1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。
2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。
◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~
3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。
4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。
5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。
6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。
7. よって、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
を定理として認めざるを得ない。
8. この場合、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
7. よって、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?
9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?
9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。
9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。
10. (8)の B なる命題について:
10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?
10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。
11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?
11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。
12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか?
12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?
No.34
- 回答日時:
#29です。
#31さんのご回答内容について、ひとこと。
>彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれないを、人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はどうでもよいものだ、という質問者が作った極論として解釈してくれ(願望)と、no.4~8の回答の文章が言っている箇所ってどこですか?
:
これは、どちらとも言えると思います。
つまり、「人間は 人類として重んじられる(べき)」という願望を突き詰めるなら、「一人ひとりの存在はどうでもよいものだ」という構図にならざるを得ない、ということをおっしゃったのだと思います。それは、それで事実でしょう。
しかし、(A)(B)によって(C)という命題が論理的に導かれる、と言っているだけであり、「極論として解釈してくれ」という願望を述べているわけではない。
つまり、バランスの問題なのですが、それをどうバランスさせるか、という点については懸案事項として積み残したまま、という状態。
そんなことじゃ何も前進しないだろうと言う向きもおられるようですが、出航前点検は、それなりに必要なことでしょう、というスタンスですね。
バランスの基準だけは定めておく必要があり、バランスの具合は航海しつつ、暗中模索していくしかないような気もする次第、
ご回答をありがとうございます。
命題 C は 要するにわれわれ人間の一人ひとりが 《掛け替えの
ない存在》であると言っているか・否かの問題だと考えます。
言う必要がないのか。
解釈のひとつの可能性としては 《掛け替えの あ る 存在》だ
と言っているようにひびきます。
それでよいのか? です。ということは 命題 C じたいにおいて
表現をおぎなっておいたほうがよい・・・のではないかという見方
です。
(命題 A や B といっしょに捉えてくれと言わなければならなくな
るよりは です)。(ごくふつうの第三者からの批判だと思うんで
すがねぇ)。
No.33
- 回答日時:
再び、#29です。
どうも、非知ありき と 非知不要論 という構図で水掛け論になり掛けていそうな気もするので、瑣末な点について、いちいち反論するのはやめておき、#28や#29で述べた内容を再度練り直すという形で記してみたいと思います。繰り返しが出てくるかと思われますが、それはご容赦ください。
神(他の事象でも構いませんが、表現が煩雑になるので、神とします)を思考の対象とする場合、唯一真と言える命題は、
「神が既知でないなら神は未知である」
だけではないかと思います。
「(未知である)と思う」という補足が不要である点が重要。
仮に、「神を見た、聞いた、だから既知だ」と言う人がいれば、その人にとっては「神が既知でないなら」という条件が満たされていないわけで、当然未知ではない、ということになる。
「神は既知でない」という認識が共有されている限りにおいては、「神は未知である」とだけ言えば、論理的に真理を示していることになります。
この論理的真理には、
a.いずれ既知となる。
b.永遠に未知のままである。
という2つの可能性が含まれている。
ただ、現時点ではどちらかを知ることはできない。
しかし、
b.永遠に未知のままである。
と思いたい人は『神は不可知である』という表現を使う。
これは、すなわち、『神は不可知である(と思う)』という意味以上でも以下でもない点に留意が必要。同様に、
a.いずれ既知となる(と思う)(可知)
と考える人もいる。
いずれの場合も、「神が既知でないなら神は未知である」という真理が前提になっている点は揺らぎません。
ここに、「いやいや、可知でも不可知でもない、非知だよ」という人が現れるわけですが、この場合も当然、「神が既知でないなら神は未知である」という真理が前提になっていると言わざるを得ないはず。
であるなら(そうした真理が揺らいでいないのなら)、知り得ると思っても、知り得ないと思っても、そして知り得るか知り得ないかは知り得ないと思っても、それは趣味の問題に帰するのではないか。
いわゆる「見解の相違」と言えば済む問題ではないだろうか、ということですね。
つまり、そのような相違があったとしても、手法は異なるにせよ、 [ 「神」は【事実として】実際にいるか、いないか ] について考察しようとする際に、なんら弊害は生じないのではないだろうか、ということです。
さらに、「いやいや、可知でも不可知でもない、非知だよ」には、どうも、見解の相違という状況を否定しようとする(おそらく無意識的な)意図が根底にあるような気がするのですが、勘違いでしょうかね。
勘違いかどうかは別にして、仮にそうだとすれば、案外面白いことに思い当たります。
「見解の相違」の否定というのは、つまるところ、[ 人類の一員としての我 ] の視点に立脚していることにはならないか? ということです。
そして、それはそうなのだとするのが論理的でしょう。
ただ、重要なのは、「見解の相違」の否定から出てくるところの、その「非知」という概念、これは、[ 人類の一員としての我 ] という視点だけが、その視座となっている、という点です。
[ 人類の一員としての我 ] を極北まで突き詰めれば「神の視点」です。
つまり、「非知」は、神だけに許された認識である、ということになりませんか?どうでしょう?
これを、「(人間の)視点」として肯定するのは、どうかなあ・・・という感想を私は持っているような気がします。
まあ、このあたりも「見解の相違」ということになってきそうな気がしますね。
ご回答をありがとうございます。
★ 「神が既知でないなら神は未知である」
☆ 神は 超経験ではなかったのですか?
未知は既知に成り得る。ということは 経験事象に属します。
これは 決して水掛け論ではないと思うんですがねぇ。
★ 「神を見た、聞いた、だから既知だ」
☆ 《既知》も あくまで経験世界におけるものごとについて知る・認識
するという問題です。神は 経験世界を超えています。
それでも神を知ったんだと発言する人がいた場合 それは 神とわれとの
タテの関係――非思考の庭――における主観としてのヒラメキや直観(同
じですが)としてのみ 誰もがみとめざるを得ない心的現象だということ
でしょう。
ヨコの関係――人びとが主観を共同化する経験世界――では 成立は無理
です。もし神を見たという主観が共有されたとしたら その認識は あく
まで経験事象についての経験知です。つまり 神は 経験知とは別なので
すから。
★ 「いやいや、可知でも不可知でもない、非知だよ」には、どうも、見
解の相違という状況を否定しようとする(おそらく無意識的な)意図
☆ 曲解です。可知(既知&未知)および不可知は あくまで経験事象に
ついての認識のあり方。その範疇に入らないものがある。それが 非知で
す。
なぜなら 超経験・超自然という範疇を ふつう一般にもうけているから
には これにこたえて理論づけなければいけません。それが 非知です。
経験事象に対する可知や不可知と同じ概念で どうして超経験についての
認識のあり方を判断するのでしょう?
そして別の概念である非知は きわめて普通に・自然に 世に言う神のこ
とを説明していることになります。
★ 「非知」という概念、これは、[ 人類の一員としての我 ] という視点
だけが、その視座となっている
☆ 非知は 非経験の場について言うもの。人間たるわれは 経験事象で
す。
☆☆(№6お礼欄) ~~~~~
[ 人類の一員としての我 ] :自然本性+(すでに)自他の区別なる個性
[ 自我としての我 ] :自他の区別なる個性+(隠れていても)自然本性
~~~~~~~~~~
☆ これが 人間の視点であり 哲学としての理論の一端です。非知と両
立します。
No.32
- 回答日時:
#29です。
この#32では、#30のrupin_the_345thさんにお示しいただいたサイトの内容について述べる形になります。
まず、rupin_the_345thさんには、興味深いサイトを教えていただきありがとうございます、とお礼を申し上げます。
サワリを目にしただけで、あれこれ論評することはできるはずもありませんが、感想を述べるという形でお礼に替えさせていただきます。
トマス・ネーゲルの『どこでもないところからの眺め』からの抜粋が面白かった。
1.
◎長いあいだ、わたしというものはなかった。しかし、ある時ある場所で特定の物理的有機体が形成され、突如、わたしというものが、この有機体が生きながらえるかぎり、いる。
という箇所は命題(A)に相当すると言って良さそうですし、
◎秩序ある宇宙の客観的な流れにあっては、主観的には(わたしにとっては!)驚くべきこの出来事も、ほとんどさざ波すらたてはしない。
は、命題(B)とほとんど同義。
◎一つの種の一成員の実在が、こんな注目すべき結果を、どのようにしてもちうるのだろうか。
…わたしであるという唯一無二の特性をもつものを、宇宙がふくむようになったということへの驚きは、かなり原始的な感情なのである。
という箇所は問いかけの形ですので、そのまま援用はできなそうですが、
このように、一つの種の一成員の実在が、こんな注目すべき結果を持ちえているのである。つまり、
…わたしであるという唯一無二の特性をもつものを、宇宙がふくむようになったということは再認識されるべきであり、また、それは、思い起こすことのさして難くない、かなり原始的な感情のはずである。
のようにカスタマイズさせてもらえば、命題(C)の言わんとするところに近づく。
2.
問いかけという形の、この内容に関して、いくつかの回答が候補として登場しているようですが、それらについても(無謀を承知で)若干の感想を記しておきたいと思います。
「私しかいない」
最も強い立場をとった場合の独我論ということになるそうですが、これは、[ 自我としてのこの我 ]という視点に立っているはずで、[ 人類の一員としての我 ]という視点が無視されている点で、どうも触手が動かない。
「ただそうなっている、としか言えない」
永井均の見解のようですが、
◎『おそらくこの問いには答えがない。端的にそうであること──これ以外に答えがないように思えるのだ。』とのこと。
それを言っちゃあおしまい・・・ではないか、という印象。
「私は生けとし生けるもの全てである」
心理学渡辺恒夫の、遍在転生観(へんざいてんしょうかん)という立場。
rupin_the_345thさんは、これが私の考えに近いとおっしゃっておられる。
しかし、個人的には、永井の<私>を脱神秘化するため、同時に倫理的に意味を持たせるため、という「不純な」目的が根底にあるという印象。
人は死んでも、組成である原子は残りますし、幾億年前の人類を形成していた原子が現代に残っているであろうことは理解できます。
しかし、転生というのは、あくまで原子の集合体としてでなければ、そのように言う意味がないわけで、その意味で、ご本人も部分的に認めておられるように「荒唐無稽」と言わざるを得ない。
「私は全世界である」
以前も、「梵我一如」と同じだろ(いまさらお前が言うことじゃない)、と言われたことはあります。
シュレディンガーも支持する考え方のようですが、
「時間において現在しかない」
◎永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるのだから。
この永遠のいまという(人々が自らの行いのなかでめったに自覚することのない)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなのである。(「道を求めて」)
という点は検討しても良さそうな印象を受けますが、
「すべての意識がひとつである」という点については全く違う考えです。
私は宇宙と個人を同一視すべきだと言っているわけではありません。
個を完全否定しているわけではないので、あくまで、矛盾したものとして存在しつつ、しかし、無矛盾の宇宙の摂理によって存在が確保されているという事実は否定できないはずであり、ということは、そのことを無視するなら、真理からは離れてしまう一方ではないか、と提議している。
「「私」も消滅している」
◎唯識によれば、「私」は時間的に継続しておらず、一瞬のうちに消滅している。
◎不連続で非同一の「私」を継続しているように感じるのは末那識による幻想だという。
といった記述が興味深いと思いました。上記の「時間において現在しかない」と似た要素があるのかもしれない、という印象も。
ご回答をありがとうございます。
▼ 梵我一如
☆ これは あくまで《わが心(広義の心)なる非思考の庭》における――
あくまで非思考として想定されるところの――霊霊一如のことです。
ブラフマン神なる霊とアートマン(霊我)なる霊との一体を言っています。
早い話が もともと 梵我一如なわけです。仏仏一如あるいは霊霊一如なわ
けです。
マクロコスモス(普遍神なる霊=非知なるナゾ)
=ミクロコスモス(自然本性なるわれにやどる霊)
といった神論からみちびいた信仰論です。
★ 個を完全否定しているわけではないので、あくまで、矛盾したものとし
て存在しつつ、しかし、無矛盾の宇宙の摂理によって存在が確保されている
という事実は否定できないはずであり、
☆ 非知と《事実 つまり 経験事象》とを直接つなぐことは 無理でしょ
う。何の保証もありません。
非知は 非思考ですから《無矛盾かどうかは それが分かるか分からないか
が分からないナゾ》です。
この非知なるナゾと 経験事象との関係を推理してみるとき 非知の《意志》
があたかもつらぬかれているのではないかと忖度したのが 摂理です。
そして そこまでです。それ以上は 無理です。知り得るか知り得ないかが
知り得ないからです。
事件の解決したあとに 天網恢恢疎にして漏らさずと言ってみるといったこ
とくらいが 落ちでしょう。
▼ わたしであるという唯一無二の特性をもつもの
☆ これは われわれ一人ひとりの人間が 《掛け替えのない存在》だと言
っています。
それは 自然本性における自由意志のハタラキによるものです。
しかも自由意志は 自然本性にそなわったものなのですから この自然本性
(身と心 そしてその行為能力)は 誰もに共通のものです。同じ種を構成
する根拠です。
自由意志の発揮の仕方によって 個性が現われます。うんぬん。・・・
No.30
- 回答日時:
命題 C の提出者に確認しないとはっきりとはしませんが、no.30は彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれないの意味は、偏在転生観が近いように思います。
なぜ私は私なのか-wikipediaの中ほどより。リンク先の図と合わせて見ると分かりやすい。テレビのザッピングのように、全ての人類の人生を意識が経巡る感じです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C …
心理学渡辺恒夫は、遍在転生観(へんざいてんしょうかん)とい
う立場を主張している。渡辺は、永井均の独在論(図中a)におけ
る<私>の特別性を解消するため、私は生けとし生けるもの全てで
ある、という遍在転生観を主張した(図中c)。渡辺自身は科学者
であるが、こうした形而上学的立場の主張に自身のキャリアに基づ
くような科学的な根拠づけは一切ない、と明言している。
ご回答をありがとうございます。
★ 偏在転生観
☆ 《転生》は 生まれ変わりのことだとすれば 同じ DNA を持つ者
はほかにいないので あり得ません。
《遍在(あまねく存在する〔とわが意識が捉えている〕》というのは
ひとつにそのように想像力を駆使していろんな場所にわれがあるといっ
たことを思い浮かべることができるといったことでしょうね。
もうひとつには――ほとんど同じことですが―― 神の視点を想定して
その視点から世界を見渡せば われはあらゆる場所にいるといった想像
をおこなうことができます。
その程度ではないでしょうか。
★ 独我論
☆ は あり得ません。というのは その独我論を 人びとに示してみ
とめてもらおうと思っているとしたら それは 独我論ではなくなりま
す。
何もみんなにみとめてもらおうとは思っていない独我論だとしたら そ
れを取り上げる必要も・いわれも・義務も・そして要請も ないという
ことなのですから。ただ 放っておくだけのことです。
No.29
- 回答日時:
#28です。
思いつくままに書き散らしたので、読みづらい点があるかもしれません。
面倒なら、(ク)を先に(または、だけ でも)ご覧いただければと思います。
(ア)
>☆ 非知が既知となる場合は あり得ないと言いましたよ。
:
《非知》は 確かに知り得るかも知れないです。しかも 人間に共通
の経験合理性で ひとまづ普遍的に妥当だとみとめられるかたちでは
ありません。あり得ません。(#8お礼欄)
いちおう《非知を知り得たんだね》と言ってやらざるを得ないのです
が その《知》が 誰もに共通の知として持たれることは ついぞあ
りません。(#8お礼欄)
ということですね。ここでおっしゃりたいことは、とりあえず了解しています。ただ、どうなんでしょう、《神の存在は知り得るか知り得ないかが知り得ない》を「非知」の定義としているお立場として、このようにおっしゃるのでしょうから、この定義の表現は変えたほうが良いかもしれませんね。
「既知となる場合」も想定してなければ、「知り得るか知り得ないかが知り得ない」という表現は不適切なわけですから。
まあ、それはおいておきますが、それにしても、
>なぜなら もし一般に知られ得たとするのなら それは 《既知》にな
るからです。非知ではなくなるからです。(#8お礼欄)
:
ともおっしゃっておられる。
これこそは、まさに「非知ありき」の論理じゃないですかね。
非知が既知とならない理由は、非知ではなくなるからです。
とおっしゃっていることになる。(ですよね?)
およそ通用しない論理でしょう。
(イ)
>そして この場合は はこぶるさんが:
★ 〔「神は不可知」とした場合のその〕神が既知となることはな
い。なぜなら万能の具現者として、そう呼ばれるのが「神」という
存在なのだから、
☆ という事例ですよ。
:
非知が既知となる場合
と
〔「神は不可知」とした場合のその〕神が既知となる(場合)
とを同列に取りあげても意味はないと思いますが。
まあ、瑣末な点に拘っていると本質を外してしまうので、この件に関してこれ以上は述べませんが。
(ウ)
>不可知が既知となる場合・・・これはあります。
知り得ないという証明が間違っていたと分かったときです。
取りあえずは 不可知から未知になるわけですが その未知から既
知には成り得ます。だから 不可知が既知に成り得ます。
:
むろん、それはあり得るでしょうね。
しかし、それは単に認識が甘かった、というだけの話でしょう。
>《知り得ないと認識した》なら 不可知とするという定義があいま
いなだけではないのですか?
:
そうですね、概ねそれも否定しませんが、若干、とはいえ極めて重要な異論はありますね。
「定義があいまい」というなら否定はしませんが、「定義があいまいな だけ」という表現は適切ではない。
認識する、というのが人間の所作である以上「定義があいまい」になるのは当然であって、「あいまいでない定義」というものが果たして存在するだろうか? ということ。
「不可知=【不可知だと認識した本人が決めた】(#21)こと」という意味以上にも以下にもなり得ないでしょう。
事実と認識は分けて考えるべき、ということなのだと思います。
そこで、少し立ち戻って考えてみます。
(エ)[ 「神」は【事実として】実際にいるか、いないか ]
ある事象について「未知(未だ知られていない)」という【事実】を想定するなら、それに対応する概念は「既知(すでに知られている)」しかありません。
「神」は【事実として】実際にいるか、いないか、という切り口であれば、そのどちらか、つまり、既知か未知しか無い。
(オ)[ 「神」は【認識として】いるか、いないか ]
しかし、「神」は【認識として】いるか、いないか、という切り口であれば、つまり、「神はいると思うか思わないか」という切り口であれば、「神はいる(既知)と思う」「神はいない(未知)と思う」「神はいるかいないかわからない(非知)と思う」という答えが可能になる。
(カ)[ 「神」は知ることができるか、できないか ]
次に、「神」は知ることができるか、できないか、という可能性という視点からの切り口であれば、どうなるか。
この場合、「知ることができる、できない」はあくまで認識であって、そうした事実があるわけではないから切り口はひとつ。
つまり、「神は知ることができると思うか思わないか」という意味なわけで、「神は知ることができる(可知)と思う」、または「神は知ることはできない(不可知)と思う」という答えが可能。そして、非知は、
「神は知ることができるか、知ることができないか、わからないと思う」となる。
さて、お気づきだと思いますが、(オ)や(カ)は、「神について、あなたはどう思うか?」という視点で神が論じられていることになります。
しかし、論じられるべきは、そうしたことだったのでしょうか?
(エ)[ 「神」は【事実として】実際にいるか、いないか ] ということだったような気もするのですが、どう思われますか。
もし、そうであるならですが、この場合、未知か既知しか無いということはご了解いただけると思います。
そして、「未知(未だ知られていないもの)」のままなら、いつまでも未知と呼ばれ、「未知(未だ知られていない)」という【事実】の範疇で、「神は知ることはできない(と思う)」場合には、「不可知」と呼ばれる。
これで、十分、神を語ることはできると思うのですけどね。
(キ)
(オ)[ 「神」は【認識として】いるか、いないか ] (神はいると思うか思わないか)
(カ)[ 「神」は知ることができる(と思う)か、できない(と思う)か ]
という論点であって何が悪い、とおっしゃられるかもしれませんので、その場合に関しても触れておきます。
つまり、非知の概念を適用して次のように言う場合に対しての異論です。
「神はいるかいないかわからないと思う」
「神は知ることができるか、知ることができないか、わからないと思う」
こうした表現に対して違和感があるのは、
「いるかいないかわからない」「知ることができるか、知ることができないか、わからない」と言うが、思考の対象として勝手に持ち出しておきながら、それは無いのではないか、という疑念が生じるからなのだと思います。
なにものとも知れぬものを思考の対象として持ち出した段階で、「いるかいないか」「知ることができるかできないか」という疑問は必然的に伴なわなければおかしいわけで、その検討は、すでに済ませているのが人間としてのアプリオリな感覚だろう、ということ。
むろん、「いるかいないか」の答えを出しておくべき、という意味ではなく、たとえ答えが出ていないにせよ、です。
つまり、
(エ)[ 「神」は【事実として】実際にいるか、いないか ]
が論点として残されるのは構わないし、むしろ当然であるが、それについて思考したはずなのだから、
(オ)「神はいるかいないかわからないと思う」
(カ)「神は知ることができるか、知ることができないか、わからないと思う」
のように、「自分がどちらだと思うのか?」という点が不明点として持ち越されているのは不自然だろう、ということです。
ちょっとややこしかったかもしれませんので、誤解を怖れずにもう少し補足すると次のようになります。
(ク)
「河童はいるかいないかわからない」と言う人は、その時点ですでに、「どちらかといえばいると思う」「どちらかといえばいないと思う」という思考をすでに体験しているはずだ。
そうした体験を明かさないまま、わからないと言うのは、河童を神格化しようとする意図があると言わざるを得ないのではないか、ということです。
ご回答をありがとうございます。
★ (ク)(引用を割愛します)
☆ 河童の例は ピッタリしなかったのだと思います。
と言うのは 文字通り《かは(川)わらは(童)》のことで 昔は
飢饉のときに食い扶持を減らすために 子どもの間引きをしました。
その子を 単純に 川に捨てた。そうすると あとでその川に寄っ
たときには 童となって浮かんでいたり泳いでいたりするようにま
ぼろしが見えた。そのことを言います。
もし由来がはっきりしないナゾの何かほかのものならどうか? そ
の事例については 分からない。ただし 何か経験事象としての由
来があるのではないかと思う。そういうふうに扱います。
★ 神格化
☆ は 河童の場合にかぎりません。何についてでもあり得ます。
そして ただそれだけのことです。人間が勝手におこなうという意
味です。思考と想像の産物としての・観念のみである神が出来上が
ります。アイドルとしての神と言ってもよいと思います。
★☆(ア) 《非知》は 確かに知り得るかも知れない
☆ これが《既知》になることはあり得ないのです。経験事象と非
経験の場との区別をきちんとしているからです。
★(イ)(ウ)
☆ 割愛します。
★(エ) ☆ 神は 《事実》つまり経験事象ではなく 非経験の
場として想定しています。それが 一般性を持つと考えます。
★(オ) 「神はいるかいないかわからない(非知)と思う」
☆ げんみつに言う場合には 《神の存在が分かるか分からないか
が分からない》と表現します。
★(カ) 非知は、「神は知ることができるか、知ることができな
いか、わからないと思う」となる。
☆ 《知り得たとも 知り得ないとも いまだに証明されていない》
とまづ知られます。
(カ)の後半については (エ)のコメントをどうぞ。
★(キ) 思考の対象として勝手に持ち出しておきながら ☆ そ
の思索の結果 《神は 思考や認識の対象になるか成らないかが分
からないナゾ》だと知り そう定義したことになります。
こんなところでしょうか。どうでしょう。
No.28
- 回答日時:
#26です。
>★ 仮に「神は不可知」と言う根拠をお求めであるなら、神=万能の
具現者とでも仮定して構わないと思いますが、それが既知となった段
階で、もはや万能を具現化していると言うことはできなくなるから、
のように言っても良いかもしれません。
☆ ですから その場合は 《神は不可知》という判断がまちがって
いたとなるのではないのですか?
:
極めて大事な点ですのでよく聞いていただきたいのですが、
神が既知となることはない。なぜなら万能の具現者として、そう呼ばれるのが「神」という存在なのだから、
と申し上げています。つまり、既知となった神はすでに神、つまり万能の具現者ではない。(ですよね?)
であるから、【「不可知」人知では知ることができないこと。と考えて良いと判断するのが妥当だろう、と思う】
と述べた次第。
こうした論理に基づくかぎりにおいて、非知という概念は全く必要ないわけです。仮に必要とするなら、それは、以前申し上げたとおり、【神に値打ちを付けるためだけ(#9)】としか思われない。
しかし、値打ちをつけたい人が手法としてそうした概念を導入することについて目くじらを立てるつもりはない、とも申し上げた。
他人の趣味にケチをつけるつもりはない、というわけです。
とはいえ、非知は既知となった場合も想定しているとするなら、これは、未知が既知になったにすぎないでしょう。
未知は単に未だ知られてないもの、という意味にすぎず、(結果的に)いつか知られること(既知)があるものも、(結果的に)いつまでも知られないままのもの(未知)も、どちらも対象にしているわけですから。
そうした中、「いつまでも知られないままのもの」と「(事前に)推測したり認識できた(bragelloneさん流に、証明された、と表現しても良いでしょう)と思うもの」に関しては、あえて不可知と分類しているのでしょう。
これで十分なはずですが、なお非知という概念が必要だとするなら、そこには、「不可知
と言っておきながら実は既知となるものだって可能性としてあるだろう」という考えが根底にあるように思います。
しかし、これは、不可知と認識しても良さそうだが、ひょっとすると、永遠に不可知のままではなく、やがて既知となる可能性も残しているようなものを非知と分類していることになる。
つまり、非知の論理は、「否定するなら、既知とは絶対にならない、ということを証明してみろ」という最終兵器を携えている。
しかし、重要なのは、むしろ、既知となる可能性もまた証明できない、という点ではないでしょうか。
そうしたものを不可知と呼んでいるはずで、敢えて抵抗する意味がよくわからない、ということになりそうです。
結局、非知とは、「否定するなら、既知とは絶対にならない、ということを証明してみろ」⇒「できないだろ?」⇒「だから、神は存在する、ということだって否定できないはずだ」と言いたいための【手法】としか、わたしには思えないわけです。
ご回答をありがとうございます。
ええっとですね。
★ とはいえ、非知は既知となった場合も想定しているとするなら、
これは、未知が既知になったにすぎないでしょう。
☆ 非知が既知となる場合は あり得ないと言いましたよ。
そして この場合は はこぶるさんが:
★ 〔「神は不可知」とした場合のその〕神が既知となることはな
い。なぜなら万能の具現者として、そう呼ばれるのが「神」という
存在なのだから、
☆ という事例ですよ。
つまり わたしが:
★ 非知は既知となった場合も想定している
☆ ことはありませんし 他方で:
★ それが既知となった段階で
☆ という事例は あなたの《神は不可知》の場合です。
不可知が既知となる場合・・・これはあります。
知り得ないという証明が間違っていたと分かったときです。
取りあえずは 不可知から未知になるわけですが その未知から既
知には成り得ます。だから 不可知が既知に成り得ます。
《知り得ないと認識した》なら 不可知とするという定義があいま
いなだけではないのですか?
No.26
- 回答日時:
#23です。
>★ あとは、単に、なぜ不可知と思うのか、という根拠の妥当性
を論点にすればいいのでは。
☆ 妥当な説明をまだお聞きしていません。
:
伝わっていると思っていましたが。
「不可知」人知では知ることができないこと。
と考えて良いと判断するのが妥当だろう、と思うからです。
たとえば、仮に「神は不可知」と言う根拠をお求めであるなら、神=万能の具現者とでも仮定して構わないと思いますが、それが既知となった段階で、もはや万能を具現化していると言うことはできなくなるから、のように言っても良いかもしれません。
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
と言う場合も同様で、「絶対的」なので、こうした摂理は「既知」とはなり得ないでしょう。この点に関しては、プロフィール欄で、
むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦(超弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦は何からできているのか、ということになるでしょう。
つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。
と述べている部分になるかと思います。
>わたしの不可知の定義については 見解の相違として触れられた
ままであり その妥当性についての批判が 聞かれません。
論点になるのか・ならないのか? どうでしょう。
:
★ 不可知で十分
☆ ただ《知り得ない》だけではなく 《知り得ないと知り得た(証明
された)》というふうにわたしは定義しますので 神についてはこの不
可知では 間に合わないとは考えます。(#9)
とおっしゃった点についてですね。
【これはもう単純でして、不可知だと認識した本人が決めた】(#21)と考えれば良いわけで、この点については、証明する=認識する、という意味に捉えれば済む、と申し上げているつもりです。(むろん、その認識が妥当か否かは問われるが)
★ (むろん、その認識が妥当か否かは問われるが)
☆ その妥当性を問うて明らかにする見解をどうぞ。というお話です。
ご回答をありがとうございます。
★ 仮に「神は不可知」と言う根拠をお求めであるなら、神=万能の
具現者とでも仮定して構わないと思いますが、それが既知となった段
階で、もはや万能を具現化していると言うことはできなくなるから、
のように言っても良いかもしれません。
☆ ですから その場合は 《神は不可知》という判断がまちがって
いたとなるのではないのですか?
★ 既知となった段階で
☆ 不可知ではなかった。――となるにすぎません。
非知なら それが既知となったり不可知となったりすることは あり
得ないわけです。
知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾと定義しているのですから。
知り得たという一面だけの認識があり得ませんし 知り得ないと証明
されたという一面だけの認識にもなりません。
《知り得るかも知れないし 知り得ないかも知れないのふたつの可能
性が 同時に両立する》からです。
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つづき。
命題 Aにおける《摂理》をめぐって それは経験事象に片足を入れている。
それゆえにも:
★★ (=あらゆる事象をバランスさせる力)
☆ といった説明が添えられています。つまり 《事象;バランスさせる》
というのは あくまで経験世界におけるものごとです。
つまり――《人智の及ばぬ》とはありますが・ですからこれは 非知では
なくむしろ不可知のものではないかと推測されますが その――《経験的
な力に起因して われわれは生まれた》と言っていることになるのでは?
だとすれば これは まづい。でしょうね。《非知なるナゾ》のままにし
ておくのが ひとつの手でしょう。派生的な見方として 摂理を持ち出す。
か?
でも 摂理は 扱いがやっかいです。世の中には どこにでも《自然本性
から外れた思いや考えも そしてその行動もが起きている》からです。思
案のしどころではないでしょうか。
生成原因ないし要するに神に《意志》はあるか?
神とわれとのタテの関係――非思考の庭なる動態――では 神に意志がある
と見ることは 自由。無いと見るのももちろん自由です。
われと他のわれとのヨコの関係――思考の緑野&感性の原野――では 神な
いしその信仰は 直接にカカハリを持ちません。
ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に
神についての感想やまた思想としてのお話です。神論や信仰論〔ましてや宗
教〕と 神や信仰とは 別です。
つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見て
いるとしても その神の意志は お呼びではないとなります。
フクシマは 神罰だといった物語にしかなりません。
神はわが人生の節々でその事態やそれにかかわるわれ自身をバランスさせて
くれていると 非思考の庭なる主観において思っていても 自由でしょうね。
神は――非知かどうかを問う前に――あくまで超経験・超自然です。
つまり もうそれだけでも 既知ではない。未知だと思っても 人智を超えて
いるからには 可知ではないと知られます。
では 不可知かと言うと 不可知だと証明されてはいないだけではなく 超経
験で人智を超えているからには 不可知だと証明される気遣いはないとなりま
す。これが 非知です。
○ 世界についての人間の認識のあり方 ~~~
経験事象について:
可知(知り得ると人は思っている)
既知(間違いだったと分かることもある)
未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)
非経験の場を想定して:
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○ カミ(普遍神)とわれ
【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)
☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
――自然本性にあってすでに――成ると想定。
○ われ
【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)
摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。
摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。
○ 摂理とは:
神 神 神
| | | タテ
(非思考) (非思考) (非思考): の :(信仰)
| | | 関係
| | |
われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)
神は:
★ 「既知となるか未知となるか知り得ないと思う」という思考(認識)を
する立場
☆ は 《神は 超経験だ》という常識にどのような根拠でさからうのか?
を明らかにして欲しいと思います。
初めに《非知》なら 可知(既知&未知)や不可知とはその初めから なじ
みません。
という手法です。
神は 既知だ(既知となりうる)や 未知だや あるいはそちらの定義では
未知と同じ内容となる不可知だといった判断は いったいどこから出て来る
のか? 不思議でなりません。
超経験だという前提を外していますし もしそれを問わないとしても 神が
既知だという人が 一般にその言っていることがみとめられたことはあるの
でしょうか?
いままでありえなかったことを どうしていま持ち出して来るのですか?
りゅぱんさん できましたら お願いがあります。
【Q:屁理屈と詭弁】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9732494.html
この質問への回答№20と№23とのやり取りについて どう思われますか?
非知をめぐっての議論です。
じつは そのあとわたしが応答する番なのですが 質問者からブロックされて
しまいました。
何かりゅぱんさんにも 言うことがあるとお思いでしたら そうなさってくだ
さいませんか?
☆☆(上記質問への回答№20=ぶらじぇろーぬ) ~~~~
水は 経験事象であり 水に溶けることも 同じくです。いまの仮定における
地の塩は 経験事象を超えているという想定です。
ですから 《霊なる人間が 水に溶ける》かどうかは どこかで推論や前提を
間違えたといった問題にはかかわりがないのです。
~~~~~
☆ ここが鍵であると思います。すみません。
(エ)★ 《不可知》というものは、《不可知と思う》のように定義せざる
を得ない、というのは論理的に真だと思っています
☆ でも この不可知という用語を当てているその対象は 大元のナゾなん
です。
《宇宙が存在する意味》つまり要するに神のことです。神は 不可知であり
それは 《不可知と思う》ということなんだと。
ところが この《宇宙が存在する》なるその意味つまり神は 《人智の及ば
ぬナゾ》なんです。
人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
まるのでしょう?
不可知の定義で 互いにどうしても違いが出るということ。これの
原因が分かりました。
経験事象と超経験とを区別することは おおむね成されていると思う
のですが どうもこれら二つの領域が連続している・・・とそちらで
は捉えられているのではないだろうか。ここです。
まづ 両者には絶対のへだたりがあります。
次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
て来る。
連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。
摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。
次のくだりをおぎないます。:
☆☆(№73お礼欄) ~~~~
br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
~~~~~~
☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。
時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。
言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
る・・・というズルイ見方です。