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まずはウィキの記述をごらんください。
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経典によれば、釈迦は縁起について、

私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
— 『南伝大蔵経』12巻、234頁

と述べた。またこの縁起の法は、

わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり

と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7
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縁起は釈迦が悟ったもののひとつと思いますが、このウィキの記述にあるように、

・縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけである。

としか釈迦は言っていないのでしょうか。
つまり、その [ 縁起が真である根拠 ] などは、どこにも示されていませんか。

質問者からの補足コメント

  • みなさん、ご回答ありがとうございます。

    となると、

    ・語るな感じよ

    と釈迦は言ったわけですかねえ・・。
    哲学は「物自体」と「(人間の認識としての)物」との隙間を埋めようとする営み、ということになりますか?

      補足日時:2016/02/04 19:30

A 回答 (43件中11~20件)

> ここで使われている「だから」の意図がちょっと分かりませんでした。



思考を、選択のようなものとしている。だから、「お陰様」について、際限のない規模で広がる諸関係への想像力のことと解するよりは、思考停止に等しいと考えておられるのではないかと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「お陰様」について、際限のない規模で広がる諸関係への想像力のことと解する

こうした発想が全く無かったものですから、意図がわからなかったのだと思います。
お手数をおかけしました。
それにしても、
◎際限のない規模で広がる諸関係への想像力◎
とは言い得て妙ですね。
想像力の働かせ方までお釈迦様は関知しない、ということなのでしょう。

お礼日時:2016/02/16 21:40

証明というか、仏陀が語ったとされる「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。

此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」自体が証明になっていると言う事ではないでしょうか?
これが現象界で成り立つと言う事を認識したのが、「悟り」という事だと思います。
解脱への過程で、これは自然に「悟り」として識知されると言う事なんでしょう。
では、解脱を望まない、在家信者にどのように説明したかと言うと、縁起の構造を説話として説明したのだと思います。
仏陀は、「中道」による、独特の論理で、あらゆる事を説明しました。
いわゆる、形而上学的な説明の答えは用意していませんから、そういう意味での証明は存在しないと言って良いと思います。
語るな、感じろとは言ってないと思います。
解脱の過程で、それは「悟り」として得られると言う事でしょう。
仏陀自体は、いわゆる「無念夢想」や「苦行」では、解脱は得られなかったと語ったと言われています。
仏教学者は、仏陀の解脱に至る「無念無想」や「苦行」の修行が無駄だったのでは無く、それにより解脱への準備が出来ており、それから解放された後の、瞑想(これは無念夢想では無く、「悟り」で得られた結果を元に、徹底的な思考の深化を行ったのではないかと推測されています)により正覚し、成道(解脱)したといわれています。
「悟り」を得たと言う事は、すでに証明が得られた(正覚)と言う事ですから、特に仏陀が証明を述べる必要は無いと言う事だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>仏陀が語ったとされる「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」自体が証明になっていると言う事ではないでしょうか?

実は、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、」まではわかるんですよね。
ただ、「此が滅すれば彼が滅す」これがわからない。
そこで質問してみた、というわけです。

>解脱の過程で、それは「悟り」として得られると言う事でしょう。

煩悩から解き放たれ脱出することで悟りが得られる、という効果は、たしかにありそうです。

お礼日時:2016/02/17 17:52

間が空きましたが、25です。


わたしは、ハコブルさんがなにか明後日の方向の話をされているように思うのですけれど、
疑問の全体像がわたしには理解出来ていないのかなあ。
でしたら申し訳ないことです。

仏教も時代によっての違い、地域によっての違いがありますよね。
釈迦入滅後100年でいわゆる根本分裂と呼ばれる状態ですね。以後の相違は地域差がかなめで、日本は大乗仏教の流れですが、他に仏教徒が多く占める国は言うと、南伝(上座部)仏教のスリランカ、タイ、カンボジア、ミャンマー、ラオスですね。オレンジ色の袈裟をまとった僧迦(サンガ)が思い浮かびます。あれらの仏教国に比べますと、ある意味、大乗仏教が日常の律とか則とかの気持ちの部分に浸み込んでいる日本は特異だと思います。奈良時代以来、法を敷いて国政を動かす、国体を保持するという、法と行政の精神が、うまく仏教を通して民族性に適合したのでしょうね。まあ法治国家づくりに効を奏した結果の、特異な日本かと思います。
ちなみに上座部の国々では、貴人以外は出家も在家もお墓を作らず、輪廻転生を信じ、来世のためにせっせと善行を貯めなくてはと考えています。仏教の法が、個人の救いについて説かれているものですから、契約宗教のような他人を救うかのような大乗仏教よりシンプルです。

仏教の迫真性というのは、それ以前には「プラス」で認められていた価値を無化したところだと思います。「プラス」によって作り上げられた世界の価値体系が、決して人間社会を豊かにしておらず、カーストを構造的に支えて機能させている、ということに真っ向から対峙したところです。それが、価値体系から法体系へと、目には見えない法の概念を心に授けて実現する転換だということも、説得的です。

「プラス」と言ってみたのはつまり、持てる者のありようです。
清潔で、健康で、快適で、裕福なのは、釈迦の説く生き方ではないのです。
日本人はおおむね持てる者ですから、縁起なんて知ったこっちゃないかもしれません。実体の周辺で充実することの価値を、わたしたちの多くは手放さないでしょう。実体より縁起を思ってお陰様お陰様に塵芥のごとく流れていく理由がないでしょう。よしんば死後の世界に意識の層で死なない層があると聞いたって(唯識)、そういう層においてはなにひとつ実体ではないと聞いたって(中観)、今のところ醒めてる層で生きているうちにささやかでもハッピーにやらしてもらいます、てな気持ちになるでしょう。
でも今、日本でも予想以上に多くの方が、持てる者の社会構造に翻弄されて滅茶苦茶になっていると思います。仏教でなくても何か心の法が価値体系を転覆させなければいけない気はします。レオ=レオニは詩人の価値を高めるやりかたでそんな童話を作りましたけどね。

ハコブルさんが、「思考停止」とおっしゃったことについて。
ハコブルさんは、思考停止とは何だと思われますか? 
ロボトミー手術がアメリカの復員兵に施された時は、苦しみを取り除くことが目的でした。
苦しみっていうのは、思考ですよね。そして人格と地続きでその人すべてと分かち難いです。
仏教は自分の苦しみを認めること、自分を観察して受け容れることを求めるのですが、つまりそれが生きていく方法だからですが、そして死後の方向を良くする善行を実践する機会を得るからですが、
そういうものを、すべてうっちゃることが、仏教では思考停止なのですね。
わたしたちが思考だと思っているものの多くは、選択なのかもしれません。だからハコブルさんは、お陰様、なんて、意志選択的でない流れの結果を無能に受けとめているような気がするのではありませんか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>仏教でなくても何か心の法が価値体系を転覆させなければいけない気はします。

そうですね。価値体系とまではいかなくとも、少なくとも新たな視点で周囲の諸々を見つめ直していく必要があるのではないかということは、心ある人々の基本的な思いでしょうね。
視点を定めるに際して、揺るぎない視座を模索すると同時に、その視点の方向性をどこまで我々の日常の場へと寄り添わせることができるのか。
言ってみれば二段構えなのですが、現時点ではまだ一段目の段階です。

>わたしたちが思考だと思っているものの多くは、選択なのかもしれません。だからハコブルさんは、お陰様、なんて、意志選択的でない流れの結果を無能に受けとめているような気がするのではありませんか?

ここで使われている「だから」の意図がちょっと分かりませんでした。
前後の内容は、それぞれおっしゃるとおりと思います。
「思考停止」は意志選択不能の結果として訪れる状態ですが、意志選択不能ではあるが神仏選択可能である、という囁きが宗教なのでしょう。

お礼日時:2016/02/15 15:27

お礼、ありがとうございます。



>方向性が曖昧なままであるために、進む方向がバラバラになって争いの種になる、といった弊害が生じているような気がするわけです。

確かに、そうですよね。


十数年前です。
因果の本を読んだのですが、私もやはりよく分からず
130回ほど読みながら、一度読んでは数十個確かめていきました。

結果分かるようになったようですが、その時になって気がついたのは
最初は、ただ自分が読み取れないと言うことでした。
読み取れる、受け取れるようになるまで時間と労力が必要なようです。

解るようになると、書いてあるのはそのままだなって思います。

No.29も書いたように、やればいいですよ。
1000回ほどご自分で確かめれば、ある程度は分かると思います。

公文式と同じ、沢山やるしかないです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>1000回ほどご自分で確かめれば、ある程度は分かると思います。

そうなのかもしれません。
修行が大事なのはおっしゃるとおりだと思いますし、何かを得ることはできると思います。
これは、おっしゃるように「知るもの」ではありませんよね。
只管打坐なんかも同様なのかもしれません。
ただ、おそらくですが、オウム真理教あたりでも、こうした修行は行なわれていたことと思います。
このあたりが難しいところじゃないでしょうか。
kanto-iさんが修行の先に見えてきたものを、大まかな方向性としてでも示していただけるなら有意義なことではないかと思うのですけどね。

お礼日時:2016/02/15 15:37

縁起って、自分で確かめていけばいいのではないでしょうか?



母親と父親が出会うのは縁があってのこと。
その縁で私という人間が存在すると言うことが起きた。

私が、何らかの理由でその時間にその道を歩くと決めたので事故にあった。
相手の運転手も同じような理由を持っていてその道をその時間
通ることが縁となって起きた。

そうやって解いていけば、因果は全て縁起であるのが
自ら明らかになる。

東洋哲学は、自分で考え確かめていくことで理解する手法を
とっているので、より深くまで理解が及びます。

例に挙げた一部で納得するのではなく、なぜ?という疑問は
すべて縁起で生じるので縁起を理解すれば、無用ななぜ?は
すべて消え去ります。

自明の理にたどり着くのが必要な訳ですから
たどり着けば、すでに理解できている。

「理」を知っているのでは無く「理」解している。
そこが西洋哲学と大きく違うでしょう。

西洋哲学は、知っているが簡単にできてしまいます。
解するかどうかは、本人任せであるように組み立てられている。
つまり解く過程は違えど、結局は同じ所にたどり着くと思います。

発祥が違うので名称が違いますが、同じことを言い表すものも多いと思います。
数学の世界と同じですね。
数学界では統一を試みてありますが、最終呼び名も統一されるかもしれません。


縁起は、というか縁起「も」自分で確かめないと法は解せない。
法においては、すべてそうだと言うことです。
「知っている」ではなく「解している」を目指すので
根拠はその中に「自明の理」として入っています。

書く必要さえない世界ですね。

知ろうとするものには一生手に入れられず、自らで解するに
臨む者だけが手に入れることができるようにできている。

わかりやすいので数学を使いますが
解けるようになりたいなら、解けるようになるまで自分で取り組むこと。
それしかないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまり解く過程は違えど、結局は同じ所にたどり着くと思います。

本来そうあるべきですよね。

>「知っている」ではなく「解している」を目指すので
根拠はその中に「自明の理」として入っています。

それは、わかるんですけどね。
漱石の「門」で、人生に悩む宗助が老師に「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えて見たら善かろう」と公案を出される場面があります。
正法眼蔵に出てくるものらしいのですが、数日考えても答えは出ず、後日老師と面談した際にも結局、教えてもらえないまま宗助は帰途につきます。
自分というものが存在する以前の世界における人間の本性について考えてみろ、と言われたことになるらしいのですが、具体的にこれ、という教え方でなくとも、方向性ぐらいは示してもいいんじゃないかという気がします。
たとえば、目的地への具体的経路は示しませんが、北極星は方向性を示しているでしょう。
まあ、たしかに、
>解けるようになりたいなら、解けるようになるまで自分で取り組むこと。

が大事であることもよくわかるのですが、しかし、方向性が曖昧なままであるために、進む方向がバラバラになって争いの種になる、といった弊害が生じているような気がするわけです。

お礼日時:2016/02/14 17:01

確かに、今は宗教自体が俗っぽいものの様な気がしますね。

出家とは、好悪によって作り上げられた心的構造物=家を出ることですから、お寺を経営しているだけでは出家することはできないのですね。葬式の時にこそ出番が来るというのも皮肉なものです。いかに生きるのが良いのかを提示するのが本来の姿ではないかと思いますが、死んでから、意味の汲み取れない経を唱えられても何にもならないですからね。完全に儀式宗教になってしまっている今の仏教界では、真理を説くなどと言うのはどだい無理な話でしょう。しかし、市民向けの勉強会などを開いているお寺も探せばある気がします。ただ、界隈の実情に詳しくないままこんこんと批判することはできないので、今回は、ここくらいに止め置くことにしますね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

托鉢に回ってくるお坊さんがいなくなりましたね。
昔は、結構いたと思うのですが。
彼らの中にこそ本物がいたような気がしています。

お礼日時:2016/02/14 16:06

それが素晴らしいと思えること自体が、人がそれを目指すべき根拠となるのですが、ハコブルさんが仏教の素人だとしても、その根拠を素直に持たれているので大丈夫だと思いました。

しかし、その根拠がなんの仏典に書いてあるのか、私も仏典を読むときには気をつけて、その根拠が分かりやすく明記してある箇所を探ってみます。
苦からの解脱を説くことからして、つまり人を苦しませないというための教えである事からして、それがやさしさであるのですが、苦の正体というのもまた、容易に明らかになるものでは無いので、(人々が思っている苦楽と、仏教で示されている苦が大きく異なる故)そこに示され得る根拠の通じ難さがあるのでしょう。ハコブルさんの偽善ではないか?という疑問は、苦とは何かという事を明示できた時に、明らかになると思いました。
仏教では、苦の真実を見出した時に、その解決もまた見出すと説かれます。二種の観察と言われるものでもありますが、しかしこれもまた、理解するのは容易ではないと思われます。これは、素人か玄人かというところに起因する分かりがたさではなく、世間の考えと、仏教の考えがいかに離れているかに起因するものと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

なかなか難しいもののようですね。
もっとも、真理を簡単に知ろうとするところが素人なのかもしれません。
それにしても、宗教の乱立状況などとも合わせ、その狭隘さと言いますか、キャパの小ささが目につく昨今とは思われませんか。
サラリーマンみたいな坊さんたち(しかも殆ど)を見るたびに殺伐とした気持ちになりますよね。

お礼日時:2016/02/12 23:36

仏道における本質的な背景、目指す方向性とは、人の哀しみを知る事、本当のやさしさを追求する事です。

人だけがそれを知り得、また人だけがそれを為し得るのです。

この回答は、ハコブルさんにはしっくり来ないかも知れませんが、私の学んだ限りでは、上述した事が、お返事に対する答えとなります。

また、より実践的な事を言えば、
争いのもとを離れ、静けさを目指す。
と言うことになるでしょうか。

以上は敢えて仏教用語を使わずに平易な言葉で答えてみました。

用語を使うならば、四つの徳や八正道、衆生や世間、菩提心、覚りの縁起、諸仏の請願、解脱、などの言葉を使うことになると思います。しかしそれはかえって難しくなるかなと思い控えました。私自身にとってもやや難しいことでもありましたし。もし、用語を使うことや経典の引用が必要であれば、それらを使う回答に挑戦しましょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>仏道における本質的な背景、目指す方向性とは、人の哀しみを知る事、本当のやさしさを追求する事です。

これが実現できれば素晴らしいことと思います。

>しっくり来ないかも知れませんが

読まれてますね。
◎争いのもとを離れ、静けさを目指す。◎
とも合わせ、なぜそうすべきなのか、という根拠が必要だと思う次第。
ここを押さえた上でないと、簡単に偽善に流れてしまったりしませんかね。
そのあたりについて、釈迦は言及していたのだろうか、という問いなんです。
私のようなずぶの素人では難しいですかね。

お礼日時:2016/02/09 16:21

ブッポウソウはブッポウソウって鳴かないんですってね。

げっげっげっていうらしい。
ブッポウソウと鳴くのは本当はコノハズクなのだそうで、コノハズクの鳴き声を実況放送した昭和10年のラジオ番組では、有識者の実況解説が余計だ煩いといってリスナーから非難ごうごうだったそうですね。それで鳴き声だけにあらためたところ大絶賛だったとか。

ハコブルさんは仏・法・僧を拝む心がどんなものか知っていますか。
何の学もない人たちって、ちょっと前までたくさんいました。
お陰様・・・が分かって手を合わせて生きられるだけでうまく世の中を漕いでいったのではないでしょうか。
因果ですよね。縁起ですよね。無我です、無常です、苦です、不浄です。それでいいんです。
他人をどうこうしようなんてことじゃない、自分に一所懸命だからこそお陰様の空っぽが自分なんですよ。

>・・・悟りの中身自体も千差万別ということになると思うのです。

堅固なものが何もないのに自分の正気が保たれる体験に至るのなら、たぶんかなり一様なのではないでしょうか。
ピクセル画像に映像はあっても実体として仕組みがあるということ以外にないのと同じで、世界のそれをよく観察できる境地があるなら誰にとっても同じでしょう。てなことを若冲を見て思ったことがありますけども。

> [自我としてのこの我 ] としての悟りは得られるかもしれないが、
> [ 人類としての我 ] として、その拠ってきたるところの真理を悟
> ることは無理

そもそも、人類というくくりが、よくわからなくなりそうですね。他人も自分もたいして違わないということくらいははっきりするでしょうけれど。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>有識者の実況解説が余計だ煩い

それを聞きたがるほうがどうかしてる、というわけですね。

>お陰様・・・が分かって手を合わせて生きられるだけでうまく世の中を漕いでいったのではないでしょうか。

そうした一面はあるのでしょうね。
ただ、どうですかねえ、これは、一種の思考停止のような気もします。
お陰様にせよ無我にせよ、言ってみれば、機械的に [自我としてのこの我 ] を抑えるわけですから、世渡りがうまくいく可能性はたしかに高くなるでしょう。
それで十分だろう、という話もありそうですが、やはり、なんか違うのではないか、と思うんですよ。
なんかの拍子にコロッと豹変したりしてね。
まあ、それは修業が足りないだけだ、ということになるのかもしれませんが。

>堅固なものが何もないのに自分の正気が保たれる体験に至るのなら、たぶんかなり一様なのではないでしょうか。

なるほど。
ツボを得た内容で説得力がありそうです。


▼ [自我としてのこの我 ] としての悟りは得られるかもしれないが、
[ 人類としての我 ] として、その拠ってきたるところの真理を悟
ることは無理▼
そもそも、人類というくくりが、よくわからなくなりそうですね。

たしかに、
▼ [自我としてのこの我 ] としての悟り▼
というのは無理があったかもしれません。

お礼日時:2016/02/09 16:09

★ (№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~


明確にしないことに意義があると考えていた可能性もあるでしょうね。
☆《インチキ》☆
というより《ポリシー》なのかも。
なので、真理の伝え方に関して釈迦との間で見解の相違がある、というだけの
ことでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 回答№21に示した根拠に拠って 《見解の相違がある》という見解は
撤回しなさい。

さもなければ ええ加減な質問者だと見なします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>☆ 回答№21に示した根拠に拠って 《見解の相違がある》という見解は
撤回しなさい。

ずいぶん偉そうな物言いですが、ひょっとしてお釈迦様でしたか?
回答№21に示しているのは、あなたの見解。
中村元訳が示しているのは、釈迦の見解。
それが違う、というだけの話であり、こういう場合、《見解の相違がある》と言います。
どちらが正しいかは、第三者が自由に決めること。
自分の見解への賛同を強制するのは、極めて見苦しい行為である、ということを学んでください。

お礼日時:2016/02/08 17:39

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