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最近、テレビで、「言葉は哲学者だれそれによって新しい意味づけがなされる」みたいな宣伝がありあますが、これを見て改めて思ったのですが、哲学者って、世の中に対してどんな貢献をしているのか、その存在意義は何か、疑問に思い始めました。

私も、若い頃から人生の真理・世界の真理を探究したいと思い、随分哲学に期待して、色々な哲学者の本を読んできましたが、結局、いろんな見解があるのは分かったものの、だからどう?って感じで、真理を発見したと思う心境には至りませんでした。
そういうある種失望感から、今回のコマーシャルを契機に、哲学者なんかいなくても、どうって事ないよなぁ、見たいな気持ちにさせられたので、質問してみました。

この場で、あまり論争する気はありませんが、表題についての皆様のご意見がうかがえるとありがたいです。
どうぞよろしくお願い致します。

質問者からの補足コメント

  • 「真理は 場でありチカラである」とは、どういう事ですか?
    良く分かりません。
    もし、よろしければお教え頂けますでしょうか?

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/08/31 14:44

A 回答 (10件)

>哲学者なんかいなくても、どうって事ないよなぁ、見たいな気持ちにさせられたので、質問してみました。



その通りです。この世には存在しなくてもよい職業がいっぱいありますが人間は弱いものです。頼ってしまうんですね!カウンセラーなんかもそうだと思いますよ。
極論すればどんな職業も不要となるんですがそうはいかないのが人間の世の中です。
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この回答へのお礼

>人間は弱いものです。頼ってしまうんですね!

やはりそうですか。
貴重なご意見、ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/08/30 17:44

哲学って西洋哲学のことですよね。



近代科学が発達したのは、哲学が大いに寄与
しています。

西洋で近代科学が発達したのは、偶然では
ありません。

人間が持つ疑問を、徹底的に理詰めで考え抜いて
行く。
そういう行動が科学を発達させたのです。

原子だ分子だ、なんて考えはギリシア哲学にまで
遡ります。


哲学の役割には二つあります。

一つは真実の発見ですが、真実発見なら、科学の方が
遙かに優れています。
従って、現在における真実発見の役割は消えた、とまでは
言いませんが、弱くなっています。

もう一つは、人生の指針を示すことです。
これは科学の分野では扱いません。
哲学は、この分野で生き残ると思います。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
ところで、別に反論するつもりではなく、ご意見に対する単なる感想ですが;

>近代科学が発達したのは、哲学が大いに寄与 しています。
人間が持つ疑問を、徹底的に理詰めで考え抜いて 行く。
そういう行動が科学を発達させたのです。

「近代科学が発達したのは、哲学が大いに寄与 しています。」というのは、知りませんでした。
キリスト教が支配していた智の暗黒の時代を突き破ってルネッサンス時代を迎えるのは、むしろ、近代科学の方が貢献が大きいと思っていましたが、哲学が先だったのですか?
私は、哲学が、科学の、物事を証拠に基づき客観的に考え抜く手法に触発されたと思っていましたが、違っていたのですか?

>哲学の役割には二つあります。
もう一つは、人生の指針を示すことです。
哲学は、この分野で生き残ると思います。

そうかなぁ。
部分的には、なるほど、と思える部分もありますが、全体的には、相反する考え方があり、人生の指針になるとは思えませんが、・・・。(でも、確かに、部分的には、私の考え方の一部を支えているのかも知れません。)
ただ、現代の哲学者からは、有益な人生の指針が示されているとは、考え難いように感じていますが、・・・。 (それとも、もう哲学書を読まなくなった私の怠慢がいけないのかも知れませんが、・・・。)

いずれにしても、私の考え方を改めて点検させられる、面白いご指摘、ありがとうございました。

お礼日時:2015/08/31 09:24

哲学は、その語義(智を愛する)および歴史的な背景から、諸科学の生みの親みたいなものでしょう。



時代が変遷したことと、西洋と日本という違いもあるでしょうが、思索の原点に近いところを探り続けている方もおられるということです。ようするに「智」を「愛する」という基本原理に近い思索を好む方々です。そういった意味で(そもそもあるかどうかも不明な)「真理」の探究の有無とは無関係と考えるべきでしょう。

「年老いた親なんていらねぇ」と声高に叫びたい子供達(諸科学)も中にはいるでしょうが、必要とされるからこそ、残っていると考えるべきかもしれないですね。

最近コマーシャルで名前の出ている方(鷲田 清一)は、真理どうこうというよりも、近年、医療系の倫理学に近い分野で活躍されていた方です。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
ところで、別に反論するつもりではなく、ご意見に対する単なる感想ですが;

>「真理」の探究の有無とは無関係と考えるべきでしょう。

そうかなぁ?
「真理」を発見できたかどうかは別にしても、少なくとも「智」を「愛する」知性の営みの動機は、「真理」の探究にあると思っていましたが、そうじゃないのですか?
発見できなかったから、結果として、「真理」の探究の有無とは無関係になってしまったが、はじめの動機は、「真理」の探究にあったのではないのでしょうか?
「そうではない」と言うと、それを哲学に期待していた私は、馬鹿の見本みたいです。

いずれにしても、私の考え方を改めて点検させられる、面白いご指摘、ありがとうございました。

お礼日時:2015/08/31 09:35

人は、荒地を歩く時に、目をつぶって平気だろうか?


そこに在る意味、生きてゆく行方について、より正確
に知りたいと思うだろう。

この世界を構成する情報に、哲学だの物理学、社会学
などといった分類がある訳ではなく、人間の側の情報
処理能力の限界によって、個々の専門分野に分かれた
のである。
研究者が専門化するのは分るが、生活者が環境を理解
する上で、哲学も物理もない。
興味のある取っ付き口として、どの分野でも良いが、
世界観としての充実において、1つの世界を構成する
ものとして、哲学や物理学、生物学など、主要な分野
についての基本的な理解が伴うべきだ。
もっとも、他人に自慢するための知的アクセサリーと
しての“百科事典的な知識”としてなら、そんな必要
もないが。

今や身の回りの衣食住ほとんどが世界中からやって
来ており、もはや我々は1人では生きられない社会
生命だと言える。
もともと単細胞生物だったのが、様々な器官に分化
して、今や一体の個体として機能しているように、
人類も全体としての最大限の機能発揮が個々の細胞
の最良の状態につながるように、個人の意識が社会
生命的な自覚(分業化=助け合いとしての社会=愛に
よる労働)において自律的に行動するならば、「全体
の全体としての最大限の機能発揮」の指向において
協調したものとなり、他律的(法規、モラルetc.)に
コントロールする必要はなくなる。

ところが人類は、その社会性の発達において、自己の
生命の社会的拡張を自覚化し得るだけの認識の発達を
怠り、自己チューな意識のまま、お金や出世といった
馬車馬の目の前のニンジン=アメや、法規や道徳と
いった外的権威による抑制=ムチによって、他律的に
コントロールする方法を取ったのだ。
哲学や科学、思想といった認識の深まりが、そうした
「社会生命的自覚(自我成立のための相補としての
環境=博愛)」に至るならば、「人生を通算した精神的
充足量の最大化」という根源的な目的だけから全ての
社会行動は導かれ得る。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
お説ごもっともと思います。
ところで、別に反論するつもりではなく、ご意見に対する単なる感想ですが;

人間が社会的存在であることは、別に哲学を勉強しなくても分かります。
しかも、哲学の学説も、例えば、カントのようなキリスト教に根ざした考え方があったり、ニーチェのように反キリスト教的な考え方があったりと、いろいろあって、どれが正しいか分かりません。
なので、哲学を学んでも、混乱するだけで、人生の真理には到達できそうにないと思うので、哲学の存在意義に疑問を感じた訳です。

それと、№3の方が教えて下さったように、「最近コマーシャルで名前の出ている方(鷲田 清一)は、真理どうこうというよりも、近年、医療系の倫理学に近い分野で活躍されていた方です。」ということになれば、そんな人を哲学者と呼んでいいのでしょうか?疑問に感じます。

いずれにしても、私の考え方を改めて点検させられる、面白いご指摘、ありがとうございました。

お礼日時:2015/08/31 09:50

1. この経験世界は 相対的なものごとから成っています。



 2. そこに居るか居ないかどちらかひとつ あるいは かたちが有るか無いかどちらかであり かたちには 大きい小さいがあります。

 3. あるいはかたちあるモノが整っているか否かで良し悪しを決めることがあります。

 4. 良し悪しは 人の心にかかわって 好きか嫌いか きよいか汚いかなどの相い対立する二つの項目に――たいてい――分かれます。

 5. 《真理》とは このような相対的な二項対立のありさまから自由な場でありチカラのことです。善悪の彼岸とも言います。

 6. 一般に経験科学は この真理についての問い求めは 控えます。経験事象について認識を深めます。

 7. すなわち真理について 学問は 一般に禁欲します。そこを哲学は なおスケベ心を出して人間の能力のおよぶところを究めます。

 8. たとえば真理が分かるということは――想像で推理するのですが―― 世界の初めから終わりまでに起きたすべてのモノゴトを知っているということではないか。

 9. だから きのうミーちゃんが泣いていたことは ハーちゃんがあのときああいう風にミーちゃんやさらにはほかの友だちに対して振る舞ったからだと 真理において分かる。
 
 10 あるいは わたしがきょう初めて会う太郎と花子は もしわたしが真理を――つぶさに知らなくとも――身にそなえていたとしたら ふたりはそれぞれわたしに接して 自分の来し方についていくつかの問題が起きていてなお解けていなかったものについては ははぁ あのときのコトは これこれこういう事情であったのかと分かるようになるかも知れない。わたしが鏡となってのように 太郎や花子のそれぞれ心を――歴史的にも――写し出す わたしは何もしなくともかれらがそれぞれ心に想い起こすことが起こるかも知れない。

 11. 昔から《さとり》などと呼んで来た事柄は おそらくこういう問題なんだろうと考えられます。心の境地のそれですね。真理は 場でありチカラであるという想定からそのようにみちびけます。

 12. 真理論としての哲学は 自然科学やあるいは社会や人文の科学の成果に大いにまなびますが と同時に それらの学問は 真理の問い求めについては確かに禁欲していると知っています。
この回答への補足あり
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その時代の時代なりの自然観を土台にして


自由に思索した結果が淘汰されて
積み重ねられてきたのが哲学の歴史だと思います。

自然科学が級数的に発達した近現代では
普遍的な哲学の模索の土台となる自然科学の理解までの道が遠すぎて
「途中の段階にとどまった哲学がたたき台にならざるを得なくなっているのかもしれない」、
それが真理の追求という意味での哲学に対する物足りない感につながり
ある意味一つの限界でもあり
乗り越えなければならない課題
と言ってもいいのかもしれません。
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この回答へのお礼

>自然科学が級数的に発達した近現代では 普遍的な哲学の模索の土台となる自然科学の理解までの道が遠すぎて 「途中の段階にとどまった哲学がたたき台にならざるを得なくなっているのかもしれない」、
それが真理の追求という意味での哲学に対する物足りない感につながり ある意味一つの限界でもあり 乗り越えなければならない課題 と言ってもいいのかもしれません。

なるほど。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/08/31 14:48

★(補足要求) 「真理は 場でありチカラである」とは、どういう事ですか?


 ☆ まづ 次のように表現しているところです。
 ☆☆(回答№5) 5. 《真理》とは このような相対的な二項対立のありさまから自由な場でありチカラのことです。善悪の彼岸とも言います。
 ☆ 《善悪》を超えている――あるいは 《有る無し》を超えており 好悪や愛情・憎悪を超えている――という想定ですから その《超えている》のは 《もの》か 《こと》かあるいは何かといった問いが出て来るものと思います。

 ただし この想定は けっきょく――真理であるからには―― ナゾです。《絶対あるいは無限》という概念で説明することも出来るかと思いますが それでもその《無限や絶対》を見せて欲しいと言われても 見せることは出来っこありません。絶対なるナゾです。

 ですから ナゾなる真理を想定した上で そのことを《場ないしチカラ》と――けっきょく仮りに――表わしてみました。

 絶対であるなら――想定の上でですが―― チカラであり得ると言ってもよいと思ってのことです。電磁場がチカラでありうるようにです。
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この回答へのお礼

よく分かりました。
確かに、宇宙の真理は、エネルギーとそれを支配する法則のような気もします。
再度のご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/08/31 15:41

哲学なんて 何と言う哲学者がこう言った 他の哲学者がああ言ったと適当に読んで参考にするだけですよ



あとは自分で考えないと、自分の身につく哲学は出来上がらないですよ。学問も進歩してるし

文化文明も世界の状況も変化してるのですから。今の自分の哲学を持たないと 即戦力にはなりませんよ。
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この回答へのお礼

>あとは自分で考えないと、自分の身につく哲学は出来上がらないですよ。
⇒ そうですよね。
「学んで思わざれば、すなわち、危うし(だったかな?)」のとおりですね。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/09/01 09:50

哲学の起源は、古代インドのウパニシャド哲学の、悟り、と、悟りを求める人。

そのための修行をする人。
ボ-ディン・サツトバ。いわゆる、菩薩、になろうとする人にあるのではないでしょょうか。目的は人々を導くべく、指導原理としての真理、を求めていた筈です。階級社会、でもあり、導く亊ができなければ、人々は、亡者が亡者に道を尋ね、瞬時の喜び、安心、を夢みながら、地獄、に落ちていく。インド哲学は、多分、を付けずとも、古代ギリシャに伝わり、「ギリシャ哲学」となります。ギリシャ哲学を代表するのは、プラトン、が「国家」のなかで言っている。「在るものを在るがままに観る者は、思惑愛好家、ではなく、愛知者、と呼ぶべき者ではないかね。」とソクラテスが言った。と記した。亊て゛しょう。この愛知者が、哲学者と誤訳され、使われています。
どこが誤解か、思惑愛好家にたいする。愛知者であり。愛するとは、思惑、であり、執着の最たるものなのです。知恵を愛する者、知恵、を知らない、知恵ではなく、好嫌、戦慄は己より発し、己を去る(ブッダ) 
の心に執着する。思惑愛好家であり。その対極の、知恵=悟り、を求める者。心を捨て、あるものを在るがまま観ようとする、知恵を求める者。心を捨て、知恵=考え方(理法・方法論)を求める。菩薩、修行者、とは言えない。
そして、思惑愛好家、に対する哲学者、は心に支配された者に対する。心を否定する者、であり、学者、ではなく。哲学人、哲学者(もの)なのです。
知恵と心は人間の精神の、表裏一体のものであり。心×知恵=一定 心が大きくなると、知恵が小さくなる。
心を滅する(不確定=1)とするなら。1×知恵=精神、となる。そういう、知恵に対する認識が、西洋に育っていないのは、知恵は神の領域とする。宗教思想故なのでしょう。
そういう意味では、心を廃した、数学、は知恵に近いものがあり。数学を知恵の代役として、物理科学、技術、が、知恵がないキリスト教界に対する反抗として発達し。現代を創ったのです。
日本人は低い、頭が悪い、と誰しもが感じながらも、世界、に出て。欧米人、に接すると。
妙に自信、度胸、を付けて帰ってくる。欧米人はもっと低いことを実感する、のです。
アメリカの占領政策に洗脳されていなければ、です。
老子が、学門と商は重要ではない。(重要視すれば、現代のような社会になる。)と言い。
10年ぐらい前になるのか、インド人とおぼしき、国連の科学委員、が地球は人間の活動によって温暖化している。対策のために、知恵、とりわけ東洋の知恵が求められる。と言っていました。
地球は人間の活動によって温暖化している。特効薬的方策、がなければ、人間の活動を抑えなければならない。企業活動を制限し。消費を小さくするためには、人工を減らし、欲望を抑えなければ。ほかの生命体を巻き込む、大絶滅、に向かってしまう。そういう問題を引き起こした、西洋思想では解決は無理である。と言っているのです。炭酸ガスの温室効果によって、などは、公式見解としては一言も言っていないのに。
政治家、企業家、御用学者、などの、思惑愛好家達が一斉に炭酸ガスを悪者にし始めました。それは、化石燃料はいずれ底をつく、脱石油はいずれ取り組まなければならないと思っていたからです。
しかし近年、シェ-ル、ガス、石油、メタンハイドレ-ド。化石燃料は取り尽くせるものではない亊が事実となり。温暖化問題そっちのけで開発競争をやっています。本当に炭酸ガスの温室効果が原因で地球が温暖化しているなら。化石燃料の採掘、開発を制限あるいは中止すべきなのです。
ソクラテスは自らを棘と称し、辻説法で思惑愛好家達を論破し。無知の知、釈迦の言う己を陽炎泡沫の如きもの、と思う者は既に知恵がある。己を陽炎泡沫の如きもの、と知恵によりて観る者には既に知恵がある。
というような亊を認識させようと無駄な努力をしたようです。結果、告発され有罪となり。悪法と言えども、法は守らねばならない。といって、毒杯を煽って死んだ。そうです。それが、哲学者?
哲学者は別にいなくてもいいものでしょうが。貴方が、物理、科学、数学、(最近は生物でしょうが)などを学べば。その中にも、哲学=考え方 があり。どう理解するかはあなたの知恵次第でしょうし。
そのあなたの、知恵の部分を求め教える学問があれば、それは学門の中の学門と評すべきかもむしれませんが
。釈迦は諸行は「無常であり、諸相は無我である、と悟る者は、世間からの、非難と賞賛を無視する。」
あるいは、「・・と悟った者は、この世、も、かの世、も共に捨てる」と言いますが、賞賛や非難を気にするような者は、思惑愛好家であり、哲学者ではない? 
すべて捨てよ、ただし、龍だけはそのままにしておけ、(ブッダ) が、哲学者、かも!
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この回答へのお礼

>哲学者は別にいなくてもいいものでしょうが。貴方が、物理、科学、数学、(最近は生物でしょうが)などを学べば。その中にも、哲学=考え方 があり。どう理解するかはあなたの知恵次第でしょうし。

そうですね。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/09/01 13:42

#3です



補足しておきます。
少し誤解を与えてしまったようで、申し訳ございません。

哲学=「智」を「愛する」
であって、「真理を探究するではない」ということを言っているにすぎません。

そもそも「真理がある」という仮説を立てて、論考してきた経緯があるわけです。
このことは、諸科学においても同じことです。

たとえば、エネルギーを支配しているように見える保存則についても、経験則であり、そこに「真理がある」という仮説の下で、「ネーターの定理」という数学概念が展開されています。「ネーターの定理」が成立しえない世界では「保存則」は成立しません。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/304503.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7251057.html

「哲学」の子供達であるところの諸科学が、そのような思索にまでたどり着けたのは、ひとえに「真理があるという仮説」を立てる手立てを標準化できたからに他なりません。
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この回答へのお礼

「ある一つの法則」が成立する世界もあれば、成立しない世界もあるのは、量子力学などで、それまでの古典物理学が成立しなくなった現実からも理解できます。

また、人間の知性・理性・認識能力には限界があるので、果たして、真理があったとしても、それを認識できるかどうか疑問だ、ということも、理解できます。

だから、今までこれが真理だと思っていたことが、そうではなかった、という事はいくらでもあり得ると思うのですが、だからと言って、「真理がある」というのは「仮説」だ、と言い切るのは、少し、早計ではないかと思うのですが、・・・?

再度のご回答、また、「ネーターの定理」というものがある事を教えて頂き、ありがとうございました。とても、勉強になりました。

やはり、いわゆる真理を追求したければ、いわゆる哲学者の説ではなく、物理学の世界にそれを求めるべきなのかも知れないという思いを再確認させられた思いです。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/09/01 09:45

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