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世界四大文明とされるエジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明はいずれも乾燥地帯から発掘されたものです。昔は湿潤だった可能性もありますが、現在は降雨量の少ない乾燥地域なのは確かです。

一方、人間は乾燥地帯に住むのが特に好きなわけでもなく、温暖湿潤な地域をより好むと思います。
しかしながら、温暖湿潤な地域に集住し、都市や文明を築いたとしたら、おそらく木造で家を建てるでしょうが、その場合の家は百年もしないうちに腐食しますし、台風やサイクロンに襲われる地域だったら浸食も激しく、痕跡がほとんど残らないことも多いです。
古代文明は乾燥地域だから発展したというのでなく、乾燥地域の一部(例えば、メソポタミア・エジプト)にも温暖湿潤地域(例えば、中国南部・東南アジア)にも文明は発展したのだけれど、乾燥地域の文明は浸食もされず、建物は石造が基本だったために後世まで遺跡として残り、温暖湿潤地域では浸食が激しく、建物は木造が基本だったために後世に残らなかったと考えることはできないのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • モンスーン地帯はいくら木を切っても砂漠にはなりませんよ。高温多湿な気候ですから。
    日本で木を切ったら速攻で草ボーボーになりますし、それで10年も経ったら灌木が生え出し、50年もしたら森林に戻ります。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/09/07 22:52

A 回答 (4件)

> 人間は乾燥地帯に住むのが特に好きなわけでもなく、温暖湿潤な地域をより好むと思います。



好き嫌いは、選択肢として並べることができるときでないと、言えません。 人が多く集住するのはどこかというと、縄文時代と弥生時代では、やや違っています。 縄文遺跡の見つかってる場所 http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/01/503.html
愛媛 http://www.i-manabi.jp/system/GIFDAT/2/EHIME_61_ …
http://asoberu-ogawa.com/wp/wp-content/uploads/2 …

昔は人が多く住んでいたが、人が住み続けた結果、昔の遺跡は破壊されなくなってしまった可能性もありますが、数十軒規模の社会ではなく、人口数千人の社会があってそこそこに冨の集積があったのであれば、そこに何らかの大きな遺跡跡の残るような土地地形の改変があるでしょう。 木造や個別竪穴建造物、土器、土偶、石器、かまど、せいぜい数十人が集う祭祀場というだけで終わったのであれば、文明というほどのころにはならないのではないでしょうか。 青銅器などが出土したとしても、人口数千人の大きな集落があったこととか、王宮や神殿、墳丘で大人数の作業があったこと(食糧確保以外のことで労働力の組織化が行われるような社会であることがわかる)ことと、
一般的にいって、土木や灌漑を大規模にできるのでなければ、氾濫原や低湿地は、数十年という期間では、何度かの氾濫や洪水に見舞われますから、数世代が続くような集落を保つことはできません。
弥生時代中期の吉野ヶ里遺跡も、丘陵上に位置しています。主な食料は米だったようです。 住処としては、低地や湿潤なところは避けられると思います。
明日香は、昔は水が豊かだったのでしょうが、温暖湿潤な地域とは言えません。
https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/asuka.htm
人類は、暑くても寒くても、乾燥していても、氷雪が多くても、高地でも低地でも、どこでも住んでいて、集落を作ります。水が乏しければ、それなりの生活をします。 パルミラなどは、交易の便で発展するので砂漠のオアシスにあります。今はただの山岳地帯の遺跡でしかないですが、アジャンタ、エローラ、敦煌は交易の場でした。エーゲ海文明も交易で栄えたものです。
https://www.y-history.net/appendix/wh0102-004.html
ギリシャのポリスも、マケドニアなども、温暖湿潤な地域という選択ではなくて、また、農作物の生産を主として豊かになったのでもないです。
インダス文明といわれるハラッパーやモヘンジョダロの周辺で農耕が行われていた事実はあるにしても、豊かな農作物が集落形成の原動力ではなくて、当時の気候と河川、海岸線の関係でメソポタミアとの交易で栄えた交易商業都市であった可能性もあるようです。
メソポタミアは土地は肥沃であったものの資源が非常に少なく、そのままでは地域経済の興隆はないです。川の氾濫で壊滅状態になることも多かったらしいです。なんと、金属資源や木材・石材といった基本的な資源さえ不足していて、広くエジプトやインダスとまで交易してメソポタミアは豊かになったそうです。 日本も、世界を相手に交易することで経済大国になり、都市が栄えましたが、似たようなものでしょう。
黄河文明は、「建物は石造が基本だったために後世まで遺跡として残り」というケースではないです。
http://greenly.jp/s-chinese_history/category1/
http://cerisier.world.coocan.jp/2010banpo1.htm

単に、広大で平らで、温暖で、水も豊富でということなら、そこそこに食料が確保されて、それで満足してしまって、あえて面倒な技術開発や交易努力もしないし、社会の労働分化、階層化もおこらず、巨大な土木工事もしないのではないでしょうか。
温暖湿潤地域では腐食が激しく、植物による攻撃?もあって、人類がそこで生活していても、数十年後には前の状況を維持できなくなっていくことは予想されると思います。
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#2です。

補足コメントがあったので再度回答します。

>モンスーン地帯はいくら木を切っても砂漠にはなりませんよ。高温多湿な気候ですから。

まったくおっしゃるとおりです。4大文明地帯はモンスーン気候ではなかったということです。
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順序が逆ではないでしょうか。


むしろ古代文明が発展したから砂漠になったのです。

文明というのは大量のエネルギーを必要とします。
いまの時代でしたら石油、少し前ならば石炭ですね。
では、それ以前でしたら木だったのです。

だから文明の発達したところは莫大な木材が消費されました。
豊かな森林もすぐになくなり、そのため乾燥化がすすみ砂漠化したというのが現実です。

なお、マヤ文明はせいぜいさかのぼっても紀元前2000年前ぐらいです。
この回答への補足あり
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乾燥地帯が簡単だから、早く発見、発掘されただけです。

4大文明に匹敵、それ以上の文化も今では発見され、解析されています。北米と中米の境のマヤ文明はジャングル地帯なので、発見が遅れただけ。数字の「0」発見も一番古いって証明されています。
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