プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ふと思い出したことなのですが

昔、私の知人の身内が亡くなられたとき
遺産もなく、お葬式の費用を捻出するのも大変という状況でした。
そこで、法要時のお経に限って、お経を読める親戚の方にお願いしていました。
あまりよく分からなかったのですが
その方は、衣装(?)も持っていました。でも、お寺の人などとは違います。

その方はとてもいい方で(←これは本当です)
法要について無知な知人に、いろいろと教えてくれたようなのですが
亡くなった方の宗教を無視して、ご自身の宗教のやり方で進めていったようです。
もっとも、亡くなった方も熱心な信者ではなかったようですが。
(それはいいのか、そういうことはよくあるのか、というのが一つ目の疑問)

そしてその方は、お経を読んだ後、お布施を受け取っていたのですが
知人の経済状況を知っていたのにも関わらず
「これは神様のことだから、ちゃんとしないといけない」
と言っていたそうです。
お布施と言っても、毎回1万円もしない程度だったようですが。

これって、当たり前のことなのでしょうか?
知人は特に気にしている様子もありませんが
私は疑問に思っていました。

不謹慎な質問かもしれませんが、上記の二点について
ご存知のかた、教えてください。

知人が「どうにかしたい」などと思っているわけではありませんし
ここで回答いただいたからと言って、アドバイスするつもりもありません。
ただ、私は、宗教とは・・お布施とは何なのだろう・・・と疑問に思います。
また、私も知人同様、宗教などには全く無知であります。

そのあたりも考慮していただけるとありがたいです。

A 回答 (9件)

こんばんは。

一応寺の親不孝息子です(笑)

お経を読めるということは一応仏教ですか?で、神様の事とは…。意味が解りませんね。他の方も回答しておられますがお布施というのはもともと修行です。厳しい修行のできない人たちが自分たちに出来る範囲で行う布施業です。なので厳密に言えばお金である必要もなく、額も決まってるわけもなく、受け取りを拒む必要もないものです。
宗教ってなんだろう…。難しいですよね。簡単に言えば人それぞれがいかに生きていくか。その拠り所でしょうか。ですから他人に強制されるものでもなく自分がいかに考え行動するか、これに尽きると思います。どこかの新興宗教みたいに○○を崇拝しないと人類滅亡のとき生き残れないとか…。自分たちのことしか考えていないまったくバカげた教えです。
仏教の話になってしまいますが、もともとお釈迦様は教えを説く人に合わせてお話されました。なので解釈も方法も様々です。これが今になってほんまに同じ仏教なん?っていうくらい沢山の宗派に分裂していった所以でもあります。なので人それぞれ違っていいと思います。無宗教と言う人たちだって困った人を見れば手を差し伸べるでしょう。食事のときに自然の恵みや生産者の方たちに感謝するでしょう。立派な宗教じゃないですか。
今の日本の仏教では死後の方が重要視されてしまって葬式仏教になってしまってます。葬式をしないといけない先祖の供養をしないといけない。じゃあ坊さん呼ばないといけない。お寺探そうか…。本来とは全く順序が逆ですね。でも悲しいかなこれが現実で定着してしまってます。
ほとんどの日本人、葬式してお経読んでこれが仏教だと思ってるはずです。本来はいかに生きるかの教えでお経にはそのための智恵が書かれています。でも一般の方には意味不明でしょうからやさしくわかるように説明して伝えていく。これが本来の僧侶のありかただと思います。その教えを元にさらに自分なりにアレンジして自分の行き方を探していく。それが宗教なんじゃないでしょうか…。
なんだか全く回答になってませんね。すいません勉強不足で…。
最後に親戚の方のとられた行動。お布施の意味云々はおいといてとてもすばらしいと思います(悪意=親切にしてお金を稼いでやろうという気持ちがないなら)。その方はそれが自分の生きる道だと確信しておられるのでしょう。その行いに共感すれば感謝の気持ちを表せばいいと思います。

この回答への補足

締め切ります。

思いがけず、濃い内容の回答をたくさんいただいて
実はポイント発行に悩んで、なかなか締め切れずにいました・・・
どうしても決められず、このまま締めさせてもらうことにしました。
大変申し訳ありません。

たくさんの素晴らしい意見や、知らなかったことを教えていただいて
本当に感謝しております。

また何かあった際には、よろしくお願いいたします。

補足日時:2004/09/18 16:03
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この回答へのお礼

ええ、仏教だと思います。やはり「布施とは拒んではいけないもの」が
私の質問に対する回答のようですね。

お釈迦様が「教えを説く人に合わせてお話された」というのは
とても納得がいくお話ですね。
私もどうして仏教には色々宗派があるのだろうと思っていました。

「日本の仏教は死後のほうが重要視されている」
というのは、私もそう思います。
私の周りを見ていると、単に儀式として「しなければいけない」というものを感じます。

法事なども細かいことを言い出したらきりがないようで
それを「○○はしなくてもいいでしょう」なんて言っているのを聞いたら
そんな中途半端なら全部しなけりゃいいのに・・と思います。

「それが自分の生きる道と確信されている」と言う部分、本当にそうだなあと感じました。
なんとなくですが、分かってきたような気がします。

とても分かりやすい回答でした。もしkazu_kun1203 さんがお坊さんだとしたら
本当にやさしく仏教を教えてもらえそうな気がします。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/09/12 18:09

元寺の嫁です。



基本的に、無宗教の方の葬儀なら仏教徒であるお坊さんなどの宗教家を呼ぶ必要はありません。
でもなぜか日本人は、人が亡くなるとお坊さんに頼みますよね。
どうせやるんなら、仕事としてお経をあげるお坊さんより、身近な親しい人が経本見ながらでもお経あげたほうがよっぽど故人にはうれしいと思います。
本当はそのお経の内容も理解していただけるとうれしいのですが、本当に理解してる人は少ないでしょうね。
お経って、単にありがたい文字が並んでるわけではなく、現代文になおすとちゃんとした物語になってるんですよ。

お布施って何だろう?と思いつつお布施を渡すのって間違ってます。
宗教を信仰していてお布施の意味も知っていれば、お布施は喜んでお渡しできるもののはずです。

仏教では、お坊さん(出家者)のことを「福田(ふくでん)」といいます。
福がなる田んぼという意味です。
信者(在家者)がお布施というタネを撒くと、いつかそれが実って福となり、徳としてまた信者に戻ってくるのです。
出家者は在家者がくれたお布施によって生活することができ、また在家者たちの墓や寺院を維持することができます。
つまり、ギブ&テイクです。

よく、「坊主丸儲け」なんて言いますが、それは信仰心がなく、単なる代金としてお金をお布施として渡しているからそう感じるのです。
また、お布施として渡したお金がすべてお坊さん個人に使われていると思うからそう感じるのです。
お布施はたしかにお坊さんのためのものでもありますが、信者のためのものでもあるんですよ。
このあたり、勘違いされてる人って多いと思います。
また、寺院じたいもお坊さんの所有物ではありません。
そのお寺を菩提寺としている檀家さんたち全員のものなのです。

お布施って、べつに現金じゃなくてもいいんですよ。
いまはお金で経済が成り立ってるので現金で渡すのが一般的になってますが。


宗教とは、生きるための拠り所だと私は思っています。
人が死んだときだけに頼る葬儀屋みたいな存在ではありませんよ。
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この回答へのお礼

失礼ながら、他の回答も拝見させていただきましたが
hoppyboohさんは、宗教を勉強されてもいたんですね。

「身近な親しい人がお経を読むほうが、故人もうれしいのではないか」
というご意見、私もそう思っていました。私は仏教に関して無知だったので
ああ、そういう考え方があってもいいんだなあ、という気持ちになりました。

お経に意味、あるんですね。物語になっているとは知りませんでした。
現代語訳にしたものなどもあるのでしょうか。

お布施や葬儀について、つまり、形式だけの信仰は間違っている
とおっしゃりたいということですよね。確かにその通りだと思います。

お布施のシステム(お金の流れ)については、漠然とですが知っていました。
しかし、この場合は他で収入のある働いている方のケースでしたので
私にとっては疑問となったのです。

そう言えば、お寺に泊めてもらったという話も聞いたことがありますね。

仏教とは・・今の日本では(少なくとも私の周りでは)人が亡くなったときにしか
関わることのない状況になっていますね。
「ウチは○○宗」だとかいうことしか知らず
その教えがどのようなものかも知らない人も多いかと思います。
私は理屈っぽいほうなので、それにもいちいち疑問を感じます。

いただいた回答を読んで
宗教の形もさまざまですが、ひとつの宗教に関わる人の考え方もさまざまなんだと
そして、色んな考え方があってもいいんだと思えました。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/12 17:53

 補足すれば、「布施されたものを拒んではならない(えり好みは出来ないのです、それをすると布施修行を邪魔することになるから)」、「布施したものに執着してはいけない(もはや自分のものではないから、それがどのように扱われようとも口出しはしない)」、「いやいや布施したり、見栄を張るためにしてはならない」、「布施されたものを自分のものにしてはならない」、なかなか難しいどころか、ほぼ不可能に近いですね。

でも、布施を行うことによって、今までは無自覚だった自らの虚栄心、傲慢、執着心が明らかになることで、次のにつながるのですね。
 あと、布施には金銭や物品を施し貪欲の心を離れる「財施(ざいせ)」、教えを説く「法施(ほっせ)」、恐怖から離れさす「無畏施(むいせ)」の大きく3種類があり、仏教を信仰するものは必ずしなければならない行為です。また、他者にやさしい顔で接する、慈しみの言葉をかけるなども「布施」となります。
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この回答へのお礼

私が知りたかったことに対しての回答は
「布施を拒んではいけないから(修行のジャマになる)」がその理由だということですね。
正しい(?)布施とは何かを考え出したら、結論はでないということでしょうか。

金銭や物品以外の「布施」があることも知りませんでした。

下の回答と共に、お時間を割いて再度回答くださったこと、重ねてお礼申し上げます。

お礼日時:2004/09/12 17:16

 余りにも“世俗的な人生訓”がさも仏教の教えであるかのように説く本が氾濫しているので、少し言葉がきつかったかもしれません。

なお、私は先の方を批判しているのでなく、そのような考えを余りにも簡単に広めて“仏教”だと広めているいわゆる「仏教学者」と称する人たちへの警鐘的な意味でのかき込みですが、誤解を受けるような書き方であったかもしれません。
 仏教と葬儀或いは世俗的願望を成就させる祈祷などは、ある面で仏教(に限らず宗教全般)のジレンマというものでしょう。つまり、教義に対する純粋性を求めると教えは広まらずに、ごく一部のものとなる。それに対する批判として個人の解脱(げだつ)以上に他者の救済を目的とするという意味で大乗仏教(日本仏教も大乗です)という新しい教えが生まれたが、そうすると教えを広める為に民衆の望みを叶えるとこんどは教義の純粋性が失われる(世俗化する)。そのズレをいかに正すか。それこそ先人が苦労して築き上げてきたものなのですね。
 さて、布施なのですがこれはインド語でダーナ、それを音写して旦那といいますが、これは仏教以前からあるインドでの道徳律、信仰なのです。そこで、この基本を知っていなければ布施を理解することが出来ない、大前提があります。つまり「持っている者が、持たない者に施すのは『当然の義務』」、「持たない者が持っている者から受け取るのは『当然の権利』」という考えです(普通の日本人からしたらなかなか理解できないでしょうが)。そして布施という善行を積むことにより、死後は安楽な世界に生まれ変わることが出来る。そして受け取る者は、その善行を積むという行為を助けることになる。このような道徳律なのです。
 仏教も布施を修行実践のひとつとして取り入れましたが、そこで意味に違いを持たせました。なにか見返りや、目的を持って布施することを戒めたのです(つまり、徳を積もう、死後安楽な生活を求めようなど)。布施の意味を「ものに対する執着心を捨てるため」の修行に位置づけたのです。
 こんなお話があり、釈尊にある金持ちが1万の灯明を布施した。もう別に貧しい老婆が自らの髪の毛を売って、1個の灯明を布施した。すると一陣の風が吹き長者の灯明はすべて消え、老婆の灯明はますます輝いた。驚いた長者が釈尊に訳を聞くと、「あなたにとって一万の灯明を施すのはなんら生活に苦にならない。つまり自分にとって不必要な物を施した。対して老婆は必要な物を施した。そのためにその輝き(灯明は仏教では智慧を象徴します)は消えることがない」それを聞いた長者はますます信仰を深めていったとあり、この話は誤解されていて金持ちだから消えて、貧乏人だったから消えなかったのではなく、もし長者が自分に必要なものを施していれば消えることなく、逆に貧しい老婆であっても必要でない物をほどこしていたら消えてしまう。逆説的にいうと(布施が日常で行われているインドという風土を前提として)、「本当の布施はなかなか出来ない」ということ、つまりをn人間の持つ執着心、傲慢さを気付かせるのが仏教の布施行なのですね。
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この回答へのお礼

再度、ご回答くださってありがとうございます。
yuhkohさんは、今の日本の仏教のありかた(特に出版物)ついて
懸念されているということですね。理解できました。

「大乗仏教」について少し調べてみましたが「たくさんの人と共に」
ということがキーワードになっているようですね。
一方「上座部仏教」というのは個人の内に向かうものであるようで
分かれることに、どういう意味があるのか、まだよく分かりませんでしたが
仏教と一口に言っても、本当にさまざまなスタイルがあるんだなあ・・と思いました。

「布施」がインド語でダーナというのは、初耳でした。
しかも、仏教の誕生以前からあるものとは、興味深いです。
「持っている者が持たない者へ施すのは当然の義務」なのですか。
インドの旅行記を読んでいると、物乞いの人の話が必ずと言っていいくらい出てきます。
彼ら(物乞いの人)は、施しを受けることを、当然のように思っている
というような印象を受けていたのですが(例えば、お金などをもらっても、黙って去っていく)
とても納得がいきました。

そして、仏教が布施を作ったのではなく、布施を「取り入れた」ということも
私にとっては驚きでした。
布施に関するエピソードから「本当の布施はなかなかできない」
ということは理解できました。

「自分に必要なものを施す」と言うのは簡単ですが
なかなか実行できることではありませんね。
やはり、どうしてそこまでしなければいけないの?という思いがあります。
これが合理主義というのでしょうか。煩悩だらけの私・・・

ただ、仏教を信じることによって、世の中がよくなることだけは分かります。
興味深いお話を、ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/12 17:06

「仏教は葬儀にかかわらなかった」などの論説をしたり顔でいう「自称仏教学者」が多いですが、あまり鵜呑みにしない方がいいですよ。


明治以降の仏教学は、仏教と西欧型合理主義との融合を目指そうとし、仏教を宗教や信仰というよりも「哲学」化することが理想だった面もあります。(だから彼らにとって「非合理的」だと思われる葬儀や信仰心などは、低レベルだとされ、否定的に扱われます) いまだに「明治以降の考え」の影響を無批判に受けて、膨大な経典・論のなかのごく一部のみを引き出し、それも表層解釈だけの安易な人生訓を「これが仏教の教えだ」と主張するものも多々います。(いい例が「尼僧のコスプレ」をしている小説家)

 葬儀が行われるようになった歴史は大変長いので説明するのは略しますが、日本では「民衆が仏教によって葬儀を行うよう求めた」という方が正しいし、葬儀を行うことによって、「仏教と民衆への接点が生まれた」という理解をされた方がよろしいかと思います。(件の釈尊の遺された言葉も「修行者」に対して言葉であって、民衆に対する言葉ではなかった点も注意しないといけません)

仏教を勉強したいと思われるのは大変けっこうな事ですが、多く書店で売られているのは「仏教語を多用した安易な人生訓」といっった仏教書モドキが多いので気を付けてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

エエット・・・正直、頂いた回答が、私にとって少し難しいのですが
明治以降に、仏教は形を変えていったということですね?
そして、先に回答いただいた方の回答内容は
それ(明治)以降のものだとおっしゃりたいのでしょうか。

もしそうだとしたら、その点については大変失礼だとは思うのですが
言葉を選んでいただきたかったです・・・
私が回答いただいている立場なのに、生意気言って申し訳ありません。
ただ、yuhkohさんの回答は、非常に興味深いものであり、
知識も豊富なお方とお見受けしただけに、とても残念に思いました・・・

「哲学的なものの考え方をしている方から見れば、
葬儀や信仰心は低レベルと扱われている」
というお話は、全く知りませんでした。
このことも踏まえて、仏教書を選んでいきたいと思います。
(また質問するしれません)
仏教を勉強すると言っても、簡単なことではないのですね・・・
しかも「膨大な経典・論」という部分を見て、ひるんでしまいそうです・・・(苦笑)

日本では「葬儀を行うことによって、仏教と民衆の接点が生まれた」のですね。
確かに、私が興味を持つきっかけとなったのも
日本での葬儀と、タイへの旅行でした。
私の周りでは、仏教が日常の中にないから、そういうことになるのでしょうね。
(もっとも、目に見えない部分ではあるのでしょうけど)

実は、私が知りたいことへの回答が読み取れなかったのですが
(含まれているのかもしれませんが、私には読み取れなかったということです)
もし、お気を悪くされていなければ、教えていただけませんでしょうか。
私が知りたいこと(疑問に思うこと)、というのは
質問文にある「お経を読んだ親戚の方の行動と、言葉の意味」です。
もう少しだけ、締め切らずにいたいと思いますので、
お時間がありましたら、よろしくお願いします。

こんな形のお礼になってしまいましたが、思い切って正直に書きました。
失礼を承知で書いておりますので、気分を害されたなら、無視してくださってかまいません。
色々と興味深いお話をありがとうございます。

お礼日時:2004/09/10 01:18

 失礼します。


今は、お寺、あるいは僧侶は葬式、法事が仕事のようになっていますが、本当にそうなのでしょうか。
 仏教の始まりはお釈迦様ですが、その当の本人であるお釈迦様が、なくなる前に言われたことは
 「自分の葬式は僧侶はタッチしてはいけない。僧侶以外の人、つまり、一般の信者に任す。」
といわれたそうです。
 このことの意味する戒めとして
 「僧侶は葬式に深く関わるな」
ということを言いたかったのではと思います。
 その当時のことは良くわかりませんが、生活はとても苦しく、いきるのに精一杯の生活ではなかったかと思います。そんな中、僧侶としては民衆を励まし、生き生きとさせるのがその目的であったと思います。
 それは、キリストでも、マホメットでも同じであったのではないかと思われます。
 江戸時代にお寺が幕府のかわりに国民を管理するひとつの組織となって、檀家制度というのを作り、どこかのお寺に所属するようになって、お寺の維持のためにお布施などができ、その代わりにお寺は幕府から守られてきたのだと思います。
 釈迦のそういう本来の葬式の意義からするなら、僧侶は葬式が仕事ではない、お布施を要求するなんてことはもってのほかだと思います。
 皆で、その人を見送るというのが本来の葬儀のあり方ではないでしょうか。現に、僧侶がいない、葬儀もあります。
 今、いろいろな葬儀の形式が見直されているのはいいことだと思います。
 とにかく、宗教で金儲けに走り、堕落することを釈迦は恐れ、それを予見していたのではないかと思います。

>>これは神様のことだから、ちゃんとしないといけない
 そんな神様はいないと思いますよ。

 それから、はじめの疑問ですが、
 葬儀は残された身内の者が、本人の意思を大事に思えば、その宗義にのっとりやってくれるでしょうが、そうでない時は残された者の気持ちで葬儀を執り行うのは自然なことだと思います。
 もし、私が死んでしまえば、誰がどんな葬儀をするかなどは、死んだ私にはわかりません。アメリカで旅に出て死ねば、そこでは、キリスト教の葬送の儀をしてもらえるかもしれません。それは、見送くる人の気持ちであり、それは、大事にしたいと思います。
 気持ちの問題としてはいけませんか。
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この回答へのお礼

私は宗教に関して無知だと書きましたが
実は仏教に興味を持ってはいます。
興味を持っているのは、儀式などでなはく、教え(ものの考え方など)についてです。

教えてくださったお釈迦様のエピソードは、とても心に響くものでした。
やはり後の人たちが、都合のいいように変えていってしまったのでしょうか。
お釈迦様のエピソードは、普通に生活していても
ときおり目にしたりしますが
私にとって、とても納得でき、またすんなり受け入れられるものです。

いただいた回答を読んで
大切なこと、本当のことは何なのかを知るためにも
やはり一度、仏教について勉強してみようかと思いました。

知人の場合は、宗教に無関心なこともあって
殆どその方にお任せしていたようですが、そういう場合は問題ないということですね。
私だったら自分が死んだとき、もし信じている宗教があるのなら
勝手に、違う宗教のやり方で葬式をされたらイヤだなあと思っていたのですが
yuu999さんの考え方は、なんて大らかなんだろうと感銘を受けました。

大変納得できるお話でした。ありがとうございます。

お礼日時:2004/09/08 23:54

No.2の方の言われるとおり、お布施は報酬ではなく、渡す方の気持ちです。

ただ、気持ちを金で表すのかというと
私は個人的には ?と思っています。そもそも宗教は心の問題であって、お金は世俗のもの。つまり別物ですから。

ただ、この辺は、明確なルールがあるわけではなく、個人個人の考え方、育ち方によるものだと思います。
その人が気に入らなければ、別の方に頼むとか、人に頼まず自分でお経をあげて拝むとかすればよいのではないでしょうか。
形式にこだわること自体が本来の宗教から逸脱しているようにも思うのですが。
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この回答へのお礼

そうですね、私も宗教とお金の関係がよく分かりません。
戒名などでもランクがあって、お布施の額が多ければ
ランクの高い名前がもらえるということを聞きました。
ますます疑心暗鬼になるばかりです。

形式より気持ちとは、まさに私もそう思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/08 23:38

>私が聞きたかったことは渡す側の気持ちではなく


>「あなた、余裕ないでしょ?だから気持ちだけ
>もらっておく」ということに、どうしてならない
>のかと言うことなんです。それが決まりなのだろう
>か・・・?ということです

この点について素人ながら一言述べさせていただきます。

「お布施」とは「布施行」という仏教上の修行の一環であり、しかも、その主体は「お布施」を渡す方です。僧侶やお寺の報酬ではありません。ですので、「お布施」を拒むということは、そのお布施を渡そうとした方の修行の邪魔をすることにもなりかねません。

もっとも、そのご友人が、御自分の経済状況にもかかわらず分不相応なお布施をしようとしたり、形だけの内実の伴わないことをしようとしたのなら、そのことはむしろ叱られるべきでしょう。
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この回答へのお礼

お布施が修行の一環であるということは、知りませんでした。
なるほど、そうだとしたら、chu-sun さんのおっしゃるように
修行の邪魔ということになるのですね。
確かに、タイなどではお布施をすることによって
徳を積むという考え方があるようですね、思い出しました。

しかしながら、分不相当なお布施という言葉には抵抗を感じます。

回答いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2004/09/08 23:33

宗教は本人が認めればほかの宗教でやってしまっても問題ないでしょう結婚式は教会でキリスト教方式でやっておきながら自分の葬式は仏教方式でやる、そういうこともあると思いますので。


お布施はお坊さんに対する施しものです。(出家した僧は働いてはいけないので収入がない)する、しないも金額も個人の自由ではないでしょうか。
実際にお布施のみで生活しているわけではないので感謝の気持ちがあれば渡すのが礼儀かと
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この回答へのお礼

本人が認めればといっても、亡くなってしまった方の意思は
確認することができませんよね・・・?
でも、コレに関しては多少のわだかまりがあるものの
まあ、都合もあるだろうし・・・という気持ちもあります。

私が聞きたかったことは渡す側の気持ちではなく
「あなた、余裕ないでしょ?だから気持ちだけもらっておく」
ということに、どうしてならないのかと言うことなんです。
それが決まりなのだろうか・・・?ということです。

お坊さんがお布施などで収入を得ていることは存じておりますし
それに関しては疑問はありません。
本文中に、書いていませんが、その方は普通に仕事をしていて収入もあります。

反論のようになってしまって申し訳ありませんが
全くそのような気持ちではありません。
回答いただいたこと、ありがとうございます。

お礼日時:2004/09/08 14:22

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