プロが教えるわが家の防犯対策術!

ロマンチックなエピソードとかあるのかな?その他、どんなジャンルでもいいので、ひがし茶屋を回るのが楽しくなるエピソード教えてください♪

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

教えて! goo を頼りに、木下優樹菜さんが3/18(水)東京へ、
遼河はるひさんが3/21(土)・22(日)金沢へ旅行に行きます!
あなたの回答で、素敵な旅のプランが出来上がる!?
旅の様子はサイトで随時更新されるから是非Checkしてみてね!

教えて! goo TRAVEL
https://travel.oshiete.goo.ne.jp/

A 回答 (10件)

男を寝取られた茶屋の遊女が海に身を投げ、それ以来その浜を歩くと、


泣き声に似た音を立てるようになったそうです。
それが、実際に石川県にある「琴ヶ浜」の泣き砂の由来だそうです。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

切ないエピソード…。泣き砂の由来を知ってから廻るひがし茶屋街はまたひとつ違って見えてきそうですね。ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/26 18:04

古くから遊郭街だったため、取締りなどの影響や様々な事件によって、


多くの人の命が通り過ぎた街だとも言えるでしょう。

6月には多くの魂を沈める「金沢灯篭流し」が行われます。
    • good
    • 0

ひがし茶屋が住居として利用されるようになったのは1600年代と割と最近のようですね。


今の形になったのは、加賀藩が点在していた茶屋を集中させ、ひがしとにしに分けたことから形成されたようです。
    • good
    • 1

1690年代には今でいう風俗店を経営していた武士と、そこで勤務していた遊女を処罰するという事件があったそうです。


時代が変わっても事件の形は変わりませんねw
    • good
    • 1

歴史とは少し違うかも知れませんが、茶屋の女将さんになるときは「ここで見たこと 聞いたことは すべて忘れること」と教えられるそうです。


昔から立場のある人が情報交換や密談で利用していたのが分かるエピソードですね
    • good
    • 0

近代では1970年代から観光地としての人気が出はじめたようです。


老舗も多いので、一見さんお断りの茶屋もまだ残ってるようですね。
    • good
    • 0

もともとは遊郭としての土地※出会宿※だったようですね。


様々な分野で描かれている遊郭ですが、そこには想像できないような人間模様があったのではないでしょうか。
    • good
    • 1

ひがし茶屋街にいらっしゃるなら、少し離れていますが、ぜひ来教寺にも行ってみて


下さい。
歩いて15分くらいです。

江戸時代から占いや宝くじ(富くじ)販売を許されていたお寺で、住職が観相御籤
(にんそうおみくじ)という人相占いをしてくれます。
恋の悩みも聞いてアドバイスしてくださいますよ。
「ひがし茶屋街の歴史秘話を教えてください。」の回答画像3
    • good
    • 0

東茶屋街、西茶屋街は12代藩主 前田 斉広(なりなが)の命により文久三年


に設置された。
武士の利用は禁止されており、町人だけが利用した。
東茶屋街は門前に帯刀者かどうか確認する場所があり、実際には武士は刀を預けて
利用していたらしい。

東茶屋街の門前を抜けると一番町、二番町、三番町があり、そのうち二番町の一番
奥にある神社が村山大明神である。
ちょうど宇多須神社の真向かいにあたる。
    
斉広の命により、設置にあたったのが村井 長与と山崎 頼母であったため、その
頭文字をとり村山大明神となった。
しかし、前田家は菅原道真の子孫とうそぶいたので、菅原道真を祀った方がよいで
あろうとなり、すぐに菅原神社に改名された。

東茶屋街ができたきっかけは、長谷山観音院の門前の通りに当時、出会い茶屋が
でき、風紀を乱す、藩に収入が入らないとのことで茶屋街を整備した、とのこと。
(今の風営法に似てますね。)

13代 斉泰(なりやす)の頃(天保2年)、ある有名な武士のせがれが東茶屋街を
利用したことが明るみになり、斉泰は怒り、東茶屋街は廃止された。
    
遊女は隠れて出会い茶屋に通ったりしていたようだが、東茶屋街は廃れてしまい、
その街にある綿津屋の綿津屋政右衛門(わたつや せいえもん)が街を復興する
ために、観音院に三重塔を設置し、参拝客(観音院詣で)を誘致したり、芝居・
相撲を企画して街の復興に尽力した。

観音院には綿津屋政右衛門の墓がある。
また、観音院には珍しい「お百度石」が置かれている。
遊女の方々がしきりに参ったらしい。

なお、綿津屋政右衛門は綿津屋で生まれていない。
富山の人間で、綿津屋忠蔵に男子がいなかったため、養子として政右衛門を迎えた
とのこと。

東茶屋街は14代 慶寧(よしやす)の代(慶応2年)に復活する。
結局、出会い茶屋が出来てしまったので、再度東茶屋街を作らざるを得なかった。
    • good
    • 0

ひがし茶屋街には江戸時代末期から明治時代にかけて建てられた茶屋様式の町屋が数多く残されており、そうした建物が建ち並ぶ町並みそのものの歴史的価値が認められ、2001年(平成13年)に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

    • good
    • 2

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!