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0. 以下を問います。

1. さとりとは 池に落ちて水に濡れずに上がって来ることである。これを
繰り返すおのれの歴史過程であり動態だ。

2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っ
ているというのにどうして水溜まりが要るのか? という場合を言う。(ヱ-
ダだか何だったかにこういう命題があったはず)。

2-1. さとりとは 触媒の立ち場にあり 触媒人間のことである。


3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部
なのだけれど それを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとした
その見方である。

4. 客観としての世界認識 そのような池は 要らない。(池のために人間
があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得て
いると言えるのではないか?

4-1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったり
することは なおも怠らない。学問である。必要であろう。



5. 人間は 世界についての全客観を得るには及ばないけれど 見方によっ
ては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることがで
きると どういうわけか なるかも知れない。

6. そうなれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な
動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせてど
こまでも話し合い(特には 相互の自 由 な 徹 底 的 な批判)をとお
して一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと こ
れが さとりである。つまり 歴史過程としての社会生活なる動態だ。

6-1. われらが社会の動態たる歴史が さとりそのものだ。われは 世界
なり。

6-2. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業も これを共業(ぐうご
う)として捉えているということがあるらしい。

6-3. ゴータマくんら ブッダさんたちはどうでもよいでしょう。いかに
ブディズムに通じているという人たちのあいだにあっても なおも過去にとら
われているという場合がいかに多いことか。

6-4. ダルマさんがころんだ。

6-5. つまり いわゆる精神訓話論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをも
たらしてまでもまだなお世界を蔽っている。あぁ うっとうしい。

A 回答 (13件中1~10件)

念仏がまじないであると勘違いしてるところが大衆にはあるんでしょう。

おそらく、基本は聖なるものと俗なるものの対話が前提で、俗なるものは、聖なるものが身近に居り、恵みを与えて下さっていると気づいて、感謝や想いがわくんでしょうね。その感謝が念仏であったと。プロビデンスにも「宛先」があって、自分に向けられていたんだと思えた時、感謝がわくのですよね。始めにロゴスありき、このロゴスの宛先が自分であるから、ロゴス(言葉)なんでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 念仏がまじないであると勘違いしてるところが大衆にはあるんでしょう。
☆ 親鸞の師匠ですが 法然は専修念仏を説きました。それによってすくわ
れるという〔のが アミターバ・ブッダの本願だという〕のでした。


★ おそらく、基本は聖なるものと俗なるものの対話が前提で、俗なるもの
は、聖なるものが身近に居り、恵みを与えて下さっていると気づいて、感謝
や想いがわくんでしょうね。その感謝が念仏であったと。
☆ つまり:
▲ (ヰキぺ:称名念仏) ~~~~~~~
[親鸞] 念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉
えない

往生が定まった後の称名念仏は、・・・阿弥陀仏の願い(第十八願)・・・
に報いる「報恩の行」であると説く。
~~~~~~~



★ プロビデンスにも「宛先」があって、自分に向けられていたんだと思え
た時、感謝がわくのですよね。
☆ 特殊絶対性は つねに 主観の内面で起きており どこまでも主観の問
題です。


仮りに他者が誰かの神観を自己の主観に借用したとしても そのみなもとは
絶対性のほうから来ているものと捉えられます。A さんと B さんとのあいだ
で互いの主観が 《思考に非ざるところ》で同じひとつであったと分かるこ
とは 無理です。



★ 始めにロゴスありき、このロゴスの宛先が自分であるから、ロゴス(言
葉)なんでしょうね。
☆ かつて汽笛さんが言っていました。ほとけの光は あたかも棚田の一つ
ひとつの田に月の光が映っているかのごとく 個人個人をそれぞれ照らすの
だと。
(田毎の月 ですか。ロゴスも そうでしょうね)。

お礼日時:2020/04/07 10:01

私は、道であり、真理であり、生命である。

(ヨハネによる福音14:6)、プロビデンスの概念にも了解できますね。あえて正しい意見を言う遠藤周作を避けて、こう考えます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


遠藤周作を わたしは買っていません。やっぱり 観念論なんだと思います。

たとえば 西欧は父性原理で生きており 東の日本では 母性原理だと言い
ます。

ですが ヨーロッパでも 聖母マリア崇拝といったナラハシがあって 母性
原理がないわけではない。




イエス・キリストが《永遠の同伴者》であるから安心だというのは 信仰を
はき違えています。順序がぎゃくです。


念仏をとなえれば すくわれる のではなく 信仰――思考にあらざるえも
言われぬ霊性としての心――ゆえに そのことの感謝に 念仏が口をついて
出ることがある。

(《念仏は 非行非善なり》。修行ではなく また何かすくわれるための善
行を積んでいるというのでもない。――これが 親鸞です)。



義人は 信仰によって生きる。です。そのあと キリストが わが同伴者で
あるとさとるのです。


シュウキョウのジョウシキをぜんぶひっくり返したいと思います。

お礼日時:2020/04/07 08:55

フリーザ一味がゲーム実況者の名前だらけになってました。

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この回答へのお礼

分かんない。

お礼日時:2020/04/07 10:16

蓮は沼に生息するので池は不要ということですね。

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この回答へのお礼

泥沼に根を張って 水の上に花を咲かす ですか。

――ご回答をありがとうございます。


池の意味は 趣旨説明欄の[2]にしるしたとおりなんです。

そして 《水にぬれずに》というところが ミソになるかと思います。


どうですかねぇ。

お礼日時:2020/04/06 19:58

私はここのところ、この2ー3ヶ月で、間違えなくブラジェさんの手引きで、預言=聖書の一端を預かれるようになりました。

おかげさまで、特にスピノザ、パスカルが身近になりました。特にパスカルが何故あれほどに、デカルトを嫌ったかも分かりました。「特殊絶対」の経験、私のかつてのビジネスの上司は、ブラジェさんの、この言葉を、特殊抽象と言ってましたが、我々、そもそも特殊絶対の存在で、デカルトの主観主体なんて、ウソっぱちなんだと分かって良かったです。恐らく超鋭才パスカルが、天才デカルトを嫌ったのも、この点から始まり、全てが嫌いだったのでしょう。とにかく、いろいろ啓いて下さり、有り難うございます。今後も、宜しくお願い致します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 私はここのところ、この2ー3ヶ月で、間違えなくブラジェさんの手引き
で、預言=聖書の一端を預かれるようになりました。
☆ わたしは イエスの語るところを聞いても 全体としてまだ分かりません
でした。突飛な話に何かあるのかなといった感じでした。

その共観福音書のことは パウロの書簡を読むまでは 海のものとも山のもの
とも決めかねていました。

パウロの議論にかなり信服しました。しかし だからどうなるか? と考えた
とき なお行く末がはっきりしません。

そこで アウグスティヌスを読んで――その護教論には ここまでオシヘがと
うといものかと疑問をおぼえましたが―― パウロの理論が 地に足をつけた
内容として捉えることができるようになって行きます。

飛躍してもよいのだといった感覚をも得ることができました。


★ おかげさまで、特にスピノザ、パスカルが身近になりました。
☆ 必ずしもキモがはっきりしているとも思えないのでわたしも あいまいな
ところがあるのですが それはそれはよかったかと思います。


★ 特にパスカルが何故あれほどに、デカルトを嫌ったかも分かりました。
「特殊絶対」の経験、私のかつてのビジネスの上司は、ブラジェさんの、この
言葉を、特殊抽象と言ってましたが、我々、そもそも特殊絶対の存在で、デカ
ルトの主観主体なんて、ウソっぱちなんだと分かって良かったです。
☆ 神の存在証明には どうして? という疑問がいっぱいついたことを覚え
ています。



★ 恐らく超鋭才パスカルが、天才デカルトを嫌ったのも、この点から始まり、
全てが嫌いだったのでしょう。とにかく、いろいろ啓いて下さり、有り難うご
ざいます。今後も、宜しくお願い致します。
☆ こちらこそよろしくお願い致します。なにしろ ほんとうは気分屋ですし
この数年前までは――汽笛さんが知っているかと思いますが―― 瞬間湯沸か
し器として このカテで疑問をぶつけ定説や常識に挑戦していました。

これからさらに現代の哲学が 啓けてゆくのではないでしょうか。たのしみで
す。

お礼日時:2020/04/05 19:20

聖書の存在、聖書のメッセージ、いずれも、(神の恵み)と言えるのかもしれませんね。

預言は相手を選びますね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。

▲ (ヨハネによる福音 14:6 ) わたしは 道であり 真理であり 
生命である。
☆ とイエスみづからが 言っています。


ここまで飛んでしまっていると 神のめぐみ? ええっ? となって
しまうのではないかと思います。思いますが それがかえってよいの
ではないかとも思います。


神のめぐみを 杓子定規に受け取るのではないところが よいと思い
ます。


また けっきょくイエス(人間)・キリスト(神)は いわゆる現人
神なんですから。そういった飛躍のし過ぎが かえってよいのかもと
思います。

お礼日時:2020/04/05 17:24

プロジェクション理論。

こちらの事柄が、彼の事柄に投影ですか。
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この回答へのお礼

いえ。その理論は あくまで思想です。――ご回答をありがとう
ございます。

神観としての思想だとすれば 非思考の庭におけるコトであると
も考えられますが この理論のばあいは要するに 神が――霊性
なるチカラをつうじて―― 人間や世界にハタラキカケをおこな
うという内容です。

ハタラキカケの相手先は 経験的な存在である人間や世界の現象
です。つまり 霊性のチカラの結果が 目に見えるということに
なります。


これは 否定も肯定もできないと思います。

肯定すれば その経験的な結果が 神の霊性そのものだと言った
ことになります。

否定すれば そのチカラが神のものではないという証明ができた
ことになります。


特殊絶対性は あつかうのにやっかいです。

お礼日時:2020/04/05 15:57

聖書そのものが、玉の源泉=池ですから。

人の玉は、濡れないかも知れません。むしろ輝くかも知れません。
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この回答へのお礼

そうですね。――ご回答をありがとうございます。


もし実際上のからくりをということでしたら こうです。

要するに こちら(自分)の身と心とにコトは起こっているのですが そ
れは 例のミラーニューロン現象であって 実際には相手の身と心とに起
きています。そのコトをこちらは ただそのまま受容しているということ
なんです。

つまり 触媒と言いました。

コトがおさまったなら こちら(自分)の側には 何もなかったごとく元
にもどります。

相手の側は 何らかのかたちで解決が成ったということなんでしょう。

そういう現象が起きるんです。

お礼日時:2020/04/05 15:41

私は好きですよ、この言葉。

人の思考が及ばぬ神業の領域に、まなざしを向けることは、尚更ですよ。
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この回答へのお礼

☆☆ 池に落ちて水に濡れずに上がって来ること
☆ のことですね。――ご回答をありがとうございます。


出典を明らかにし得ていないのが 玉にきずですね。

お礼日時:2020/04/05 12:49

それで聖書の領域=非思考の庭へということでしょうね。

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この回答へのお礼

ううーん。ですから 非思考の庭も 必ずしもいい評判でもないです
し なかなか説明の工夫が 必要なのだと思っています。

――ご回答をありがとうございます。



非知なるナゾについては 聖書の記事が いちばん参考になるかと思
っています。

あと 親鸞です。ところどころ 道元であったり ヘーゲルであった
り・・・。

inconprehensible incomprehensibility というのもありました。

お礼日時:2020/04/05 12:23

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