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兵庫にある三田の元になった地主が松山の庄という。

庄とは荘園の原型で権力者の所有地を指す。

荘園文化は奈良時代。奈良時代は710年から84年間。

松山の庄に668年に藤原定恵が開山?

松山という豪族の土地に藤原定恵が寺を建てた?

松山って誰?

藤原鎌足の藤原家と松山家の関係性を教えてください。

A 回答 (1件)

定恵は飛鳥時代の学僧で父は中臣(藤原)鎌足、弟が不比等です。


生年が643年、没年が666年ってことなので、質問者さんの668年に開山っていうのはちょっとまちがっているかもですね。彼が開山したのではないということです。

 以下はウィキペディアのコピペですが
三田地区・三輪地区一帯は7世紀以前から日本最古の神社と言われる大和国一ノ宮である大神神社の荘園となっており、「大和国城上郡の松山氏」が荘官として管理し通称松山の庄と呼ばれていた。668年(天智天皇7年)に金心寺が建立されると武庫川より南西部に門前町が形成され、金心寺周辺を三田と呼ぶようになる。

 668年に金心寺を建立したのは誰かってことですね。
金心寺を紹介しているページに
https://www.hyoutabi.com/sanda/konsin.html
金心寺の創建は天智天皇7年(668)、藤原鎌足の子供とされる定恵上人が兄である有間皇子の菩提を弔う為に開いたのが始まりと伝えられています。

 とあるので、先に書いたものとは矛盾します。

https://dainenji.jimdo.com/%E3%82%86%E3%81%8B%E3 …

 この大念寺のHPには定恵のことを
定慧(じょうえ)上人は皇極天皇2年(西暦643年)に生まれ、藤原鎌足の長男です。慧隠法師に弟子入りし出家、大念寺開山上人となったのちの白雉4年(西暦653)年に11歳で遣唐使に従って中国の唐へ留学し、長安の慧日道場において神泰法師(三蔵法師玄奘の弟子)について学びました。『藤氏家伝』によれば天智天皇4年(西暦665)年に唐の劉徳高の船に乗って帰国するが、同年12月23日、大和国(奈良県)大原で23歳の若さで亡くなったとあります。百済人にその才能を妬まれ毒殺されたとあります。

しかし、『元亨釈書』や大念寺の寺伝『大織冠縁起』によればそれとは異なった話がたてられており、それによれば和銅1年(西暦708)年に帰国し、留学中の夢のお告げに従って藤原鎌足の遺骸を摂津国阿威山から奈良県の多武峰(とうのみね)に寺院を建立して墓所を改葬しました。そして和銅7年(西暦714年)6月25日に70歳で亡くなったとあります。

 と紹介しています。

まとめると
★藤原鎌足の長男は出家し定恵となり、中国にも渡りますが、その没年はいろいろな説があるということ。666年に亡くなっているのなら金心寺の建立には携わっていませんが、これもいわゆる「諸説ある」ってことでしょう。

★三田の土地は大神神社の荘園で大和国城上郡の松山氏が荘官として管理し通称「松山の荘」と呼ばれていたこと。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2019/03/04 18:07

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