No.2ベストアンサー
- 回答日時:
まったくの素人ですが、知恵袋やwebサイトに次のようなのがあります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF …
1)大物で反乱の可能性あるならならむしろ秀次みたいに粛清の対象に
戦国時代だから、敵味方は頻繁に変わるのでしょう。それは、最初からの作戦というものではなくて、状況に応じての対応なのでしょう。一貫して一つの目的で計画してその通りに事態が進展するということは、ほとんどあり得ないことと思います。
2)みんな応仁の乱やら戦国時代やらで殺し合いにつかれたいたから
そうした理解は良いようでありながら、意味がないと思います。それでは、何故応仁の乱でおしまいにならないのか、誰かの上洛でおしまいにならないのかが説明出来ないと思います。もっともらしい背景説明で、具体的な政権争いや戦いの開始終結を大局的見地から説明するのは、理解を深めることには通じないと思います。
3)関ヶ原のあと、負けた大名は領地削られたりしてもあっさり応じているようですが、不思議です。反乱は起こさなかったのですか?
もともと領地争いが当時の戦役の主たる理由ですから、負けた側が領地を失い、勝った側が領地を獲得するのは自然でしょう。ただ、完全な中央集権ではない一種の連合軍であれば領地獲得は恩賞のように配分専有させないと勝った側が以降連合軍を維持出来なくなるので、誰かに分けてしまうという方式になることも多かったでしょう。そのような構図が鎌倉時代にも、豊臣時代にもあります。恩賞として領地を与えることが出来ないと混乱や離脱を増やすことになったと思います。南蛮到来物や茶器名物を恩賞にして領地はただの任地扱いにすることに成功できるならば、中央集権化できたでしょうが、それはかなり難しかったのでしょう。もっと進めば、俸禄だけにして領地を与えないことが出来ればすごかったと思いますが、それに真に成功したのは、律令制度導入期に都に豪族を移住させ官僚派遣で支配する体制を作ったときと、廃藩置県を敢行したときでしょう。連合軍がどちらも結合したり寝返ったりは、壬申の乱、源平治承寿永の乱、小牧・長久手、関ヶ原でも、頻繁にあるでしょう。織田信雄などがあっさりと領地を提供するのは、(他の武将・領主でも同じですが)その方が有利であると思ったか、やがての挽回を期したか、背に腹は替えられなかったかなどです。臥薪嘗胆、面従腹背は、表側をみれば、無駄な戦をさけ、平和と命を大切にした行為です。明治に起きた西南の役も、廃刀令、金禄公債証書発行条例など、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせたので、反乱したのだといわれています。反乱は、不満を託つものの行動の一つのやり方です。【鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥】と大勢が熟すまで自己勢力の温存涵養強化を期待しているのか、やがてストレスで反乱、発狂、うつで自滅になるかが、なってみないとわかりません。
No.3
- 回答日時:
戦国初期
上杉謙信、武田信玄
戦国最強の軍団が川中島で何度も戦う伝説(信州長野)
この天才軍神の時代は子孫へ受け継がれる
上杉景勝(直江兼続)、武田勝頼
天才児(織田信長)
桶狭間の合戦は天才的
以降中部地区の信長が家康と連合軍を組み、西方に勢力を伸ばす 岐阜→滋賀→福井→京都→兵庫→岡山
中部の岡崎で東の守りに家康が付くが、京都を目指す武田信玄軍団にボコボコにされて涙としょんべんを垂らしながら城に逃げ帰って、城の扉を開け広げ、信玄公に媚びを売るが、そのまま素通りされて無視される。ハエ程度の相手の意味。
信長は新兵器を次々と導入
海上では鉄の船を、陸上では鉄砲を大量に種子島から買いまくる
この鉄砲は信長の重要家臣、秀吉が大阪の堺商人から買い占めている
武田信玄 年を取り他界
息子、勝頼軍団が甲州(山梨)から西に向かって来る知らせが家康に入り、青ざめる。直ぐに信長に助けを求める。信長軍は木の簡易な柵を並べて、戦国最強の武田軍騎馬隊と戦う。
軍神の上杉軍と対等に戦って来た、戦国最強の武田勝頼軍団の騎馬隊が信長、家康連合軍に襲いかかる。信長公は黒い軍配団扇で攻撃開始の合図を送り、信長軍の鉄砲一斉射撃で戦場は血の海となり、武田軍は壊滅する。
信長は後は家康に任せて、東の攻めを命じる。連合軍とは名ばかりで、立場は信長が上。信長は京都の都に入り、征夷大将軍となる。
京都の本能寺で休息していた信長を明智光秀は謀反を起こし、京都から西に向かう(岡山へ)はずの軍団を京都の本能寺へ攻め込む。敵は本能寺にあり!
信長、潔く切腹して屋敷に火を放つ
岡山で毛利軍の大軍と戦っていた秀吉軍は一度、毛利軍と仲良くなる協定を結び、三日三晩寝ずに、明智光秀成敗に岡山から京都を目指す。
岡山から電光石火の如く、京都に舞い戻った秀吉は京都の天王山で明智軍と戦い勝利する
その後、愛知県清須市の清洲城で清洲会議を行い、信長公の後継者を決める
主導権は当然秀吉となる
秀吉は信長の重要家臣であった北陸を守る柴田勝家と富山で無茶ぐちゃな理由を付けて戦い勝利。先輩が目障りであった。
秀吉は九州鹿児島の最強軍団、島津軍3万の兵力に対して45万の兵力でねじ伏せ、降参させる。
九州の討伐が終われば、上信越の上杉謙信亡き後、上杉景勝を秀吉は単身で訪ね、秀吉方に協力を求める。
上杉景勝はこの人垂らしである秀吉に付くと決める
この頃、東北地方(福島)を拠点に奥州で暴れ回る 奥州王の独眼竜政宗と恐れらた伊達政宗がいた。
秀吉はこの若き奥州王の政宗を小田原の北条を攻めるので家臣となって戦うよう命じるが、のらりくらりして政宗は来ない。秀吉はキレる。
北条の小田原城は上杉謙信軍団10万の兵力で落ちなかった城であった、秀吉は100万の兵力で攻める
伊達政宗到着、秀吉は遅刻した政宗を許す。
戦争の無い平和な時代が訪れる 秀吉は信長が試みた国家統一を実現する
東を徳川家康に任せる
秀吉は病気になり他界
その後、隙を見て家康は軍団を率いて無茶ぐちゃな大義名分で大阪夏の陣 大阪城を攻めるが真田幸村率いる真田軍の真田丸でボコボコにされる
この時、家康は殺されていたかもしれない伝説がこの周辺に残る
家康軍は大阪城の北政所と和平交渉を行い、一度兵を引く。和平条件に真田丸を取り壊す事と大阪城の外堀を埋める事で和平条約を真田幸村の意見は聞き入れられずに、勝手に大阪城で決まる
外堀が埋まり、真田丸がなければ家康軍は楽勝で秀吉軍に勝てると思い、再び大阪冬の陣が起こる
今度は家康軍が容赦無く攻撃を開始する。
大義名分もめちゃぐちゃぐちゃで、ただの乗っ取り、完全なる謀反であるが、勝てば官軍である。
ガードが弱い大阪城を家康軍は秀吉軍の3倍の兵力で攻めるが、赤備えの赤い集団、真田幸村軍が家康軍のど真ん中に攻め込み、家康の本陣を阿修羅か鬼畜の如く突っ込んで来る。敵軍の家康軍は恐ろしさの余り身をかわし仰け反る。本陣には影武者がいたのかもしれない。
秀吉軍は兵力に押され敗北する。
家康の天下乗っ取りである。
秀吉の子飼いの家臣である、石田三成はこれに納得出来ず、西方の中国地方の毛利軍、九州地方の島津軍、その他多数の兵力を集め、その兵力数は家康軍と対等となり岐阜の関ヶ原で戦う。関ヶ原の合戦。
関ヶ原では毛利軍の裏切りで石田三成軍は総崩れとなり敗北。捕虜となった三成が喉が渇いたので水をくれと言うと、監視兵からシブがきを渡され、シブがきは体に悪いから食えないと処刑される直前に言った。
こうして影武者の家康は天ぷらの食べ過ぎ理由で死んだ事となり、江戸時代に入って行く。平和な時代の幕開けとなった。完
No.1
- 回答日時:
小牧長久手は、秀吉が総力を挙げて戦って勝てなかったのですから、影響力大。
粛清を多発した信長が、最後に明智光秀の手で倒されたことを教訓にすれば、そう簡単に粛清できない。特に家康を取り込むまでの秀吉の立場は、綱渡りのような危うさあり。
秀次は、あだ名が殺傷関白というぐらい素行に問題がありました。
徳川家の強さ、家康の影響力、安心してトップにすえることが出来る人物という信頼感もあり。せっかく平和になったのに、また戦乱の世にしたくないという思いも強かったでしょう。
関ヶ原。負けたら領地没収は、当時の常識でした。島津家は、西軍側ですが、九州で再戦するか?って脅して、領地はそのままでした。毛利家も、本来なら全部没収のところを少し残してもらいました。なにより、豊臣家がそのままの規模で温存。結果として後日、大阪の陣が起こります。
この回答へのお礼
お礼日時:2016/02/22 21:20
ありがとうございます。最近真田昌幸が好きです。ゲームではすごい高い能力の人物ですが、実際戦国屈指の人物だったのでしょうか?学会での評価が気になります
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