プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。

5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。

6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。

7. よって、

  「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
  せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。

8. この場合、

  「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
  たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
  ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

7. よって、

  「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?

9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?

9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。

9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。

10. (8)の B なる命題について:

10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?

10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。

11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?

11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。

12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか? 

12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?

質問者からの補足コメント

  • つづき。

    命題 Aにおける《摂理》をめぐって それは経験事象に片足を入れている。
    それゆえにも:
    ★★ (=あらゆる事象をバランスさせる力)
    ☆ といった説明が添えられています。つまり 《事象;バランスさせる》
    というのは あくまで経験世界におけるものごとです。

    つまり――《人智の及ばぬ》とはありますが・ですからこれは 非知では
    なくむしろ不可知のものではないかと推測されますが その――《経験的
    な力に起因して われわれは生まれた》と言っていることになるのでは?

    だとすれば これは まづい。でしょうね。《非知なるナゾ》のままにし
    ておくのが ひとつの手でしょう。派生的な見方として 摂理を持ち出す。
    か?

    でも 摂理は 扱いがやっかいです。世の中には どこにでも《自然本性
    から外れた思いや考えも そしてその行動もが起きている》からです。思
    案のしどころではないでしょうか。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/18 16:56
  • 生成原因ないし要するに神に《意志》はあるか?

    神とわれとのタテの関係――非思考の庭なる動態――では 神に意志がある
    と見ることは 自由。無いと見るのももちろん自由です。

    われと他のわれとのヨコの関係――思考の緑野&感性の原野――では 神な
    いしその信仰は 直接にカカハリを持ちません。

    ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に
    神についての感想やまた思想としてのお話です。神論や信仰論〔ましてや宗
    教〕と 神や信仰とは 別です。

    つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見て
    いるとしても その神の意志は お呼びではないとなります。

    フクシマは 神罰だといった物語にしかなりません。

    神はわが人生の節々でその事態やそれにかかわるわれ自身をバランスさせて
    くれていると 非思考の庭なる主観において思っていても 自由でしょうね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/24 09:30
  • 神は――非知かどうかを問う前に――あくまで超経験・超自然です。

    つまり もうそれだけでも 既知ではない。未知だと思っても 人智を超えて
    いるからには 可知ではないと知られます。

    では 不可知かと言うと 不可知だと証明されてはいないだけではなく 超経
    験で人智を超えているからには 不可知だと証明される気遣いはないとなりま
    す。これが 非知です。

    ○ 世界についての人間の認識のあり方 ~~~

      経験事象について:
         
        可知(知り得ると人は思っている)
          既知(間違いだったと分かることもある)
          未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

        不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

      非経験の場を想定して:
         
        非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      補足日時:2017/04/25 21:31
  • ○ カミ(普遍神)とわれ 

    【?(非知)】:非経験の場(絶対):カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【われ】:経験存在(相対):カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)



    ☆ カミの分有は 次のごとく 思考や感覚ではなく 非思考の庭なる信仰において
    ――自然本性にあってすでに――成ると想定。



    ○ われ 

    【信じる】:非思考の庭:梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    【考える】:思考の緑野:ここに 思想とすでに成った宗教のオシヘが入る
    【感じる】:感性の原野:ヒラメキ(まぼろし?)

      補足日時:2017/04/25 21:44
  • 摂理というのは 次のごとく《神とわれとのタテの関係(つまり信仰)》から派生
    した視点であり そこから導き出されたあとは 経験的な思考形式と成っている。

    摂理の内容として たとえば善因善果・悪因悪果のごとく因果応報説にまで概念化
    しているならそれは すでにヨコの関係にあって ふつうに思想の問題である。つ
    まり 神をあつかっているが 神からは離れている。思考なのだから。

    ○ 摂理とは:

      神          神          神
      |          |          |     タテ
     (非思考)      (非思考)      (非思考): の   :(信仰)
      |          |          |     関係
      |          |          |
     われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘ・摂理)

      補足日時:2017/04/25 21:53
  • 神は:
    ★ 「既知となるか未知となるか知り得ないと思う」という思考(認識)を
    する立場
    ☆ は 《神は 超経験だ》という常識にどのような根拠でさからうのか?
    を明らかにして欲しいと思います。

    初めに《非知》なら 可知(既知&未知)や不可知とはその初めから なじ
    みません。

    という手法です。

    神は 既知だ(既知となりうる)や 未知だや あるいはそちらの定義では
    未知と同じ内容となる不可知だといった判断は いったいどこから出て来る
    のか? 不思議でなりません。

    超経験だという前提を外していますし もしそれを問わないとしても 神が
    既知だという人が 一般にその言っていることがみとめられたことはあるの
    でしょうか?

    いままでありえなかったことを どうしていま持ち出して来るのですか?

    No.36の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/26 18:56
  • りゅぱんさん できましたら お願いがあります。

    【Q:屁理屈と詭弁】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9732494.html

    この質問への回答№20と№23とのやり取りについて どう思われますか?

    非知をめぐっての議論です。

    じつは そのあとわたしが応答する番なのですが 質問者からブロックされて
    しまいました。

    何かりゅぱんさんにも 言うことがあるとお思いでしたら そうなさってくだ
    さいませんか?

    ☆☆(上記質問への回答№20=ぶらじぇろーぬ) ~~~~
    水は 経験事象であり 水に溶けることも 同じくです。いまの仮定における
    地の塩は 経験事象を超えているという想定です。

    ですから 《霊なる人間が 水に溶ける》かどうかは どこかで推論や前提を
    間違えたといった問題にはかかわりがないのです。
    ~~~~~
    ☆ ここが鍵であると思います。すみません。

    No.49の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/29 05:50
  • (エ)★ 《不可知》というものは、《不可知と思う》のように定義せざる
    を得ない、というのは論理的に真だと思っています
    ☆ でも この不可知という用語を当てているその対象は 大元のナゾなん
    です。

    《宇宙が存在する意味》つまり要するに神のことです。神は 不可知であり
    それは 《不可知と思う》ということなんだと。

    ところが この《宇宙が存在する》なるその意味つまり神は 《人智の及ば
    ぬナゾ》なんです。

    人智の及ばぬものについて どうして《・・・と思う》ということが当ては
    まるのでしょう?

    No.65の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/30 19:13
  • 不可知の定義で 互いにどうしても違いが出るということ。これの
    原因が分かりました。

    経験事象と超経験とを区別することは おおむね成されていると思う
    のですが どうもこれら二つの領域が連続している・・・とそちらで
    は捉えられているのではないだろうか。ここです。

    まづ 両者には絶対のへだたりがあります。

    次に――人間の思わくとしてながら―― 絶対なる非経験の場は 経
    験世界を覆い包むと見られる。・・・ここから連続性があると思われ
    て来る。

    連続性は基本としてありません。地続きではありません。

    あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
    神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
    せん。神への甘えです。

    摂理や自然法は 神から――人間が忖度して――派生させて得る経験
    知であり 経験世界の側から神に投影するものではないわけです。

      補足日時:2017/05/01 08:22
  • 次のくだりをおぎないます。:

    ☆☆(№73お礼欄) ~~~~
    br-1: その〔《非経験の場なるナゾ》たる絶対から 相対世界へと何らかの
    ハタラキカケがあるという〕場合には・ただし このハタラキカケが具体的に
    どういうふうにおこなわれるのか。これは 分からないとなります。
    ~~~~~~
    ☆ これは モノ(質料)の自己運動にまかせている。

    時空間なる場――宇宙の全体――の《自主的な?》ウゴキにゆだねている。

    言いかえると 摂理としての法則性がある場合とそれが分からない場合とがあ
    る・・・というズルイ見方です。

      補足日時:2017/05/03 11:04

A 回答 (84件中21~30件)

#58です。



>それは 今回の(ア)の説明によって 《原因》と表現するのだと
明らかにされました。
皮肉を言ってよければ 《人智の及ばぬナゾ》ながら それはわれ
われ経験存在を生む《原因》であるとは人智が及んだとなります。

とはいえ、無=《原因》 という構図であることを前提に、おっしゃっているわけですから、その一方だけを取り上げて
☆人智が及んだとなります。
と断定してしまうのは、公平性を欠いてますね。
まあ、皮肉とおっしゃっているわけですから、論詰めするつもりはありませんが。

>ちなみに わたしの場合は 経験的・相対的な有無を超えて言葉と
しては《有る神》とも《無い神》とも呼べる絶対――つまり 非知
ですが――から 相対世界へ向けて何らかのハタラキカケがあった
と想定するところまでを 基本とします。
無からの創造( creatio ex nihilo )の無を 非知と採るわけです。
:
いや、これは理解しているつもりですよ。
何回か、そのように申し上げているはずです。
最近では#36で、
★この非知という概念は、現段階で何の想定もしていないような、つまり、「いつの日か思考の対象として想定されるかもしれないと推測されるような、現時点では何とも正体のわからない何ものか」を思考対象にする場合(に適用されるべき概念)
と述べているとおり。
☆無からの創造( creatio ex nihilo )の無
は、この
★「いつの日か思考の対象として想定されるかもしれないと推測されるような、現時点では何とも正体のわからない何ものか」
に該当しますから、それを非知と呼ぶことにやぶさかではない。
なので、
>それから――わたしの場合ですが―― 《人智の及ばぬ》非経験の
場については 非思考なんです。
思考に非ずと――おのぞみならば 思考と想像によって――捉えた。
ということは 思考を停止するしないとは関係のないことです。非
知ですよ。

とおっしゃるのも良くわかります。
しかし、「神は非知」には違和感がある、ということ。
なぜなら、「神は」と主題提起してしまっているわけですから、「神」がすでに思考対象として認識されていることになる。
認識対象となっているものに関して、「それは知に非ず」と言うのはいかがなものか・・・といったところでしょうかね。
ですから、
>《神とは何か? 神が存在するか? その答えがいづれであるにせ
よそれらの根拠》 についてそれは 《知り得るか知り得ないかが
知り得ないナゾ》だと言っています。

とおっしゃるのは、それは違うだろう、といった違和感を生じざるを得ないわけです。
非知という規定を批判する程度には 思考をおこなっています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 無=《原因》 という構図であることを前提に
☆ するとき 《無》という用語について 《原因》という・よりいっそう
経験事象にかかわる表現が当てられているからには 仮りの説明であるとは
言え すでに《人智の及ぶ範囲》に首をつっこんだ・・・とまでは言えると
いうことでしょうね。


非知をめぐって それは:
★ いつの日か思考の対象として想定されるかもしれない
☆ ということは あり得ないわけです。《経験世界ないし人智を 超えて
いるナゾ》のことだと定義しているからです。


★ しかし、「神は非知」には違和感がある、ということ。 / なぜなら、
「神は」と主題提起してしまっているわけですから、「神」がすでに思考対
象として認識されていることになる。
☆ 《人智の及ばぬ》という規定は 《人智の及ばぬナゾ》について人智で
思考し判断した結果です。

《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》という規定は やはり人智で
思考してそう定義しようと判断した結果です。

たとえ《人智の及ばぬナゾ》であっても 人間の言葉で表現すれば その表
現の指し示す先なるナゾ(つまり 指ではなく 指の指し示すその先のナゾ)
が互いに伝わると思っておこなうのが 《想定による仮説法》です。



言葉で表わすのですが 人智の及ばぬ神については 言葉をそのシルシとし
て用いています。シルシだけとして当てています。

言葉が概念として持つ意味内容そのものを 神の中身として対応させている
わけではないということです。

でも 意味内容を持つかぎりでその内容に応じて――神を扱うときにも――
人間は 思考しています。シルシを捉えシルシで思考しています。

神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。

けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。

超経験を扱う場合には つねにそうなります。非知と規定した場合には つ
ねにそうなります。

経験と非経験とを分けるというのは そういった表現の問題をも巻き込んで
います。

お礼日時:2017/04/30 18:28

#59です。



(ア)
>ここで 最後にのこる課題は この場合の《不可知》という規定は
どう根拠づけるか? だと思います。
仮説として想定するのか? となると 不可知をしっかりと定義し
なくてはいけません。《・・・と思う》では成り立ちません。

このように言い募る理由がどうしてもわかりませんね。
たとえば(経験事象の例で恐縮ですが意味はご理解いただけるでしょう)、
「海底には未知の部分がある」
「海の水が塩辛いのは既知である」
のように、未知・既知は事実として断定することができます。
《不可知》はそれができませんよね?
つまり、
「○○は不可知だ」
のような断定表現であっても、それは、あくまで、
「○○は不可知だ(と思う)」
という意味にしかならないでしょう?
☆《・・・と思う》では成り立ちません。
とおっしゃる意味がわかりません。

(イ)
☆ わづかに物言いが残るとすれば 《ナゾ》をどうして《法則》
と呼べるのか? だと思います。
☆そして(エ)の《権威づけ》に見られはしないかという問題にもつ
ながります。
☆《ナゾ》を 最高度に中立の言葉で表わしたほうがよいかとは思い
ます。神論には そういう一面があると考えます。

そういった側面があるのはたしかでしょうね。しかし、
★(摂理という表現を使うのは)「物理法則ではない法則」が絶対に無いとは証明できないため
と受け止めていただくことに特に矛盾があるとも思えませんし、あとは、「それにしても不作為の意図があるのではないか」と言われる場合に、それは邪推だと一蹴すれば良いだけなのか、あるいは、そういった指摘の可能性すらも予め除去しておくべきなのか、という問題になるのでしょう。
まあ、面倒なので、今のところ前者で十分と思っているのですけどね。

(ウ)
>現実的で むしろ最重要に属する問題群であるかと
も思われますが ぎゃくに理論としては いま進めているいくらか
の主題内容を さらに共通の理解が得られるところは得るべくして 
固めて行くということ・・・この作業が 早道になるかと考えます
が どうでしょう。

それは言わずもがなでしょう。
であればこそ、現に、こうして論議をしているわけです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(ア)★ 未知・既知は事実として断定することができます。《不可知》は
それができませんよね?
☆ 《と思う》と添えれば 万能です。哲学の議論にはなりませんが。

★ ~~~~~~~
「○○は不可知だ」
のような断定表現であっても、それは、あくまで、
「○○は不可知だ(と思う)」
という意味にしかならないでしょう?
~~~~~~~~
☆ なら 《未知》と言えば済みます。それなのに不可知を使うのは趣味の
問題です。

不可知だと思いこれを哲学として明らかにして理論づけたいとなれば 知り
得ないことを証明するというわけです。

哲学ではない用法をなぜ使いそれに固執するのか 不思議でなりません。
これはまだ ご説明に沿って 経験事象の話ですが。




(イ)《摂理》問題は そこに人間の願い・のぞみ・あるいは価値観が忍び
込んでいるのではないかと見られるからです。法則の大元 あるいは《大元
の大元》については中立性の概念をもとめて当てるべきです。

そうして属性として摂理を 派生させればよいわけです。

この行き方は ふつうのことなはずです。起こり得る不都合をあらかじめ除
去しておくためというよりも 定義のためのふつうの方法です。であるのに 
どうしてそれを避けるのかが不思議でなりません。




(ウ) 了解しました。

お礼日時:2017/04/30 17:59

#59です。


lupan344さん、懲りずにお付き合いいただき恐縮です。

>ただし、我々が認識出来ない法則である以上、それが、個々の我を区別しない法則とは断定できません。(個々を判断する法則は設定しうるからです)

たしかにそうでしょうね。
ただ、わたしの意味するところとは若干異なります。
「個々の我」を区別できた場合でも、仮にそれぞれが入れ替わったからといって、摂理には何ら差し支えないだろう、ということです。
なぜなら、
★(=あらゆる事象をバランスさせる力)
という設定であり、入れ替わったことによってバランスが取れなくなるわけではないからです。
仮に、取れなくなるという証明もできないだろう、とおっしゃるのであれば、それはもう見解の相違ということになるでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

敢えての横入りをひかえます。

お礼日時:2017/04/30 15:14

落ち着いてみると、no.61自身が意外に思うのだけれど、質問者のお願いが叶って良かったと思ってしまってすがすがしい気持ちになりました。

質問と関係ないことを述べました。すみません。

未知で不可知の具体例を挙げる。実在する人物、架空の人物で考える。
未知なもの。安倍総理大臣の頭髪の本数。頭髪の本数を数えれば何本なのかが分かり既知になる。ちょっと時間がたつと、抜けたり、生えたりしてわからなくなる。
未知で不可知なもの。小説『走れメロス』のメロスの頭髪の本数。調べられないのでわからない。ずーっと未知のまま。
既知なもの。マンガ『ドラゴンボール』のチャオズ(というキャラクター。帽子を取って髪の毛が1本であることを見せる描写がある。)の頭髪の本数。調べられないが、1本だとわかる。
実在の人物の頭髪と架空の人物の頭髪を同じに扱っていいのか?ってのが未知、不可知で物理法則がちがうかおなじか検証できないのでは?ということ相当にするかも。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ no.61自身が意外に思う
☆ これは 番号ちがいのようですが:
★ 質問者のお願いが叶って良かったと思ってしまってすがすがしい
気持ちになりました。
☆ のでしたら よかったことです。

おおむねおっしゃっているとおりなのでしょうが 非経験の場ないし
非知についても 把握していただけると ありがたいかなと思ったり
します。

お礼日時:2017/04/30 15:12

hakoburuさんへの補足です。


物理法則を生み出す法則?→摂理と言うことなんでしょうか?
この場合は、摂理は不可知とは言えると思います。
つまり、以下のような論理と言うことですかね?

摂理=物理法則を生み出す法則は不可知である。
          ↓
我々は、摂理により生み出された、物理法則により、生まれた
          ↓
摂理にとっては、我々は、区別できない←(※1)
          ↓
したがって、我々の個々の「我」は、摂理にとって無意味である。←(※2)

ここでは、※1、※2は、前提から導き出される事ではありません。(前提は、真と考えても、そこから導き出されていないので、検証不可能な事と言うことです)
※1、※2は、摂理が、最低限、人類の個々を判断する事は無いとしなければ成り立ちません。
摂理が、法則だけであれば、これは意思を持たないでしょうから、判断能力は無いと考える事はできます。
ただし、我々が認識出来ない法則である以上、それが、個々の我を区別しない法則とは断定できません。(個々を判断する法則は設定しうるからです)
これは、その法則が不可知である事から、推測はできない事です。(不可知ですから、どのような法則かはわからないです)
この段階で不可知なものを可知なものに変換しています。(人間を区別しない法則として、規定しています)
これが、成り立つかどうかを検証しないといけないのでは無いでしょうか?
ちなみに、これは、不可知だけで、導かれる、論理の矛盾です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《法》と言った場合――神の定義に用いた場合―― やはりやっかいになる
でしょうね。


《大元の大元》なるナゾの法。

経験世界にはたらく――可知だと見られる――法則。

その法則を読んだという内容は いかに? という見解の問題。




つまり言いかえると 全体として:
 
非知なるナゾと経験存在なるわれとのカカハリは如何に? という問題。

カカハリは無い。あっても おれは問わない。・・・と言う《無い神》派をど
う扱うか?

つまり 《有る神》派をも合わせてそれらを 神論および信仰論そして 現実
としての世界観において どのように位置づけるか? の問題。



そういった広義の世界体系 ないし 広義の――最広義の――現実論を理論づ
けることによって 《われとなんぢとの関係および交通――または 我と彼と
の関係――》をやはり理論的に明らかにしてゆけるのではないか・・・と思っ
ています。




神の法を前提に置くと 人間の自然本性には 自然法がそなわっているという
理論(仮説)が みちびかれ さらに社会にあっては 人定法(いわゆる法律)
の取り決めにつながっているといった見解が 提出されました。うんぬん。

お礼日時:2017/04/30 13:52

#54のlupan344さんご投稿にまだ応じていなかったので、もういちどおじゃまします。



(ア)
>物理法則がある理由は不可知とは言えます。
「摂理」が意味するのは、物理法則がある理由もしくは、原因ですよね?
これは、あるかどうかは、不可知だからわからないですよ。

個人的には、「摂理=物理法則」と言ってよいと思っていますが、一応、「摂理=物理法則を含む法則」といった建て付けになっていると思います。
摂理の正体は不可知ですが、摂理が存在すること自体は可知と言いますか、bragelloneさんおっしゃるところの「経験事象」ということです。
>「バランスする力」が不可知なんじゃなくて、「バランスする力が存在する意味」が不可知なんでしょう?

これはまったくその通りです。
「バランスする力の正体」が不可知、のように言っても良いでしょう。
「バランスする力」自体は、太陽の位置が地球の自転につれて変わるなどのことを確認できるわけですから可知、という理屈です。

(イ)
>バランスする力=物理法則→既知
(バランスする力=物理法則)が存在する意味→不可知
こういう事じゃないんですか?

はい、これもまったくその通りですし、そのように申し上げているはずです。(矛盾したことを記しているようなら、その箇所をぜひご指摘ください)
ここは、bragelloneさん用として丁重に保管させていただきましょう。

(ウ)
>我々が存在するのは、物理現象の結果として既知ですよ。

これもそのとおりですね。
>物理法則が存在する意味が不可知だから、その意味(原因)としての「摂理」がさらに存在するとは言えないですよ。

とおっしゃる点については、(ア)で前述いたしましたように、
★「摂理=物理法則を含む法則」あるいは「摂理=物理法則」
のように捉えております。
それはさておくとしても、
☆物理法則が存在する意味が不可知
であるなら、
☆その意味(原因)としての「摂理」がさらに存在する
ことになりませんかねえ。無論、
「摂理」
 2 キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。
ではなく、
 1 自然界を支配している法則。「自然の―」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/124847/meaning/m …
という意味でです。
物理法則が存在する原因が [ 自然界を支配している法則 ]にあることは否めないように思うのですが。

(エ)
>「摂理」も、もしかして、権威づけの為の事じゃないですか?(そのようなものの存在は不可知なんですよね?)

「摂理=物理法則を含む法則」と捉えているのは、(結果的にそうなる、と言われればそれまでなのですが)権威づけというわけではなく、あくまで「物理法則ではない法則」が絶対に無いとは証明できないためと受け止めていただければ、と思います。

(オ)
>普通に、理由はわからないけど、人類と言う種に属している事だけじゃ、駄目なんでしょうか?
その方が、人類を規定する存在自体を考えなくて良いから、楽だと思いますよ。
どうしても、「摂理」が必要ですか?

必要だと思います。
その理由としては、基本的に、人間は論理的思考を是とするアプリオリな属性を備えているように思うからです。
たとえば、
・同じ人類だから仲良くしよう。
と言ったとしても、同じ人類だからといってなぜ仲良くする必要があるのか?という点に関する論理的な納得が無ければ、ほんの少しのきっかけで [ 自我としてのこの我 ] が我が物顔で出てくる結果になるはずです。
・人類みな兄弟、が事実だとしても、だからといって仲良くするいわれはないはずだ、という考えにいたっても何の不思議もないでしょう。

「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

という命題を立てることで(また、その命題が論理的にも真であるはずだ、ということは縷々述べてきたわけですが)、はじめて、

「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、」

といった論理的納得が得られるだろう、と。
すると、

[ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

ことも素直に納得できるのではないか、というわけです。
であるなら、結果として、

「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という結論は、自然に身についたものとして納得が得られやすいのではないだろうか。
まあ、大体、こういった期待があるわけです。
とはいえ、以前、おっしゃっていただいたように、

☆問題なのは、個々の生存に関わる利害は、必ず存在すると言う事ですよ。
これを解決するには、どうするかを考える必要はあると思います。
ただ、それは、哲学だけでは、解決出来ないでしょう。(哲学だけでは、飢えをしのぐことは困難だからです)(#19)

という点や、または、rupin_the_345thさんがおっしゃるような、
☆☆質問者の作った極論はどうして弱点なの?(#42)
といった疑問について考えることが重要になってくると思っています。
つまり、今までの論議はあくまで総論であって、実践に生かすためには、各論に踏み込む必要がある。
[ 自我としてのこの我 ] と[ 人類の一員としての我 ] のせめぎ合いが、個々の内面で葛藤として、そして他者との論議においては見解の相違として立ち現れることは必然なわけですが、その際のバックグラウンドとして、こうした命題があることを(ある程度の確信をもって)自覚できるか否か、は案外重要な意味を持つような気がしています。
たなざらしにされていた、そうした問題に、今回、bragelloneさんが日を当ててくれたわけで、有難いことだと思っている次第。
まあ、日を当てられたからといって必ずしも起きるとは限りませんが、どこかで誰かが気づいてくれる可能性だってあるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしの話に関連するところに触れて 議論のさらに進むことを期
待します。

(ア) ★ 摂理の正体は不可知ですが、摂理が存在すること自体
は可知と言いますか、bragelloneさんおっしゃるところの「経験事
象」ということです。
☆ 余計なことを言うならば 議論はすすんだと受け留めています。

ここで 最後にのこる課題は この場合の《不可知》という規定は
どう根拠づけるか? だと思います。

仮説として想定するのか? となると 不可知をしっかりと定義し
なくてはいけません。《・・・と思う》では成り立ちません。




(ウ)★ 物理法則が存在する原因が [ 自然界を支配している法
則 ]にあることは否めない
☆ わづかに物言いが残るとすれば 《ナゾ》をどうして《法則》
と呼べるのか? だと思います。

《ダルマ=法》や《神の法(永久法)》という定義例が じつはあ
るのですが それでも一応考えます。

細かくは《法》と言ってしまうと 《神は愛なり》という属性の表
現がそうであるように 《愛》なり《法》なりの言葉をとおしてす
でに人びとはそのイメージや概念を探して求め得た・・・と思って
しまうことがあるからです。

そして(エ)の《権威づけ》に見られはしないかという問題にもつ
ながります。

《ナゾ》を 最高度に中立の言葉で表わしたほうがよいかとは思い
ます。神論には そういう一面があると考えます。




あとはですね 現実的で むしろ最重要に属する問題群であるかと
も思われますが ぎゃくに理論としては いま進めているいくらか
の主題内容を さらに共通の理解が得られるところは得るべくして 
固めて行くということ・・・この作業が 早道になるかと考えます
が どうでしょう。

お礼日時:2017/04/29 20:57

#51です。



>ただちに問題なのは 《無から生じた》とき その《無から》という情況にあっ
て《無》以外の何らかのチカラがあったと想定するか?

「から」
 1 動作・作用の起点を表す。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/45491/meaning/m1 …
という用法に解釈すると、たしかに、そうした懸念が生じるのもわかります。その場合は、
 4 材料、構成要素を表す。「米―酒ができる」
という用法、つまり、《無から生じた》を《無が生じせしめた》といった意味に捉えていただくこともできそうです。
まあ、表現が曖昧と言われればそれまでですが、そもそも、《無から生じた》と言ってるのですから、そうした状況で、
☆《無》以外の何らかのチカラがあったと想定する
のは、あり得ない仮定じゃないですかね。いずれにせよ、おかしな論理であるかどうか、を論じているわけなので、
>結論:★ おかしな論理 ☆ 

というご見解を述べられたこと自体には感謝いたしますが、その根拠としては、まだ弱いという印象を受けます。
以下は、#52、#54の lupan344さんのご投稿に応ずる形となります。

(ア)
>不可知=不可知=不可知では、証明にならないと言うのは、理由があるかないかがわからないのに、理由の存在を前提にしていると言う事です。
原因=理由を最初に想定しています。(原因はあっても、それは理由ではありません)
>「原因=理由」を見えない前提として、論じているから、成り立っていないと回答したわけです。

おっしゃることはよくわかります。
「理由」
3 哲学で、論理的関係においては結論に対する前提、実在的関係においては結果に対する原因。根拠。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/231811/meaning/m …
なわけで、一応「原因」という意味もあるようですが、実在的関係について論じていると言えるかも微妙ですし、何より、[ 結論に対する前提 ] と受け止められるのが一般的なのはたしかで、
「原因」
ある物事や、ある状態・変化を引き起こすもとになること。また、その事柄。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/69163/meaning/m1 …
を採用するほうが趣旨が伝わりやすいのは間違いなさそうです。
ご指摘にもとづき原文のプロフィール内容で、「理由」を「原因」に修正改訂させていただいた次第。
ありがとうございました。

(イ)
>宇宙が無から生まれたと考えるならば、宇宙が生まれる前からならば、無から生じたと言えるのかもしれませんが、宇宙が無から生まれたとは、検証されていません。(宗教も科学も哲学も現在の主流では、無から生じたとはしていません)

なるほど、そんなもんですか。
まあ、たしかに「検証」は難しそうですね。
しかし、素人かんがえでしょうが、「有」から生まれたとは少なくとも思えません。
なぜなら、有から生まれたと仮定した場合、では、その有は何から生まれたのか、という疑問が永遠に付き纏わざるを得ないからです。
無から生まれたという検証はできないにせよ、そう捉えるしかないのではないか、ということ。
有か無かは、有神論・無神論につながるような気もしますが、あとは選択の問題になるのかもしれません。

また、回答欄冒頭近くでも触れたことですが、「から」について、
 4 材料、構成要素を表す。「米―酒ができる」
という用法、つまり、《無から生じた》を《無が生じせしめた》といった意味に捉えていただくなら、
「生まれる」が、
 2 新しく作り出されて、世に出る。物事が新たにできる。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/20391/meaning/m1 …
という意味である以上、「新しく作り出される」のですから、生まれる前は無であったと言わざるをえないのではないでしょうか。
この場合は「大元の大元」ですから、「チーズは牛乳から作られる」といった事例とは区別が必要にはなりますが。

(ウ)
a.
>「理由に合理的な説明を与えれば、摂理と呼べる法則が不可知なものとして存在すると言えるであろう」

上記の論理を科学者が考えたら、こうなります。
「人類が生まれた原因は、科学的には解明できない事=不可知である」
        ↓
「したがって、科学としては、この事に関しては何も言えない」
:
しかし、これは、
「科学的には解明できない事=不可知である という原因によって人類は生まれた」
と言ってることに違いはありませんよね。
わたしとしては、それで十分、という気がします。
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
を定理として認めていることになりますので。

「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
と続いてもらいたいところですが、科学者はそこまでは言わない、ということですね。
このように言えるかどうかは、見解の相違ということになるのでしょう。

b.
>同様に神学者ならば、以下のとおりでしょう。

「人類は、「神」によって創造された」

でしょうね。
彼らにとって
☆不可知なものとして存在する
☆摂理と呼べる法則
自体、神が作ったものだと前提するところからすべてを考えるのでしょうから。
つまり、神が存在するとする根拠については、最初から思考停止している。
bragelloneさんが提唱されているところの「非知」という概念なんかも、これに近いようなことを言ってるような気がするわけですけどね。

(エ)
>回答では、特に「非知」は、問題にしていませんよ。

わたしの勘違いということですね。
了解しました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

№51関連:
★ 《無から生じた》を《無が生じせしめた》といった意味
☆ ということは:

・『我々は無から生じたわけですから、何らかの力が関与しないで
生まれてくるはずがない』
=『我々は無から生じたわけですから、無という力に拠らざるして
生まれてくるはずがない』

☆ ということですね。同語反復ではありますが 創造の問いにつ
いてひとつの回答であろうと思います。

ということは あとは 《無》とは何か? になると思います。




それは 今回の(ア)の説明によって 《原因》と表現するのだと
明らかにされました。

皮肉を言ってよければ 《人智の及ばぬナゾ》ながら それはわれ
われ経験存在を生む《原因》であるとは人智が及んだとなります。



ちなみに わたしの場合は 経験的・相対的な有無を超えて言葉と
しては《有る神》とも《無い神》とも呼べる絶対――つまり 非知
ですが――から 相対世界へ向けて何らかのハタラキカケがあった
と想定するところまでを 基本とします。

無からの創造( creatio ex nihilo )の無を 非知と採るわけです。




(ウ)b. いわゆる神学者たちは: ★ 神が存在するとする根拠
については、最初から思考停止している。
☆ 神学者は 《不可知》と見なしているのだそうですよ。


それから――わたしの場合ですが―― 《人智の及ばぬ》非経験の
場については 非思考なんです。

思考に非ずと――おのぞみならば 思考と想像によって――捉えた。

ということは 思考を停止するしないとは関係のないことです。非
知ですよ。

ぎゃくに 非知ならば それをいわゆる第一原因と捉える見解もそ
こ(非知)にそのままふくみます。《無原因》と捉える見解もあり
えます。



《神とは何か? 神が存在するか? その答えがいづれであるにせ
よそれらの根拠》 についてそれは 《知り得るか知り得ないかが
知り得ないナゾ》だと言っています。

非知という規定をする程度には 思考をおこなっています。

お礼日時:2017/04/29 20:24

#50です。



(ア)
★ 根拠は何?と聞かれて、「だってみんなが言ってるじゃん」
といって済ましているのは、適切とは思えない。
☆☆(№40お礼欄)(ア) 仮説法(アブダクション)の場合
には 仮説した限りで推論の前提となり得ます。

そんなことはわかってますよ。

神について論議に際しても、「だってみんなが言ってるじゃん」を仮説とすることが適切だとおっしゃるんですね?

と聞いているのです。
なぜ、そこままで質問をはぐらかそうとするんですかねえ。。。???
色々おっしゃりたいとは思いますが、まず、イエスノーで答えてからにしていただけませんかね。

(イ)
★ 《不可知》という事実は存在しません。なぜなら、《不可知》
と言う場合、《不可知》と思う、という意味以上でも以下でもな
いからです。
☆ ですから そう思わないという場合には このA・B・C命題
の取り扱いは おしまいとなります。

☆おしまいとなります。
とおっしゃる前に、
☆ どのように証明したのですか? それとも証明は要らないので
すか? 自分がそう思えば不可知なのですか?
と詰問した責任をとるのがマナーじゃないですかね。
つまり、「いや、やはり私はそう思わない」と明言すべきでしょう。
これは「見解の相違」と判断したことを意味するわけで、そこで大団円を迎えることが可能になるわけですが、
☆おしまいとなります。
だけでは、いかにもずるい逃げをうったとも受け取られかねませんよ。
ご自身の信用にも関わってくるでしょう。
後になって、いや、別にあなたの言ってることを否定したわけじゃない、と言い訳できる余地を残した表現になっているわけですから。
どうなんですか?はっきりしましょうよ。

(ウ)
a.  ☆☆ 論理的事実は 人智が及んでいるのに どうして《人
智の及ばぬ》というナゾ(大元の大元)に用いるのですか? ま
たは ナゾが既知となった事例を挙げてください。
☆ 大元の大元は 人智が及ぶんですか 及ばないんですか?
花の送り手が未知なことが どうして大元の大元の事例になるの
ですか? 花うんぬんは 人智の及ぶ経験事象です。

☆ 大元の大元は 人智が及ぶんですか 及ばないんですか?
とのお尋ねですが、正体がわからないからこそ「大元の大元」です。
なぜなら、わかった時点で、「じゃあ、その元は何?」となることは明らかだから。
つまり、
「大元の大元」の正体には人智が及ばない。
しかし、
「大元の大元」が存在している(有る)という点に関しては人智が及ぶ。
のように表現できるでしょう。
因みに、「大元の大元=花の贈り手」と言い換えるほうがわかりやすいかと思ったのですが、たしかに、
☆花うんぬんは 人智の及ぶ経験事象です。
からね。
そこに拘るなら確かに適切な例ではなかったと言えますので、それなら申し訳ないことです。

b. ★ 全員が認めるものでなければ、それは整合性のない理論
だ、という意味になってしまいますが
☆ 成りません。
☆☆(№43お礼欄) 整合性のある理論は 少なくとも《同好
会》だけに通じる話ではないということです。
☆ あなたは 同好の士だけに通じる話は哲学としてダメだとわ
たしが言うと では 漏れなく全員に通じる話でなくてはダメな
んですねと応じたわけです。

なるほど、
☆少なくとも
ですからね。
わたしの誤解があったことは認めます。つまり、

同好の士だけに通じる話は哲学としてダメで、(幾人かの)同好の士以外にも通じる話でなくては整合性があるとは言えない。

ということですね。
しかし、それもまた奇異な論理ではないでしょうか。
「通じる」というのは別に未来形ではなく、あくまで現況を意味しているわけで、『(幾人かの)同好の士以外』に通じている状況がある時点で、「その同好の士以外=同好の士」と認識してよいことになるはずですから。
つまり、
★(幾人かの)同好の士以外にも通じる話でなくては
という条件を付けること自体に意味がないだろう、ということ。
世の中には「同好の士」か「同好の士以外」以外にはいない、と捉えたとしても、
>整合性のある理論というものをめぐって その理論の話が通じるのが全員か無(実際には少数)かという二分法しかないというのは 哲学の見解をなさない。

ということにはならないんじゃないですかね。

(エ)
>★ 自分の見解を押し付ける趣味
☆ ではありません。共同主観――これが 理論や見解の一般性
ということですが――は 実質的に人びと一般がみとめていると
いうことで成り立ちます。
少数の反対派のいることを実際には 前提しています。

☆実質的に人びと一般がみとめている
ようなこと、に関して、果たして(自分自身が認めているようなことも含め)それは本当だったろうか?という考察をするところから哲学というものは発するのではないかと思っていましたが、違ってましたかね。
それぞれが、そう認めるところについて、それぞれの根拠を見解として述べ合い、これ以上根拠を挙げることは難しい、あるいは、相手の言っている意味がわからない、となる地点まで論議を進める。
その時点で「見解の相違」という大団円が成立するのだと思っています。
であるにも拘わらず、さらに推し進めようとするなら、それは
★ 自分の見解を押し付ける趣味
ということにならざるを得ず、しかし私にそういった趣味はない、と申し上げている箇所です。
何か誤解があるとまずいので念のため、このように申し添えておきます。
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この回答へのお礼

謝謝。

(ア)★ そんなことはわかってますよ。
☆ ぢゃあ 適切だとも分かっていて なぜ訊くんですか?

★ 神について論議に際しても、「だってみんなが言ってるじゃん」
を仮説とすることが適切だとおっしゃるん
☆ ですよ。《超経験》なる常識は初めから神についての議論です。

(イ)☆☆ おしまいとなります。
☆ は おしまいと成るのです。あなたの《不可知》の定義が そ
のように《不可知と思う》というのでは ということです。

この場合 ほかには問題はありません。
☆☆ どのように証明したのですか? それとも証明は要らないの
ですか? 自分がそう思えば不可知なのですか?
☆ と尋ねることによって 《自分で 不可知だと思う》という定
義だと判明したのです。

(ウ)a.  ☆☆ または ナゾ(大元の大元)が既知となった事例
を挙げてください。
☆ この問いにはまだ答えてもらっていません。

ナゾは《不可知と思う》と定義するゆえに 《思わなければ 既知
にもなり得る》とまでは 判明しています。ですが その事例を明
らかにしてください。

b. ★ 同好の士だけに通じる話は哲学としてダメで、(幾人かの)
同好の士以外にも通じる話でなくては整合性があるとは言えない。
/ ということですね。
☆ この問いの論理だけの帰結としては そうもなります。ですが
(ア)で問うていることを考え合わせることは おのづとすでに要
請されています。

前提となる用語の定義において 仮説をおこなうとき《一般にみと
められている常識》にもとづきそうする。そういう仮説なら 哲学
として通る。・・・と言っているのですから ただ単に《(幾人か
の)同好の士以外にも通じる話》であるだけではなく 実質的に一
般性のある話だということは すでに伝えてあるところなのです。

(エ)☆☆《実質的に人びと一般がみとめている》 ★ようなこと、
に関して、果たして[・・・]それは本当だったろうか?という考察
をするところから哲学というものは発するのではないか。
☆ いまの場合は 《神は超経験》という話を前提にするというこ
とです。

もしその一般性をうたがうときには その批判をおこなえばよいわ
けです。

その《考察》をあなたの場合は 《不可知と思う》のように定義す
ることによって 回避しているのです。

お礼日時:2017/04/29 18:27

お礼ありがとうございます。


科学者のほとんどが不可知論者と言うのは、ちょっと表現がまずかったですね。
「科学者は、科学者の立場としては、不可知論者である必要がある。」が、正しい表現です。
科学者にも、不可知論者で無い人もいるでしょうが、科学者の立場としては、そのような発言は出来ない(科学のルールから外れてしまう)と言う事です。
神学も、不可知論なので、神学者も不可知論者となります。
したがって、少なくとも「無神論者」では無いわけですが、神の実在を問わないと意味では、その実在に対して、無思考であるとは言えるでしょう。
非経験は、事象としては存在しませんから、非経験事象は間違いです。
訂正いたします。
非経験は、経験事象に含まれないものと言う事です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 非経験は、経験事象に含まれないものと言う事です。
☆ 超えている ですね。(しつこくさせてもらっています)。

★ 神学も、不可知論なので、神学者も不可知論者となります。
したがって、少なくとも「無神論者」では無いわけですが、神
の実在を問わないと意味では、その実在に対して、無思考であ
るとは言えるでしょう。
☆ 従来世間で言われているいわゆる無神論では 受洗者たち
は ないでしょうね。

なおもしつこく 《無い神》派と同じような思考形式を持ち得
るし それは 《有る神》派であるのに そうなるといった事
態なのではないか。と思いました。



★ 科学者にも、不可知論者で無い人もいるでしょうが、科学
者の立場としては、そのような発言は出来ない(科学のルール
から外れてしまう)と言う事です。
☆ エッセーでも ご法度なんでしょうか。どこかでちらっと
自分の神観ないし信仰のことを漏らすことなど ないのですか
ね。(理論じょうは あり得るでしょうね)。




あぁ りゅぱんさん 【Q:屁理屈と詭弁】のほうへ投稿してく
ださって まことにありがとうございます。

わたしの意図をじゅうぶん汲んでいただいた上 そのことが決
して《買収》でもなんでもなく まったく第三者の目と立ち場
で議論されていて 完璧に近い独立弁護者の姿を見る思いでし
た。ありがとうございます。

お礼日時:2017/04/29 12:56

no.49への補足コメントに腹が立った。

どういう理由でブロックされたのか説明しないのはどうしてなの?どうして質問者はno.49にその要求ができるの?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ どういう理由でブロックされたのか説明しないのはどうしてなの?
☆ ブロックした理由は した本人が或る程度いくつかの《お礼欄》に
書いています。

それ以上のことを された側として 言おうとは思いません。


★ どうして質問者はno.49にその要求ができるの?
☆ 哲学は 知識の問題よりも 判断力の問題なんです。常識というの
も そういうことであって どれだけ知識が豊富であるかは 基本的に
は 関係ありません。

つまり 常識なる判断力を互いに共有しているという確信が得られれば
――そこまで互いに対話のやり取りを積み重ねて行けば―― あとは信
頼関係が芽生えます。

わたしは その学的信頼関係にあまえたということです。

《要求ができる》のかといった問いの立て方は わたしには入って来ま
せん。

いや こういうことだと さらにわたしに分からせたいと思うなら そ
のようにどうぞ。

お礼日時:2017/04/29 12:43
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