10秒目をつむったら…

創価学会であれ、オウムであれ、イスラムであれ、
どれほどのカルト宗教であろーと、もはや問題ではありません。
本人がほんとーに漬かりたいのであれば思う存分漬かれば良い。
信教の自由ってことで。

質問者からの補足コメント

A 回答 (22件中1~10件)

《良心あるいは 良心にからんだ良し悪しの判断についてのや・良心には


必ずしも絡まない科学知としてのそのヒラメキ》 これは いったいどこ
から来るか?

考えてみてみぃ。

おのれの《思考の緑野》からか。《感性の原野》からか?

おのれの思考や想像や意志のハタラキやとは別のどこか知らないところか
ら来るはずなんだ。

その《非思考の庭》は 《非知》として説明される。
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この回答へのお礼

>良心には必ずしも絡まない科学知としてのそのヒラメキ


だから良心ってなんだよ。
何が良心で何が良心ではないんだよ。
自分でもゆーてること分かってんのかよ。

で、科学知として何がヒラメクんだよ。

お礼日時:2016/04/23 16:09

《思考を停止している》とき・あるいは《思考をはたらかせている》とき


いづれのときにも 《非思考の庭》は――良心であるとかヒラメキである
とかとして――ハタラキを持ち続けている。
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この回答へのお礼

ぎゃあなんて、とーとー発狂したかと思ったがなもし。
何で消されたか分かってるのか。

で、非思考でなんでヒラメキが出てくんだよ。
《非思考の庭》って、分かるか分からないかが分からないナゾのなんたらかんたらとかゆーアレではなかったんかいなもし。
それでなんでヒラメクんだよもし。

>《非思考の庭》は――良心であるとか

だったら《良心の庭》ってすればえーだろが。
良心てなんのことか分かってるのか。

お礼日時:2016/04/23 15:47

★(№19お礼欄) 非思考の庭に漬かるってのは、理性有る人間がやる


ことではなく、単に動物的本能が生みだすものなんだけど、本人はまるで
理解できていないんだから話にもならんのだよね。
☆ それは 《非思考の庭》が何たるやを理解してからにしてちょ。っつ
ーの。

思い込みしか脳が無いの? ってぇーの。

いい加減 おしまいになんないかなぁ。
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この回答へのお礼

《非思考の庭》と《思考停止の庭》の違いをちゃんと説明してからおしまいにしなさい。

「とにかく考えることはやめて信じなさい」とかやるのがカルトの常套手段だろ。
キリスト教もイスラム教もオウム真理教もみな同じで、およそカルトってのはみなそーやって勢力を維持してきた歴史的な事実がある。
《非思考の庭》と《思考停止の庭》の違いをちゃんと説明してみい。

お礼日時:2016/04/23 13:25

この質問は 問い方がまったく成っていないということを きちんと


おしえておくべきでした。

すなわち 宗教と信仰とはまったく別だということ。

宗教は 結社の自由にもとづきいちおう組織をもつことが出来ていま
す。

けれども そこに参加することは 《信教の自由》とはまるで別のこ
となのです。

組織の一員となることは 主観内面の良心・信教の自由とは何の関係
もありません。むしろ その主観の自由を踏みにじるおそれがあると
いうべきでしょう。そのメンバーであることによって縛りを受ける。



そもそも 質問者のあたまの中は 小学生以下であって これほどの
マヌケ状態はわたしは見たことがありません。

恥ぢを知って もう少し勉強してからにしなさい。

分からなければ いつでも・何でも わたしにでもいいから 訊きな
さい。

何度も言い聞かせてやらねばならないのですね。もう千回に達したで
しょうか。
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この回答へのお礼

非思考の庭に漬かるってのは、理性有る人間がやることではなく、単に動物的本能が生みだすものなんだけど、本人はまるで理解できていないんだから話にもならんのだよね。

お礼日時:2016/04/23 12:23

★(№17お礼欄) 非思考の庭に漬かっていては


☆ 思考や想像や感覚的なイメージには非ずなのだから 漬かりようが
ない。のです。

もうこのスレッドはいいんぢゃないの。っつーの。
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この回答へのお礼



感覚を持たぬ生き物ってのは存在しないと思ったほうが良い。
草や木でさえも感覚で生きている。
人間とて根本は同じじゃ。
その中でも非思考の庭に漬かるってのは最も感覚依存の行為あると思ったほうが良い。

お礼日時:2016/04/23 07:56

わたしこと・ぶらじぇろーぬは キリスト者(信仰者)ですが


宗教組織の信徒としてのクリスチャンではないですよ。


それにしても 黙っているというのは もう逃げてしまってい
るのではないのですか?

白旗を上げているのではないのですか?



いちばんの問題は アルケーの神しか神はいないというドグマ
です。心がせまあーい。
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この回答へのお礼

>わたしこと・ぶらじぇろーぬは キリスト者(信仰者)ですが
宗教組織の信徒としてのクリスチャンではないですよ。


まず第一に真理の探求は宗教組織の信徒になって行うものではない。
まあこの点は良いとして。
第二に真理の探求は信じることではない。
真理の探求はまず真理が何たるかを理解し、それを肌で感じるまで昇華することである。
これは不断の努力を要する長いプロセスなのであり、一つ一つ階段を上りつめてゆくことである。
これにより次第に万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神に近づくのである。
非思考の庭に漬かっていては永久に神を知ることは出来ないのである。

お礼日時:2016/04/22 18:56

さて、行司役を志願したわたくしとしては、その任務を果たす義務が生じたのではないかと思い、この任務を遂行すべく今から実行を試みます。



まずは辞書に当たりました。(とほほ、ですが)
そこから、決めつけることにします。

アルケーから説くのが「演繹」
非思考の世界にこだわるのが「帰納」

アルケーは宇宙の法則と言う。
その“法則”にがんじがらめだ。
万能、が通用しない。

非思考の庭、は想定外の世界の事と言う。
これでは実験(実体験)さえ出来ない。
でもなぜか、ヒラメキにこだわってる。

判定は同体。取り直しです。
方や押し出しを、もう一方は打っちゃりを決めようとしましたが、双方とも一緒に土俵の外に落ちちゃった!

ああ、嗚呼、、、
お客さんに“怪我”がなければいいが。

“怪我”をした人、またその周囲にいる人に助言します。
“人”が求める真理は、ご自身の“好ましい心”に内在していますよ。
その好ましい心を開発すると、内在する真理に到着しますね。

釈尊は言いました。
「悪しきを成さず善きを行え」と。

真理の泉はこの心から、です。
理的解の前の体感が効果的です。
この効果は意味と価値の現れです。
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この回答へのお礼

まず最も簡単なこととしてだけど、非思考で真理の探求が出来るのか考えてみてほしいね。

お礼日時:2016/04/22 19:01

ファンの方々の注目が集まっている(と、思われる)この両者の戦いは信仰の何たるかを知らしめる事に成るかと思われます。

でも当事者である両者が“対決”を通して結果を出せない(勝負がつかない)でいるのは、双方とも“真理”から外れているから、ではないでしょうか。

と、思ってはみたものの、この点に付いての“証明”は安易に出来るわけもなく、したがってこの証明は今週の金曜日にトライしてみようと思います。

勉強しないとね。
乞う、ご期待。

独り言 (キーポイントはオールマイティかな。まだ分からないけど)
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☆☆ (回答№11) ~~~~~~~~~~~~~~


クリスチャンの言うオールマイティーが 唯一絶対か
それともアルケーさんのオールマイティーが 唯一絶対なのか?

どうやって決めるの? ちゅーの。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ わいわいえいと氏が こたえればいいぢゃん。っつーの。
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面白くなくなった!


当初は、おっ、これは面白い。いや面白くなりそうだ、と思ったけれどつまらなくなってしまった。

何でだろう?
議論が一向に進まないからか。
ジャブの応酬を見ているようで、なんか物足りないね。

お互いに相手のパンチを怖がって、懐に踏み込めないみたいだ。
果たしてそんなに怖がる程の強力なパンチを両者は持っているのだろうか。
疑問だ。

非力なんだから、相手の戦法を研究し、そして自分の戦法もよく知っておかなければ戦いには勝てないよ。
戦法を知らない?いや気付いてない?

僕は思う。
これは“演繹と帰納”の闘いだと。
どっちがどっちだか、僕の頭は“分かんない”けど、きっとそうだ。

その事に気付いていないから、片方は槍を持ち、もう一方は薙刀を持って、先の方で突っつき合っているんだね。

これじゃあ面白くなるはずがない。
飽きてきたよ。
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