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日本は明治になってから、ドイツを参考にして大日本帝国憲法を作り(1889年)、天皇制(立憲君主制)になりました。
ドイツは第一次世界大戦の終わりの1918年にドイツ革命が発生して君主制が終焉して共和国になります。
ここで疑問なのですが、参考元のドイツで君主制が終わったので、日本でも憲法を改正して共和国に移行しようという話は出なかったのでしょうか?
その後、ドイツも日本も軍国主義に走りますが、ナチスと昭和日本では君主のあるなしで違いがあると思うのですが、そこら辺はどうでしょうか?

A 回答 (1件)

>参考元のドイツで君主制が終わったので、日本でも憲法を改正して共和国に移行しようという話は出なかったのでしょうか?



なかったでしょうね。元々明治憲法について君主制と民主制をどのようにバランスを取るかで参考にしたのがドイツというかプロイセンの憲法だったわけです。ただし、そのまま利用しているわけではなくかなり日本の実情に合わせて変革している、ようです。

そもそも、明治維新の時点で目標とする政治体制は「立憲君主制」だったわけで、共和政はまったく考えていませんでした。というよりも徳川を倒すために「尊王攘夷」と天皇を担いで新体制にしたわけですから、政府が共和政を取りいれるわけがなかったのです。

さて、なぜ日本が天皇を中心とした「立憲君主制」を目指したか、というとそれは近代国家をすぐに作る必要があったからです。

近代国家というのは国民国家であり、民主主義国家であるわけですが、たとえばフランス革命後の共和政フランスは、すぐに安定した政府になったわけではなく、共和政として政体が整うまでに80年ほどかかっているのです。
 他の国でも君主国から共和国に移行するには軍部の独裁政治などの横やりがあったりして、一筋縄ではいきません。今の韓国も民主大統領制になってから20年ちょっとしか経っていないため、まだまだ共和政が確率されていない、から今回のような現象がおきているわけですが、明治維新当時の日本で20年とか50年もかけて民主政府を作っていたら、その前に植民地になってしまう、という危機感があったわけです。

しかし、そうは言って幕藩体制で各領民は「おらの国は○○で、領主さまは××様だ」と言っているような時「日本国の兵隊となって死ね」とは言えないわけです。しかし、早く民主的で近代的な国民皆兵制度を作らないと、植民地化されてしまうという危機感もありました。

そのために利用したのが天皇制であり、教育システムは前倒しで明治5年には学校制度を作って翌6年には近代教育制度を始めたわけです。そしてその制度の中で「日本は立憲民主主義の国、天皇を中心とした強い国、みんな天皇の臣民で兵隊さんは天皇と国とみんなを守る偉い人達」と教えたのです。

つまり今まで「領民」だった人たちが「日本」という国を意識させるために「天皇の臣民」という考え方を利用したわけで、これによってはじめて「日本国民」ができたわけです。

この効果は抜群で明治27年の日清戦争に勝つことができました。明治27年ということは明治6年に初めて小学校に入った7歳の1年生が26歳から27歳で、徴兵制の軍隊では士官・下士官ともに一線で活躍できる人材がそろった頃になるからです。

これに比べて、清の軍隊は「国民国家」という意識に薄く、訓練も適当で当時としては最新鋭の兵器を使いこなせなかった、ということになるわけです。

このような「天皇を国の目印にした近代国家の創出と運営」の途中であった日本で、共和政なんてできるわけがありません。

>その後、ドイツも日本も軍国主義に走りますが、ナチスと昭和日本では君主のあるなしで違いがあると思うのですが、そこら辺はどうでしょうか?

ナチスと昭和日本で実は共通していることがあります。それは「どちらも戦争に至るための意思表示は選挙を通じて、国民がYESの意思を示している」ということです。

ただし、ナチスは戦争そのものよりも、ユダヤ人排斥など当時としても人道的に許されないことをしていましたので、それを反省しています。しかし、戦争そのものに反省をしているわけではないのです。

日本は結果として東京裁判で「立憲君主制による弊害」として「国民は政府と軍部に騙された」として戦争を起こした責任を免れる結果になっています。東京裁判史観を批判すると「太平洋戦争は自衛戦争だった」ということになりやすいのですが、(それはその通りだとしても)国民が戦争を望んでそして負けた、という事実も知っておく必要があるでしょう。

結局、戦後の日本はソ連により共産革命工作を阻止するためにGHQと共同で天皇制を残し、今でも立憲君主制が続いているわけです。

個人的に日本には今後も天皇制が必要だとおもっていますが、そういう政治力学による天皇の存在理由は常にある、ということです。
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この回答へのお礼

幕末でいきなりストレートに明治天皇を中心とする立憲君主制が出て来たわけでなくて、公議政体論の議論で模索したり、フランスの影響を受けた蝦夷共和国があったりして、他の政体になる可能性はわりあいと開かれていたんですよね。
それでさらに憲法を作る段になって、伊藤博文がイギリス流じゃなくて、ドイツ流を採用。立憲君主制でもここでまた分かれ道。
WW1の後は日本は日清日露WW1と3連勝で戦勝に浮かれてドイツ革命はあまり顧みてない雰囲気ですね。さらにロシア革命が勃発して共産主義が入ってきたので、変革を望む人々は共和制よりもさらに過激な共産のほうに引っ張られてゆく流れですかね。

お礼日時:2017/01/04 21:44

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