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イエスキリストは勘違いをしていた。
イエスキリストは自分が奇蹟を起こせば人々は喜ぶと思っていた。
しかしそれは彼の勘違いであった。
誰も奇蹟など望んではいなかったのである。
人々はイエスキリストが考えたほど愚かではないのである。
そんなことも知らずイエスキリストは奇蹟を起こそうとやっ気になっていた。
ガラリア湖の上を空中浮揚し歩いてみせたりもした。
しかしこれを見たナザレの村人たちはがっかりした。
「この人は何か間違ったことを考えている」と気付いたからである。
イエスキリストが奇跡を起こそうとやっ気になるのを見てナザレの村人たちは悲しんだのである。
それでもイエスキリストは奇蹟を起こすことをやめなかった。
死人の手をとってその死人を生き返らせたりもした。
しかしこれを見た村人たちはますます悲しんだのである。
彼らはこの世がカオスに包まれるのではないかと恐れたのである。
イエスキリストは完全に勘違いをしていた。
イエスキリストは自分がどれ程罪深いことをしているのか全く理解していなかったのである。
ナザレの村人たちは悲しんだのである。
なぜイエスキリストは奇蹟を起こせば人々は喜ぶなどと勝手な勘違いをしたのであろうか。

A 回答 (15件中1~10件)

今のような手品はなかったので 人々が信じるために奇跡を起こしたのだが



人々には十字架の飾り物にされるし 先生の様に虚仮にして面白がる人まで出たら

イエスは草場で泣いてるだろう。

折角命まで失ってまで頑張たのに とほほほほ。。。。。

ただ神や子を汚す言葉は許されても 聖霊を汚す言葉は許される音はないそうですから

どうぞお気をつけくださいまし。。
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ってかあんたが勘違いものだよね!



あんたにこんなこと言われる筋合い無いってキリストは思うでしょwww
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よく分かった。

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かまうんぢゃなかった。

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この回答へのお礼

まだ理解できてないってことか。
自分の狭い心で考えるから理解できるものも理解できなくなるんだよ。
分かったか。

お礼日時:2016/01/27 21:34

★ では何故未だにイエスキリストの奇蹟を持ち出すカルトが世界中で後を絶たないのだ。


☆ 《奇蹟を持ち出す》というとき あなたは その奇蹟が事実であるといった前提に立っ
て言っている。それが そもそものマチガイ。

奇蹟が事実であるものか。とツッコミを入れておく必要があり ひとまづは入れておけばよ
い。

★ バチカンやローマ法王でさえイエスキリストの奇蹟は事実であると宣言しているではな
いか。
☆ それは 《非知なるナゾ》については それをおれは見たのだと言っても その人のそ
の主観の内だけとしては 否定されない。なぜなら 否定し得たということは 非知ではな
く 一般に既知として認識し得ているからこそ批判し否定しうる。

また その主観の内にとどまるというのは もしほかの人の主観と同じ内容だと分かったと
いう場合には それは やはり経験事象についての既知の情報としてでしかないからです。
つまりは 非知なるナゾについては 認識し得るかし得ないかが分からないのだから 互い
にその内容を較べようがないからです。

だから――いまは 結社の自由がみとめられているので―― 《或る主観》が複数いる組織
の中でも ひととおりその《神をおれは見たのだ とか 奇蹟を見たのだ》といったことが
共有されている。ということです。あくまで 主観内面だけの問題ですが 便宜的に集団の
内部における共有も 仮りに成されている。といった恰好です。

だから 神は 非知なるナゾであるという原則をしっかりと人びとのあいだに確立すればそ
の《奇蹟信奉説》も消えて行くでしょう。

★ 何故そこでウソをつく必要があるのか。
☆ 人間であるイエスが われはキリストと呼ばれる神の子であると言って ウソをついた。

これは 次の意味があります。
もしハリツケに成ったとき 人間イエスであるだけだったなら 人びとは あぁ けなげな
男だった。よくやった。でおしまいになります。

神の子であるとウソをついている場合には ローマ兵士が十字架上のイエスをからかって
もし神の子なら奇蹟を起こしてそこから降りて来いと言ったことに対して 仮りに降りて行
ったとしても それは 神の子なのだから そんなことくらいは出来るだろうと思われてや
はり話はおしまいとなる。

だから 人間イエスであると同時に神の子であると大嘘をついた。
それによって 人びとはその十字架上のこの男の存在をとおして神の霊としてのチカラを得
ることが出来るかも知れない。そういったささやかな効果の問題としてウソをついている。



★ 真に正しい教えであればタトヘなど用いる必要があろうか。
☆ ばかか。真理は 人間の言葉では表わし得ない。タトヘによって・補助線を引くことに
よって 少しでも普遍神を指し示すことが出来るようにと表現している。

それに オシへを説くために現われたのではない。それは すでモーセがおこなっている。
オシヘなどは 要らないという普遍神を指し示すために出たのだから。

★ 真に正しいことを示すのに奇蹟に頼る必要があろうか。
☆ 人びとの願いにこたえておこなうわざの中に奇蹟とよぶことが入っていたとしても た
だそれだけのこと。いちいち気にしていない 人びとは。

★ ~~~~~~~~~~~~~~
よくよく考えてみなさい。
素直に判断出来ないのはそちらの方ではないのか。
間違っているのはそちらの方ではないのか。
どうだはっきり答えてみろ。
~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

>☆ それは 《非知なるナゾ》については それをおれは見たのだと言っても その人のそ
の主観の内だけとしては 否定されない。


だから「神は信じるものではない、神は感じるものである」って言ってるだろ。
そーゆーことなんだ。

お礼日時:2016/01/27 21:14

もっと素直に反応したら どうなんだ。

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この回答へのお礼

では何故未だにイエスキリストの奇蹟を持ち出すカルトが世界中で後を絶たないのだ。
バチカンやローマ法王でさえイエスキリストの奇蹟は事実であると宣言しているではないか。
何故そこでウソをつく必要があるのか。
真に正しい教えであればタトヘなど用いる必要があろうか。
真に正しいことを示すのに奇蹟に頼る必要があろうか。
よくよく考えてみなさい。
素直に判断出来ないのはそちらの方ではないのか。
間違っているのはそちらの方ではないのか。
どうだはっきり答えてみろ。

お礼日時:2016/01/27 18:10

奇跡という比喩的表現でぼかさざるを得なかったのは


強大な権力がアンチとして立ちはだかっていたからだと思います。
そういう存在とことさらに険悪にしないようにしながら同時に信念を貫いた。
そういうコンセプトの表出としての描写がそこにある
くらいな感じなんだろうと思っています。
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脳は受信と発信と消化吸収をします。


外部(外界)の刺激に反応して。
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キリストはそんなことは考えていなかったんだろうと思います。


世の中の矛盾に対するキリストの主張が
ニーズのある人には‘目から鱗‘という感じで
そういうことが比ゆ的に表現されているのではないかと
漠然とイメージしています。
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この回答へのお礼

奇蹟はなくてはならなかったのですか。
キリストは自分の考えを表すのに奇蹟がなくてはならなかったのでしょうか。

お礼日時:2016/01/27 09:45

□精神は時空間を超えている。


□或いは時間、空間、に束縛されない。

これに付いて人の道さん、そして"お主"は肯定しますか。
肯定するなら□に☑を入れてください。
正直にね。他の方々はご自由に。

さて、奇跡と云うものがあるかないか、に付いてですが。
この世という物質的世界は"物理"に束縛されて居ます。
束縛されないこの世の物質的"現象"は有りません。

物質的世界に奇跡は無い、と云う事です。
奇跡とは精神の世界の事なのです。
精神的現象、なんです。

イエスキリストは精神を通して人々の心に奇跡を体現させたんです。
人々はイエスキリストの奇跡を実感したんです。

但し、ここで勘違いしてはいけない事が有ります。
奇跡は善悪とは何の関係も無い、と云う事です。
奇跡は神も凡人も悪魔も起こせるからです。
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この回答へのお礼

つまり我々がいる世界には外界というものは存在せず、脳内世界のみが存在するということか?

お礼日時:2016/01/27 09:48

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