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以前の職場で全人格を否定され、今なお立ち直ることができないでいる友人がいます。

一人の人間としての根っこの部分を批判され、そして否定され続けたようで、彼女自信とても精神的に参っている様子です。

彼女の話を聞いていて思うのですが、なぜ世の中には他人の人格を否定し、またそのような行為が社会的に正しいと考える人がいるのでしょうか。

能力の優劣や性質の向き不向きもあることでしょう。
ですが、“できる”人間は、“できない”人間に対して常に優勢な立場にあり、彼らはその事実に、惰性を理由にして“できない”人間を非難します。

努力をしてもできないという現実は、社会では通用しないことのかもしれません。いえ、社会とはそういうものだ、とおっしゃる方々もたくさんいらっしゃるでしょう。

ですが、事実できない人間にとって、それがイコール社会に出るな、という答えになるか、といえばそうではないでと私は思うのです。

能力の劣る人間に対し厳しい評価を下すのはかまいません。ですが、彼等の全人格を否定するのは、間違っていると、私は思います。

“できない”という事実を、そのような彼らの性質をまず受け入れてあげて、そしてその上で彼女なり彼なりにあった仕事を与えてあげる、または彼らなりの努力を認めてあげる。職場であっても社会であっても、そういう考え方もあっていいと、私は思うのです。

皆様はどう思われますか?

A 回答 (13件中1~10件)

私も同感です。


人間みんな違います。その違いを受け入れることは大事なことだと思います。
それが出来ないことの方が良くないんだと思います。

落ち込んでいるお友達を励まし勇気づけて、自信持たせてあげれるといいですね。
一人でも認めてくれる人がいるだけで、気持ちは心は大きく違うと思います。
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この回答へのお礼

お答え、ありがとうございます。

to-kibiさんにそう言っていただけたこと、とても心強く思います。

ですが、現実的にはこのよう考え方を甘えていると捉えられてしまうことは、仕方のないことなのかもしれませんが。
人として、人格そのものを否定することは、やはり決してやってはいけないことだと、私は思っています。

お礼日時:2004/09/10 23:57

その通りですね。


しかし職場というのは金を稼ぐ、もっと言えば金を奪い合う戦場を、オブラートで包んだような所ですから、無能力な人間は足でまといで、そういう人を全否定したくなる狭量な人間もいるわけです。

理想と現実は違うというところでしょうか。

しかし抽象論から個別の彼女の問題に話を移せば、彼女は仕事の能力のみ、職場で否定されるべきであったのに、バカがそれを全人格的な否定にまで持っていって、彼女を傷つけたわけです。

あなたは友人として、まず「人間としての魅力」が彼女にはあることを、肌身で教えてあげるのはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

〉理想と現実は違うというところでしょうか。

ズシンと胸に響きました。
ですが、せめて私だけでも、彼女の良き理解者でありたいと強く思いました。
そして、理想論でもかまわない、とも私は今も思っています。彼女の人間としての魅力を知っている私だからこそ、そう思えるのかもしれませんが。

お礼日時:2004/09/11 00:02

>惰性を理由にして“できない”人間を非難します。



私はどちらかと言えばそういう人間ですが、睡眠時間をどのくらい削って頑張ってみたの?とか、自分なりにどういう工夫をしてみたの?と聞いてみると、結局大したことはしていないんですよね。
「客観的に」努力が認められるなら、多少能力に問題がある程度で、あからさまに非難されるなんてことは普通は無いです。

できない人間を受け入れられない事も、できない人間を受け入れられない人間を受け入れられない事も結局のところ同じなんです。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

ですが、少し反論させてください。
客観的な努力、の基準とはどこから来るのでしょうか?職場の人間の平均値から割り出されるものなのでしょうか?
また、社会では、結果でしか判断されない。その努力の過程など、評価に価することはない、などという意見もあります。私はこのような意見に当然否定的なのですが、“できる”人間の論理としては、かなり一般的なものではないかという認識はあります。

〉自分なりにどういう工夫をしてみたの?と聞いてみると、結局大したことはしていないんですよね。

自分なりの解決策を、見出せないから“できない”のではないでしょうか。もちろん、それを惰性と取る人もいるのでしょうけれど。
ですが、事実自力ではその答えを導き出すまでにはいたれないのです。
が、自らの努力だけで問題を解決できないという考え方は、やはり理解してはいただけないほど、偏った考え方なのでしょうか。

お礼日時:2004/09/11 00:21

むずかしいですね



>努力をしてもできないという現実は、社会では通用しないことのかもしれません。いえ、社会とはそういうものだ、とおっしゃる方々もたくさんいらっしゃるでしょう

いえいえ、私は「努力しても出来ない人」こそ社会全体でフォローするべきだと思います
(あまやかすんじゃないですよ)
古い言い回しですが「適材適所」へ配属してあげるのが社会だろうし、企業だろうし、人間だと思います。

ただね、最近の風潮で「ガンバルのウザイ」とか「いいじゃない別に」とかのシラケ文化?ってのがあるでしょ?

シラケてても、させてみれば出来る…ってのは格好いいし、目に見えない部分で努力してるかもしれない。

逆にシラケてて、まだやる前から「できない」とか「ダサイ」とか「仕方無い」とかが多いですね?
でー、それで出来なければ出来ないでいいんだけども
「実は俺は本気出せば出来る」ってヤツ居るでしょ?w
で、ソイツがまた、何時本気出すか判らないまま25歳超えてたりするんですねこれがなんと(笑)
それが30歳すぎたらもう、何でも出来るツモリになってる。
実は周りが大フォローしてるんだけどね
カナズチの人間がいい格好してプールに飛び込んで沈んで行くのを周りが助けてる状態ですな

そうなる前に自分で出来る事を見つけとけ…とは思いますよ??

デジタル世代は難しいですわ
他人の成果や失敗は数値化できても自分の能力や失敗による損失は数値化出来ない≒しようとしない

団塊の世代の人は自分の頑張り自慢や貧乏自慢ですから自分が苦労した以下の事は認めない。

私の父は昭和一桁で、酒飲むとグラマンが飛んできて機銃照射されるんですが(笑)途中でやっぱり貧乏自慢が始まる。
「芋とか大根の葉っぱばっかり食べてた」
「懐かしいなぁ」
…と、遠い目をして語るんですね
もう、高校卒業する時期で、聴いてるだけで鬱陶しかったので、
「じゃぁ、こんな豪華なおかず喰わずに芋食っとけば?」
…と(笑)

翌日からは静かなモンですわ。
年齢が上だとか、肩書きがどうだとか、そんな事を自慢する人は、弱者のことなどマッタク理解できないし理解しようともしない。

巨人の某者が発した一言
「私を誰だと思ってるんだ」
…テレビの前で、思わず
「ふつうのオジンじゃねーか」
…と思いましたね。
天皇だろうが総理大臣だろうが、寝たきり老人だろうが、余生短いホスピタルの住人だろうが一緒。
ただのニンゲン。

アドバイスしてあげても無駄かなぁ
私も紆余曲折あってここまで思えるようになりましたけど、昔は人のせいにばかりしてた。
心を病むと失うものも多いけど心は豊かになりますね
考えて考えて、七転八倒して出てきた答えなら失敗しても満足できるでしょうから、見捨てないであげてください。
と言っても、あなたが彼女に同意するばかりがいいんじゃないですよ?
駄目な事は駄目。
甘えは甘え。
あとは現実とどこで折り合いをつけるかです
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

そうですよね、世の中にはいろんな人がいますものね。
ですが、友人は間違っても〉「実は俺は本気出せば出来る」ってヤツ居るでしょ?というような考えは持っていませんので、念のため一言残させていただきます。

私自身、決して彼女を甘やかしているわけでも安っぽい同情心で付き合っているわけでもありません。
ただ、心の病の一歩手前まで来ている様子の友人の背中を、優しく押してあげたいとは思っております。

その手段の一つとして、私なりの意見である“人を受け入れるということ”が、少しでも支えになってあげられたらなぁ、とも思っております。

お礼日時:2004/09/11 00:31

『実できない人間にとって、それがイコール社会に出るな、という答えになるか、といえばそうではないでと私は思うのです。



とのお言葉に真っ先に思ったのは、
何故「社会に出るのか?」ということです。

『努力をしてもできないという現実は、社会では通用しないことのかもしれません。いえ、社会とはそういうものだ、とおっしゃる方々もたくさんいらっしゃるでしょう。』

わたしもこの意見に同意します。

これは回答ではありません。
難癖をつけているつもりはさらさらありません。

わたしは「引きこもり」や「不登校」の人たちとの交流を持つボランティアをしていますが、

同じボランティアでも「社会復帰」をゴールにする者とわたしは意見を異にします。

『引きこもるという情熱』を書かれた社会学者芹沢俊介氏とお話をする機会があり。
わたしは氏が引きこもりを「プロセス」「通過地点」としてのみ肯定しているのならそうは思わないと伝えました。

非社会的なQOLを先ず模索されてはいかがでしょうか?
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

ですが、私は「引きこもり」に関して、あまり詳しくないので、いくつか質問をさせてください。

私は『引きこもるという情熱』という書籍を呼んだことがありませんので、何とも言えないのですが、<引きこもりを「プロセス」「通過地点」としてのみ肯定している、というくだりの説明をもう少し具体的にしていただけないでしょうか?

また、非社会的なゴールとは、具体的にどういったことを指すのでしょうか?

もしよろしければ、お答えいただけると嬉しいです。

お礼日時:2004/09/11 00:42

すごく考えさせられました。

私は小さな会社ですが、雇う側にいます(主人が自営で、私は会社で常置しています)
人格否定は本当に酷いことだと思います。でも、そこまで行った経緯があるのだと思います。想像ですが、何度も同じミスを繰り返す、自分のやり方を変えずに(不安から)応用が利かない、省ける事に時間をかけてしまう、等です。会社は利益を生まなければ成り立ちません。きっと、目に余ってしまったのでしょうね。
そこでです。適材適所、と回答者がいらっしゃいましたが、それなんです。それが理想なんです。しかし厳しい事を言うのならば、会社はボランティアで人は雇えません。
会社の意向に添えない、賃金を払うには?となってしまうと、辞めて頂くしかないんですよね。これは悲しいですが仕方がないのかな?と思います。(人格否定は別ですよ)
とにかく適材適所、友人の良い所が十分に役立つ仕事があるはずです。それが会社でなくても自宅での仕事もあると思います。
アドバイスにもなりませんが、友人の長所を知っている質問者さんが共に考えて、先を明るく見てください。
考えさせて頂いてありがとうございます。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。雇う側からの貴重なご意見、とても参考になりました。

>想像ですが、何度も同じミスを繰り返す、自分のやり方を変えずに(不安から)応用が利かない、省ける事に時間をかけてしまう、等です。会社は利益を生まなければ成り立ちません。きっと、目に余ってしまったのでしょうね。

確かにそのような事実はあったようです。ですから、このような仕打ちも、ある意味し方のないことかもしれません。

ですが、短絡的に、だからあなたは人間としてだめなのよ、といってしまうのは、決してしてはならないことだと思うのです。それも、人に教える立場の人間であったりする場合は特に。その中には、仕事場の先輩や上司も当然含まれると私は思っています。
そして、そうすることで、本人のやる気をそぐという結果に陥ってしまうというリスクも、人は心の隅に必ずとどめておくべきだとも思います。すべての人間がどん底から這い上がれるわけではないのですから。


今は彼女と一緒にいる時間を大切して、ともにゆっくりと前に進んでいけたらと思っています。

お礼日時:2004/09/11 00:53

仕事のできる、できないはそこで働いている人しか


判断できないと思います。
仕事とは別に、人格を否定する権利なんて誰にもないと思います。
お友達を励まし、勇気づけてあげてください。
人格を否定する人は、確かにいます。一人から否定されたのでしょうか?大勢から?でもまともな人は、それが間違っているか判断できます。否定した人は、自分の恥をさらし自分で自分を否を公表しているようなものです。そう思いましょう。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

〉でもまともな人は、それが間違っているか判断できます。否定した人は、自分の恥をさらし自分で自分を否を公表しているようなものです。

全くその通りだと思います。そして、なんて傲慢な考え方なのだろうとも。

ですが、それもまた現実として、受け止めなければならないのでしょうけれど。

お礼日時:2004/09/11 00:58

#4です



言葉が足りない&言い回しがキツイ

…でしたね。
スミマセン。

私は、貴方と貴方のご友人を攻めているわけではないです。

「こういう考えの人が如何に多いか」ということ
「昔のニンゲンの頭のなんと硬いことか」ということ
「こういう世代は我々には理解できない」ということを言いたかったのです。

私自身、「うつ」を長年患った時期があり、他人の何気ない一言に深く傷ついてしまう事もしょっちゅうでした。
それこそ役所の福祉課やハローワークの職員に
「何故、ここまでボロクソに言われなくてはいけないのか」と腹が立つより情けなさでいっぱいでした。

なので、私は貴方のご友人の気持ちが少しだけかもしれませんが判ります。

周囲で支えてくれた人への感謝の念も大きいです。

で、その後、復帰して一生懸命やっても判らない(判ろうとしない)世代の人間に辟易としたんですね。

新世代とか言われた世代ではありますが、決してわがままな世代ではありませんしシラケてもいません。

幸か不幸か、私には育てる子供が居ませんから、社会に出す人間を育てなくてもいいわけですが、会社の上下関係となると、道理を通した言動をしたいと思っています。

#1での文章で「そういう人ほど社会が支えないと駄目」と書いたと思いますが、弱い人は支えてあげるべきだし、甘えている人は叱咤するべきでしょう。
許されないほど弱い人間が存在する社会は当人には地獄ですよね。

支離滅裂になりました
気に触れたようでしたら、お許しください。
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度々お邪魔致します。


わたしはこの質問を「他人事」として読むことはできません。
ですから逆に他の回答者の方のように冷静に書くことができないのかも知れません。
先ずかいつまんで申しますと『引きこもるという情熱』では引きこもりのプロセスとして三つの段階が仮説として提示されています。
即ち『往路ー滞在期ー復路』です。
わたしは著者に対し最後の「復路」という考えに異議を唱えたのです。
引きこもったら「帰ってこなければならないのか?」
この場合「帰る」とは「社会復帰」とこの際捉えます・・・
わたしは「往路ー滞在期」の後は「永住期」或いは「終末期」で良いのではないかと申しました。
終末医療の眼目は明日や将来、未来ということから離れて
今日一日をいかにその人らしく、人間らしく生きるか・・・ということだと理解します。
わたしじしん詳細は控えますが所謂社会からドロップアウトしてもう5年以上になります。
社会に自分の居場所は無いと確信したからです。
何故か?社会が冷たいからでも、人が冷たいからでもありません。
わたし自身が社会生活に向いていないのです。
もっと端的にいうならかつて二桁の会社で散々役立たず扱いされ、二桁のクビを経験し、己の無能を痛感したのです。

そしてこの先所謂一般的な意味での社会復帰(就労、結婚等)をする気はわたしにはありません。
そして「非社会的なQOL」に就いては自身まだ模索中ですが、キーワードとしては「フェア・トレード」「スロー・ビジネス」「ボランティア」
個人的には「アムネスティー」「ユニセフ」などに通いボランティアなどしつつ情報収集中です。

人が生きる場がお友達やあなたの理解なされている「社会」だけであるなら、生きて行けない人間は私自身を含めて決して少なくは無いと思います・・・

お答えになっていませんので削除の依頼はご自由になさって下さい。
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下の補足をさせてください。


わたしはみなさんの回答を拝見して今までのところ
ANo.6 の方のご意見にもっとも近いと思います。
「人間」イコール「社会人」という考えは持っておりませんので・・・
社会人として全否定され続けたわたしもこうして(何とか)この世に生きているのです。
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