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 あまり芸術論などには詳しくありませんが、美術が好きで、
美術館には時々行っています。
 現代美術の中にはただ額を黒く塗りつぶしたものなどがありますよね。
 またはただゴミのようなものを置いただけのものなど
この前イギリスかフランスの現代芸術の作品の一部のゴミ袋を清掃員が捨ててしますという珍事もありました(笑
 極端に言ってしまえば小学生にもできそうな芸術。といのはその芸術家が製作して全くの無名の作家(たとえば私でも)
の名義でその作品をコンクールなどにでも出品したら、その芸術家が出品した場合と同じ評価が与えられるものでしょうか?
 ジョンケージの4分33秒なんかどうなんでしょうか?

A 回答 (7件)

一番肝心な部分を言い忘れましたので更に追記します。



私達抽象作家だけでなく、全ての美術作家について言える事ですが其の作家独自の表現、所謂オリジナリティーと言うものが最も重要で、仲間内或いは批評家による作品の評価でも他の作家を連想させるような作品はあまり評価の対象とはなりません。       

キャンディーがケーキに代ったところで或いは黒塗りが赤塗りに代ったところで同じです。全くオリジナルな物でないと意味が無いのです。ただ、創る側としてはオリジナルな物の積もりでも自然と誰かの物に似てしまうと言う事は、有るわけでその様な物ばかり発表している作家はやはり重きをおかれません。    

観念、主張を物或いは画面に置き換える事はもはや限界に来ていると言う人もいるほどで、其れが所謂コンテンポラリーアート、コンセプチュアルアートの出現を生みましたが、之とてオリジナリティーが重要でキャンディーがケーキに代わった程度の物をたまに目にしますが、美術作品の鑑賞とはこのオリジナリティーに着目するのが一番の方法かも知れません。

善い物、評価が高い物とは、一般的に今まで誰もその様な表現方法を取らなかったと言う物が具象にしろ抽象にしろ言えると思います。
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No5 ですがちょっと気になる表現がありましたので追記します。



質問者もあまり良い表現ではないと言われていますが、例えば印象派のゴッホ、ゴーギャンとて当時は一般どころかプロにも判って貰えない作品でした。実際ゴッホでは弟が購入したのみですし、ゴーギャンの絵でも数枚売れたのみでした。彼等の時代背景を考えてみた時、彼等の時代の絵画はまだ伝達手段としての要素が強く、実際に見たものが彼等が描いているようには見えない、これが当時の評価で、彼等は自分が見ている物の他に観念(感性)をプラスして描いたのです。

現代抽象絵画は、この見える部分は具象の方に任せて観念、感性を描く訳ですから制作作家と同じレベルで理解する事は殆ど不可能ですが、ただ其の観念、感性を感じ取る事は出来るのではないかと思いますし、それで十分だとも思いますが?

私達、抽象作家はある意味、同業者間の自己満足的なものに見られがちですが、一般の方には画面(作品)から何かしらの物を感じ取って頂きたいと思うのみです。

日本では、マスコミに大きく紹介される美術展などでは鑑賞者の入場者数が多いのですが、何が描いてあるかの確認ではなく、どの様に、何故等が重要で其のバックボーンを感じ取って欲しいのです。【ゴッホ等の印象派の絵画展では入場者数がバツグンに多いのですが、見たものを描くと言う点だけで見れば遥かに日展等の具象作品の技術に及ぶまでも無く、ある意味で誰でも描けそうな絵画であるのですが、本来このバックの部分を注意して見て欲しいと思うのです。】

この様に美術作品から其の奥にあるものを汲み取る事に慣れれば決して現代美術も抵抗感が少なくなると思いますが如何でしょう?
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現代芸術について



私はその所謂わけの判らない芸術に身を染める物ですが、質問者の問いに上手く答えられるか疑問ですが私の考えを述べてみます。

私は、芸術と言うものはある種の情報伝達の手段であると考えています。19世紀中頃までの所謂芸術は自分の見たもの或いは聞いたものを他人に伝える為に、或いは未来に伝える為に創作した物であると考えています。それには勿論、美化、誇張、簡略化など様々な手法が執られましたが、所詮は他人に伝える為、おのずと其の本質から離れる事など出来ない、 言い換えれば他の人に伝えると言う自己矛盾の為にその創作者の観念的主張もおのずから限界があったと考えていす。 

ところが19世紀の中以降、情報伝達の手段が写真、印刷、通信、輸送、その他諸々の方法を含め、劇的に変化し始めたのです。勿論芸術の本質も変化し始めます。物事を他人に伝える、或いは遺すために有効な具象的なものと、より観念的主張を先鋭的に伝えようとする抽象的なものへの分化です。         特に20世紀後半(1950年代以降)は、其の情報伝達の
バリュエーション(写真、映像、印刷等)も伝達速度(コンピューターも含めた物流運搬速度)もより、先鋭化した抽象芸術をもたらせたのだと考えています。 

ところで質問者の論点である、何気なく置かれたキャンディーとか黒一色に塗りつぶされた絵画についてですが、これは、前に論じている通り、製作者(創作者)の物事を他の人(或いは自分も含める)へ伝える為のより先鋭的な観念的主張(ここが重要)ですから、他人から見れば何気ないようでも製作者は、そのキャンディーの位置、量、高さ、或いは黒色の種(黒色でも様々な種類があります。)について考えに考え抜いた結果の作品です。他人からすれば多分どうでもよいことだろうと思いつつも考え抜いた。

よって子供にも出来そうだなどと言われますが、だいの大人が考え抜いた観念的主張の塊のような作品ですからマネることは簡単ですが自分である種の観念を作品の形で世間に発表しようとする場合、いいかげんな態度なら別ですが敢えて世間に問う以上、真剣に其の作品にエネルギーを傾けるのは当然ですし、なかなか
難しい物であると思いますが如何ですか?   御自分で或る種の主張なり観念を作品の形をもって、出来るだけ大勢の人に見てもらうと言う事を想定して全く自分のオリジナルで作る事を考えた場合、なかなか難しいものでキャンディーの位置、量或いは黒色の種類、面積、技法等を考え始めたら一日中考えるのはザラです。

上の様な行為を子供がする場合、或いは何気なく大人がする場合評価されるか否かについては、私は評価されないと思います。
勿論ある種の抽象作品としての評価は良い物から良くない物までの評価は出来ますが美術界での評価と言う事になれば、上記の邪念(世間に問う等)をも含めた評価ですから作品の連続性が必要です。よって連続性の有る作品を子供とか、あまり興味の無い大人が創る事は出来ないのです。一般的にキャンディーを置く或いは黒塗りの絵画も其の単体のみの作品ではなく、それに付随して以前からその様な作品を発表している事が多いので価値的評価も出来ますが、そのいち作品のみで一世を風靡するような作品と言うような物は画商の意図、或いはマスコミの意図でもない限り多分無理だと思います。

また質問者が尋ねているように、或る有名作家が著作権まで含めて作品を譲る話は話として成り立つかも知れませんが、現実的には有り得ません。作品のみについてならタダで譲る事はあるでしょう。著作権まで含めるとなればその作品を作家が全否定でもしない限り有り得ませんし、その様な事をするとなれば自分自身の否定にも繋がるものです。ですから多分有り得ません。

またもう一点、抽象作品について評価する側が本当に解っているかに付いてですが作家と同じ人間で無い以上多分、作家がどう説明したところで全てについて理解するのは無理かとは思いますがその様な抽象作品を数多く見ていると良い物とそんなに良いと思わない物まで色々ですが案外、善い物、凄いと思う物はあるものですよ。やはり慣れだと思います。        
意味の解らない作品でも、其れが何故此処に在るのか、どんな意味が在るのか、如何してこの様な表現をしているのか 等を真剣に考えてみた時、案外その作品の凄さが解ってきます。


蛇足ですが、現代美術と言っても観念、主張を一旦、物、絵画に置き換えた現代美術から、観念主張をそのまま表現する所謂コンテンポラリーアート、コンセプチュアルアートまで色々ありますが、前者は一旦物に置き換えた分比較的まだ、解るかも知れませんが後者と成ると主義主張のそのままの表現ですから、金銭的評価価値などある意味で無意味な事かもしれません。
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興味深いスレッドです。


当然でしょうけど、やはりNO!ですよね。
私なんかが、モナリザの絵に髭を描いても、ピアノの前で4分33秒座っていても、誰も注目しないでしょう。
parismatchさんも書いているとおり、やはり製作者の精神・思想こそが作品なんだと私も思います。

>現代芸術が解らないのは自分の知識がないからで、
>色々と作品を見ている人には、その作品を見ただけでも良さが解るものでしょうか。

解る!という方がいたらその方のことは信用しないほうがいいと思います。(笑)
製作者の思想を強く反映している作品でも、見るだけで思想のすべてが理解できるという作品は有り得ないと私は思います。ヨーゼフ・ボイスは非常に深い、辛辣なメッセージを持った作品を作っていますが、作品だけを見てもそんなこと何もかも解りません。w
彼はひとつの作品に何十時間も語ります。それではじめて、その作品の持つ深さが誰にも沁みいるのではないでしょうか。

現代美術は「示唆する」芸術だと思います。
例えば、木を描いた絵は木を表現し、木を伝えますが、ただ均一に黒く塗られたキャンパスはなにを表現しているのでしょうか。
ここからは私の解釈ですが、何をどう感じてもいいのです。セオリー通り解説をよく読んで納得するのもいいし、夜かなぁ、と思ったり、ただうちの犬の色みたいだな、そういえばエサやったかな、と思うだけでもいいのです。(笑)

ジョン・ケージのエッチングを見たことがありますが、ぼやーっとした画面で、はじめ「何を描いてるんだろう?」と思いました。キャンパスに少しづつ近づいていって、至近距離でじーっと見つめました。
その瞬間、「これは何でもない」のだ、という真理?がひらめきました。
ケージは、これが何か、ということを表現していないのですよね。作品はここに注ぎ込んだプロセス、というかまさに彼自身なのでした。途端に、じーっと至近距離で作品を凝視していた自分の行動がとっても恥ずかしくなりました。(笑)
ケージの作品においては、理解しようとこれは何かと問い掛けるのは愚問です。
解る人には解れば良いし、解らない人なら通りすぎればいい。これは何であるかということを誰にも押し付けない、そんな「自由」が、ケージの作品の一番の魅力だと私は思っています。
ってか私のケージ論を語っても仕方ありませんね…スミマセン。

あと、他の方の回答で、
>ゴミとして捨てられたのは、その方がその価値をその作品に見出せなかったからであって、別段笑い話でも何でも無い気が、私はするのですが・・・
というご意見がありましたが、私はやはり笑い話だと思います。^-^
ごみ袋を見て、これは!と「価値が見出だせる」人って、まずいませんよね。
たまたま美術館にあれば作品かなと思うかもしれませんが。
誰かが作った作品も、捨ててしまえばごみです。またごみの中にも芸術はあります。
そう考えれば、作品が作品なのではなく、世界にある物はすべて作品なのでしょう。
それでは…、美術館にある作品には深いメッセージがありますが、自分を包んでいる日常の中にも重要なメッセージが隠されていないでしょうか?
自分の日常には誰も解説をつけません。しかし、とりとめない事でもじっと観察していると…いろいろなことが見えてくるはずです。私は毎日見落としています。w

美術館にたくさんの人が現代芸術を見に訪れるのに、美術館の前の道端に落ちている石には誰も注目しない…これって可笑しなことだと思いませんか。
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私の場合、作品よりも製作過程に興味が傾いてしまうのですが、


那須高原にあるニキ美術館で「射撃絵画」というものを見たときは、
しまった!と思いました。

詳しくは下のURLで分かると思いますが、芸術家にならなければ
たぶんテロリストになっていただろう、と言っていたそうです。

やはり既存の社会に対して、人並み外れた考えで訴えるだけの
動機がなければ、このような作品は作れないだろうと思います。

参考URL:http://www.niki-museum.jp/
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おはようございます。



そうですねぇ・・・一般の方にすれば、小学生にも出来そうな醜悪な作品のように見えるかも知れませんが・・・ところがどっこい、なかなか出来ないものなのですよ(笑)例えば貴方がそれを見ながら、同じようなものを作ったとします。(例として黒一色をカンバスに塗るとか)それが評価を受けるかと言えば多分評価は受けないでしょう。それは何故か・・・実はそこが問題で、そこには作家の思想(例えば反骨精神で、現行の美術概念を打破したい!そのために、うーんと醜悪な作品を作ることによって、疑問を投げかけよう!とか・・)とそれ現実に表す為の構想期間、それを「成す」為のインスピレーション(先ず、カンヴァスを黒一緒に塗ろう!なんて発想は普通起きないでしょ?)そして、緻密に計算し尽くされた「構成力」があるから、「芸術(ゲージツ?)作品」としての評価が成り立つわけです。ですので、デッサンや構成力等の基礎も全く無い人間がそれを真似たとしても、それは既に芸術作品とは言えないものなのですよ。
それと、例えば上記の条件が満たされた某有名作家の「手で造った」素晴らしい作品を、惜しげもなく例えば貴方に著作権利を譲渡して、それ貴方が「自分の作品」としてコンクール等に出品したりすれば、多分評価する人間は「貴方の作品」として、名前分はマイナスしても、作品としての評価はでると思いますが・・・気になるのは「思想」の部分で、その醜悪さも、その作家が常々表明している「思想」を「具象化」する事で表されている事であって、無名であっては今までその「主義主張」を表明した場所も無ければ、また、作品の説明の際にそのような表明も出来なければ、評価はまた、全く別のものとなる事も考えられます。

ゴミとして捨てられたのは、その方がその価値をその作品に見出せなかったからであって、別段笑い話でも何でも無い気が、私はするのですが・・・評価する人間がそれぞれの「評価」をすればいいんじゃないでしょうか。因みに私は、現代美術はまーーったく興味はありません(苦笑)

ケージの「4分33秒」は、私としては素直に「おもしれ~!」と思うのですが・・・
因みに下記のサイトに「4分33秒」に関する考察が出ているようで、通常「現代美術」と言われているものの成り立ちが理解しやすいと思いますので、貼っておきますね。

私も美術概論の助教授に同じような事を言って、「ほんじゃ、やれるもんならお前がやってみろ~!」と言われました。
発想の段階から到底出来ませんでしたよ・・・(^_^;)

ご参考になれば幸いです。

参考URL:http://mailer.fsu.edu/~ataniguc/disc/cage_433.html
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この回答へのお礼

 ご意見ありがとうございました。
小学生にも作れる作品というのは書き方が悪かったのですが、
思想や精神ではなく技術的なこと。
例えば黒く塗るだけやアメを置くだけなどのことでした。
 ピカソが一つの作品を作るのに絵の上に更に絵を描いて、
また絵を描いてを何度も何度も繰り返して一つの作品が
出来上がるという映画を見たりして、
技術的には簡単でも「その作品」を他人が作ることは
難しいというのはなんとなく解っていました。

 その上でただ「技術的」には簡単な作品を
その製作者が作ったという事実がなくても
作品として評価されるのかな?と思ったのです。

 分かりやすい芸術(あまりいい表現ではないかもしれませんが)印象派やゴシック様式の絵画などは見ただけで
すごさがある程度理解できるのですが、
現代芸術作品はただ作品だけを見ても感動できず、
解説を見て、あ~、と思うことがよくありました。
 音楽にもエレクトロニカ・アンビエントなどのジャンルで
ただ電子音がピッピと連続したり、
雨の音をただ一時間流すだけなどの技術的には簡単なものがあります。
 しかし、色々と音楽を聴いていくうちに
その作品を作ることがどれだけ大変か、
さらにその音楽の価値もわかるようになりました。
 現代芸術の場合には製作者の意思などの
バックグラウンドも含めて作品なんですね。
現代芸術が解らないのは自分の知識がないからで、
色々と作品を見ている人には、その作品を見ただけでも良さが解るものでしょうか。

お礼日時:2004/08/29 21:47

われわれ素人には、現代美術は難解ですね。


「ダダ」なんかもさっぱりわかりません(笑。

確かに、小学生にも出来そうな芸術と言う表現には同感です。
それでも芸術家の評価は、単に一つの作品ではなく、ある程度の継続性があって、その総合評価が陰にあるのではないでしょうか、突然、公共の場で「ゴミ袋」を芸術作品であると主張するのは無理がありそうです。
「4分33秒」は聞いたような気がしますが、印象が有りませんので、ノーコメント。

私も美術館に行くのは好きですが、時々、わざわざ醜いものを作ることも無いのにと、思うこともあります。
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この回答へのお礼

意見ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/29 20:30

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