映画のエンドロール観る派?観ない派?

できるならば、どの様に生きたいですか。

A 回答 (19件中1~10件)

毛色の変わったものをと思って。



わたしは自己顕示欲が ことのほか・人一倍つよいという定評が
あります。とおことわりしつつ。

どこかに書いてあることですけれど 寡婦とみなしごが ふつう
に生きられる世の中に自分もいたい。

それが実現するように生きたい。です。
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この回答へのお礼

ふむ。社会改革ですね。弱いものが割りをくう世の中は、つまらないですね。強いものの足を引っ張りたいわけではないですが、つまり自分の能力を発揮できる人はしてもらったら良いですが、弱者はどうなろうと知ったことじゃないという社会は二層化して、やがて人間性を失ってしまう。

お礼日時:2017/05/27 21:14

人間性から遊離しないで自然体で生きることができたらいいですね。

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この回答へのお礼

自然体、わかります。きっと無駄な力が抜けてて心地良んでしょうね。
自然というのは厳しくもありますが、人としての自然体と、野生とは違いますから、人としての自然体でいれたらいいですね。

お礼日時:2017/05/27 22:46

強いて言えば、そんな疑問が湧かない生き方かな。

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この回答へのお礼

お腹いっぱいの時に、食べ物の事など考えられない、みたいな感じですね。

お礼日時:2017/05/26 23:54

#14です。



>人間は今しか生きれないのは一つの事実ですが、私は過去も未来も共に生きているような気がしています。過去の蓄積や未来の可能性、それらも生だと思えるのです。

そうですね。
あながち否定はできません。
そもそも、『人生とは、ただ「今この時」のことだ。』などと敢えて言わなければならない、ということ自体、そのように思うことの難しさを自ら暴露していることになるわけでして。
ただ、『過去の蓄積】について、これは、「記憶の蓄積」とも言えると思うのです。
記憶の蓄積は海馬(短期記憶)や大脳皮質(長期記憶)によって為されると言われているわけですが、いわゆる無意識的記憶は後者に該当すると言って良いでしょう。
いずれにせよ、私達は、こうした記憶の領域から逃れることが難しい脳の仕組みになっている。
しかし、そうした記憶が、「今この時」に何らかの選択を迫らる際の枷になる必要はない、ということです。
なぜなら、わたしたちは過去を生きることはできないのだから。
どちらが正しいということではないのですが、こういう視点も「論理的」には成立する、ということは言えそうです。
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この回答へのお礼

なるほど、納得です。私も反論したいわけではないので、考え方については仰っていただいたならその分だけふむふむと思って受け取らせていただいてます。
この、生きている時間感覚ですが、確かに今にフォーカスした方が鮮明に覚えるようです。日の当たっている時間が今であり、陰になっている時間が過去や未来と発想する事もできるなと思えました。

お礼日時:2017/05/26 23:53

#14です。



#13さんへの横レス、ご許可願います。(事後承認になっちゃいますが、一応)
>「道」ってなんでしょう?

それがわからないので「聞かば」という仮定形なわけですが、「可能性」といった辺りがキーワードになるような気もしていますね。
本来、存在の仕方は人それぞれで良いはずなのですが、何らかの思惑が錯綜するのが人の世の常。
それが一概に良くないと決めつけることはできず、むしろ、可能性を広げるためには必要ということもあるでしょう。
反面、可能性をつぶしていることもまた事実と言わざるを得ない。
端的に言うなら、「何らかの可能性を広げるためにつぶされるある可能性」を最小限に食い止めるための所作、とでも言いますか、およそ、そういったものがわかれば、それを道と呼ぶことができるかもしれないな、という程度には思っている次第です。
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この回答へのお礼

どうぞご自由にお使いください。

お礼日時:2017/05/26 22:27

#10です。



>私はできるなら、朝に道を聞いたなら、やったぜ!と思って長く健やかに生きたいですね。

いや、たしかに、実際に知ってしまったら、わたしもそう思うはず。
あくまで、それほど知りたい、といった意味程度に受け止めていただければ。
少なくとも、
>一日清らかに生きるほうが、百年汚れて生きるよりも良い

といった潔い生き方は、わたし向きではないようです。

人生とは過去でも未来でもない。
人生とは、ただ「今この時」のことだ。
であるなら、「今この時」だけを大事にするがいい。
生きようとする「今この時」が、過去によって変えられるということはあり得ないのである。

特に関連性はありませんが、誰かが言っていたような、こんなことを、ふと思い出しました。
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この回答へのお礼

なるほど。今この時、というのはしばしば生き方の啓蒙と言うか、哲学、禅でも出てきますよね。人間は今しか生きれないのは一つの事実ですが、私は過去も未来も共に生きているような気がしています。過去の蓄積や未来の可能性、それらも生だと思えるのです。賢人たちの教えに反する思いかもしれませんが。

一日清らかに・・・の話はたしかに簡単ではないですよね。私もとても潔いと思います。それでいいのか?どれだけ無欲なんだと。

お礼日時:2017/05/26 22:27

No.10のハコブルサンの回答。



ハコブルさんは、このサイトで最も信頼している方ですが、

ハコブルサンの言う「道」ってなんでしょう?
高村光太郎の「道程」的な意味で、おのが道、というような意味でしょうか?
求道者という言葉がありますが、彼が求めているのはなにか普遍的なものなのでしょうか?
それともコルトレーンのような「己の演奏」というような意味での独自性の追求でしょうか?

失礼しました。
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もうわたしの年(53歳)になると、どういう最後を迎えたいか?という問いの方がしっくりします。


出来れば人間が人間として扱われている国で死にたい。ということになると結局ヨーロッパか。
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この回答へのお礼

53という年はそういう年なんでしょうか、まだ先のある年齢かと思いますが、体感的には人生の折り返しというのは20歳という説もあり、それから考えればそうなのかもしれません。
最近のヨーロッパは、過去の悪行の報いか知りませんが、テロに遭っていることもあり、人間が人間として扱われなくなりつつなっているのかもしれません。
こないだ京都に行ったら、おそらくヨーロッパ人と思われる若者が、明らかにアジア人を差別するような態度を取っていました。人真似をしてからかうようなことです。ああ、所詮金髪野郎(女性でしたが)もこの程度かと思いました。北米の人間かもしれませんけど。

人は人を蔑むことがままありますが、そういうのを見ても動じないでいたいですね。

お礼日時:2017/05/26 22:22

自分が一番やりたいことを自由にやって生きて、死にたい。



とは言っても、自分の中ではずいぶん練りましたけど。

理想(無限)の中で現実(有限)に生きる、なんちゃって…
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朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり



ですかねえ・・・。
などとごちゃごちゃ思えるだけの余裕を持ちつつ生きたいかも。
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この回答へのお礼

一日清らかに生きるほうが、百年汚れて生きるよりも良いという言葉もありますね。道を求める人達の、率直な気持ちにはある種の鋭さを感じたりもします。
私はできるなら、朝に道を聞いたなら、やったぜ!と思って長く健やかに生きたいですね。
などと、たしかにごちゃごちゃと考えてしまいます。

お礼日時:2017/05/25 22:14

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