【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

学校の友達と話していた時の話です。
何かの話題で
「正常な日本人」
という表現を相手が使い始め、続けて、恐らく彼なりの定義をそこに与えて論を展開していました。

そこで考えたのですが、「正常な日本人」という考え方は可能なのでしょうか?

確か三島由紀夫だったと記憶しますが、なにかの議論で「日本、日本人は事物としてどこに存在するのか」と質問された答えに、「外国に行けばわかる」と回答していました。
つまり、日本や日本人は諸外国、海の向こうの国に対して相対的に規定されるものだということですよね。

そうだとすれば、ある意味絶対的な基準で「日本人とはかくかくしかじか、こうである」と規定することはできるのでしょうか?

僕の文章自体どこかしら破綻があるかもしれませんが、その辺も合わせてご意見お願いします。ベストアンサーは選びません。

A 回答 (3件)

質問の主旨は↓でしょうか。



A:「正常な日本人」という考え方は可能なのでしょうか?

B:>そうだとすれば、ある意味絶対的な基準で「日本人とはかくかくしかじか、こうである」と規定することはできるのでしょうか?


↑のA、Bですが↓のCを前提にしていると思います。

C:>つまり、日本や日本人は諸外国、海の向こうの国に対して相対的に規定されるものだということですよね。

しかし、それはあなたの読解力不足による誤解だと思います。

三島由紀夫の「外国に行けばわかる」の意味は、
日本を外から見る事によって、日本の中にいる時より日本の特徴をより明確に認識できるという事だと思います。
(絶対的な規定はあるが、内部からはそれが見えない)

また、Cが事実であるなら、それは日本以外にも言える事だと思います。
日本を規定している外国や外国人は、他の外国に規定されないのでしょうか。
また、要因である「外国」が変化し他に影響を与えるなら、それらが決定する「個別の国の規定」とやらに意味があるのでしょうか。
そして、日本も彼らを規定する外国であると思います。


Aですが、「正常」の定義や「正常な日本人という【考え方】」がどのようなものなのか不明なので回答不能。
私は回答側に思い付きの造語を推理する義務はないと思っています。
外国によって日本人の規定が決定し、それ=正常 とするなら可能ではある。(それを受け入るかは各人の自由)


回答B:「絶対的な基準」によって「日本人とはかくかくしかじか、こうである」と規定することは可能。

「ある意味」の意味が不明。(バカ程この言葉を使う)
↑は、それを規定する主体が「自分の中での絶対的な基準」をもっていさえすればよいだけの事です。
(質問は「規定が可能か」についてであって「規定の内容」や「正しい規定」ではない)
「学校の友達と話していた時の話です。 何か」の回答画像3
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日本の常識は、世界の非常識、という言葉がありますからね

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この回答へのお礼

今は日本人の常識の話ではなくて、関係性を超えた「日本人」を絶対的に定義できるか否かの話しています。

お礼日時:2016/06/13 14:21

「絶対的な基準」なんて無理。

それこそ絶対あり得ない。

例えば、日本人は外国人を見て「信じられないくらい大雑把」って感じることは少なくないでしょう? でも彼等からすればそれが普通だし、周りのみんなもそんなもんだし、もっと言うなら世界中の多くの人がそんなもんだ思っている。彼等からすれば、日本人こそが「細か過ぎる、神経質、気にするところ間違ってる」んであって。
日本人が当たり前だと思ってることが、日本を一歩出ると全く違うということは、まだまだ星の数ほどあるんですよ。それを知るきっかけはやはり「他者を見てはじめてわかる、相対論」しかありません。見ない限りは「自己」を知り得ません。・・・まぁそれは国と国だけではなく、人と人、物と物にも言えるんですが。

それかわかれば「絶対的な日本人らしさ」なんて存在し得ないという結論に自動的になるはず。
強いて言うなら、それが「日本人」なら「絶対的な日本人」でしょう。
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この回答へのお礼

ありがとう

日本が諸外国との関係性のなかで規定されるように、日本人そのものも、絶対的な基準など存在せず、ひとりひとり多様性が認められるということですね。

ご回答ありがとうございました

お礼日時:2016/06/13 14:19

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