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タイトルどおりですが、信仰という要素が極めて大きな関連性を持つと考えますので、「信仰」の意味を曲解している可能性は無いか?という切り口から入らせていただきます。
1.【本来の信仰とは?】
まず、わかりやすい定義(語釈)をネット辞書から拾って提示してみます。
[ 信仰 ]
 1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」
 2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/114011/meaning/m1 …
[ 信仰(しんこう)/信ずる(しんずる)/信心(しんじん)/帰依(きえ)/狂信(きょうしん) ]
[共通する意味]
神仏を信頼して尊び、その教えに心から従うこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/9804/meaning/m …
「信じる・信頼する」という意志的動詞に着目していただきたいのですが、信仰とは、少なくともそのきっかけにおいては、「自我による思考」によって選択されたものだと判断するのが妥当と思われます。

2.【信仰の現状は?】
しかし、この点を失念して神におんぶに抱っこ状態になってしまうため、誤った信仰(盲信)に転落してしまうのではないでしょうか。
ある人にとっての信仰とは、論理的手段によっては解決不可能と判断された(漠然としたものも含む)不安や怖れなどを解消するための、最終的な手段になっていると思います。
そうだとするなら、論理の入る余地が無いという意味で、信仰は自我による思考の放棄だと(論理的に)言わざるを得ません。
「自我による思考の放棄」とは、同時的に、または結果的に「あるものへの盲信」へとつながるはずです。
念のため確認しておきますと、信仰が「自我による思考の放棄」の結果と仮定した場合、それが「盲信」であることに議論の余地はありません。(何も信じない、というのは「自我による思考の放棄」には含まれない)

3.【つまるところ・・】
自我の放棄による信仰状態を脱し、自らの信仰は自我によって選択されたものであることを確認することが必要ではないか、と思うわけです。
ところで「盲信」とは、
【わけもわからず、ただひたすらに信じること。】という意味です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/218564/meaning/m1 …
このように再確認してみれば、これは信仰者に限らず人間の常態であると言っても良さそうです。実際、信仰の有無にかかわらず人は何かを「盲信」というほどに深く信じ込んで生きているようにも見えます。
ただ、その選択が自らの意志(自我)によって為されたものである、という認識を持っているか否かが重要ではないかと思うわけです。

4.【では、我々は何を為すべきか?】
信仰というものが、自我によってその選択が為されるとするなら、そこには(形態はどうあれ)根拠が必須になります。
この根拠として、宇宙の摂理(法則よりも適切でしょうから、このように表現します)という絶対性を挙げてよいのではないかと考えます。
「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが妥当でしょう。
ただし、摂理(法則)とは、天体運行に関する科学的な仕組みや、宇宙の構造などを指すわけではない。(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということです。
そして、この摂理を背景に、人間という種を俯瞰してみるという作業が重要ではないかと思います。
なぜかというと、摂理が絶対であるなら、そのようなものとしてしか人間は存在していないはずだからです。
そのような視点で、人間という種としての自己を観察してみた場合、次のような発想が自然に生まれると思うのですが、いかがでしょうか。

【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】

これを「哲学」と呼べるかどうかはわかりませんが、個人的には、これで、かなりの問題(いずれ触れることもあると思います)が解決しやすく、あるいは納得しやすくなるのではないか、という気がしています。
-------------------------------------------------------------------------
諸賢の厳しい検証に敢えてさらすことによって、さらに充実させることができればと考える次第。
若干、過去質問と重複した部分もあるでしょう。ですので、必要であれば重複したご見解であっても、さらにおっしゃってみてください。
論旨が曖昧な点もあるかもしれませんが、その辺りご斟酌の上、ご回答いただけるとありがたく思います。

質問者からの補足コメント

  • #13お礼欄の続き。

    >(こ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     (け) 【「神」という概念自体、この宇宙の摂理を象徴的に呼んだものと捉えるのが
    妥当でしょう。】

    ☆ という定義の場合 《〈その神に人間が恣意性を期待する〉から間違いが起こる》こ
    とはあるのですか。ないのですか? 

    ほんと、人の言うこと全然聞いてませんね。
    いいですか?
    そもそも過去の遣り取りにおいて、恣意性を期待する神に対抗する形で宇宙の摂理としての神を持ち出してきたことは、十分に了解済みのはずですよね?
    神を宇宙の摂理と認識する人が、恣意性を期待するはずが無いじゃありませんか。
    しかし、恣意性を期待する人は、意図的な能力を神に期待するわけですよ。
    人格神とでも言いますかね。そういった存在として神を認識する。
    そこに誤りが生じる、と言っているわけ。
    こんなこと今さら言わないと通じないんですか?

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/12 23:04
  • #15お礼欄のつづき

    念のため修正しておきましょう。
    ×
    要するに「象徴」なのだから「概念」に決まってるでしょ、

    要するに感覚的形象としての「象徴」なのだから、どちらも「概念」に決まってるでしょ、

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:18
  • #30お礼欄からの続きです。

    >ただ、そういう哲学を一般的にするために、どのような方法論を考
    えておられるのか、気になったのです。

    先を見通したご指摘ですね。
    いくつかの箇所でも触れていますが、個人的に考える上で、いずれ、そうした方向に敷衍していくつもりです。
    また、そのことのほうがむしろ本題と言っても良いと考えています。
    その前提としてみなさんのご見解を参考にさせていただきたい、というのが質問の背景にある趣旨でもあります。
    かなり多岐にわたるはずですが、たとえば、こちらのカテでも色々な方がおられます。
    中には品位に欠ける発言を平気でされる方も数は少ないながらもいます。
    その場合、【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】という考え方をすることで、そうした相手に対しても静かに見守っていくのが良いだろうという結論が自然に導かれることでしょう。
    次の補足欄へ。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:34
  • (上補足欄からの続き)
    ただ、そのように考える根拠が、単なる善として、あるいは単なる神の教えとしてであっては普遍性に、おそらく欠けるような気がするわけです。
    端的に申し上げるとイスラムでもキリストでも良いと思います。
    ただ、それらの神は、あくまで 《宇宙の摂理》の象徴 としてしか存在していないのだ、ということを頭の片隅に入れて信仰するなら、宗教はもっと違う局面に入るのではないか、といったことを思います。
    アッラーやキリストは真理として納得するのは(思考放棄しない限り)難しいのではないでしょうか。しかし、《宇宙の摂理》が存在するのは自明の真理と言えるでしょうし、それに基づいて象徴として存在する神なら真理として納得できるはずです。
    今、思ったのですが、アッラーやキリストは真理そのものではなく、真理の語り部と捉えると良いのかもしれません。
    語り口は異なれ、元となる真理はひとつ、ということです。

      補足日時:2016/01/15 16:43
  • >★ (前記第二の引用箇所)~~~~~~~~~~~~~~
     《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    を想定してこそ得られるものだからです。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ すなわち このお示しの神によるからこそ《人間の恣意性を期待する》ことが出
    来る。というわけになるようですね。

    まず、端的にお答えすると全く逆です。
    私の表現不足だったのだと思いますが、
    《宇宙の摂理》の象徴としての「人智を超えた存在としての神」

    「人智を超えた存在としての神」
    を対比的に扱っている点を再確認の上、論じていただく必要があります。
    少し切り口を変えて表現してみると、
    アッラーは、
    「人智を超えたものの象徴」としての神
    なのか、
    アッラーそのものが人智を超えた存在としての神
    なのか。
    こうした違いと捉えていただくとわかりやすくなるかもしれません。

    No.29の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 18:11
  • (タイトル命題は)
    >何故自然にそういう発想になるのかの論理構造がわかりません。

    4と重複する形になりますが、若干補足を加えつつ述べます。
    まず、(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在しているという、まさにその事実自体に絶対性を認めるということが大前提です。
    そうした絶対的摂理の結果として我々は存在しているのであり、しかも、その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である。よって、
    【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】
    と言わざるを得ないことは自明なことと言える。
    そのようなものとしてしか人間は存在していないはずであり、そうした真理を認識することが、自ずと自らの(魂の)救済とならないはずがない。
    大体、こういった論理展開です。
    神が言うから平等なのだ、とは、思考放棄でない点で大きく異なっていると思うわけです。
    次の補足欄へ

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/16 22:52
  • 上欄の続きです。

    >宗教的対立を問題にしているのでしょうが、その発想を元にしたら、全ての宗教を統一する事も許されてしまいます。(人間の個別性が必要なければ、宗教は一つでかまわない事になります)

    それが理想ではないかと思います。
    アブラハムの宗教も「唯一神」なのですから、本来、それを目指していたのではないか、という気がします。
    従来の「宗教」の概念は、変わらざるを得ないでしょうね。
    どう変わるべきかまでは、とても考えが及んではいませんが。
    何かヒントをください。
    ただ、おっしゃるように、
    >人間の個別性

    あるいは自我が絡んでくるので厄介です。
    そもそも、問題の本質は、まさに、この点にあります。
    いろいろ教えていただきながら、いずれ、この点についても論議の対象とできるようになればと考えている次第。
    今は、総論的な観点からとりあえずの概要を把握したいという段階です。

      補足日時:2016/01/16 23:02
  • お答えいただきありがとうございました。
    納得がいったり、わかりやすかったりしたのは、ご自分のお考えに沿って解釈なさったからなのでしょうね。
    >他律的に、周囲が意味を類推する他ないです。

    わたしの至らぬ点として、極力改善を目指してみたいと思います。
    貴重なご意見でした。

    腑に落ちない点は、さらに補足質問していただければ助かります。
    見解の相違(「同意」なら、なお好ましいですが)の地点まで辿りつければ良いが、と思っています。

    No.47の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/18 17:35
  • >自我には何通りかあって、「人類としての この我」というものがあるとおっしゃる。

    これは、その通りです。

    >私はこれを「死を超えた視点」だと理解している次第です。

    そこまで深くは考えていませんでしたが、参考にさせていただきます。

    >これはポンとそういって、分かるようなものではないのです。

    おっしゃるとおりかもしれませんね。

    No.59の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 00:01
  • >・ われのあやまちは かれのあやまちであったかも知れない。

    極めて興味深い視点ですが、私の意図は全く逆で、
    ・ かれのあやまちは われのあやまちであったかも知れない。
    です。
    人が何かを語るとき、何の意図で語るのか、ということが極めて重要であることを改めて思い知らされます。
    ハイデガーの犯した誤謬に学ぶべきでしょう。
    何を語りたいのか、という点は曖昧なまま質疑を続けてきたわけですが、最後に思わぬ発見があったということのようです。

    No.60の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/21 17:37

A 回答 (99件中1~10件)

バランスですか。

いい言葉ですね。

古代インドの神に、維持の神ブラフマーという名の神が信仰されていたと聞きます。ブラフマーはシヴァやヴィシュヌのように派手な神ではありませんが、最高神として祀られるそうです。

この宇宙は確かに、微妙なバランスを取っているように見えます。包括者という言葉がありますが、包括するものとしての宇宙の摂理には、万物をバランスに導く機能があると言う考えは突飛なものには思えませんし、人智の及ばない宇宙の摂理というものがある、その事自体が、諸々の宗教間における見解の相違を緩和するのではないかという見方は、ありだと思いました。

ハコブルさんはこの事について私よりも深く考えておられる事が想像でき、全部を理解できたとは思いませんが、表題にある言葉は、素朴で普遍性を帯びている様に感じます。ここでは、論理を緻密にする事が重要なのでは無く、この表題を思いついた事と、その動機にこそスポットライトが当てられれば良いのにと、私などは思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

エールとありがたく受け止めさせていただきます。

お礼日時:2016/01/30 23:33

もう少し大人な対応が返ってくるかと思っていましたが、難しいものですね。



>【証明】したつもりです。

 たぶん「証明」の意味が分かっていらっしゃらないのでしょうね。例示が必要のようです。

>「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」のは、「主観的な真理」ではなく「客観的な真理」です。なぜなら、この命題( A )を否定するためには、「人智の及ぶ何かによって自らが生かされている( AA )」という反証が必要になるからです。

 証明の必要があると言ったら、否定される理由をお前が証明しろというわけですね。別に私は否定していないんですけれどもね。しかしそれはさておき、否定されないならば、真だと認められるんですね。では幽霊も存在を否定する方法がないから、真だと認められるでしょうね。存在の確認の方法として、全く適切じゃないことをハコブルさんが言っていると思われませんかね。

>ここで重要なのは(そして、おそらく、ここを勘違いなさっておられるのだと思いますが)、この懸案に関しては、
「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」
または、
「人智の及ぶ何かによって自らが生かされている( AA )」
という2とおりの選択肢しか存在していない、という点です。
( AA )が証明できなければ、( A )は「客観的な真理」と言わざるを得ない、ということ。

 それは話を狭め過ぎです。「生かされている」という動詞が適切かどうかも分かりません。そして「人智の及ばぬ」の意味も、揺らいでいてよく分かりません。「人間に知覚は出来るのだが、力の大きさが甚だ大きいことを示す比喩」なのか、それとも「人間の知覚を超えている」という意味なのか。結局、ハコブルさんの論法だと、何を言っているのか意味内容さえ定められないです。だからこういうお話を出来る段階でさえないのです。さらに次に論法として不適切な理由も示していきます。

>「人智の及ぶ何かによって自らが生かされているかどうかわからない( AAA )」という選択肢は存在しないのです。

 その理由は示されていませんね。それに私はAAAを言っているのではありませんよ。「人智の及ばない何か」とは中身が「分からない」と言っているのです。動詞「わからない」の場所が違います。

>★逆は表だは間違いであり、☆事実だと確認できない、とおっしゃっていることになる。

 いや、正確ではありません。コインに二面性があったとしますね。表があれば裏が推定できる。コインの場合それは事実です。しかしなぜこれが摂理とか宇宙に当てはまるのでしょう。二つ考えなければなりませんが、この点についてハコブルさんは全く触れていないのです。

 まずこの事象は、コインの表と裏のように単純な二項対立で捉えられるのでしょうか。このためには第一に「人智の及ばない」の意味が、「知覚できない」という意味でなければなりません。しかしハコブルさんは、認識は出来るが程度の大きいことだと言っていらっしゃる。では「人智の及ばない」の反対の「人智が及ぶ」は、力の大小を言っているに過ぎません。第二に、この事象はそもそも、コインの二面性と何ら関係のない、もっと複雑な問題かもしれない。だって人智を超えているんでしょうから。

 次にハコブルさんは裏があるという以上のことを言っているのではないか。つまり裏面をみていないけれども、あるはずだからという話で、コインの裏に描いてある紋様を説明しはじめていないか。つまり摂理が自他の区分を曖昧にするというお話は、摂理を観て来た人しかいえないんです。ハコブルさんは、それを観ていないんでしょう? ではその中身は真ではないでしょう。

>★事実だと確認できる!ということを、言を尽くして証明したはず。

 確認できるなら、確認してくれば良いではないですか。なぜそれができないのですか? それが全てを物語っています。これは確認できないことなんですよ。まあ深呼吸して、別の角度から検討してみてくださいな。ハコブルさんの理屈は次の感じです。
 ・Xは存在する。それはXが存在しないと言うことを立証しない限り真である。
 ・Xは我々に干渉するか、しないかの二つである。干渉するかどうかも分からないという話はない。
 Xが摂理とか宇宙だったらもっともらしく聞こえますが、仮に幽霊とかSF的な諸問題を当てはめてみたら、おかしいことがわかるのではないですか。ハコブル論法に従えば、幽霊だって存在することになってしまうでしょう。任意の全てが存在することになります。

 こういうの、オッカムの剃刀と言うのですよ。不要な仮定を多くいれて、間違った結論が導かれてしまうお話です。この場合でいえば、この事象がコインの表と裏のようなものであるという仮定がまず該当しますね。さらに自他の区別がつかなくなるという話なら、宇宙とか摂理の話が不要でしょう。そういう条件を入れない地点で、やっと鋭い認識が導かれるはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

概ね、
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9162646.html
で、お答えした内容で、ご理解いただけたとは思いますので、特には申しません。
必要があるなら、おっしゃっていただけば応じることにやぶさかではありませんが。
ただ、若干、触れておいたほうが良い点についてコメントいたします。

> まずこの事象は、コインの表と裏のように単純な二項対立で捉えられるのでしょうか。このためには第一に「人智の及ばない」の意味が、「知覚できない」という意味でなければなりません。

この論理がよくわからないです。
何度も申し上げたはずですが、
「人間の知恵。人間の知能。」という意味で使っています。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/115063/meaning/m1 …


 ・幽霊は存在する。それは幽霊が存在しないと言うことを立証しない限り真である。
 ・幽霊は我々に干渉するか、しないかの二つである。干渉するかどうかも分からないという話はない。

こう言うこともできる、ということですね。
まあ、これも別質問でのお礼や補足を見ていただけば理解していただけるとは思いますが、若干の補足を試みることにしましょう。
まずですが、
・(裏と表しかないのだとすれば)「裏でなければ表である」は真(T)
は公理である。
これを確認すると話が見えやすいでしょう。
幽霊は、この公理の適用外なので同列には論じられません。
つまり、
幽霊はいる
幽霊はいない
幽霊はいるかいないかわからない
という3つの可能性が主張可能だからです。
(裏と表しかないのだとすれば)という条件が付けられない、ということ。
幽霊を(比喩ではなくて恣意的な)神に置き換えても、これは同じです。
さらに説明が必要なら論点を絞った上で、お手数ですがお知らせいただければ、と思います。

しかし、がっぷりと組んでいただいたおかげで、大変、深いところまで考えることができたと思っております。
改めて御礼申し上げます。
これに懲りずに、今後ともよろしくお願いいたします。
あなたは逃げたり、逸らしたり、捨て台詞で紛らわそうとしたり、といったことが全くない、極めて誠実な方だという印象を受けます。

お礼日時:2016/01/27 19:35

宗教関係でよく聞く話に、「私は信仰へと導かれた。

」というものがあります。
自分で信仰を選択したというのではなく、自分ならざるもの、例えば神の力によって、導かれたのだと。このような人の自己認識においては、自分が神を選んだのではなく、神が自分を選んだのだと、なっているのではないでしょうか。このような人は、つまりはじめから、自己の裁量で判断することについて、自信がなかったのではないでしょうか。故に宗教に出会った時に、それに嵌まるのではないかと。

また、宇宙の摂理について私は次のような見解を持っています。
宇宙の摂理は、昔から、人類にとっては僅かばかり知られても、ほとんどは未知の、即ち謎の領域を指していたのだと。科学が進歩した現代でも、分かっていることよりも分からないことの方が多いでしょう。それに、科学者たちが見出してきた宇宙の法則は、人間の作り出したものであって、宇宙の真実の姿を表したものではありません。(人には法則性を見出すという能力が備わっており、それによって形作られたものが、法則と呼ばれるものだと私は思います。法則を描く力といいますか。)
そんな未知の領域に、未だ知られぬ神を想定するのはある意味で自然な傾向だと思います。ですが、その神が絶対だと言うには早いと思います。人は、自然界に神を見る時、数多の神をそこに見出して、人の生きる世界観を構築してきました。今、望遠鏡で覗いている宇宙という未知の領域ならなおさら、唯一絶対ではなく、無数の神々が想定され、人に見つけられるのを待っておるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまりはじめから、自己の裁量で判断することについて、自信がなかったのではないでしょうか。

おっしゃるとおりと思います。
まあ、しかし、それ自体を批難することはできないため、難しい問題を孕んでいるのでしょう。

>今、望遠鏡で覗いている宇宙という未知の領域ならなおさら、唯一絶対ではなく、無数の神々が想定され、人に見つけられるのを待っておるのではないでしょうか。

「宇宙の摂理」は、「人智の及ばぬ何かの力」といった意味で使っています。
あるいは、

バランスさせる力

とすれば、意図が通じやすいかもしれません。
つまり、(むろん象徴、あるいは比喩の意味でおっしゃっているのだと思いますが)無数の神々が見つけられたなら、それも含めて「宇宙の摂理」です。
人智が及ばないのですから、これが「宇宙の摂理」だ、と言うことは当然、できません。
だからこそ、比喩として神という表現にも耐えられるのだと思います。

お礼日時:2016/01/27 19:14

自我も超自我もムイシキも ぜんぜん知らんくせに


いったい何が言いたいのやら。
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>ここまで追い詰めてしまったとは気づかずにすみません。



 品のない冗談ですね。ハコブルさんはずっと同じことを繰り返しているばかりですが、きちんと答えられないという点で言えば、追い詰まっているのはハコブルさんご自身ではないですか。気の毒になって参りました。再度繰り返しますが、ここで終わりにさせてください。

 コインの例を持ち出して事実だと確認しろということが言い掛かりだと居直っていらっしゃる。裏があれば表もあるはずだ。だから自分は正しいことを言っているとおっしゃる。その根拠は「人智が及ぶ」の反対が「人智が及ばない」だから。前に私におっしゃった言葉をそっくりそのまま返しますよ。ただの言葉遊びが根拠ではないですか。そんなことやって、何の意味があるのですか?

 いろいろとお付き合いしたけれども、私は正直な話、どうでもいいことになぜここまで拘泥しているのかが、わけがわからないのです。事実だと確認できないならば、仮定であると認めればそれでいいではないですか。言い掛かりというより、ただの論理ですよ。

 喧嘩にしない形で終わらせてもらいたかったですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

★(宇宙について)この場合、「じゃあ、どんな力か証明してみろ」というのは、言い掛かりとしか、私には思われません。
☆ いや、ただの論理なのですけれどもね。証明できないとすると、それは仮説として扱わないとなりません。(#89)

とおっしゃるので、
★「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」のは、「主観的な真理」ではなく「客観的な真理」。(#89お礼欄)
であることを【証明】したつもりです。
具体的な記述を指し示して根拠を挙げた上で、これは証明になっていない、と反論なさるのが筋のはずですが、私の記述内容には全く触れず、
☆仮に「人智の及ばない」を「程度の大きいことの比喩」だと捉えたら、ハコブルさんの議論は一気に壊れます。
と、非論理的な仮定を持ち出して、論を展開されましたよね。
ですから、
☆・程度の大きさを「人智を超えた」と表現しているのである。
という最初の滑り出しが、すでに事実誤認なわけですよ。
そもそも、「程度の大きさ」なんてことは一言も言ってません。

>そんなことやって、何の意味があるのですか?

重大な意味がありますよ。
#86で、
★(人智の及ばぬ)宇宙というものが存在している
に対して
☆(推論か憶測を客観的な真理として語る)
という批判をされたわけですが、「宇宙の摂理」は、(人智の及ばぬ)宇宙というものの存在を前提にしているからです。
同意は不要なんです。
私はそう思わない、と言ってくれれば、「あ~、見解の相違ですね」で一件落着。
しかし、あなたは、
「コインの裏表を互いに確認していても、現在、裏が見えているからといって、反対側が表であるとは思わない。」
とおっしゃっていることになる。
ほんとにそれでいいんですか?と問いかけているわけなので、
イエスorノー
でお答えいただければ、それで済みます。
因みに、
☆裏があれば表もあるはずだ。
ではありません。
★裏があり表もあるのだから、裏が見えてるなら逆は表だ
です。
あなたは、
★逆は表だ
は間違いであり、
☆事実だと確認できない、
とおっしゃっていることになる。
私は、
★事実だと確認
できる!ということを、言を尽くして証明したはず。
>事実だと確認できないならば、

という前提で論を進めるのは筋違いでしょう。
返答は任意ですよ。

お礼日時:2016/01/25 19:19

★ 超自我性


☆ を持ち出すのなら きっちり定義してからにしなさい。

話にならない。

利口の壁! ズラシというより 横っ飛び!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>★ 超自我性
☆ を持ち出すのなら きっちり定義してからにしなさい。

☆自然本性にそなわっている
わけではない。
だけで十分ですよね?
★超自我性として後づけされるものです。
はあくまで補足。
理解できなければスルーしていただいて構わない箇所。
つまり、
★いずれにせよ、
以下の内容が本旨であることぐらいお分かりでしょう。
しっかりしてくださいよ。

お礼日時:2016/01/25 00:10

★(№90お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 >もしこうだとして それならその《自由・平等》観は すでにわれわれ人間の生
 まれつきの自然本性にそなわっている。

かろうじて引っかかりを持つならここかもしれませんが、全く本質からずれています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まさに《本質》にかかわる議論だったのだから まづ前言を訂正するか撤去せよ。

★ スタンス
☆ はいま問うていない。仮説が十全に成り立つということを 確認せよ。

話をズラすな。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ まさに《本質》にかかわる議論だったのだから まづ前言を訂正するか撤去せよ。

☆もしこうだとして それならその《自由・平等》観は すでにわれわれ人間の生まれつきの自然本性にそなわっている。
★それは論点の本質ではない、という意味ですよ。
そもそも、
☆自然本性にそなわっている
わけではない。
★超自我性として後づけされるものです。
いずれにせよ、
★のに、なにゆえ、それが発揮される形が現出していないのか?
それを現出させるための哲学的指標を提示することはできないのか?
これが課題(本質)なんじゃありませんかね。

と言っていますよね?

>★ スタンス
☆ はいま問うていない。

私は問題にすべきと思うわけですよ。

>仮説が十全に成り立つということを 確認せよ。

上の繰り返しになりますが、
☆自然本性にそなわっている
わけではなく
★超自我性として後づけされるものです。

お礼日時:2016/01/24 23:49

★(№90お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 >人間の生まれつきの自然本性にそなわっている

のに、なにゆえ、それが発揮される形が現出していないのか?
それを現出させるための哲学的指標を提示することはできないのか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 言語能力を例に出せば 一発で議論は済みます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ 言語能力を例に出せば 一発で議論は済みます。

まあ、ある意味ではその通りでしょうね。
教育がキーになるとは思っています。
ただ、その際に教育する側の指針ぐらいはしっかりしたもの、つまり、真理により近いものである必要がある。
ここが問われるべきでしょう。
言葉遊びか否かの違いは、たとえば、こういったスタンスにも現れてくるのでは?

お礼日時:2016/01/24 21:58

>#86で整理していただいた内容について論破する形をとるのが、ご理解への近道となりそうです。



 私の議論の弱点をお見つけになったと誤解して、そこを突きたいということですか。いやー、たぶん違うんです。ご自分の論理を点検なさると良いかもしれません。仮に「人智の及ばない」を「程度の大きいことの比喩」だと捉えたら、ハコブルさんの議論は一気に壊れます。それは鍋の底のようなもので、底が抜けたら、後は無効化されてしまいます。と言うのも次のような話になるからです。
 ・程度の大きさを「人智を超えた」と表現しているのである。
 ・ならば、その対象はハコブルさんには既に、知覚できているということである。
 ・知覚できているが、細部が分からないということに過ぎない。
 ・では再三「宇宙」と言っているものを大枠で良いから示してみよ。
 また同じ話に戻っていくでしょう。それを見越して、論を壊さないようにと思って配慮したのですけれどもね。

 事実と言うなら、自他の境界線が曖昧になった事例を示し、その力学を解明しないとなりません。それができていないのに、事実だと繰り返していらっしゃるのは、何をしたいのかが、実はさっぱり分からないのです。

 話が噛み合ないので諦めます。一つ指摘させてください。仮に摂理が分かっていれば、論理に身を任せて持説を修正することくらいわけないはずなんですけれどもね。学術では批判とは、決して悪い意味ではないです。カントが「◯◯批判」とか著作の表題にしているように、これは可能性と限界を見極める行為なのです。残念です。誰か噛み合う人が見つかることを願っております。

 ともあれ、私が何か深いお話を伺ったと思っていることを繰り返してお伝えし、お礼で終わりにさせていただきます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 私の議論の弱点をお見つけになったと誤解して、そこを突きたいということですか。

ここまで追い詰めてしまったとは気づかずにすみません。
そういう意図ではないのです。
☆ここでハコブルさんの論理を整理させてください。括弧内は私から見えていることです。(#86)
とおっしゃっておられたので、これに沿って反論すれば、何を言っているのか、iacta-alea-estさんにも理解されやすいのではないか、ということにすぎません。

>仮に「人智の及ばない」を「程度の大きいことの比喩」だと捉えたら、

とのことですが、
「人智」⇒人間の知恵。人間の知能。
です。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/115063/meaning/m1 …
程度は関係ないように思うのですが・・。
多少でも考えが及ぶなら、それは人智が及んでいることになるのではありませんか?
こうした非論理的な前提を勝手に取り上げ、
☆~だと捉えたら、ハコブルさんの議論は一気に壊れます。
と結論づけるのは、どうなんでしょう?
つまり、ここでも、(#86と同様に)最初から、
☆・程度の大きさを「人智を超えた」と表現しているのである。
と、ボタンの掛け違いが始まっているわけですよ。
おわかりでしょう?

#89お礼欄の論破については、
★「人智の及ばぬ何かによって自らが生かされている( A )」
または、
「人智の及ぶ何かによって自らが生かされている( AA )」
という2とおりの選択肢しか存在していない、

これを繰り返した上で、少し補足します。
コインの裏表を互いに確認していたとします。
だとするなら、現在、裏が見えているなら、見えてない側は表であることは明らかですよね?
しかし、あなたは、「そんなことはない。実際にひっくり返して、たしかに表であることを証明する必要がある」とおっしゃっていることになる。
この論理は正しいですか?
なぜ宇宙にコイン同様、裏表のみの選択肢より許されないのかとおっしゃるかもしれませんね。それは、

「人智の及ぶ何か」が自らを生かしているのだとすれば、「人智の及ぶ」なのですから、それによって「生かされているかどうかわからない」というのは論理的に不整合となるからです。

詳細は乞う再読

お礼日時:2016/01/24 22:29

カフェ・みちくさ



さいころさんの触れている《死生観》を 《人間観かつ宇宙観》として・しかもゴータマ・
ブッダの《さとり》の中身であるとして 苫米地英人が議論しています。

○ 苫米地英夫:【仏教】釈迦の悟った内容 -


☆ でもこれは 長いです。(15分x8回)。中ほどでやっとその内容が明かされます。

ちょうどその解説によい議論が見つかりました。それを掲げます。:
▲ (知恵袋 Q:釈迦が悟ったものはなにか? 苫米地さんの解釈は正しいですか?)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

△ (BA:colorinc01さん 2012/8/24) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「釈迦が悟ったもの」について、動画の中で苫米地氏が言っていることは、言い方は様々
な言い方で言えますが、基本的には正しいです。

悟りとは「すべてのものが同じように重要だったときに、釈迦に見えたもの」であり
「自分とは、今の自分だけを選び出す部分関数であり、だから自分を正確に見ることがで
きると、宇宙を正確に見ることができる」
大雑把に言うと、苫米地氏が言っていることはこういうことです。

ただ、悟りについては、もっと簡単に、もっと適切な言い方ができます。
苫米地氏自身も言っている通り、自分とは実在しない「点」そのものです。
それは概念であって、実在するものではありません。
しかし、(自分の)意識や身体は実在しています。
つまり、悟りとは「自分は実在ではないこと」「ここで実在している意識や身体は、自分
ではなく宇宙であること」に気づくことです。
その時、これに気づき、これを体感しているのは(自分ではなく)宇宙ですから、全宇宙
のありように正確に気づくことができるのです。
この説明の仕方の方が理解しやすいのではないかと、ぼくは思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 天の邪鬼による批評:
(あ) やはり 《ひとは互いに同じヒトなる生物種である》と言っている。

(い) すなわち 自由意志を持つことにおいて互いに同じであり このことは対等・平
等という公理をもみちびいている。(自由ないし自由意志というのも 証明抜きの公理み
たいなものですが)。

(う) 苫米地は このさとりを得ると われとほかの人やモノゴトの一つひとつに到る
まで そのあいだのマ(間)は 定性的に言っているのだと思いますが 等距離であるよ
うになると言っています。全方位外交ですね。

(え) すなわち 【彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない】。

(お) ぶらじゅろんぬ史観によると:
もしこうだとして それならその《自由・平等》観は すでにわれわれ人間の生まれつき
の自然本性にそなわっている。(神を持ち出すなら その非知なる神の霊が それぞれの
人にやどる。つまり アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)なる非思考の庭)。

(か) よって さとりは前にある目標ではなく そうではなくすでにそのオシマイから
始める出発点である。(即身成仏;即得往生)。
少しづつ実現させて行けばよい。(という実存志向)。
基礎( basis )とは 歩み( basis; going )のことであると。

(き) 神は 生活世界のもんだいでなくてはいけない。(つまり 生活共同の世界では
神のカの字も持ち出す必要のない神論であるのがよい。=普遍神 つまり 非知なる大い
なるナゾ)。
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この回答へのお礼

ご回答?ありがとうございます。と、とりあえずは述べておきましょう。

余裕で「みちくさ」を食っているようですね。
他人の言うことは無視して、ひたすら持論を展開する。
#87、#88について応答してもらうほうが理解は進むはずなのですけど、それもスタイルなのでしょう。
無理強いはしません。
このカテは自分専用のものだと思い込んでいるようですが、まあ、いいじゃないの幸せならば、と申し上げておきましょう。

>もしこうだとして それならその《自由・平等》観は すでにわれわれ人間の生まれつきの自然本性にそなわっている。

かろうじて引っかかりを持つならここかもしれませんが、全く本質からずれています。
>人間の生まれつきの自然本性にそなわっている

のに、なにゆえ、それが発揮される形が現出していないのか?
それを現出させるための哲学的指標を提示することはできないのか?
これが課題なんじゃありませんかね。

お礼日時:2016/01/24 19:36
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