1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。
2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。
◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~
3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。
4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。
5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。
6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。
7. よって、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
を定理として認めざるを得ない。
8. この場合、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
7. よって、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?
9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?
9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。
9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。
10. (8)の B なる命題について:
10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?
10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。
11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?
11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。
12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか?
12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?
No.4
- 回答日時:
>8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?
:
《知り得ないと証明されたものごと》でも構いませんが、《知り得ないと判断するしかないものごと》とでも表現するほうがニュアンスとしては適切ですね。
《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》は、《(未だ)知り得ないナゾ》である「未知」で十分。(正確には《(未だ)知り得ていないナゾ》と表現すべきですが整合性を維持するため、あえてこのままで)
つまり、《神の存在は知り得るか知り得ないかが知り得ない》と《神の存在は知り得ない》はどこが違うのか、ということ。
>10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?
:
そのことを忘れがちなので確認しておくが・・・、といった意味。
>10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。
:
「自我」
哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/94235/meaning/m1u …
「他者や外界から区別されない自分」=[ 人類の一員としての我 ]
といった対応関係を示したつもり。
>11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?
:
まず、「我」は、[ 人類の一員としての我 ]でもあり、[ 自我としての我 ] でもある、という前提があります。
(7)の C なる命題において 《我 や 彼》と言うときは[ 自我としての我 ] であり、その[ 自我としての我 ] に、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
と気づきが訪れた際には、[ 人類の一員としての我 ]としての存在も担保されることになる。
>12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか?
:
[ 自我としての我 ]は認識しやすいが、実はその「我」は、宇宙摂理に則る形で[ 人類の一員としての我 ]として生まれてきたというのが真理であるから、それを忘れて[ 自我としての我 ]しか認識できないままだと、必然的に真理から遠ざかる判断しかできなくなるのではないか、といったことになりますかね。
>12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?
:
上の内容と重なってしまうかもしれませんが。
極論ということであれば、「自分自身という存在は [ この我 ] として重んじられるが 人類としての位置づけはどうでもよいものだ」という認識のほうが容易なことは明らかだと思います(むろん、逆の場合もありますが、あくまで一般的に)。
現段階での人類の進化状況では。
しかし、人間ひとり(全体でも)がいかにあがいても真理から逃れる術はないように思うわけです。
[ 自我としての我 ]として生きざるを得ないのはたしかですが、ある問題を根本的に解決しようと思うなら、[ 人類の一員としての我 ]という視点は不可欠だろう、ということ。
今の人類は、何につけ本気で解決しようとは思っていない。
社会は実験場で、失敗するたびに少しづつ対策は進化しているように見えるが、それでも本気で、つまり、根本の解決を目指しているとは到底思われません。
しかし、遅々とした歩みでも真理を忘れさえしなければ、いつかは、という望みは保持されるはず。
ご回答を謝謝。
★ 《知り得ないと判断するしかないものごと》とでも表現するほうが
ニュアンスとしては適切ですね。
☆ おそらく偽らざるホンネでありご主観であろうと感じます。
問題は それで推論を運べるかではないかと。
これは いまは 懸念として留意するかたちとします。
★ 《神の存在は知り得るか知り得ないかが知り得ない》と《神の存在
は知り得ない》はどこが違うのか
☆ 知り得ないと証明されたなら 不可知です。《まだ知り得ていない
ナゾ》つまり未知の場合は これから既知と成り得ます。その可能性が
永遠にあります。
非知の場合は それが仮りに既知となったなら 《知り得た(つまり可
知)》となって 非知ではなくなります。そういう区別は 明確ではな
いでしょうか?
★ 10-1 ・・・
☆ は了解です。
★ 10-2.「他者や外界から区別されない自分」=[ 人類の一員と
しての我 ]
☆ ううーん。ちょっとくるしい感じがしますが。つまり [ 人類の一
員としての我 ] にも 自由意志がそなわっています。この意志の自由度
をもった使用・発揮の仕方によって 《他者から区別される自分》がい
るのではないか? (字数制限にてこのような口調です)。
★ 11.[省略になりますが]
☆ 分かりました。わたしの理解に引き寄せるなら:
・ [ 人類の一員としての我 ] :生まれつきそなわった自然本性なる我
・ 他者から区別される[ 自我としての我 ] :後天的な経験存在なる我
です。ひとつの反論としては 《日常ふつうの生活をおくる我》は 自然
本性なる基礎の上に成り立っている。ゆえに[ 人類の一員としての我 ] か
ら 道を外れているかも知れないが 断絶したわけではないと。
だからこそ C なる命題の気づきが誰にもおとづれると。
★ [ 人類の一員としての我 ]・・・を忘れて[ 自我としての我 ]しか認識
できないまま
☆ であり得るというのは まったくの現実でしょうね。しかも ふと或
る日或る時 真理ない自然本性に気づくことがあります。――どうも こ
こですね われわれの問い求めのポイントは。
すなわち:
★ 「自分自身という存在は [ この我 ] として重んじられるが 人類とし
ての位置づけはどうでもよいものだ」という認識
☆ これは 乗り越え得るのでは?
No.3
- 回答日時:
(知ったり、知らなかったり)または(知らなかったり、知らなかったり)することを知らない。
ってことは、知ったり、知らなかったり、知らなかったり、知らなかったりするってことだ。知ったり50、知らなかったり50、知らなかったり50、知らなかったり50の全体からみると、知ったりの25%だけに¬がかかって、知らない0%ってことにしてる。それは誤り。またはと不可知を併用してるから、25%知ったり、75%知らなかったりするってこと全体に¬がかかって、25%知らなかったり、75%知ったりするってことが正しいよ。○○か××が不可知ってのは、不可知が○○と××の両方にかかるから、○○と××両方に¬がかかるよ。
★ 知ったり、知らなかったり
☆ これらを時間の過程において捉える必要があると考えます。
《既知:すでに知っている》と《未知:まだ知らない》と。
これらを合わせて 《可知》です。
☆☆(№2お礼欄) ~~~~~~~~~~
★ 不可知ってのは知らないってことだよ。
☆ 《可》は 可能性を言っているので 《知り得ないと知り得た。
つまり 知り得ないと証明し得た》場合が 不可知。
★☆ そこんとこもう一回かんがえるといいよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ご回答をありがとうございます。
No.2
- 回答日時:
知り得るか知り得ないかが知り得ないってへんだよ。
知り得るってことと、知り得ないってことを、または、でつなぐのが変だよ。なんでかっていうと、可知と不可知は対概念じゃないからだよ。可知ってのは知ったり、知らなかったりする。不可知ってのは知らないってことだよ。可知を¬して不可知になるような気がするけど、ちょっと違くて、¬が知ったりの方にしかかからないみたい。不可知ってのは、知らなかったり、知らなかったりする。¬が可知の知ったりと知らなかったりの両方にかかるなら、知らなかったり、知ったりになるよ。可知は¬しても同じ可知だったりしちゃう。
そこんとこもう一回かんがえるといいよ。
★ 可知ってのは知ったり、知らなかったりする。
☆ 《まだ》知らなかったりする。
★ 不可知ってのは知らないってことだよ。
☆ 《可》は 可能性を言っているので 《知り得ないと知り得た。
つまり 知り得ないと証明し得た》場合が 不可知。
★☆ そこんとこもう一回かんがえるといいよ。
No.1
- 回答日時:
哲学って無駄に難しくするんだな(笑)
屁理屈を屁理屈で包み それを屁理屈の箱に入れ 屁理屈のリボンを固く結んでから 中身を取り出そうとしてる・・
箱に詰める前の状態にすればイイだけなのに・・(笑)
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つづき。
命題 Aにおける《摂理》をめぐって それは経験事象に片足を入れている。
それゆえにも:
★★ (=あらゆる事象をバランスさせる力)
☆ といった説明が添えられています。つまり 《事象;バランスさせる》
というのは あくまで経験世界におけるものごとです。
つまり――《人智の及ばぬ》とはありますが・ですからこれは 非知では
なくむしろ不可知のものではないかと推測されますが その――《経験的
な力に起因して われわれは生まれた》と言っていることになるのでは?
だとすれば これは まづい。でしょうね。《非知なるナゾ》のままにし
ておくのが ひとつの手でしょう。派生的な見方として 摂理を持ち出す。
か?
でも 摂理は 扱いがやっかいです。世の中には どこにでも《自然本性
から外れた思いや考えも そしてその行動もが起きている》からです。思
案のしどころではないでしょうか。
生成原因ないし要するに神に《意志》はあるか?
神とわれとのタテの関係――非思考の庭なる動態――では 神に意志がある
と見ることは 自由。無いと見るのももちろん自由です。
われと他のわれとのヨコの関係――思考の緑野&感性の原野――では 神な
いしその信仰は 直接にカカハリを持ちません。
ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に
神についての感想やまた思想としてのお話です。神論や信仰論〔ましてや宗
教〕と 神や信仰とは 別です。
つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見て
いるとしても その神の意志は お呼びではないとなります。
フクシマは 神罰だといった物語にしかなりません。
神はわが人生の節々でその事態やそれにかかわるわれ自身をバランスさせて
くれていると 非思考の庭なる主観において思っていても 自由でしょうね。
神は――非知かどうかを問う前に――あくまで超経験・超自然です。
つまり もうそれだけでも 既知ではない。未知だと思っても 人智を超えて
いるからには 可知ではないと知られます。
では 不可知かと言うと 不可知だと証明されてはいないだけではなく 超経
験で人智を超えているからには 不可知だと証明される気遣いはないとなりま
す。これが 非知です。
○ 世界についての人間の認識のあり方 ~~~
経験事象について:
可知(知り得ると人は思っている)
既知(間違いだったと分かることもある)
未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)
非経験の場を想定して:
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○ カミ(普遍神)とわれ
【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)
☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
――自然本性にあってすでに――成ると想定。
○ われ
【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)
摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。
摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。
○ 摂理とは:
神 神 神
| | | タテ
(非思考) (非思考) (非思考): の :(信仰)
| | | 関係
| | |
われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)
神は:
★ 「既知となるか未知となるか知り得ないと思う」という思考(認識)を
する立場
☆ は 《神は 超経験だ》という常識にどのような根拠でさからうのか?
を明らかにして欲しいと思います。
初めに《非知》なら 可知(既知&未知)や不可知とはその初めから なじ
みません。
という手法です。
神は 既知だ(既知となりうる)や 未知だや あるいはそちらの定義では
未知と同じ内容となる不可知だといった判断は いったいどこから出て来る
のか? 不思議でなりません。
超経験だという前提を外していますし もしそれを問わないとしても 神が
既知だという人が 一般にその言っていることがみとめられたことはあるの
でしょうか?
いままでありえなかったことを どうしていま持ち出して来るのですか?
りゅぱんさん できましたら お願いがあります。
【Q:屁理屈と詭弁】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9732494.html
この質問への回答№20と№23とのやり取りについて どう思われますか?
非知をめぐっての議論です。
じつは そのあとわたしが応答する番なのですが 質問者からブロックされて
しまいました。
何かりゅぱんさんにも 言うことがあるとお思いでしたら そうなさってくだ
さいませんか?
☆☆(上記質問への回答№20=ぶらじぇろーぬ) ~~~~
水は 経験事象であり 水に溶けることも 同じくです。いまの仮定における
地の塩は 経験事象を超えているという想定です。
ですから 《霊なる人間が 水に溶ける》かどうかは どこかで推論や前提を
間違えたといった問題にはかかわりがないのです。
~~~~~
☆ ここが鍵であると思います。すみません。
(エ)★ 《不可知》というものは、《不可知と思う》のように定義せざる
を得ない、というのは論理的に真だと思っています
☆ でも この不可知という用語を当てているその対象は 大元のナゾなん
です。
《宇宙が存在する意味》つまり要するに神のことです。神は 不可知であり
それは 《不可知と思う》ということなんだと。
ところが この《宇宙が存在する》なるその意味つまり神は 《人智の及ば
ぬナゾ》なんです。
人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
まるのでしょう?
不可知の定義で 互いにどうしても違いが出るということ。これの
原因が分かりました。
経験事象と超経験とを区別することは おおむね成されていると思う
のですが どうもこれら二つの領域が連続している・・・とそちらで
は捉えられているのではないだろうか。ここです。
まづ 両者には絶対のへだたりがあります。
次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
て来る。
連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。
摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。
次のくだりをおぎないます。:
☆☆(№73お礼欄) ~~~~
br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
~~~~~~
☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。
時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。
言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
る・・・というズルイ見方です。