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神や仏については誰も分からないということしか無いようである。
神や仏が何であるかの定義はなく、誰もそれについて明確な説明も出来ず、神や仏を語ることが出来るだろうか。
またそのような状態にあって人々が神や仏について語るのは何故か。

A 回答 (12件中1~10件)

少なくとも『仏』については、定義されている。



そんなことも知らんのか??
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回答失礼します。



まあ、そんなに難しく考えなければ、ある程度の定義と説明はあるでしょうが…
明確なものは厳しいでしょうね。

それでも語りたがるのは(私もですが)皆好きなんではないですか、なんだかんだで(笑)

分からないものが少ない現代の生活では、たまに分からない神や仏にでも考えを馳せたくなるのでしょう。

参考までにして下さい。
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日本の肉食文化の歴史を辿れば、太古の昔から 鹿や猪などを狩りして捕らえ、食されていた事が貝塚の糞石から確認された事実であるが、農耕時代になってからは豚や鶏などの家畜も行われていた。

神に捧げる供物(神饌)としては、動物の首が神事の儀式に用いられ、その土地の神職者が動物の首を落とし、奉納したとされている。神は大地であり、山であり、川で有るので、大切な食物を頂ける山其の物を神と見立て拝んでいた時代であった。やがてインドからシルクロードを通って東アジア諸国に伝来した仏教は、6世紀の半ばに百済の聖王から日本に齎された。聖王は使者を使わし、金剛の仏像と経典を欽明天皇に献上した。こうして中国から日本に仏教が広まり、その教えの一つに殺生をしてはならないと有り、40代天武天皇は675年、仏教の立場から、仕掛けを使った狩猟を禁じた。また、農耕時期の4月から9月の間は牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止された。しかし鹿と猪は、この対象から外されている。その後も罠や狩猟方法に関する禁令がたびたび出された。こうして日本では、肉食は遠ざけられるようになった。つまり神は自然に存在する山や川や岩や動物や人間が祈りの対象で、仏は心からなっている。
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そうしないと、ちっぽけな地球でひとりぼっちの人類は正常心をたもてないからではないでしょうか。


困ったとき、悩んだとき大きな意味で人類の父親を必要とし、それを神と定義することによって我々はなぐさめられるのです。
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#1です。



>これで絶対間違いないと思ったのではありませんか。

一番強いのは、たぶん、真理だろうと思うわけです。
人間にとって都合が良いか悪いかという問題は、おそらくですが、超えている。
ですので、これだけは間違いないだろう、と思えるところから論理的に導かれる事柄であるなら、人間である以上、基本的に、ではなく、絶対的に納得できるのではないかと思っています。
むろん、曲折はあるでしょうし、表面的には違う現れ方をする場合もあるかもしれません。
いずれにせよ、こうした定理を、どこまで現実世界での具体的事象に敷衍・関連させていけるか、といった辺りが今後の課題になるかな、と感じているところです。
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この回答へのお礼

>いずれにせよ、こうした定理を、どこまで現実世界での具体的事象に敷衍・関連させていけるか、といった辺りが今後の課題になるかな、と感じているところです。

それがつまり真理の探求という永遠の作業なのです。

お礼日時:2016/02/25 21:04

>悪いが七福神やら、弁財天ってのはイエスキリストやアラーやヤーベに比べればイワシの頭のようなもので語るに値しないことになってます。



偏った考えしか出来ない人ですね、
そもそも、「神」と言う言葉を騙って良いのは弁財天や七福神等を含む
神道の「神々」の方ですよ

後から日本にキリスト教が入ってきて「god」を「神」と誤訳したのが問題で
ちゃんと別物と判断していれば、「神」と「仏」の様に別の言葉になったはずです


神は宗教毎に違うのだから
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この回答へのお礼

>そもそも、「神」と言う言葉を騙って良いのは弁財天や七福神等を含む
神道の「神々」の方ですよ

つまりあれか、神とは七福神のことであるってか。
実はイワシの頭ってのはココから来たと言われてます。

お礼日時:2016/02/25 21:18

Preface



This book has no pretension to be a thorough, systematic study of the subject. It is more or less a collection of studies the author has written from time to time in the course of his readings, especially of Meister Eckhart as representative of Christian mysticism. For Eckhart's thoughts come most closely to those of Zen and Shin. Zen and Shin superficially differ: one is known as Jiriki, the "self-power" school, while the other is Tariki, the "other-power" school. But there is something common to both, which will be felt by the reader. Eckhart, Zen, and Shin thus can be grouped together as belonging to the great school of mysticism. The underlying chain of relationship among the three may not be always obvious in the following pages. The author's hope, however, is that they are provocative enough to induce Western scholars to take up the subject for their study.

The author wishes to acknowledge his debts to the two English translations of Meister Eckhart, the first by C. de B. Evans and the second by Raymond B. Blakney, from which he has very liberally quoted.

DAISETZ T. SUZUKI

New York, 1957




Mysticism, Christian and Buddhist

by Daisetz Teitaro Suzuki

[1957, copyright not renewed]
http://www.sacred-texts.com/bud/mcb/mcb02.htm




>But there is something common to both
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この回答へのお礼

序文
この本は、被験者の徹底、系統的な研究すべきプリテンションを持っていません。これは、著者は、キリスト教神秘主義の代表として特にマイスター・エックハルトの、彼の読みの過程において随時書き込まれた研究の多かれ少なかれコレクションです。エックハルトの思考のために禅と新のものに最も密接に来ます。禅とシンは、表面的に異なります。他はTariki、「他の電力 "学校ですしながら1は、Tariki、「セルフパワー」学校として知られています。しかし、読者によって感じられるだろう両方に共通するものがあります。エックハルト、禅、およびシンは、このように神秘主義の偉大な学校に属するものとしてグループ化することができます。 3間の関係の基礎となるチェーンは以下のページでは必ずしも明確ではないかもしれません。著者の希望は、しかし、彼らは彼らの研究のための主題を取るために欧米の学者を誘導するのに十分な挑発的であるということです。
著者はマイスター・エックハルト、C.・デ・B.エバンスによる最初と彼は非常に自由に引用されているからレイモンドB. Blakney、により、第2の2英訳に借金を認めることを望みます。
DAISETZ T. SUZUKI
ニューヨーク、1957

お礼日時:2016/02/25 21:14

意図・ねらいが分からん。



こう書けば 何かこたえるだろう。
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前提として、神は宗教の中でしか語られない、そして、宗教毎に神の定義は違う



唯一同じなのは、信仰の対象であるという事のみ

例えば、七福神の弁財天は、芸能の神として崇められているが
嫉妬深く、カップルでお参りに来ると別れさせようとするなんて設定がある

この弁財天と、キリスト教等の一神教の絶対神を比較して、神とは○○である
と定義するなんて出来る訳が無い

弁財天が我々人類を作った訳ではないし、カップルを別れさせようとするの
だから、エコヒイキもする、でも、
毎年、多くの人々が崇拝しに神社に参拝に行く

弁財天も絶対神も「神」と出来る定義があると言うのなら俺も知りたい

結果、神の定義は宗教毎に違う

同じだと言うのなら、定義を提示して頂きたい
ちゃんと弁財天と絶対神が共通している事をふまえてさ
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この回答へのお礼

悪いが七福神やら、弁財天ってのはイエスキリストやアラーやヤーベに比べればイワシの頭のようなもので語るに値しないことになってます。

お礼日時:2016/02/25 17:40

理性批判のように


智慧批判をする必要があるのではないか?

智慧が何であるかの定義もなく、神や仏を語れるのか
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この回答へのお礼

智慧を使って考えれば、神が何であるかは分かるはずであるが。

https://www.youtube.com/watch?v=O40j4PqRJWk

お礼日時:2016/02/25 23:07

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