dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

コミュニケーションについて問います。

【α】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?

1. 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 
提示し得るだろう。

2. ところが このひと・あのひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の
及ばぬところである。

3. よって 理論によってすべてのひとを――なお相対的で可変的な真実において
――納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。

 
【β】 そもそも コミュニケーションとは 人間のどういう社会行為ですか?

4. 対話です。互いに自己表現としてのわが意志行為から成ります。三者の会話は 
三つの対話から成るという意味です。


【γ】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?

5. わたしなる対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・
受信者)の関係を わたしひとりの内面に機能させるために きっかけとなる。

6. その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらっても
よいのだが 基本的に言って説得行為ないし対話には その〔第三者の〕発言は 加
わらないのではないか。

7. 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だとすでに初めに前提していると同
時に 一対一の対話にとっては 局外者となるのではないかという意味です。


【δ】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならない
ことですか?

8. ・・・(あなたのお考え)・・・

☆ ふるってご投稿ください。思いっきり自由に批判をもお寄せください。

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    趣旨説明欄をおぎないます。

    ☆☆ すべてのひとを〔説得する〕
    ☆ というのは 一時的に注意を引くだけではダメでしょうから
    確かにその表現内容に普遍性があるか無いかの問題だと思います。

    そして それ以上に実際に問題となるのは: 

    ○ すべてのことについて 一人の人間が〔説得する〕

    ☆ と みなさんが捉えておられるかに見えることです。

    つまり とうぜん《すべてのことについて》は 無理だと分かっ
    ていますから 自分の担当分野だとか専門的なことや趣味として
    いることだとかに限って考えてもらって 差し支えありません。

    そして結局知りたいことは そのような説得のときの困ったこと
    や これこれこういう問題があったという事例などをみなさんと
    共有して コミュニケーションを考えて行く。になると思います。
    どうぞよろしく。

      補足日時:2016/03/07 14:29
  • ★ 幹の部分ってありますよね?哲学の結論というか
    骨組みというところの論理に、矛盾を自ら感じたとき

    ☆ もしこれが 《そこに矛盾を見つけたなら ただ
    ちに一切を省みず捨てなければならない程度と質の瑕》
    のことだと 明らかにした場合・・・

    もしそういう場合なら すでに定義によって《捨てる》
    ということは明らかなのです。

    よって 一般論に答えるのは無理であり 具体例で話
    をすすめる必要がありましょう。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/11 10:32
  • HAPPY

    ああ言えばこう言うというのは 目が見えていない。

    ああ言われたりそう言われたりする回答内容に対して
    この№21お礼欄では つごう四つのわたしの過去の
    発言を引用をしてこたえています。

    つまり すでにわたしが述べ終わっているわたしの考
    えをもってこたえています。

    つまり 
    ああ言えば こうこたえたように答え
    そう言えば こうこたえたように答え
    かのごとく言われれば やはりこうこたえる。

    説得とは すべからくこうあるべきでしょう。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/13 09:37

A 回答 (22件中1~10件)

ブラジュロンヌさん、ごめんなさい。


悪口を云ってしまいましたね。
小6の、名前が桜ちゃんだからたぶん女の子、の味方をしようと思ったら悪口になってしまいました。
でも、以前と違って“沸騰”しませんね。成長したのか退化したのか、それとも老化したのか分からないけど私はそんなブラジュロンヌさんを好ましく思っています。そして反面ひやひやしながら見守ってもいます。
そのエネルギーが増大してきているのではないかと。

私の発言は、あいまいさが多分にあるからここで一つの言葉の意味、内容を共有してみたいと思うのです。

納得と説得、の違いに付いて。
気になったのは一点だけですが。
説得しようとするには、当然理屈をできるだけ完璧にしようとするはずですが、理屈以外でも説得に効果のある方法はあると思うのです。

馬に水を飲ませようとするならば、しばらく水を飲ませずに置いておけばよい訳です。
こうしておけば、まず馬は水を飲むはずですから。

そこで思いました。
この場合、説得なのかそれとも納得なのか。
こう考えると、納得のほうが説得より内容が深いように思ったのですが。

☆ 説得より納得させるほうが難しい、困難である・・・と、思いました。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

痩せても枯れても おまえの差し伸べる水はのまねえよ。

お礼日時:2016/03/14 04:31

質問の「⒈」から


物質現象を知ろうという科学の提示する理論は、すべての人を納得させ得る可能性はあるかも知れません。
でもその科学が対象とする事柄に付いてでも、説得者の能力に依っては及ばぬ場合もあるでしょう。

この科学の受け持つ物質から離れて、人間の精神活動に於いて理性の働く分野である事柄に“理論”が有るとしてもすべての人を納得させ得る可能性があるかどうか。

質問の「⒉と⒊」から
⒈では措いたはずの感性ないし感情を、ここでは含む事になります。含めなければ⒈を否定してしまいます。
⒉では説得者の能力や努力は一人ひとりを納得させる“ちから”とはならない、と云っています。
⒊では感性ないし感情を含む理論があったとして、この理論を以てしても納得はさせられるけど説得できるかどうかは分からない、と言い換えられます。
此処での“納得”とは説得する側の“理論”を分からせるという事であり、“説得”とは同意させるという事である、と理解できます。

コミュニケーションの主体が第三者を置こうという心は、とても冷静沈着な判断であると思います。

国的には司法、に当たるでしょうか。
この回答への補足あり
    • good
    • 2
この回答へのお礼

一つ目のパラグラフ:

☆☆(№2お礼欄) ~~~~~~~~~~
 ○ ひとは誰もみな あざむかれることを欲していない。

という命題ひとつで説得することは出来ませんか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というのが (1)の理論の事例です。

二つ目:
(2)の《説得されるのを拒否すること》は おっしゃるように多分に
《感情的な対立》が影響していると確かにわたしも考えます。

ただし (2)(3)の趣旨は 次の意味です。:
☆☆(№15お礼欄)(つまり 馬を水飲み場まで連れて行くことは出
来るが 馬に水を飲ませることはかなわない)。

☆ つまり 感情をふくむか否かにかかわらず意志による拒否です。
要するに 不倶戴天の敵であるという場合なのでしょう。



★ コミュニケーションの主体が第三者を置こうという心は、とても冷
静沈着な判断であると思います。
☆ 基本は そこにあるとは考えていません。

☆☆(【Q:批判・・・生け捕り】趣旨説明欄) ~~~
5. 批判とは 何ぞや?――自省なんでしょうけれどねぇ。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 《自省》が鍵です。

対話にあっても おのれの中にすでに行司役がそなわっている・つまり:
☆☆ (№20お礼欄) 自分で行司の役割りをも 対話者であると同
時に になうこともできる
☆ こと。《自省 または 自己批判》ができるということです。

《第三者の調停役》は どうしても必要であるというわけではないでし
ょう。

ただ 論理的な説得よりは 母親や恋人による説得のほうが つよく有
効な場合もあります。


 
★ 国的には司法、に当たるでしょうか。
☆ これは まさに《調停》の問題です。

金銭的にどのあたりで手を打つかの問題に限りなく帰着します。
だとしたら 法律の媒介は 人間の心にとっての最終的な答えになるか
どうかは一概には言えないでしょうね。

おカネで解決したほうが すっきりするという人がいることも実際でし
ょうけれど。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/03/12 18:26

コミュニケーションを一対一の対話としてそこに第三者を加えるという事は、第三者に行司としての役割を求めての事だと思います。

いやいや判定してほしいというのではなく“参考意見”としての役割を期待しているんだ、との考えでのセッティングもあるでしょうが。

いずれにしても、対話が進展しないときの解決手段としてのきっかけの役割をあらかじめ用意しておく、という当事者、または第三者のコンタンですね。

当事者が第三者を必要とする心情は、説得するための根拠を示すことができないかもしれないという自信のなさ、説得されない根拠を説明できないかもしれないという自信のなさ、から生まれます。中立・公平さの為に、なんて理由を付け加えるのは、表面を取り作ろう(見せかけ)という化粧であるでしょう。

第三者の役割はコミュニケーションに於いては、本来は主観者どうしは特には必要とせず、客観者が参考意見としての仲裁や助言を必要とし用意するものだと思います。

☆ ある事柄に関心を持つすべての人を説得したいなら、カリスマとなるべきです。

嗚呼、奈美恵ちゃん。
君は素敵だ。
ステージ場での君のカッコよさは、すべての女性のあこがれの的。
女性美にセクシーさばかりを求める男どもにはわからない、美しさ、カッコよさがある。

もっとも最近はちょっぴり体つきがふくよかになってきて(中年太りか?)セクシーになってきたようにも感じてますが。

最新のDVD「namie amuro LIVE GENIC 2015-2016」の最初の一曲は圧巻です。この一曲を聞くために何度も何度もこのDVDを見聴きしてしまった。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

自分で行司の役割りをも 対話者であると同時に になうこともできる
者でないのなら 哲学にとっては まだまだ初歩です。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/03/12 14:32

お礼をいただきましたが、要するに切れ味の悪い話ということに


なります。

枝葉の問題はありましょうが、幹の部分ってありますよね?哲学の
結論というか骨組みというところの論理に、矛盾を自ら感じたとき
に、その哲学を捨てることができるか否か?

そういう疑問でした。
その哲学と「心中する」というのも、筋の通った生き方であるとは
思いますが。
この回答への補足あり
    • good
    • 2
この回答へのお礼

(せ) 検証してくれと言うのではなく 自分から論証しなくてはなりません。

(そ) 《矛盾を自ら感じた》というのは 哲学としては どういう矛盾かを
明らかにしてからお応えせざるを得ない問題である。

(た) どのように《論破》されたのか。これを明らかにしない問いに対して
答えるなら その理論の瑕がどのようであったかが問題であると一般論による
しかありません。

(ち) という趣旨をずっと申し述べて来ているわけです。

(つ) 《矛盾が見つかった ⇒ ゆえにその理論を捨てた》という上っ面の話
には 乗らないという意味です。乗れません。世間話としてなら乗る場合があ
りましょうが基本として・根幹の話としては 無理です。

(て) しかもこういう時に 切れ味をよくしたとしたら それは もう哲学
ではなくなるでしょう。ただの社交辞令に過ぎなくなります。
《格安の〈理論〉》ですらなくなります。

(と) 中身で勝負。とは このことです。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/03/11 10:03

お礼をいただきましたが、さっぱりわからないどころか


混乱をしそうであります。
こういうことは、これまでもしばしばありました。

なぜか?簡単です。
私の聞きたいことはいつも、中学生の質問のような単純
なことで、答えも単純なものを期待していたところ、
「上等」な理論でお答えいただいたからです。一番格安
な理論でよかったわけです。

まあ、こういう体質は、このカテ全体にあるものだろう
とは思いますが。
どころで、№15の質問は、私的にはとても知りたいこと
なのですが、私にふさわしい、格安理論でお答えいただ
けないものでしょうかね?
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(あ) 哲学は 自説が論破されることを問題にしません。お互いさまです。

(い) 感情的な反発が起きても 基本的に問題にしません。お互いに試行錯
誤の道を行きます。

(う) それでも 《論破されたことや自分が相手を論破したこと》にこだわ
る場合が起きます。しかしこれは 哲学の道を逸れるという問題です。

(え) つまり 哲学にとって 理論は互いに批判しあいながら互いに試行錯
誤の道を行きます。と同時に その道から逸れる・あるいはその道を壊しにか
かる場合があるということですが これについても《哲学の道を逸れるという
問題》として 哲学して行きます。

(お) それは 一般にコミュニケーションの問題であり分野です。

(か) ただしこれを 必ずしも《潔さや誠意といった人格ないし倫理》の問
題としては 直接には 扱いません。容易に《真理や信仰》の問題に行き着く
からです。

(き) もちろんただし そのような倫理の究極の姿にかかわる問題はそれも
やはり哲学の対象とします。ただ 経験世界を超えたところのことを扱うよう
になるので 別枠のごとくに扱うわけです。

(く) 話し合いの理論と実践に 《神・信仰》を直接には持ち出しません。

(け) それについては 《信教・良心の自由》といった公理やあるいはその
公理の言い換えとしての《神は 人類にとって普遍神ひとつである》説を軽く
前提としてコミュニケーションを図るものと考えます。

(こ) 最澄の《説得》には 《信仰》の問題とそして 経験合理性で考える
哲学理論の問題とがあるはずです。これは ふたつに分かれます。

(さ) もしふたつに分かれないと言うのであれば その理論や説得の中身が
問われます。神論と思想とに分けないなら全体としてその中身を哲学は問いま
す。

(し) したがって もしコミュニケーションの場にも《人格》といった倫理
の問題を出せという場合には 論敵が相手にマイッタと言ってへりくだること
を問題にするのではなく あくまで中身を問わなければなりません。

(す) (さ)と(し)は 非常に特殊な場合です。特殊な場合については
その一つひとつの場合について事細かく検証する必要があります。

(せ) 検証してくれと言うのではなく 自分から論証しなくてはなりません。

お礼日時:2016/03/10 10:28

自身の回答?に刺激されて、、、



人の思い、考えを“説得”する条件に、理屈が分かりやすく正しいと認められること、があげられると思います。

“生物”としては生理的欲求を充たせる事。

まとめて、引っくるめて、、、
欲望を充たせるかどうかが説得のカギになるのでは、と思いました。

理想社会、と言うのは言い換えれば不満のない社会、と言うことですよね?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

実践向きですね。

第二投をありがとうございます。

★ 理屈が分かりやすく正しいと認められること
☆ を必要条件として:
★ 欲望を充たせるかどうかが説得のカギになる
☆ をほぼ十分条件とする。

要するに分かりやすく正しく・さらに《現実的である》ということ
なんでしょうね。

《ほぼ》というのは それでもひょっとしたらヘぞ曲がりの《分か
らず屋》はいるかも知れないから。

ひょっとしたら:
★ “生物”としては生理的欲求を充たせる事。
☆ といったことは 《説得》の問題ではなく おカネで売り買い
して手に入れることだという見方を出して来るかも知れない。

という場合には 《理屈》というのもけっこう大きな要因であるの
かも分からない。

★ 理想社会、と言うのは言い換えれば不満のない社会、と言うこ
とですよね?
☆ 屁理屈のクレームも愚痴も文句も出ないってわけには行かない
だろうけれど ぎゃくに言うと つねにみんなで議論しあって問題
があれば よりよい方法を見つけ出す仕組みが出来ているとよいの
かも分かりません。


コミュニケーションで もっと複雑で困ったことはないのですか?

お礼日時:2016/03/09 17:48

条件を付ければその可能性は高まると思います。


お金が欲しいと言う人に、あげるから受け取ったらお礼を口にしなさい、と要求すれば大抵の人は“説得”されるはずです。

こんな事からでも思索は始められると思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

わいわいえいとわいわいえいとえいずぃーさん ご回答をありがとう
ございます。

まあね。
実践向きですね。

ただし・しかし・そうは言っても・それでも・だが・やはり・やっぱ
し 哲学のお話なんです。

《無条件で》 自己表現としての文章で――理論としても説得の発言
としても――相互理解が実現されるようにとわれわれはねがっており
そうのぞんでいます。

これが 《餌で釣る》手口よりも人間性に合った自然で合理的なやり
方であると思っておる次第であります。



要するにですね。《豚語》とは違った《分からず屋》がいるのではな
いか? これが 問いを発する動機となった隠れたコンタンです。

みなさんの智慧を拝借と行きたいところです。
ただしわたしはまだ その分からず屋の事例を説明してはいないので
すが。・・・

わいわいえいとさん 何とかしてぇ!

お礼日時:2016/03/09 12:53

お礼ありがとうございます。



一点お聞きしたいことがあります。

>論破されたなら、別の理論に移ればよい、それが人類の哲学です

現実は、そんなもんだろうと思いますが、では、何のための議論なんでしょうか?
論破されたということは、その哲学が劣っていることの一つの証明になるわけで、
それでも、人間は容易に自説を捨てないものですが、それでは、お互いに永遠に理
屈をこねまわすことになります。

はるか昔、伝教大師は天皇の前で、他宗の僧たちと公場対決をし、徹底的に論破し
他宗の僧達は、改宗したという史実があるそうですが、それが本来の「議論」とい
うものの意義だと思いますが、いかがでしょうか?

自分の哲学が、完全に論破され、間違いだと認めざるを得なくなった場合、捨てる
潔さ、誠意などといった「人格」的なものが、深いコミュニケーションを可能にす
る、越えるべきハードルだと思いますが、いかがでしょうか?
    • good
    • 2
この回答へのお礼

第二投のご回答をありがとうございます。

★★ (回答№9)「哲学を信ずる」というものがあり、これこそが、
人間として固定的なものであると思います。
☆☆ これまでのやり取りをとおして だいたいおっしゃろうとするこ
とは 分からないでもないですが それにしても そういった方程式ま
たは枠組み(パラダイム)のことのみを指し示しているだけに終わらな
いか? とは 思われます。
☆ このことの意味を――おそれとしてですが―― 次のご議論の中に
見るように思うのですが?

★ 伝教大師は天皇の前で、他宗の僧たちと公場対決をし、徹底的に論
破し 他宗の僧達は、改宗したという史実があるそうですが、それが本
来の「議論」というものの意義だと思いますが、
☆ ひとつに 哲学ないしその議論を《全か無か》の見方にあてはめて
捉えておられるということ。(なので 枠組みのほうが強調される)。

ひとつに 同じことを言おうとしているのですが 中身が問題であると
いうこと。言いかえると いまでも最澄の哲学が 《全》であってみな
が信奉するところとして機能しているか? です。(一部の人びとにと
どまっているのでは?)

それと: 
☆☆ 《哲学を超えたところ》にも 《説得》の行為がおよぶ余地があ
るのだと。
☆ おっしゃっていたのですが この問題も――保留したのでしたが―
― 中身で勝負となると けっきょく信仰を問うようになれば 答えは
出ない場合が多い。と考えられるわけです。(信教・良心の自由という
公理が 《説得あるいは論破》よりも先に来ます。公理とはそういうも
のです。論証抜きでみながそう認め合っています)。

(つまり 馬を水飲み場まで連れて行くことは出来るが 馬に水を飲ま
せることはかなわない)。

とここまで考えましたが 次のご議論に対しては なおまだマが抜けて
いるところがあります。人間によってその抜けたマを埋められるのかと
いう問題です。

★ 自分の哲学が、完全に論破され、間違いだと認めざるを得なくなっ
た場合、捨てる潔さ、誠意などといった「人格」的なものが、深いコミ
ュニケーションを可能にする、越えるべきハードルだと思いますが、い
かがでしょうか?
☆ つまり 信仰ゆえのハードルです。全体主義にはならない・ならせ
ないというもうひとつの人間主義があるからです。どうでしょう。

お礼日時:2016/03/09 09:25

No.12です。


ご丁寧なお礼コメントに感謝いたします。

「そのような一部としての説得可能性が現実であれば それを一般にも広げることが出来るはずなのです。そういう問題になるのだと思います」
→そうでしょうね。
「問題は 聞く耳を持ちつつ しかも相手の言っている内容を曲げてしまうといった場合だと思います。これは 厄介だと思います」
→その通りですね。
これは、私の長年の経験なのですが、私の言い方や態度も含めて、そもそも私の顔つきや雰囲気が気に入らない人もいます。
そのような人とは話をしても時間の無駄です。
私はどちらかといいますと、いろんな人から温厚だといわれますので、そんなに攻撃的ではないと思っています。
でも、気に入らない人はいるのが社会というものでしょうね。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

★ 私の言い方や態度も含めて、そもそも私の顔つきや雰囲気が気に
入らない人もいます。
☆ 事実かどうかを別にして そうなると きわめて厄介です。

いかに分かりやすく道理にかなった説明をしても 無理だとなる場合
でしょう。

★ 私はどちらかといいますと、いろんな人から温厚だといわれます
ので、そんなに攻撃的ではないと思っています。
でも、気に入らない人はいるのが社会というものでしょうね。
☆ ほんとうは・動機としては こういった問題を取り上げたかった
のです。

あるいは まぁ 言い訳をすれば いづれそういう応用編にまで行き
着くであろうと思って まづは何とか理論編を用意したようなところ
です。

★ でも、気に入らない人はいるのが社会というものでしょうね。
☆ もう一度掲げましたが まさにこの問題です。

《聞く耳を持っている》のです。話し合いはするのです。
それでも・・・という場合です。

お手上げと言いますか 何と言いますか。

まぁ きょうのところは こんな愚痴になりました。とほほ。

ごうじぐさん 第二投をありがとうございます。

お礼日時:2016/03/08 21:32

~~~~~~~~~~~~~~



ゴルギアスとの問答[編集]
ソクラテスとの問答によって、ゴルギアスが持っている技術は「弁論術」であり、彼は「弁論家」、そして、他の人をも「弁論家」にすることができるという点、更に、「弁論術」とは「言論について」の技術であり、それは(他の医術や体育術といった「言論絡み」の技術とは異なり)その技術の働き・目的達成が、「全て言論のみを通して成される」ものであり、更に、(他の数論・計算術・幾何学の技術とは異なり)「人間が関わる事柄の中で一番重要で一番善いもの」を対象・目的としており、それは「自由」と「他者の支配」であり、要するに(法廷・政務審議会・民会・市民集会などで)「他者を説得する能力・技術」のことである、というところまで話が絞り込まれる。

ゴルギアス (対話篇)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AB …

~~~~~~~~~~~~~


たぶんそれが弁論術であり、政治でしょうけれど、
無理でしょうね。

それでも地球は回っている?

~~~~~~~~~~

それでも地球は動く
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%82%8C …

~~~~~~~~~


ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。
1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」という運動だけでなく、差別是正に関する活動全体を指すこともある。
この運動は日本語など英語以外の言語にも持ち込まれ、いくつかの用語が置き換えられ、言い換えられたが、しばしば伝統的な文化や概念と対立する。

ポリティカル・コレクトネス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA …

~~~~~~~~~~


マンハッタン計画(マンハッタンけいかく、英: Manhattan Project)は、第二次世界大戦中、枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。
科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。

マンハッタン計画
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3 …

~~~~~~~~~~~~~
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ たぶんそれが弁論術であり、政治でしょうけれど、
無理でしょうね。
☆ 理由が知りたいところです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/03/08 20:50

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!