自分に合うように作り変える、という意味で環境を変えるというのは、これは不可能でしょうね。
冒頭の言葉も、そういう努力をせよといっているのではないと思います。

そういうことではなく、環境を変えるというのは自分が今現在の環境から違うところに移動するという意味合いだと思います。
焦って学校や会社を辞めたり、思いつきで住む場所を変えてみたりしたところで、
本人の姿勢や考えが今までのままなら、自分の望んだ通り何かが変わるわけではないということでしょう。
つまりそれは自分のいた環境のせいではなかったということです。
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逆境の中で、たくましく生きてる人だっています。


自分を正当化するために周囲が悪いというのは、責任逃れでしょう。
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「環境のせい」というのは、いろいろな意味があるでしょうね。


確かに、川崎の中1殺人事件の被害者は可哀想でした。
田舎から急に川崎に来て、自分であの環境を変えるのは難しかったでしょうね。
そういう意味では、被害者の親や周辺の大人があまりにも放置し過ぎたということでしょう。
別な例としては、子供の頃に恵まれない家庭環境で育った場合に卑屈になることが多いです。
この場合には、大人になったら、いつまでも子供の頃の環境に引きずられずに自分で人生を切り開くことが求められます。
この場合には「環境のせいにするな」といえると思います。
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